学習と時局 (一九四四年四月十二日)
一九四二年から一九四四年にかけて、中国共産党の中央指導機関と高級幹部が、党の歴史、とくに一九三一年はじめから一九三四年末までの時期の党の歴史についておこなった討論は、マルクス・レーニン主義を基礎に党内の思想を統一するうえで大いに役立った。一九三五年一月、党中央が貴州省の遵義で招集した政治局拡大会議は、一九三一年はじめから一九三四年末までのあやまった「左」翼的路線をただし、党の中央指導機関の構成をあらため、毛沢東同志を先頭とする指導を確立し、党の路線をマルクス・レーニン主義の正しい軌道にのせたが、党の多くの幹部のあいだでは、過去のあやまった路線の性質について、まだ徹底した清算がなされていなかった。党中央政治局は、党幹部のマルクス・レーニン主義思想を一段と高めるため、一九四二年から一九四三年にかけて、いくどか党の歴史についての討論をおこない、その後さらに、一九四三年から一九四四年にかけて、全党の高級幹部を指導して同様の討論をおこなった。この討論は、一九四五年に招集された党の第七回全国代表大会のための重要な準備となり、中国共産党はこの大会で、かつてない思想的、政治的一致をみるにいたった。『学習と時局』は、毛沢東同志が延安の高級幹部会議で、この討論についておこなった講演である。
一
わが党の高級幹部は、昨年の冬から、党の歴史における二つの路線の問題について学習してきた。こんどの学習によって、広範な高級幹部の政治的水準は大いに高まった。こんどの学習では、同志諸君から多くの問題がだされたが、党中央政治局はそのうちのいくつかの重要な問題について結論をくだした。結論は、つぎのとおりである。
(一)歴史的経験の研究には、どのような態度をとるべきかという問題について。党中央は、党内の歴史上の問題にたいする幹部の見方を思想の面から完全にはっきりさせると同時に、以前あやまりを芯かした同志に結論をくだすばあい寛大な方針をとらなければならないと考える。それは、一方では幹部にわが党の歴史的経験を徹底的に理解させて、二度とあやまりをおかさせないようにし、また他方ではすべての同志を結集して、ともに活動できるようにするためである。わが党の歴史には、かつて陳独秀のあやまった路線①と李立三のあやまった路線②に反対する大きな闘争があったが、これらの闘争はぜひとも必要なものであった。だが、その方法には欠点があった。すなわち一方では、幹部に当時のあやまりの原因と環境、それらのあやまりをあらためる詳細な方法を、思想の面から徹底的に理解させなかったため、のちにまたおなじような性質のあやまりをくりかえす可能性を残したこと、他方では、個人の責任にあまり重きをおきすぎたため、より多くの人を結集してともに活動することができなかったことである。われわれはこの二つの欠点をいましめとしなければならない。こんど、歴史上の問題を処理するにあたっては、思想の面からもはっきりさせ、また同志も結集するという二つの目的をたっするため、一部の個々の同志の責任の面に重きをおくのではなくて、当時の環境の分析、当時のあやまりの内容、当時のあやまりの社会的根源、歴史的根源および思想的根源に重きをおき、前のあやまりを後のいましめとし、病をなおして人を救うという方針を実行すべきである。人を処置する問題では慎重な態度をとるべきで、おざなりにもしなければ、同志を傷つけることもしない、これこそわが党の隆盛と発展をしめす指標のひとつである。
(二)どのような問題にたいしても分析する態度をとるべきで、すべてを否定してはならない。たとえば、第四回中央委員会総会〔1〕から遵義会議③にいたる時期の党中央の指導路線の問題については、二つの面から分析すべきである。一方では、あの時期の中央指導機関のとった政治上、軍事上の戦術および幹部政策が主要な面でいずれもまちがっていたことを指摘すべきであり、他方では、蒋介石に反対し、土地革命と赤軍の闘争を主張するという基本問題で、当時あやまりをおかした同志とわれわれとのあいだには意見のくいちがいがなかったことを指摘すべきである。