井岡山の闘争 (一九二八年十一月二十五日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央に送った報告である。
湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗
一国のなかに、周囲を白色政権にとりかこまれながら、一つの小さなあるいはいくつかの小さな赤色政権地域かうまれるのは、いまの世界では、ただ中国だけにみられることである。それがうまれた原因を分析してみると、その一つは、中国では買弁・豪紳階級の内部にたえず分裂と戦争があることである。買弁・豪紳階級の内部の分裂と戦争がつづくかぎり、労働者・農民の武装割拠もまたひきつづき存在し、発展することができるであろう。そのほかに、労働者・農民の武装割拠が存在し、発展するためには、なおつぎの条件がそなわっていなければならない。(1)優秀な大衆がいること、(2)優秀な党があること、(3)相当の力をもつ赤軍があること、(4)作戦に有利な地形があること、(5)給養をまかなえるだけの経済力があること、である。
支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期とでは、割拠地区は、周囲の支配階級にたいしてちがった戦略をとらなければならない。支配階級の内部に分裂がおきた時期、たとえば湖南、湖北両省でいうと李宗仁、唐生智が戦争をした時期〔1〕、広東でいうと張発奎、李済深が戦争をした時期〔2〕には、われわれの戦略は、やや暴進してもよく、軍事力によって割拠を発展させる地方はやや広くしてもよい。だが、白色テロがおそってきたときに、びくともしないそなえをしておくためには、やはり中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそぐ必要がある。支配階級の政権が比較的安定している時期、たとえば今年四月以後の南方各省のばあいには、われわれの戦略は逐次前進するというものでなければならない。この時期に、軍事の面でもっとも禁物とすることは、兵力をわけて暴進することであり、地方活動の面(土地の分配、政権の樹立、党の拡大、地方の武装組織の建設)でもっとも禁物とすることは、中心区域にしっかりした基礎をつくることに心をそそがないで、人力をばらばらに分散することである。各地で多くの小さな赤色地域が失敗したのは、客観的に条件がそなわっていなかったからか、あるいは主観的に戦術があやまっていたからである。戦術にあやまりがあったのは、もっぱら、支配階級の政権が一時的に安定している時期と分裂している時期というこの二つの異なった時期をはっきり区別しなかったためである。支配階級の政権が一時的に安定しているときでも、一部の同志は、敵の側から挨戸団のほかに、集中的に正規の軍隊が攻撃してくるということをまったく知らないかのように、兵力をわけて暴進することを主張し、赤衛隊だけでひろい地方を防衛することさえ主張した。地方活動の面では、中心区域にしっかりした基礎をつくることにまったく心をそそがず、主体的な力の可能性を考えないで、ただ無制限に拡大しようとするだけである。もしだれかが、自己を不敗の地におこうとして、軍事の面で一歩一歩拡大する政策をとることを主張し、地方活動の面で力を集中して中心区域にしっかりした基礎をつくることを主張するならば、それに「保守主義」というレッテルをはった。かれらのこのようなあやまった意見こそ、ことしの八月に湖南・江西省境地区でなめた失敗と、そのころ赤軍第四軍が湖南省南部でなめた失敗の根本原因である。
湖南・江西省境地区での活動は、昨年の十月からはじまった。最初は、各県ともぜんぜん党の組織がなくなっていて、地方の武装組織としても、ただ袁文才、王佐がそれぞれ六十ちょうのぼろ銃をもって井岡山付近にいただけで、永新、蓮花、茶陵、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の四県の農民自衛軍の武装は全部豪紳階級に解除されてしまい、大衆の革命的な情熱はすでにおしひしがれていた。ことしの二月になると寧岡、永新、茶陵、遂川にはいずれも党の県委員会ができ、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県には特別区委員会ができ、蓮花にも党の組織ができはじめ、万安県委員会とも連絡がついた。地方の武装組織は、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県をのぞいて、各県にみな少しずつできた。寧岡、茶陵、遂川、永新、とくに遂川、永新の二県では、何回となく豪紳打倒、大衆動員のための遊撃的暴動をおこし、成果はみなよい方であった。この時期には、土地革命はふかまっていなかった。政権機関は労農兵政府とよばれた。軍隊内には兵士委員会〔3〕が組織された。部隊が分散して行動するときには、行動委員会が組織されて指揮にあたった。この時の党の高級指導機関は、秋収蜂起のさいに湖南省委員会が任命した前敵委員会①(書記は毛沢東)であった。三月上旬、前敵委員会は湖南省南部特別委員会の要求によって解消され、師団委員会(何挺穎が書記)に組織がえされ、軍隊内の党だけを統轄する機関にかわり、地方の党にたいしては口出しできなくなった。同時に、毛沢東の部隊もまた、湖南省南部特別委員会の要求によって湖南省南部に移動させられ、そのため、この省境地区は一ヵ月余にわたって敵に占領された。三月末、湖南省南部で失敗し、四月に朱徳、毛沢東の両部隊と湖南省南部の農民軍は寧岡まで撤退してふたたび省境地区の割拠をはじめた。
