33.邪魔者
アルバイトが終わり、伊万莉は司と他愛のない会話をしながら昴が迎えに来るのを休憩室で待っていた。
「そういえば伊万莉さん、お姉ちゃんから何か聞きました?」
「何か? いや、土曜日以降は特に連絡もとってないよ。昴ちゃん用事があるって言ってた?」
「いえ、ないなら別に。…………やっぱりまだだったか」
司がテーブルに伏せて何事か呟いている。
「次の土曜に司ちゃんに勉強教えるから、何か用があるならその時ついでに話聞くけど」
「ついでにするような話じゃないけど……。ま、その日お母さんも休みだし丁度いいか。よし!」
顔を勢いよく上げると司は小さな手で握りこぶしを作った。
彼女らの母が関係するとなると、模様替えとかで大型の家具の移動や家電の設置をするのだろうか。
伊万莉もそれ程力があるわけではないが、いればそれなりには役に立つはずだ。場合によってはオロチも動員すれば負担はかなり軽減される。
そうこうしているうちに昴が迎えに来る時間になった。
「じゃあ降りてようか」
「はーい」
駐車スペースがあまりないので、昴が来たらすぐに車に乗り込み出発できるように準備しておく。
古ぼけた階段を降りると同じように迎えを待つ生徒が何人かと、それを迎えに来た親の車が伊万莉の視界に入る。
まだ昴は到着してないようだ。
面積の少ない日陰に伊万莉と司は寄り添って入り、太陽光を避ける。それでも暑いことには変わりない。
伊万莉は肩に掛けていたリュックサックから扇子を取り出して、二人に風が当たるように前面から扇いだ。
「あ~気持ちいい。それにちょっといい匂いがしますね。香水ですか?」
「白檀の香りの練香水をほんの少しだけ付けてあるんだ。扇いだ時にふわっと香る程度にね」
「へー。爽やかな匂いで暑さが和らぐ気がします。伊万莉さんセンスがいいですね、扇子だけに」
「…………」
扇子が空気を切るふぁさふぁさという音がする。
「ちょおっとぉ! 何か言ってくださいよ。私が滑ったみたいじゃないですか。いや、実際滑ったんですけどっ!」
「ごめん、ほんとごめん!」
笑い合いながら司が伊万莉を叩く真似をする。もちろん痛くも痒くもない。
「じゃあ何かギャグで私以上に滑り倒してくれたら許します」
「滑ること前提でギャグ言うのは、もうそれ何て地獄?」
「あっはははは!」
伊万莉との会話は本当に楽しかった。受験勉強と人間関係で疲れていたのに、司は心も体も軽くなった気がした。
伊万莉はいつも司より少しだけ大人だ。これは何年何十年経とうが決して覆ることはない。
近づいたら近づいた分だけこの人は先に行く。でも司はそれでもいいと思っている。
もし伊万莉と姉の昴が結婚すれば名実ともにこの人が「お兄ちゃん」になる。
そうなれば司が抱えている秘密など、ただの燃えるゴミだ。燃えて灰になった後に何かの肥料にでもしてしまえばいい。
このまま家に帰れば今日はぐっすり気持ち良く眠れたに違いなかった。
だけど神のいたずらか悪魔の計略か、それを許してはくれなかった。
「林原さんちょっといい?」
その声に心臓が氷に触れたように冷える。
伊万莉には金築のことを嫌いじゃないと言ったけど、司は今改めて理解した。
彼のことが嫌いだ。伊万莉との楽しい時間を壊すなら、司の人生において邪魔でしかない。
棘だけは必死に抑えて言葉を返す。
「もうすぐ迎えが来るんだけど」
「話したいことがあって。すぐ終わるから」
「何?」
「ここじゃちょっと……。二人だけで」
金築は緊張で肩に力が入って、司からすると威圧的に見える。
伊万莉のことを警戒してか視線がうろうろして落ち着きがない。
司はため息をつけるものならここで盛大につきたかった。「あー、あれか」と。
面倒なことになった。
「伊万莉さん、少し離れるのでお姉ちゃんが来たら先に乗って待っててください」
「うん、わかった」
本当は伊万莉に付いてきてほしいがこれは司自身の問題だ。どういう結果になるにせよ、彼を巻き込むことはしたくなかった。
そして司は金築の後を追ってビルの裏に行った。
恋愛経験のない伊万莉でもさすがにこのタイミングはあり得ないとわかる。
伊万莉の存在が少年を焦らせてしまったのだろうか。
でも、最初から司は彼のことを良く思ってなかったようだから、どのみち玉砕はしていたかもしれない。
円満に事が済めばいい。しかし、二人の感情のズレが悪い方向に進む可能性もある。
かと言って伊万莉が出ていくのは悪手だ。金築からすれば伊万莉は敵にも等しい。
それならば。
「メイハル、あの子に付いていって」
今日は護衛ということでメイハルが蛇形態で伊万莉のリュックサックに潜んでいる。
伊万莉としてはその必要はないが、漏れ出た怨念の探索も兼ねてということらしい。
メイハルならこっそり司を見守って、何かあったら即座に対処できるはずだ。
「ん? メイハル?」
反応がない。
まさかと思いリュックサックの底を探ってみる。
ファイルなどの隙間に器用に挟まってすやすや眠っている蛇が一匹いた。
伊万莉が強めにリュックサックを揺さぶるとその蛇の目が開き、見下ろしてくるジトっとした目とかっちり合う。
『はっ⁉ 寝てません寝てません! 起きてましたよ⁉』
「寝ていた奴は皆そう言うんだ」
『すいません寝てました……。気持ち良くって』
「それはまあいいから。今この建物の裏に僕の知り合いの女の子がいるんだけど、ちょっと見守っていてほしい。何か危ないことがあったら止めて。止めるだけでいいから」
『了解しました、伊万莉殿』
メイハルはリュックサックからするすると抜け出てビルの裏に這っていく。
「心配だ……。いろんな意味で」
ビルの裏は空調の室外機が唸りを上げて空気を吐き出していて、とてもじゃないが雰囲気のある場所ではない。
暑いし臭うしうるさいし、司は一刻も早く伊万莉のところへ戻りたかった。
目の前の人物はそんなことにも気が回らないのかとイライラする。
「それで話って?」
「あの……さ、前から林原さんのこといいなって思ってて、それで、良かったら付き合ってくれないかな」
やはりそれかと沈んでいた気持ちが一層重くなる。
そんなに話したこともないのに、接点もほとんどないのに、何を以て自分のことをいいと思うのか。
もしかして夏休みに彼女を作って夏休み明けに自慢でもしたいのか。
ここまでに司のことを考えての行動が一切ない。独りよがりで自分のことしか考えてない。
大人の伊万莉とどうしても比較してしまう。伊万莉だったら、伊万莉なら、と。
司の同級生を見る基準は伊万莉だった。
「ごめん、付き合えない」
だから最初から答えは決まっていた。
「え、何で?」
――何で、だと?