戦術の面でも、やはり分析をおこなう必要がある。たとえば土地問題において、当時のあやまりは、地主に土地を分配せず、富農にわるい土地を分配するという極左的な政策を実行したことにあるが、地主の土地を没収して、土地をもたない農民、または土地のすくない農民にこれを分配するという点では、われわれと一致していた。レーニンは、具体的な状況を具体的に分析することが、「マルクス主義のもっとも本質的なもの、マルクス主義の生きた魂である」〔2〕といっている。われわれの同志のなかには、分析的な頭脳に欠け、複雑な事物にたいし、くりかえし掘りさげて分析と研究をしようとしないで、絶対的肯定または絶対的否定の簡単な結論をくだしたがるものが多い。われわれの新聞に分析的な論文が乏しく、党内に分析する習慣がまだ十分にやしなわれていないのは、こうした欠陥があることをしめすものである。今後はこうした状態を改善しなければならない。
(三)党の第六回全国代表大会の文献の討議について。第六回全国代表大会の路線は基本的には正しかったことを指摘しなければならない。なぜなら、この大会が、当面の革命のブルジョア民主主義的性質を規定したこと、当時の情勢が二つの革命の高まりの中間にあることを確認したこと、日和見主義と盲動主義を批判したこと、十大綱領〔3〕を発表したことなどは、みな正しかったからである。第六回全国代表大会には欠点もあった。たとえば、中国革命の極度の長期性と中国革命における農村根拠地の極度の重要性を指摘しなかったし、そのほかにも若干の欠点やあやまりがあったことである。だが、たとえどうあろうと、第六回全国代表大会はわが党の歴史において前進的な役割をはたした。
(四)一九三一年の上海の臨時中央と、その後この臨時中央が招集した第五回中央委員会総会〔4〕は、合法的であったかどうかという問題について。党中央は、これは合法的であったと考える。だが、その選挙の手続には不備な点があったことを指摘し、これを歴史的教訓とすべきである。
(五)党の歴史におけるセクトの問題について。わが党の歴史にかつて存在し、しかもよくない役割を演じたセクトは、遵義会議いらいいくたびかの変化をへて、いまはすでに存在しなくなったことを指摘しなければならない。こんどの党内の二つの路線についての学習では、この種のセクトが、歴史上かつて存在し、しかもよくない役割を演じたことを指摘することが、ぜひとも必要である。だが、一九三五年一月の遵義会議、一九三八年十月の第六期中央委員会第六回総会、一九四一年九月の政治局拡大会議〔5〕、一九四二年の全党的な整風、一九四三年の冬からはじまった党の歴史における二つの路線の闘争についての学習というこうしたたびたびの党内闘争による変化をへたのちにも、もとのままのあやまった政治綱領と組織形態をもつセクトがまだ存在すると考えるなら、それはまちがいである。かつてのセクトはいまではなくなっている。いま残っているのは、教条主義的および経験主義的イデオロギーの残りかすだけであって、われわれがひきつづき整風の学習をふかめていけば克服できるものである。いまわが党内に深刻に存在し、ほとんどいたるところに存在しているのは、盲目性をおぴた山頭主義的偏向〔6〕である。たとえば闘争の経歴が異なり、活動の地域が異なり(この根拠地と他の根拠地とのちがい、敵占領区、国民党支配区、革命根拠地のちがい)、活動の部門が異なる(この部分の軍隊と他の部分の軍隊とのちがい、この活動と他の活動とのちがい)ことからうまれる、それぞれの部分の同志たちがたがいに理解せず、尊重せず、団結しないという現象は、一見なんでもないようであるが、じつは、党の統一と党の戦闘力の強化をひどくさまたげている。山頭主義の社会的歴史的根源は、中国の小ブルジョア階級がとくに広範であることと、農村根拠地が長期にわたって敵に分割されていることであり、その主体的な原因は党内教育が不足していることである。これらの原因を指摘し、同志たちにその盲目性をすてて自覚をつよめるよう説得し、同志間の思想の疎通をはかり、同志間の相互の理解と尊重を提唱して、全党の大団結を実現することは、われわれの当面する重要な任務である。