四月以後の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された反動軍隊は、少ないときでも八、九コ連隊、多いときには十八コ連隊にたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらすの兵力で、四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆の政権を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日と拡大した。その原因は省境地区の党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、省境地区特別委員会(毛沢東が書記)と軍事委員会(陳毅が書記)の政策はつぎのとおりである。すなわち、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄山脈の中部地域に政権をつくること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、軍隊の武装組織は地方の武装組織の発展をたすけること、敵の支配勢力の比較的つよい湖南省にたいしては守勢をとり、支配勢力の比較的よわい江西省にたいしては攻勢をとること、氷新県の発展に大きな力をそそぎ、大衆的割拠をつくりだし、長期闘争の体勢をととのえること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵を迎えうつこと、割拠地区の拡大については、暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることである。これらの戦術が適切であったうえに、省境地区の地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったために、四月から七月までの四ヵ月間の何回もの軍事的勝利と大衆的割拠の発展がえられた。敵はわが軍に数倍しながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、割拠の発展を阻止することもできなかった。この割拠が湖南、江西両省にあたえる影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志がそのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解しないで、逆に支配階級が分裂している時期にとる政策をとり、兵力をわけて湖南省南部に暴進したためであり、それで省境地区と湖南省南部はどちらも失敗してしまった。湖南省委員会代表杜修経と省委員会から省境地区特別委員会書記として派遣されてきた楊開明は、反対意見を堅持していた毛沢東、宛希先らが遠く氷新にいっているすきに、当時の環境をみきわめず、湖南省委員会の主張には同意しないという軍事委員会、省境地区特別委員会、永新県委員会の合同会議の決議を無視し、ただ湖南省南部にいけという湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らず、赤軍第二十九連隊(その成員は宜章県の農民)が闘争から逃避して郷里に帰りたがっている気分に追随したので、省境地区と湖南省南部の両方面での失敗をまねいた。
もともと、七月中旬には、湖南省の敵第八軍呉尚部隊が寧岡県に侵入し、さらに永新県に進出してきたが、戦いにならず(わが軍は間道から出撃したが遭遇せず)、わが方の大衆をおそれ、あわただしく蓮花県をとおって茶陵県にひきかえしていった。このとき、赤軍の大部隊はちょうど寧岡県から卸県、茶陵県にむかって進撃し、酃県で計画を変更して湖南省南部の方に向きをかえた。一万、江西省の敵の第三軍王均・金漢鼎部隊の五コ連隊、第六軍胡文斗の六コ連隊が、協力してまた氷新県を攻撃してきた。このとき永新県にいたわが軍は一コ連隊にすぎなかったが、広範な大衆にまもられて、四方八方から遊撃するやりかたで、この十一コ連隊の敵軍を永新県の県都付近三十華里②のなかに、二十五日ものあいだ封じこめた。最後に敵の猛攻撃で、永新県をうしない、ついでまた蓮花県、寧岡県をうしなった。このとき、江西省の敵に突然内部紛争がおこり、胡文斗の第六軍はあたふたと退却し、そしてすぐに樟樹鎮で王均の第三軍と戦争になった。残りの江西省部隊の五コ連隊も、またあたふたと永新に退却していった。もし、わが大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、この敵を撃破して、割拠地区を吉安、安福、萍郷の各県にまでおしひろめ、平江県、瀏陽県と一つにつなぐこともまったく可能であった。大部隊はすでにおらず、わが一コ連隊の兵士も疲れはてていたので、一部の部隊を残して袁・王両部隊とともに井岡山を守らせ、わたしが一部の兵をひきいて桂東の方向にすすみ、大部隊の帰りをむかえることにきめた。このとき、大部隊はすでに湖南省南部から桂東にむけて撤退しており、八月二十三日にわれわれは桂東で合流することができた。
