13.彼女らの苦悩知るところ
九時限目。
伊万莉の担当教官は、二人いる女性教官の若いほう。と言っても歳は三十代後半らしいから伊万莉の母より少し若いくらいか。
ちなみにもう一人は六十歳だ。
「よろしくお願いします」
「よろしくね神代君」
他の人曰く、この松井教官は『アタリ』らしい。
人によって教官の相性はそれぞれだから一概には言えないと思うが、キツイことを言わない、車内で会話が弾む、ほぼほぼ合格判定をくれる、若い(比較的)等の理由で人気ということだ。
まあ確かにあの乃木教官と比べたら雲泥の差だろうと伊万莉は思う。どちらが『泥』かはあえて言わないが。
「じゃあ車体周り確認して乗り込んで」
「はい」
教習車の周りを一周して異常がないか確認する。
異常と言われても伊万莉がわかるのはオイル漏れとかタイヤのパンクくらいだが、他にも小さな子供が死角にいないか異物が落ちてないかそんなことを見て周った。
問題がなかったので教習車に乗り込み座席とミラーの位置調整を行う。そしてシートベルトをして準備は完了だ。
と、そんな伊万莉の教習車の前を陽子とその担当教官が横切っていく。コース内に停車してある教習車が彼女の今日運転する車なのだろう。
それを目で追いながら彼女は教習をこなせるのか心配になる。車内で先程のような反応が起これば、まともに運転なんてできるはずがないのだ。
今は普通に見えるが閉鎖された空間で男性教官と二人きりになったら……。
「なになに? 神代君はあの子のことが気になっちゃう感じ?」
松井教官が「ほれほれ言っちゃいなよ」と伊万莉の脇腹を指で突いてくる。これはセクハラではないのか。
「教官の言う気になるがどういう意図なのかはわかりませんが、彼女は知り合い……いえ友人なので」
「……そう。おっし、じゃあドライブ行きましょうか」
「?」
この淡泊な反応は、『期待してた答えと違ってがっかり』という類のものではない。
なんというか、『この話はもうおしまい』とぶっつり切られてしまった感じがする。もうこの話題には触れるなということだろうか。自分で振ってきたのに。
「ドライブじゃありません。いえ、英語としてはあってるんですけど……。指導はしてください」
「わかってるよー。教習所出たら左行って道なりにまっすぐ進んでね。あとはその時々で指示出すから」
「……はい」
なんとも適当であるが、最初から目的地はここでそこで折り返して戻ってくるとかそんな説明はされない。受講生はただ言われるがまま右に曲がり左に曲がりを繰り返すだけだ。
ガコッという心地よい手応えを伴ってシフトレバーを一速に入れてサイドブレーキを解除。アクセルを踏んでエンジンの音で回転数確認しながら調整をして徐々にクラッチを繋いでいく。
教習初期のようなノッキングをしながらの発進はさすがに伊万莉ももうしない。
スムースに速度を増して伊万莉の運転する教習車は一般道へと進んでいった。
「いやー、今日は『アタリ』ね。神代君の担当教官になるなんて」
教習所を出てからすぐ、左手に流れる小さな川を見ながら松井教官はそんなことを言った。
自分が『アタリ』とか陰で言われているのかと思うと変な気分だ。
「はあ。受講生のほうにも『アタリ』とか『ハズレ』ってあるんですか?」
「うん、あるよ。あ、これはみんなには内緒ね?」
人差し指を立ててそれをオレンジ系のリップが塗られた唇に当てる仕草をする。
それが可愛いかどうかは別として、「みんなには内緒」とみんなに言ってる気がするのは伊万莉だけだろうか。
「神代君は覚えが早くてー、運転が丁寧でー、あと可愛くていい匂いがするって」
「前二つはともかくとして、最後の一つを聞かされて今度他の教官と教習の時にどういう顔すればいいんですか? 僕は」
覚えが早いとか運転が丁寧と言われて悪い気はしない。
でもあの空間で二人きりの時に「こいついい匂いがするな」とか教官が考えていたと思うとぞっとしない。
「あーごめんごめん。最後のはあたしの感想だった」
「川に突っ込みますよ?」
「それは勘弁! めちゃくちゃ怒られる! あ、その交差点右で」
「了解」
彼女がパンパンと柏手を打っているがそれは神様を拝むときにするものである。そういうのはオロチあたりにやってほしい。
それはそうとあれからオロチの姿を見ない。その辺に隠れて伊万莉を追跡しているのだろうか。
追ってきてしまったのはもう仕方ないが、せめて目立ちませんようにとどこかその辺の適当な神に祈る。
「でも神代君女の子の格好したら本当に可愛いと思うんだよね。ということで今度の教習は是非女の子の格好で来てほしいなーなんて」
「当日来るまで担当教官誰かわからないじゃないですか。松井教官ならまだしも他の教官はちょっと……」