以上にのべた問題が全党にはっきりと理解されれば、こんどの党内学習はかならず成功することが保障されるばかりでなく、中国革命はかならず勝利することが保障されるであろう。
二
当面の時局には二つの特徴がある。一つは反ファシズム戦線が強まり、ファシズム戦線が衰えたことであり、もう一つは反ファシズム戦線内部における人民勢力が強まり、反人民勢力が衰えたことである。まえのほうの特徴は、ひじょうにはっきりしていて、だれがみてもすぐわかる。ヒトラーはまもなくうち倒されるだろうし、日本侵略者も敗退の過程にある。あとのほうの特徴はまだそれほどはっきりしておらず、一般の人びとにはまだわかりにくいが、ヨーロッパでも、イギリス、アメリカでも、中国でも、それは日一日とはっきりしてきている。
中国の人民勢力が強まったことについては、わが党を中心として説明しなければならない。抗日の時期におけるわが党の発展は三つの段階にわけられる。一九三七年から一九四〇年までが第一の段階である。この段階の最初の二年間、つまり一九三七年と一九三八年には、日本軍閥は、国民党を重視し、共産党を軽視した。そのため、国民党の戦線への進攻にその主要な力をつかい、国民党にたいしては、軍事的な打撃を主とし政治的な投降勧誘を従とする政策をとったが、共産党の指導する抗日根拠地にたいしては、ただ少数の共産党員がそこで少しばかり遊撃戦争をやっているにすぎないと考えて、これを重視しなかった。ところが、一九三八年十月に、武漢を占領してから、日本帝国主義者はその政策をあらためはじめて、共産党を重視し、国民党を軽視するようになった。国民党にたいしては、政治的な投降勧誘を主とし軍事的な打撃を従とする政策をとる一方、その主力をしだいに共産党にむけてくるようになった。なぜなら、日本帝国主義者は、このときになって、国民党はもはやおそるるにたらず、共産党こそおそるべきものであることに気づいてきたからである。国民党は、一九三七年と一九三八年には、比較的抗戦に力をいれたし、わが党との関係も比較的よく、人民の抗日運動にたいしても、多くの制限はもうけたが、比較的多くの自由をみとめていた。武漢をうしなってからは、戦争に敗北したことと共産党敵視の気分が強まったことから、国民党はしだいに反動化して、反共活動にはしだいに積極的になり、対日抗戦にはしだいに消極的になってきた。共産党は、内戦の時期に挫折をこうむった結果、一九三七年には、組織された党員四万前後と軍隊三万余をもつだけとなり、そのため日本軍閥から軽視されていた。ところが、一九四〇年になると、党員は八十万、軍隊は五十万ちかくにまで拡大し、根拠地の人口も、一方だけに税を納めるものと両方に税を納めるもの〔7〕とをあわせると、ほぼ一億にたっした。この数年間に、わが党は広大な解放区の戦場をきりひらいたので、国民党の戦場にたいする日本侵略軍主力の戦略的進攻を五年半も阻止することができるようになり、日本軍の主力を自分の周囲にひきつけて、国民党の戦場の危機を救い、長期の抗戦をささえたのである。だが、この段階で、わが党の一部の同志は、日本帝国主義を軽視し(そのため、戦争の長期性と残酷性に目をむけず、大兵団による運動戦を主とするよう主張し、遊撃戦争を軽視した)、国民党に依存し、冷静な考えと独立自主の政策を欠く(そのため、国民党にたいする投降主義がうまれ、大衆をおもいきり立ちあがらせて敵の後方に抗日民主根拠地を樹立するとか、わが党の指導する軍隊を大いに拡大するなどといった政策にたいして動揺がうまれた)というあやまりをおかした。同時に、わが党は膨大な数にのぼる新党員を吸収したが、かれらにはまだ経験がなかった。また、敵の後方にある根拠地もすべて新しくつくられたもので、まだ強固になっていなかった。この段階では、情勢の進展と党および軍隊の拡大によって、またしても党内に一種の慢心がうまれ、多くの人びとが自分は大したものだとおもいこむようになった。この段階で、われわれは党内の右翼的偏向を克服し、独立自主の政策を遂行したので、日本帝国主義に打撃をあたえ、根拠地を創設し、八路軍、新四軍を拡大したばかりでなく、国民党の一回目の反共の高まりをも撃退した。
