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12.悲痛な叫び

 ブレーキ音はない。急ブレーキの際、タイヤをロックしない安全装置が働いた為だ。

 何かに当たった衝撃はあった。運転手も教官も最悪の事態を頭の中で思い描いていた。

 だけど体に感じた衝撃は「ドン」というより「トン」という極軽いものだった。例えるならビーチボールが体に当たったくらいか。

 車内の二人が同時に目を開けてフロントガラスの向こうに見えたのは、長い黒髪を後ろで一つに結っている長身の男。目の前に飛び出してきた女の子ではなかった。

 その男がフロントグリルを片手で押さえていたのだ。





「間に合ったか」


 オロチがアパートの屋上から目撃したのは白い蛇とそれを助けようとする女。そしてそこに突っ込んでいく一台の車。

 その瞬間オロチは全力でアパートの屋上の壁面を蹴って女の眼前に降り立った。

 伸ばした腕の先から伝わる衝撃を体の各部で上手く和らげて地面に逃がす。オロチにとっては造作もないことだ。

 女と白い蛇は傷一つ付いてない。その様子に安心した。


「あ」

「え?」


 オロチは伊万莉と目が合った。

 こっそりついてきていたのでもちろん伊万莉はオロチがここにいることを知らない。

「なな、何でオロチがここにいる⁉」

「さ、さあ誰の事だ? 俺はただの酒好きな男」


 伊万莉に見られないように顔を隠すが時すでに遅し。


「髪! 眼! 装飾品! おまけにその服! どこからどう見てもオロチだろ!」

「……くっ、ばれてしまっては仕方がない。俺がオロチだ、文句あるか」

「あるに決まってる!」

「えー……」


 何故ここにいるのかとか、どうやってついてきたのか、問い詰めたい。

 だけどそれは帰ってからでもできる。それより怒りを抑えて伊万莉はまず礼を言った。


「文句はあるけど、とにかく宮尾さんを助けてくれて……ありがとう」


 どうして来てしまったんだという怒りの他に、オロチが来てくれてほっとしている自分がいることも確かだった。


「礼には及ばん。我が眷属を助ける為、そしてその眷属を助けようとしてくれた娘を助ける為に動いたに過ぎん」

「眷属……」


 陽子の両手の上でその白蛇は大人しくしている。

 何の躊躇もなく蛇を掴める女性がいることに驚いた伊万莉だが、そういえば陽子は小学生の頃は生き物係をやっていて、爬虫類系も含めて割と平気で触れていたことを思い出した。

 ――生き物係……生き物……?