「おお、できることは否定しないんだね。あたし今度の会議で頑張って神代君の担当権もぎとってみせるからその時はよろしく!」
担当権なんてものが本当に存在するのかは怪しいが、「だから個人的な連絡先を後でプリーズ」とか言っている彼女のことは伊万莉の中でこっそり『ハズレ』に分類することにした。
これのどこが『アタリ』なんだろうか。
「まあそれは冗談として、実際神代君といるのは下手な同性とか彼氏彼女より居心地良かったりするわけよ」
「教官でもですか?」
「教官も人間だから」
それで評価されるのはただの依怙贔屓では? と思わなくない。
「神代君は、女性からしたら男性みたいに『隙あらば』っていうがつがつした感じがなくて安心できて、しかも同性同士みたいにマウントの取り合いでギスギスしない。男性からしたら女性ほど気を遣わなくて済むし、女性みたいな魅力があって近くにいたくなる。つまり! 神代君は都合のいい人間!」
「それなんかあまりいい意味ではないですよね」
都合のいい奴とか都合のいい女とかってほぼ百パーセント悪い意味でしか聞かない。
「言い方間違えた。正しくは丁度いい人間ね。人間関係の潤滑油みたいな存在と言えばいいのか。だから神代君の周りに人が寄ってくるのよ」
「まあそれは確かに……」
高校時代は「神代君のお陰で彼氏、彼女ができました」という報告は何度も受けたことがある。伊万莉が別段間を取り持ったことはないが、伊万莉の近くにいると異性と話しやすいとか言われていたような気がする。
半ば都市伝説化していた。
「神代君といるのは本当に楽なの。でもだからこそ君は人間をダメにすることもある。神代君に依存しちゃってる人に心当たりあるんじゃない?」
「……あ」
「ほらね」
その言葉を聞いて伊万莉の脳に何人か顔が浮かぶ。
一人はもう働いていて夢も持っているし心配はないと思うが、もう一人は……ちょっと危険域かもしれない。
今日もあれだけ言ったのについてきてるし。
「でもそれだと僕は『アタリ』じゃなくて『ハズレ』になりません?」
「いや、神代君は紛う方ない『アタリ』よ。ダメになるかどうかはその人次第だし」
「じゃあ逆に『ハズレ』ってどんな人なんです?」
仕事が終わり家路につく人たちの車で少し道路が込み始めてきた。陽が沈むにはまだ猶予があるも一番緊張する時間帯だ。
意識をいろんなところに向けねばならず肩も凝る。運転に慣れた人は意識しなくても全方位に注意を向けられるとか聞いたことがあるが尊敬に値する。
「えっろい目であたしのことを見るやつ」
えっろいの『え』の部分にいやにこぶしを効かせて彼女は言った。妙に実感がこもっている。
「それは、ひ……災難でしたね」
被害妄想ではと言いかけて直す。さすがにこれを口に出していたら『不可』をもらっていたかもしれない。
「そうなの! ねっとりとあたしの腰からふとももあたりをちらちら見て。こっちが気付いてないとでも思ってるのがまた腹立つ。AVみたいなこのままどこかであれやこれやな展開絶対にないから」
「まあでも無駄な脂肪とかなくて綺麗なラインしてますからね」
前方不注意にならないようほんの一瞬だけ視線を移して彼女のタイトスカートから伸びる脚に注目する。
そういえば伊万莉はこういう職業系の女装はしたことない。
「君の視線に全然いやらしさを感じない件について。何かあたしに魅力ないみたいで……逆に腹立つ」
「見られたいのか見られたくないのか……どっちなんですか」
「人による!」
身も蓋もない。
「他の子にはこんな話しないからね? 美味しいお店は~とか、最近学校は~みたいな無難な話しかしないからね?」
「そうですか。それより次の指示ください。さっきからずっとまっすぐしか走っていません」
教習時間の半分くらい経ったのでこの辺りで引き返さないと時間をオーバーしてしまう。
基本、教官の指示外の行動はしてはいけないので何か言われるまではひたすら走るしかない。
「くっ、神代君がつれない……。でもそれがいい! この何でも気楽に話せるのは他の子ではあり得ない! あ、じゃあそこで左折二回して元の道に戻って」
「はい。今度からもっと早く指示お願いします」
「ごめんなさい」
しゅんとしつつもどこか嬉しそうな松井教官を横目で見てから交差点を左折してその先の丁字路でさらに左折。これでまたこの辺りのメインとなる国道に戻った。
教習所まではただひたすらに道なりに進めば戻るので、この後特に指示がなければ走行は楽と言えば楽だ。伊万莉もよく通る道なので安心感がある。
「それでさっきの『ハズレ』の話は松井教官の個人的なものだと思うんですけど、他にはどういったことが?」
「他はそうね……、理解度とか習熟の速さは人それぞれだからそこは問題ないんだけど、指示を聞かないとかは最悪。話聞くつもりがないなら一発試験でも受けろよって話」
