長過ぎる睡眠時間は体に毒ですか?
先輩が出張用の使い捨てカミソリを貸してくれた。
地下のアジトの洗面台で、五日分のヒゲを剃る。
鏡に映ったのは、少しやつれた、見慣れた自分の顔。異世界に来てから、初めてまともに自分を見た気がした。
「……よし」
スマホを手に取る。
『顔を認識しました』
一発だった。ちょっと泣きそうになった。
ロッカーから、黒い防護コートを取り出して羽織る。耳かけの通信端末。そして、小型の銃。
グリップを握ると、ゲームのコントローラーよりずっと重かった。
「似合わないね」先輩が言った。
「自覚あります」
「でも、スーツよりはマシ」
先輩も同じコートを着ていた。こっちは妙に様になっている。
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その頃。
どこかの、地下。
白かった。
壁も、床も、見上げるほど高い天井も。影ひとつ落ちないほど均一な光が、果てしなく続く空間を満たしていた。
その壁一面に楕円形の装置が縦横無尽に整然と並んでいる。
数百。いや、数千。
低い電子音が、一斉に鳴った。
装置の蓋が、ひとつ、またひとつと、空気の抜ける音とともに開いていく。
白い冷気があふれ出し、床を這う。
中から、人が起き上がった。
男がいた。女がいた。全員が、薄いグレーの服を着ていた。
誰もが、まるで溺れた後のように咳き込み、震え、自分の手を見つめていた。
「……ぐ、ぅ……」
ひとりの女性が、装置の縁に手をかけて身を起こした。
黒髪を後ろでまとめた、三十代くらいの女。焦点の定まらない目が、白い天井をさまよう。
「大丈夫ですか、リタ・カーヴェル様」
そばに、人影が立っていた。
なめらかな白い外装。人間とほとんど変わらない顔。目の奥で、淡い光が規則正しく明滅している。
人型のアンドロイドが、そっと彼女の背を支え、温かい液体の入ったカップを差し出した。
「ゆっくりお飲みください。体温が回復します。」
リタはカップを受け取り、震える唇で一口すすった。
それから、かすれた声で尋ねた。
「……今、何年?」
「2507年5月27日、午前6時17分46秒です」
アンドロイドは、迷いなく答えた。
隣の装置から、低い笑い声がした。
短く刈った髪の、がっしりした体格の男が、別のアンドロイドに肩を借りながら立ち上がっていた。
「ざっと450年ぶりだな」
「……ジャック」
「よう、リタ。相変わらず寝起きの顔がひでえな」
「450年寝てた奴に言われたくないわよ」
軽口を叩き合いながらも、二人の目は笑っていなかった。
周りを見渡せば、同じように目覚めた人間たちが、何百、何千と、アンドロイドに介抱されている。
「……多すぎない?」リタが呟いた。「定期点検の覚醒なら、各部署から数人のはずよ」
「ああ」ジャックが顎をしゃくった。「どう見ても、全員だな」
アンドロイドに付き添われて、二人は白い廊下を進んだ。
足元がまだおぼつかない。450年分の重力を、体が思い出そうとしている。
廊下の突き当たりで、壁の一面がまるごと巨大なサイネージになっていた。
青白い文字が、上から下へと流れている。
< セクター1 覚醒 >
< セクター2 覚醒 >
< セクター3 覚醒 >
< セクター4 覚醒 >
< セクター5 覚醒 >
……
止まらなかった。
どこまでも、どこまでも、同じ文字が流れていく。
「……冗談でしょ」
「よお、お前ら」
背後から、聞き慣れた声がした。
振り返ると、無精ヒゲの中年男が、くたびれたジャケットを引っかけて立っていた。片手には、アンドロイドから受け取ったらしいカップ。
「ウォルシュさん」
「元気か? ……でもないか。俺もだ」
二人の上司、ウォルシュは、サイネージを親指で指した。
「ここ以外のセクターの連中も、全員起こされてるらしい」
「何があったのよ?」リタが詰め寄る。
「さあな」ウォルシュは肩をすくめた。
そのとき。
天井のどこかから、澄んだ電子音が三度鳴った。
続いて、感情の起伏をまったく感じさせない、なめらかな女性の声が、施設全体に響き渡った。