一九四一年と一九四二年が第二段階である。日本帝国主義者は、英米にたいする戦争を準備し遂行するために、武漢陥落後すでにあらためていた方針、すなわち打撃の重点を国民党から共産党にうつす方針をいっそう強力にだしすすめ、共産党の指導するすべての根拠地の周囲にその主力をいっそう集中して、連続的な「掃討」戦と残忍な「三光」政策④をすすめ、主としてわが党に打撃をくわえた。そのため、わが党は一九四一年と一九四二年の二年間、極度に困難な状態におかれた。この段階で、わが党の根拠地はせばまって、人口は五千万以下に減り、八路軍も三十余万に減り、幹部の損失は多く、財政経済は極度の困難におちいった。同時に国民党も、自分の手があいてきたと考え、あらゆる手段をつくしてわが党に反対し、二回目の反共の高まりをおこし、日本帝国主義と呼応して、われわれを攻撃してきた。だが、このような困難な状態は、共産党員を教育し、われわれに多くのことを学ばせた。われわれは、敵の「掃討」戦、「蚕食」政策〔8〕、「治安強化」運動〔9〕、「三光」政策、転向強要政策とどのようにたたかうかを学びとった。われわれは、統一戦線政権の「三三制」政策⑤、土地政策、三風整頓⑥、精兵簡政⑦、指導の統一、擁政愛民⑧、生産発展などの活動をすでに学びとったか、あるいは学びとりつつあり、また、多くの欠陥を克服した。さらに第一段階で自分を大したものだとおもいこんでいた多くの人びとの慢心をも克服した。この段階で、損害を大きくこうむりはしたが、われわれはしっかりと地歩をかためることができ、一方では日本侵略者の攻撃を撃退し、他方では国民党の二回目の反共の高まりを撃退した。国民党が反共をすすめ、われわれは国民党の反共政策にたいして自衛の闘争をおこなわざるをえなかったという事情によって、党内にまた一種の極左的な傾向がうまれた。たとえば、国共合作がすぐにも決裂すると考えて、地主にいきすぎた打撃をくわえたり、党外の人びととの団結に注意をはらわなかったりしたことなどがそれである。だが、これらの極左的な傾向もわれわれは克服した。われわれは、摩擦に反対する闘争では、道理があり、有利であり、節度があるという原則を指摘し、統一戦線では、団結もすれば闘争もする、闘争をつうじて団結を求めるということの必要性を指摘し、全国でも根拠地でも抗日民族統一戦線をまもりぬいた。
一九四三年から現在までが第三段階である。われわれの諸政策はいっそう効果をあらわしたが、とくに三風整頓と生産発展という二つの活動は根本的な効果をおさめ、それによって、わが党は思想的基礎と物質的基礎の両面で不敗の地に立つようになった。このほか、われわれはまた、昨年らい、幹部を審査し特務とたたかう政策を身につけたか、または身につけはじめた。このような状況のもとで、われわれの根拠地の面積はふたたび拡大し、根拠地の人口は、一方だけに税を納めるものと両方に税を納めるものとをあわせると、ふたたび八千余方に増加し、また軍隊は四十七万、民兵は二百二十七万となり、党員は九十余万に拡大した。一九四三年には、日本軍閥の中国にたいする政策はなんの変化もなく、やはり共産党への打撃を主としていた。一九四一年から現在まで三年あまりのあいだ、中国を侵略している日本軍の六〇パーセント以上がわが党の指導する各抗日根拠地にのしかかっている。ここ三年あまりのあいだ、敵の後方に残った数十万の国民党軍隊は、日本帝国主義の打撃にたえきれず、ほぼ半数が敵に投降し、ほぼ半数が敵に殲滅されて、残存、撤退したものはごくわずかである。敵に投降したこれらの国民党軍隊は、ほこ先を変えてわが党を攻撃してきているので、わが党はさらにかいらい軍の九〇パーセント以上をむかえ打たなければならなくなった。国民党がむかえ打っているのは、わずかに日本軍の四〇パーセントたらずとかいらい軍の一〇パーセントたらすである。