一発試験とは教習所に通わず直接免許センターに行って技能試験と学科試験を受けることだ。伊万莉の知り合いではやったことある猛者はいない。なぜなら、まず合格できないからだ。
試験内容は同じだが技能試験の採点がとにかく厳しい。教習所の卒業検定の比ではない。
教習所が面倒だから一発試験受けるぜ、という奴が受かるほど世の中そんなに甘くない
「あとは……これは『ハズレ』じゃないんだけど、修了検定とか卒業検定に何度も落ちる子、かな」
教官が複雑そうな声で語る。
本当は合格させてあげたいけど道路に出すのは危険だから、と。
その語り口は実際の誰かを頭に思い浮かべているようだった。
伊万莉も教官が思い浮かべている人物に心当たりがあった。
「松井教官、聞いてもいいですか?」
「何?」
「女性が真夏でも長袖長ズボンで肌を隠すのはどういった理由だと思いますか?」
伊万莉の唐突な質問に教官は黙って伊万莉の顔を見つめる。
質問の意味がわからないからではない。質問のさらにその奥にある伊万莉の言いたいことを察しているのだ。
「……日焼け防止、または傷や痣を隠すため、あるいは……」
その先を言わせず伊万莉は次の質問を被せる。
「女性が男性に触れられる、近づかれることを極端に怖がる理由は?」
「……極度の潔癖症、身近な男性によるDV、あとは……」
「……」
そこから教官は完全に沈黙した。伊万莉もその後を催促したりしない。
伊万莉の予想と同じ事を彼女も考えていたことはこれで間違いないだろう。
「神代君は口は堅いほう?」
「喋るなと言われたら墓まで持っていくつもりです」
「そう……」
教官は何かを話そうとしては口を噤むというのを何回か繰り返した後、ようやくぽつぽつと話し始めた。
「宮尾さん、って神代君の友人なのよね?」
「はい。小中高と同級生です」
「前からああだったわけじゃないのよね?」
「四か月前までは普通に明るい子でした」
じゃあやっぱり……と教官は再び思考に没頭した。
もちろん伊万莉は彼女の次の言葉を黙って待っている。
「個人情報だから本当は言ったらダメなんだけど、宮尾さん、仮免の修了検定で六回も不合格になっているの」
「六回も、ですか?」
「ええ……」
確か彼女は今日の教習が終われば仮免の試験と言っていた。しかしそれは七回目の試験のことだったのだ。
一、二回の不合格はままあることだがその回数は異常だ。
「その前の技能教習は大丈夫だったんですか?」
「不可ではないくらいの可といった感じね。試験と違って一応できればいいくらいだから」
「試験に不合格になったのは技能が未熟だから、ではないんですよね?」
「技能は問題ないと思うけどそれより精神的なほうが問題でね……」
教習を開始するとがちがちに緊張して震えて運転がおぼつかなくなるという。
しかしそれが男性の教官だけでなく、女性の教官でもその傾向があるというのだ。
「女性もダメってことですか?」
「男性教官ほどじゃないけど試験に耐えられるものじゃない。あたしも担当したけど見ててかわいそうになるくらい。男性不信というか人間不信になってるのかも」
人間不信。
伊万莉が思っているよりはるかに陽子の状態は悪かった。さらに悪化したらまともな生活すら送れなくなってしまう。
「それでさすがに教習所のほうでも彼女のことが問題になってるのよ。このまま試験を続けさせても合格できる見込みはないし、お金もかかる。でもデリケートな問題だから本人に聞くことも憚られる。宮尾さんがこうしてほしいって言ってくれたらうちとしてもできるだけのことはしてあげるけど、このまま路上教習だけは絶対に行かせられない」
その意見には伊万莉も賛成だ。あの状態で路上教習にでればいくら教官がついていて補助ブレーキがあっても確実に事故を起こす。
しかし乃木教官のあの行動は彼女の情報を他の職員と共有していなかったからなのか? していても興味ないって思ったのかもしれないが。
「彼女の家族には連絡を?」
「まだよ。それも含めて検討中なの。家族にも隠してるって場合もあるし。あーもうどうしたらいいの!」
教官は髪が乱れるのも構わず頭を掻きむしった。
彼女は同性として教官として人生の先輩として本気で陽子のことを悩んでくれている。
彼女の苦悩は伊万莉の苦悩でもある。
なんとかしたいのに何もできない。後ろにも前にも進めない。
「とりあえず教習所の職員間で彼女の扱いについて再度情報共有を。あとは早まった真似をしないこと。僕も彼女と話してみますから」
昔からの知り合いにはそこまで強い拒否反応はない。触れられたりは嫌なようだが落ち着いている時は話だけなら普通にできる。
「神代君……。宮尾さんのこと、どうかよろしくお願いします」
そう言って年下に頭を下げることができる彼女はやはり大人なんだなと伊万莉は思った。