『アーガスノルン・コーポレーション、ノルンシステムより、社員の皆様へご連絡いたします』
廊下を行き交っていた全員が、足を止めた。
『本日、午前8時00分より、セクター長による緊急の説明が行われます。各部署にて集合し、ご参加をお願いいたします。繰り返します――』
ジャックが呟いた。
「……一体、何が起きたってんだ?」
答える者は、誰もいなかった。
ーーー午前8時00分。
部署の会議室は、懐かしい匂いがした。
450年前と同じ、長机。同じ椅子。正面の壁に、大型のスクリーン。
まだ顔色の悪い社員たちが、無言で座っている。
スクリーンに、映像が映った。
スーツ姿の男。白髪混じりの髪を後ろに撫でつけ、背筋をまっすぐに伸ばしている。
背後の壁に――アーガスノルンのロゴ。
『おはようございます。セクター長のコンラッド・ヴェイルです』
淡々とした声だった。
『450年ぶりの覚醒にもかかわらず、急な招集となったことをお詫びします。体調の優れない方もいるでしょう。手短に話します』
ヴェイルは、手元の資料に目を落とした。
『現地時間で三日前。広域実験場管理区域内において、登録外の人間による、魔力の取引を感知しました』
会議室の空気が、張り詰めた。
『取引は、交易都市ベルカの市場区画にて発生。使用されたのは、旧時代の力場契約者端末です。現在、我々の管理台帳に、該当する端末の所有者は存在しません』
リタが、隣のジャックと顔を見合わせた。
『さらに昨日、東方国境地帯の旧施設にて、二台の契約者端末による認証が行われ、封鎖区画のひとつが開放されたことを確認しています』
スクリーンに、地図が映し出された。
荒野の只中に、赤い点が二つ、点滅している。
『封鎖区画は、かつて我々に敵対した武装組織――レジスタンスの拠点であった場所です』
ざわめきが走った。
『レジスタンスの残党、もしくはその後継者である可能性が高い。管理区域の安定を脅かす事態と判断し、ノルンシステムの決定により、全社員のコールドスリープを解除しました』
ヴェイルは、カメラをまっすぐに見た。
『皆さんには、本日より通常業務に復帰していただくとともに、当該人物の捜索と、管理区域の再整理にご協力いただきます』
『なお、すでに当社の部隊と現地に潜伏中の工作員を該当エリアへ派遣しています。ギルドおよび教会を通じた情報網も、本日より全面的に稼働します』
スクリーンの地図の上で、赤い点に向かって、無数の小さな光が動き始めた。
『以上です。450年分の遅れを、取り戻しましょう』
映像が、ロゴに切り替わった。
会議室に、長い沈黙が落ちた。
「……起きてそうそう仕事か」
ジャックが、乾いた笑いを漏らした。
リタは笑わなかった。スクリーンの、二つの赤い点を見つめていた。
「契約者端末を、今さら持ってる人間なんて……」
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その頃。
東方国境、水城の商会の地下アジト。
俺は、モニターの前で、レジスタンスの監視ログを必死に読み込んでいた。
「先輩、これ……ログが急に増えてます。数が、さっきまでの何百倍も……」
「見せて」
画面を流れていく、意味のわからない英数字の羅列。
セクター、再稼働、展開中。読めた単語だけでも、ろくな意味じゃないのはわかった。
そのとき、ポケットのスマホが震えた。
ラクペイじゃない。投資アプリでもない。
聞いたことのない、短いファンファーレ。
画面を見る。
金色の縁取り。中央に、王冠をかたどったトロフィーのアイコン。
<トロフィーを獲得しました>
イベント:支配者の覚醒――眠れる者たちが、目を開いた。
「…………」
指先が冷たくなった。
ゲームだったら、ここで喜ぶところだった。
でも、これはゲームじゃない。
画面の下に、小さな文字が続いていた。
<次のイベントまで:00:47:12>
カウントダウンが、一秒ずつ減っていく。
「田中くん」
先輩が、俺の手元を覗き込んで、静かに言った。
「装備、全部持っていこう。四十七分以内に、ここを出る」
背後で、セレスが細剣を抜く音がした。
リーネが、俺のコートの裾をぎゅっと握った。