一九三八年十月の武漢陥落後まる五年半のあいだ、日本軍閥は国民党の戦場にたいする戦略的進攻をおこなったことがなく、ただいくどか比較的大きな戦役行動(浙[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]、長沙、湘北省西部、河南省南部、常徳)をとっただけであるが、それさえ日帰り程度のもので、おもな注意力をわが党の指導する抗日根拠地にむけていた。このような状況のもとで、国民党は山へ逃げこむ政策と観戦政策をとり、敵がやってくれば形ばかり手向かったが、敵が退けば手をこまねいて傍観した。一九四三年には、国民党はいっそう反動的な国内政策をとり、三回目の反共の高まりをおこしたが、これもわれわれに撃退された。
一九四三年からことしの春にかけて、日本侵略者は太平洋戦線でしだいに敗退し、アメリカは反攻をつよめており、西方のヒトラーはソビエト赤軍から手痛い打撃をうけて、いまにも崩壊しそうな状態にある。日本帝国主義は、滅亡をまぬがれるために、北平=漢□《ハンコウ》鉄道、広州=漢口鉄道の両線を打通させようとはかり、また、重慶の国民党にたいする投降勧誘政策がまだ成果をあげていないので、それにもう一度打撃をくわえる必要があるとして、ことしは国民党戦線に大挙進攻する計画をたてている。河南戦役〔10〕はすでに一ヵ月以上もつづいている。敵はわずか数コ師団にすぎないのに、国民党の数十万の軍隊は戦わないで潰走してしまい、いくらか戦えるのは、雑軍⑨だけである。湯恩伯の部隊は、将校が兵士から浮きあがり、軍隊が人民から浮きあがって、混乱をきわめ、三分の二以上もの損失をこうむった。胡宗南が河南省に派遣した数コ師団もひとたまりもなく崩壊してしまった。こうした状況は、まったく、国民党が数年らい強行してきた反動政策の結果である。武漢陥落後五年半のあいだ、共産党の指導する解放区の戦場は日本軍とかいらい軍の主力をむかえ打つ重任をになってきた。今後この点でいくらかの変化はあるかもしれないが、そうした変化も一時的なものにすぎないだろう。なぜなら、国民党は、抗日には消極的、反共には積極的というここ五年半の反動政策のもとで極度に腐敗した状態にあるため、今後かならず重大な失敗をなめるだろうし、そのときがくれば、日本軍とかいらい軍をむかえ打つわが党の任務は、いっそう重くなるからである。国民党は五年半のあいだ手をこまねいて傍観してきた結果、戦闘力をうしなってしまった。共産党は五年半のあいだ悪戦苦闘した結果、戦闘力がつよまった。こうした状況は今後の中国の運命を決定するだろう。
同志諸君もみられるように、一九三七年七月から現在までの七年間、わが党の指導下にある人民民主主義勢力は、上昇、下降、再上昇という三つの状態をへてきた。わが党は、日本侵略者の残酷な進攻をむかえ打ち、広大な革命根拠地を樹立し、党と軍隊を大きく拡大し、国民党の三回にわたる大規模な反共の高まり⑩を撃退し、党内にうまれた右と「左」のあやまった思想を克服し、全党的にたくさんの貴重な経験を学びとった。これがわれわれの七年にわたる活動の総括である。
現在の任務は、以前よりもさらに重大な青務をになう準備をすることである。われわれは、どのような状況のもとでも日本侵略軍を中国からたたきだすよう準備しなければならない。わが党がこのような責務をになえるようになるためには、わが党、わが軍、わが根拠地をいっそう発展させ、いっそう強固にしなければならず、大都市と主要な交通線での活動に注意をはらわなければならず、都市での活動を根拠地での活動とおなじように重要な地位にひきあげなければならない。
根拠地建設は、第一段階で大いに発展したが強固ではなく、そのため第二段階でひとたび敵から大きな打撃をうけると、縮小してしまった。第二段階では、わが党の指導する抗日根拠地は、すべてきびしい試練をうけ、第一段階にくらべるとずっとよくなった。幹部と党員の思想と政策の水準は大いに高まり、これまで身につけていなかったことをより多く身につけた。だが、思想をはっきりさせ、政策を学びとるには、もっと時間が必要であるし、われわれが身につけていないことはまだたくさんある。わが党の力はまだそれほど強大ではないし、党内もまだそれほど統一されてはおらず、まだそれほど強固になってはいないので、いまよりももっと大きな責務をになうことはまだできない。今後の問題は、抗戦をつづけるなかで、わが党、わが軍、わが根拠地をいっそう発展させ、いっそう強固にすることであり、これこそ、将来偉大な事業をになうための第一に必要な思想的準備であり、物質的準備である。このような準備なしには、われわれは、日本侵略者をおいだすことも、全中国を解放することもできない。