 その言葉に刺激されて伊万莉は古い記憶が浮上する気配を感じた。陽子に関することだと思うがいまいちはっきり思い出せない。


「宮尾さん平気?」


 ぺたんと路上に座り込み呆然としている彼女に声をかける。

 熱を感じるくらいの距離で止まった車を見ても、いまいち自分の身に起きたことが理解できてないのかもしれない。


「うん。……あ」


 命を救われた白蛇は陽子の手をすり抜けてぽてっと地面に落ちると、お礼を言うように何度も立ち止まって振り返りながら草の陰に消えていった。

 その様子を見守っていたオロチがしゃがんで陽子に目線の高さを合わせてぼそりと告げる。


「あいつはお前に助けてもらったことを感謝していたぞ」


 しかし陽子の耳にその言葉は届かなかった。

 目の前の男の存在に気が付くと、先程伊万莉にしたような反応、いやそれよりもっと明確に拒否反応を彼女は示した。


「ひっ!」


 オロチから距離を取ろうと後ずさる。ジーンズが汚れるのもお構いなしだ。

 その光景を見て、伊万莉の予想はほぼ確信へと変わりつつあった。

 だからこそ今手を差し伸べることができない。それはもっと彼女を追い詰めてしまうだろう。

 だがそんな陽子の行動もまたオロチにとっては不本意なものだった。


「……お前も俺を怖がるのか。そうか、悪かったな」

「あっ、オロチ! それは……!」


 それだけ言い残してオロチは消えてしまった。

『恐れ』と『畏れ』は似てるようで全く違う。前者は拒絶の感情を、後者は尊敬の感情をもとに構成されている。

 当時は『畏れられていた』オロチが現代では『恐れられる』のは、神が身近な存在でなく少し遠い存在になってしまったことが要因としてあるかもしれない。

 しかし今回のケースは状況が異なる。陽子がオロチを恐れたのはオロチが神だからとかではなく別の――。

 説明ができないことが伊万莉にはもどかしかった。



 だがそれより今は彼女だ。

 突然消えた謎の男の姿を探してきょろきょろ辺りを見回している。

 体を緊張させている様子はないが、それでも伊万莉は驚かさないように慎重を期して声をかけようとした。


「君たち!」


 それなのに、そこへ被せられたのは罵倒するような低い男の声。

 その声の主の五十代の男性教官は教習車をコース外に出して受講生を待機させてからこちらに来たようだ。


「何をやっとるんだ! コースに急に飛び出す奴がいるか! もう一人の男はどこ行った⁉」


 伊万莉でも委縮してしまいそうな怒声と威圧。

 であるなら彼女はどうなるか。


「うぅ……」


 目に涙を浮かべ体を内側に縮こまらせて完全に防御の姿勢だ。少し怒られたくらいで普通はここまでの反応はしない。

 彼女が何から身を守ろうとしているのかなんて言うまでもないだろう。


「まあいい。これは下手したら退校処分もあり得る大問題だぞ! わかってるのか!」

「……っ!」


 さすがにこれで退校処分はないはずだ。おそらくブラフだろう。

 しかしこれ以上は彼女がもたない。

 確かにコース内に入った陽子が悪いが、今彼女が身を固くしているのは怒られているからではない。そのことを教官は知らないのだから責められはしないが言い方というものもある。


「とにかくこっちにこい! 話を聞かせてもらうぞ!」


 男の教官は陽子の手首を掴んで引っ張った。




「や……いやぁぁぁああーっ‼」




 心からの悲痛な叫び。聞いた伊万莉も心が痛くなるような。

 教官は聞こえなかったのか?

 その叫び声は伊万莉に血液が沸騰するような錯覚を起こさせた。そして気が付いたら陽子の手首を掴む教官の腕を力を込めて握りしめていた。


「乱暴なことは止めてください」

「何?」

「彼女が怯えているのがわかりませんか?」

「うっ……」


 涙で顔は濡れ、呼吸も荒い。

 見れば陽子が怯えるなんてレベルを超えているのは誰でもわかることだ。

 この教官はやっとそれに気づいたらしい。そこでようやく陽子の手を離した。

 彼女は再び地面に座り込んだ。顔色が相当悪い。

 本当はこんな教官放っておいて陽子のケアをしたいところだが、伊万莉が今やれば逆効果にしかならない。



 先日思い知った。自分ではどうしようもないことが世の中にはある。できないことがある。

 ならば、できることはやらなければならない。

 そしてこの教官には言わなければならないことがある。


「し、しかしだな、コース内に入るという危険な行為をしたわけだから注意しないと」

「確かにコース内に無断で入った彼女は悪いです。しかし教官、あなたは彼女がコース内の道路に近づいた時に減速するよう受講生に伝えましたか? いやそもそも彼女に気が付いていましたか?」

「それは……」

「教習所内だから道路に歩行者が入ってくるわけないと高を括っていたんじゃありませんか?」

「いや……」

「運転していた彼女はまだ技能講習三回目くらいですよね? 動かすだけで精いっぱいの彼女の代わりに注意しなければならないのはあなたじゃないんですか?」

「……」

「僕の最初の路上教習の時、歩行者や自転車はいつ飛び出してくるかわからないから注意するように言ったのはあなただったはずです。乃木教官」


 教習所内のコースの走行は一般道路に準ずる。だが道路交通法は適用外なので信号や標識に反する走行をしても違反になることはない。

 だからって周りを注意しないでいいということにはならない。

 もし教習所内のコースで事故があって怪我人が出れば、それは運転の未熟な受講生の責任ではなく指導する教官の責任となる。



 返す言葉もない教官に伊万莉は最後の一言を贈った。


「そして何より彼女の無事の確認をまだしていない。大問題になるのはあなたのほうです」

「ううっ」


 伊万莉も別に最初はこんなこと言うつもりはなかった。

 道路上に蛇がいたなら接近する車に合図して止めてから助ければ良かっただけなのだから、無断で進入した陽子が悪いのは明白だ。少し注意されるくらいなら仕方ないと思っていた。

 だけど、教官が車から降りて最初にしたのが彼女を恫喝することだった。

 先ずしなければならないのは彼女の無事の確認のはずだ。

 自分の感情を優先させ、そして陽子の様子もよく見ずに力尽くで引っ張る。

 もうそれは伊万莉の許せる範囲をとっくに超えていた。

 ――あなたに他人を指導する資格はない。




(君たちに生き物の世話をするシカクはないよ)