それはまさか断られないとでも思っていたのか。
そしてその理由を聞いてどうするのか。
改善して再度告白する? それともただの興味本位? 自己満足?
どちらにしても司がそんな金築と付き合うことは絶対にない。
「今、付き合うとかそんなこと考えられないから」
「あんな思わせぶりなことしておいて何だそれ」
「は? 私がいつそんなことした?」
「俺がいろいろやってやった時も嫌がらなかったし、感謝だってしてたじゃん」
司はイライラを通り越してもう怒りが爆発しそうだった。
――やってやった?
司のほうが下だと言っているのと同義だ、それは。何て押しつけがましい。
勝手にやって、勝手に妄想して、勝手に舞い上がって、勝手に自爆して。
あまりの気持ち悪さで吐き気と共に司の全身に鳥肌が立った。
「とにかく、金築とは付き合えないからっ」
一秒でもこの場にいたくなかった。
戻って伊万莉に頭を撫でてもらいたかった。
「待てって! まだ話は終わってない!」
「っ!」
司の細い手首が金築のごつごつとした手で掴まれる。
痛い。
「あの女みたいな大学生と付き合ってんのかよ⁉」
伊万莉を侮辱する意図のある言葉に司の感情のリミッターが外れる。
一番触れてはいけない部分にこの男は触れてしまった。
「そうだよ‼ 私は伊万莉さんと付き合ってるの‼ 何も知らないのにあの人のこと悪く言わないでっ‼」
言ってしまってから司は目の奥がじわりと熱くなってくるのを感じた。
こんな形で勝手に彼の名前を使ってしまって、姉と伊万莉にどうやって顔向けしたらいいのか。
「……じゃあ最初にそう言えよ。あーあ、時間を無駄にしたな」
その心無い言葉に司の涙腺が崩壊する。
誰のせいでこんなつきたくなかった嘘を言う羽目になったと思っているのだ。お前のせいだろ。
司はそう罵ってやりたかった。
でもこれ以上関係をこじらせると新学期で学校に司の居場所がなくなってしまうからそれも出来ない。
悔しかった。奥歯を噛み締めてギリッと小さく音が鳴る。
「何泣いてんの? 泣きたいのは――」
――パァン。
破裂音が響いた。
金築の上半身が大きく傾いている。
いつの間にか金築の前に司より少し年上の女性が立っていて、先程のはどうやら彼女が彼の頬を平手で叩いた音のようだった。
「最低の雄ですね。女を泣かせて悦に浸るなんて。自らの行いを恥じて猛省してください」
「な、なっ」
その女性は弥生時代のような衣服を纏っていて司をかばうように金築との間に入っている。
サッカーをやっていて体が鍛えられているあの男をよろめかすなんて、どれだけ力を込めたのだろうか。
「理解できてないようですね。では反対側も叩きますか? それとも下についている無駄なものを潰したほうがいいですか?」
「ひぃ⁉」
女性が恐ろしい言葉とともに凄む。
金築は恐怖の表情を浮かべてこの場から逃走していった。
この女性はどんな顔で彼を叱責したのだろうか。司からは死角になって見えなかった。
「ああっ⁉ ついやってしまいました……。止めるだけって言われてたのに、これでは伊万莉殿に叱られてしまいます。うぅ……」
がっくりと肩を落とした彼女は確かに伊万莉と口に出した。
それによくよく見ると、その服は司が一度だけ会ったオロチという人物が着ていたものに酷似している。
彼の知り合いなのだろうか。
彼女はひとしきり落ち込んだ後、司のほうに振り向き近寄ってきた。
「大丈夫ですか? 男なんてこの世にいくらでもいますから、あんなの捨て置けばいいんです。さ、これで涙を拭いて」
女性は何かを探すように自分の服のあちらこちらを触っている。
「あー、しまった。布、持ってませんでした。まあこれでいいですかね」
司の体が女性にグイッと引き寄せられた。
司より頭一つ分身長の高い女性の胸の部分に丁度顔が埋まる。背中と後頭部に添えられた手が温かい。
包まれるような安心感で司の瞳からまた涙が溢れてきた。
溢れた涙は落ちる前に彼女の服に吸収されていく。
「よく耐えましたね。貴女はきっといい女になりますよ。私が言うんだから間違いないです」
「う、ううぅ……えっ…………」
不安と安心がない交ぜになって、もう何に対して泣いているのか司自身もわからなかった。
ただ、今は泣きたかった。