大都市と主要な交通線にたいするわれわれの活動は、これまでずっと、ひじょうに不十分であった。もし、われわれが現在でもまだ、大都市と主要な交通線で日本帝国主義に抑圧されている何百何千万の勤労大衆と市民大衆をわが党のまわりに獲得せず、大衆の武装蜂起を準備しないとしたら、われわれの軍隊と農村根拠地は、都市の協力をうることができないで、さまざまな困難に直面するだろう。われわれは、この十余年らい農村にいて、農村をよく知り農村に根拠地をつくるように提唱してきたが、これは必要なことであった。党の第六回全国代表大会で決定された都市での蜂起を準備する任務は、この十余年のあいだ実行されなかったし、その可能性もなかった。だが、いまでは事情がちがっており、第六回全国代表大会の決議は、第七回全国代表大会後に実行されることになるだろう。わが党の第七回全国代表大会はまもなくひらかれるが、この代表大会では、都市における活動の強化と全国的勝利の獲得の問題が討議されるはずである。
ここ数日らい、陝西・甘粛・寧夏辺区でひらかれている工業会議は、重要な意義をもっている。辺区の工場労働者は、一九三七年にはまだ七百人にすぎなかったが、一九四二年には七千人になり、いまでは一万二千人になっている。このような数字をけっして軽視してはならない。われわれは、大都市の商工業と交通機関をどのように管理するかを、根拠地にいるあいだに学びとらなければならない。そうしなければ、そのときになってどうしてよいかわからなくなるだろう。大都市と主要な交通線における武装蜂起を準備し、また商工業の管理を学ぶこと、これは、第二に必要な思想的準備であり、物質的準備である。このような準備なしには、われわれはやはり、日本侵略者をおいだすことも、全中国を解放することもできない。
三
あらたな勝利をかちとるためには、党の幹部のあいだで、ふろしき包みをすてることと、機械をうごかすことを提唱しなければならない。ふろしき包みをすてるというのは、われわれの精神的な多くの重荷をとりさらなければならないということである。多くの物事は、それに盲目的になり、自覚を欠くと、われわれのふろしき包みになり、重荷になりうる。たとえば、あやまりをおかせば、自分はどうせあやまりをおかしたのだと考えて、それからのちはしおれてしまうだろうし、あやまりをおかしていなければ、自分はあやまりをおかしたことがないのだと考えて、おごり高ぶるだろう。仕事の成績があがらないと、しょげかえってしまうだろうし、仕事の成績があがると、鼻息があらくなるだろう。闘争経歴の短いものは、それが短いということから、無責任になるだろうし、闘争経歴の長いものは、それが長いということから、ひとりよがりになるだろう。労働者、農民出身のものは、自分の光栄ある出身を鼻にかけて、知識人を見さげるだろうし、知識人は自分のいくらかの知識を鼻にかけて、労働者、農民出身のものを見さげるだろう。さまざまな特殊技能は、みな傲慢不遜、傍若無人の元手となりうる。それどころか、年齢でさえも傲慢の道具となりうる。若いものは、自分が聡明有能だということで、年をとったものをばかにするだろうし、年をとったものはまた、自分の経験が豊富だということで、若いものをばかにするだろう。こうしたさまざまなことにたいしてもし自覚を欠くと、それは重荷またはふろしき包みになる。一部の同志たちがお高くとまり、大衆から浮きあがって、しばしばあやまりをおかすのは、このようなふろしき包みを背負っていることにひとつの大きな原因がある。