 伊万莉の脳の記憶の断片がまた一つパズルのピースのようにかちりとはまる。

 十二年前に想いを馳せようとする頭を振って、無理やりに現実と向き合う。

 今はそんなことしている場合ではない。



 教官を非難するだけ非難したがそこで終わっては意味がない。

 直接の現場を目撃した人はいないらしく幸いまだ騒ぎになってないが、コースを走っている他の受講者や教官からは不審な目で見られているだろう。

 このままでは陽子と乃木教官のどちらの行動も問題になる可能性が高い。

 伊万莉の言葉にショックを受けてる教官はどうでもいいが、陽子については助けてあげたい。

 となれば伊万莉の取れる手段はこうなってくる。


「乃木教官」

「……何だ」


 俺はもう終わりだとでも考えていたのだろうか、指摘をしても陽子の無事を確認しないその自己中心的な思考に伊万莉は心底軽蔑しつつも、一つの提案をする。


「今回の件、なかったことにしませんか?」

「んなっ!」


 乃木教官は驚きの余り半歩後ずさる。


「幸い怪我人はいません。それがお互いの為でしょう。教官も事が公になれば減給や停職などの処分もあるのでは? それは困りますよね?」

「う、確かに……」


 正義感に溢れる人や職務に忠実な人はこんな提案蹴ってくるだろうが、この人ならまず間違いなく提案を呑むと伊万莉は確信をもって言える。 

 考える素振なんかしてるところでもう丸わかりだ。


「……わかった。その提案を呑もう」

「ありがとうございます。ではこういう設定でいきましょう。彼女が具合が悪くなってコース内に倒れたところを教習中だった乃木教官が発見して救護をしたと。そして友人である僕もそこに駆け付けたと」

「了解だ」


 荒は目立つが問題はないはずだ。


「では彼女のことは僕が見ますので、教官は運転手の女性のケアをお願いします。あちらの彼女も相当ショックを受けていると思うので」

「う、うむ」

「口止めもお忘れなく」


 乃木教官は小走りで放置されていた受講生の元へ行って何やら話を始めた。

 その受講生は運が悪かったとしか言えない。他の教官だったらここまで時間を潰されることもなかっただろうし、トラウマを植え付けられることもなかっただろう。

 あの教官にケアなんてできるか疑問だが、ダメだったら他の教官にそれとなくケアしてもらうしかない。


「宮尾さん、落ち着いた?」


 少し距離を空けて伊万莉は話しかける。

 伊万莉が教官を詰問している間に陽子の呼吸は既に整ったようで、顔に涙の跡が残っているくらいだ。

 ハンカチを差し出すと彼女はそれを恐る恐る受け取った。

 手を伸ばしても届かない、触れられないのは本当にもどかしい。



 涙を拭いた陽子はすくっと立ち上がって見せた。

 もう大丈夫なのだろうか。


「い、いや~教官怖かったね。危うく漏らしちゃうとこだったよ」


 不自然に明るく振舞っている。


「神代君ごめんね。私が飛び出したのが悪いのに何か全部上手くやってくれたみたいで。お咎めなしになって本っ当に助かった」


 平常時の無理して明るくしている時と先程のようなパニックの時の落差が尋常ではない。

 こう言っては悪いが別人のようですらある。

 いや、ある意味そうなのかもしれない。

 別の人格がないと精神の均衡が保てない程彼女は……。


「教官に対峙した神代君かっこよかったな~。これは惚れてしまってもいいんだよね?」

「ダメ」

「ダメかぁ~」


 この問題は伊万莉が手出しできない性質のものだ。

 時間が解決するかと言われたらそれもわからない。

 精神科の受診を勧めても治るかわからないからそれも憚られる。



 あの老夫婦が受けた呪いのように伊万莉の手の届かぬところでじわじわと彼女を蝕み、そしていつか壊れるかもしれない。

 同じようにその日がくるまでいつも通りの関係を続けるしかないのが現状だ。


「あ、もう八時限目終わりそう。準備しとこ? 神代君」

「うん」

「そういえばさっきの男の人どこいったんだろ? 神代君の知り合い?」

「まあ、そんなとこ」


 そんな自分の不甲斐なさに密かに歯噛みをする伊万莉だった。


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