したがって、自分の背負っているふろしき包みをしらべ、それをすてて、自分を精神的に解放することは、大衆と結びつき、あやまりをすくなくするため、ぜひとも必要な前提のひとつである。わが党は、これまでの歴史でいくたびかひじょうに傲慢になったことがあるが、そのつど失敗のうき目をみた。一回目は一九二七年の前半である。当時、北伐軍が武漢に到達すると、一部の同志は傲慢になり、自分は大したものだとおもいこみ、国民党がわれわれを襲撃しようとしていることを忘れてしまった。その結果、陳独秀路線のあやまりをおかして、この革命を失敗させてしまった。二回目は一九三〇年である。赤軍が蒋、馮、閻の大戦〔11〕という条件を利用して、いくらか勝ちいくさをすると、また一部の同志は傲慢になり、自分は大したものだとおもいこむようになった。その結果、李立三路線のあやまりをおかして、やはり革命勢力に若干の損失をこうむらせた。三回目は一九三一年である。赤軍が三回目の「包囲討伐」をうちやぶり、つづいて、全国人民が日本の進攻にたいしてあらしのような抗日運動をまきおこすと、また一部の同志は傲慢になり、自分は大したものだとおもいこむようになった。その結果、いっそう重大な路線上のあやまりをおかして、苦心さんたんしてつみあげた革命勢力の九〇パーセント前後をうしなってしまった。四回目は一九三八年である。抗戦がはじまり、統一戦線がうちたてられると、また一部の同志は傲慢になって、自分は大したものだとおもいこむようになり、その結果、陳独秀路線にいくらか似かよったあやまりをおかした。このときも、これらの同志のあやまった思想の影響がもっとも大きかったところの革命活動は大きな損失をこうむった。全党の同志は、このいくたびかの傲慢、いくたびかのあやまりを今後のいましめとしなければならない。最近、われわれが李自成についての郭沫若の論文〔12〕を刊行したのも、勝利すると傲慢になるというあやまりを二度とおかさないよう、同志諸君にいましめとしてもらうためである。
機械をうごかすというのは、思考の器官をじょうずにつかうことである。一部の人は、ふろしき包みを背負っておらず、大衆と結びつく長所ももってはいるが、思考することが不得手で、頭をつかって、くりかえしじっくり考えようとしないので、やはり物事をなしとげることができない。さらに、一部の人は、ふろしき包みを背負っているため、頭をつかおうとせず、かれらの聡明さはふろしき包みでおしつぶされている。レーニン、スターリンはつねづね物をよく考えるようにとすすめているが、われわれもまたそのようにすすめたい。頭という機械の作用は、もっぱら思考することにある。孟子は「心の官はすなわち思なり」〔13〕といったが、かれは頭の作用について正しい定義をくだしたのである。なにごとも、頭をつかってよく考えるべきである。俗に「ちょっとまゆ根をよせれば、名案がうかぶ」というが、これは、じっくりと考えれば知恵がでるという意味である。わが党内にある濃厚な盲目性をとりのぞくためには、思考することを提唱し、事物を分析する方法を身につけ、分析する習慣をやしなわなければならない。こうした習慣は、わが党内ではあまりにもたりない。もし、われわれがふろしき包みもすて、機械もうごかすなら、つまり身軽にもなり、よく考えることもできるなら、われわれは勝利をおさめることができる。
〔 ##注## 〕
〔1〕 第四回中央委員会総会とは、一九三一年一月の中国共産党第六期中央委員会第四回総会をさす。
〔2〕 レーニンの『共産主義』にみられる。本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔10〕を参照。
〔3〕 本選集第一巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』注〔29〕にみられる。
〔4〕 第五回中央委員会総会とは、一九三四年一月の中国共産党第六回中央委員会第五回総会をさす。
〔5〕 この会議では、党の歴史上の政治路線、とくに第二次国内革命戦争の時期における政治路線の問題について批判した。
〔6〕 山頭主義の偏向とは、一種の小集団主義の偏向のことであり、主として、長期にわたる遊撃戦争のなかで、農村の革命根拠地が分散して、たがいに接触をもたない状況のもとでうまれたものである。これらの根拠地は、はじめ、大半が山岳地域につくられ、一つの集団があたかも一つの山のようであったところから、このあやまった偏向は山頭主義とよばれた。
〔7〕 ここで、一方だけに税を納める地区というのは、根拠地のなかの比較的強固な地区をさす。そこの人民は、抗日民主政府だけに現物と金で税を納めた。両方に税を納める地区というのは、根拠地の間緑地区と遊撃区をさす。それちの地区では、敵がつねに侵害してくるため、人民は抗日民主政府に税を納めるほか、つねにかいらい政権にもいくらかの税を納めることをよぎなくされた。
〔8〕 これは、日本帝国主義か抗日根拠地にたいする大規模な進攻に失敗したのち実施した方法で、つまり急速な「鯨呑」の方法から、長期の漸次的な「蚕食」の方法にあらためたのである。日本帝国主義は着実に、一歩一歩分割していくという段どりをとって抗日根拠地をせばめ、その占領区をひろげようとくわだてた。
〔9〕 一九四一年三月、華北の日本侵略軍と民族裏切り者は、いわゆる「治安強化運動」のスローガンをうちだした。「治安強化」というのは、捜査、保甲制度の実施、戸籍調査、かいらい軍の組織によって、抗日勢力を弾圧することである。
〔10〕 一九四四年三月、日本侵略軍は五、六万の兵力をもって河南戦役をおこした。国民党軍の蒋鼎文、湯恩伯、胡宗南の各部隊四十万は、日木侵略軍の姿を見ただけで崩壊し、鄭州、洛陽など三十八県があいついで陥落し、湯恩伯部隊は兵員二十万をうしなった。
〔11〕 蒋、馮、閻の大戦とは、天水=連雲港、天津=浦口両鉄道の沿線でおこなわれた蒋介石と馮玉祥、閻錫山とのあいだの大規模な軍閥戦争をさす。この戦争は一九三〇年五月から十月まで半年つづき、双方の死傷者は三十万にのぼった。
〔12〕 一九四四年、郭沫岩は、明朝未年に李自成が指導した農民蜂起の勝利三百周年を記念して、『甲申三百年祭』という論文を書いた。それには、一六四四年、李自成の農民蜂起軍が北京にはいってのち、一部の指導者の生活が腐敗し、派閥闘争が生じたために、一六四五年には、ついに失敗するにいたったことがのべられている。この論文は、まず、重慶の『新華日報』に発表され、そのご延安村よび各解放区で単行本として刊行された。
〔13〕 『孟子』巻十一「告子上」かちの引用。
〔 ##訳注## 〕
① 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔4〕を参照。
② 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔5〕を参照。
③ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』訳注⑤を参照。
④ 本巻の『きわめて重要な政策』注〔1〕を参照。
⑤ 本選集第二巻の『抗日根拠地の政権問題』を参照。
⑥ 三風整頓とは、党内にあった三つの悪い作風を是正し整頓することをいったもので、主観主義に反対して学風を整え、セクト主義に反対して党風を整え、党八股に反対して文風を整えることである。くわしくは、本巻の『われわれの学習を改革しよう』、『党の作風を整えよう』および『党人股に反対しよう』を参照。
⑦ 精兵簡政とは、軍隊を精鋭化し、行政機構を簡素化することである。くわしくは、本巻の『きわめて重要な政策』を参照。
⑧ 擁政愛民とは、根拠地の軍隊が政府を擁護し、人民を愛護することである。くわしくは、本巻の『根拠地での小作料引き下げ運動、生産運動および擁政愛民運動をくりびろげよう』注〔2〕を参照。
⑨ 本選集第二巻の『おもいきって抗日勢力を発展させ、反共頑迷派の進攻に抵抗せよ』注〔8〕を参照。
⑩ 本巻の『国民党中央執行委員会第十一回全体会議と第三期国民参政会第二回会議を評す』のなかで列挙されている蒋介石のおこした三回にわたる反共の高まりの事実を参照。