赤軍の大部隊が七月中旬、酃県についたばかりのとき、第二十九連隊の将兵たちは、政治的に動揺して、湖南省南部の郷里に帰りたがり、いうことをきかなくなっていた。第二十八連隊は湖南省南部にいくことに反対し、江西省南部にいきたがっていたが、といって永新県に帰ることはのぞまなかった。杜修経が第二十九連隊のまちがった意見を助長し、軍事委員会もこれを阻止することができなかったので、大部隊はついに七月十七日に都県を出発して郴県にむかい、七月二十四日には敵の范石生と郴県で戦って、はじめは勝ったがのちには敗れ、戦闘から兵をひいた。そこで、第二十九連隊はすぐ勝手な行動をとり、郷里の宜章県へむかって逃亡した。その結果は、一部は楽昌県で匪賊胡鳳章に消滅され、他の一部は郴県、宜章県の各地にちらばって、ゆくえがわからず、その日に収容したものは百人たらずであった。さいわいに、主力の第二十八連隊は損失がすくなく、八月十八日に桂東を占領した。二十三日、井岡山からきた部隊と合流し、崇義県、上猶県をへて、ふたたび井岡山に帰ることを決議した。崇義県についたとき、大隊長袁祟全が歩兵一コ中隊と砲兵一コ中隊をひきつれて裏切った。この二コ中隊は追いかけてつれもどしはしたが、連隊長王爾琢はその犠牲になった。八月三十日、敵の湖南、江西両軍のそれぞれの一部隊は、わが軍が帰る途中にあるとき、井岡山に攻撃をくわえてきた。わが守備部隊は一コ大隊にもたちなかったが、要害によって抵抗し、敵を撃破して、この根拠地を保持した。
このたびの失敗の原因はつぎの点にある。(1)一部の将兵が動揺し、郷里に帰りたがって、戦闘力をうしなったこと。また一部の将兵が湖南省南部にいきたがらず、積極性を欠いていたこと。(2)真夏の遠征で兵が疲れきっていたこと。(3)酃県から数百華里も暴進して、省境地区との連絡をうしない、孤立におちいったこと。(4)湖南省南部の大衆がまだ立ちあがっておらず、単純な軍事的冒険となったこと。(5)敵情が不明であったこと。(6)準備がわるくて、将兵が作戦の意義を理解していなかったこと。
割拠地区の現勢
ことしの四月いらい、赤色地域はしだいにひろげられた。六月二十三日の竜源口(永新県と寧岡県との県境)の一戦で、四回目に江西省の敵軍を撃破したのち、われわれの地区は、寧岡、永新、蓮花の三つの県全体、吉安、安福の各県の一小部分、遂川県の北部、酃県の東南部をもつようになり、省境地区の全盛期をつくった。赤色地域では、土地の大部分が分配され、一部分がいま分配中である。区や郷にはみな政権がうちたてられた。寧岡、永新、蓮花、遂川にはみな県政府ができ、また省境地区政府もつくられた。郷や村にはいたるところに労農暴動隊が組織され、区と県には赤衛隊がつくられた。七月には江西省の敵が攻めてき、八月には湖南、江西両省の敵軍が共同して井岡山を攻めてきて、省境地区の各県の県都、および平原地帯はすっかり敵軍に占拠された。敵の手先である保安隊、挨戸団はなにはばかるところなく横行し、白色テロが町でも村でもあれくるった。党の組織と政権の組織は大部分崩壊した。富農や党内の投機分子がぞくぞく裏切った。八月三十日の井岡山の一戦で、湖南省の敵軍はやっと酃県に退却したが、江西省の敵軍はなおも各県の県都および大部分の農村にのさばっていた。しかし山岳地帯はどうしても敵の奪取することのできないものであった。そのようなところとして、寧岡県には西と北の二つの地区があり、永新県には北の天竜区、西の小西江区、南の万年山区があり、蓮花県には上西区があり、遂川県には井岡山区があり、酃県には青石岡と大院区があった。七、八の二ヵ月間に、赤軍の一コ連隊は各県の赤衛隊と協力して大小数十回の戦闘をまじえたが、銃三十ちょうをうしなっただけで、最後に山岳地帯に退いた。
わが軍が崇義県、上猶県をへて井岡山にもどるとき、江西省南部の敵軍独立第七師団劉士毅部隊が遂川まで追撃してきた。九月十三日、わが軍は劉士毅をうちやぶって、銃数百ちょうをぶんどり、遂川を占領した。九月二十六日に井岡山にかえった。十月一日には、敵の熊式輝部隊の周渾元旅団と寧岡で戦って勝ち、寧岡全県をとりかえした。このとき、桂東県に駐屯していた湖南省の敵軍閻仲儒部隊の百二十六名がわが軍に帰順して、車本部付大隊に編成され、畢占雲が大隊長になった。十一月九日、わが軍はまた周旅団の一コ連隊を寧岡と竜源口とで撃破した。翌日は氷新に進撃してこれを占領し、すぐに寧岡にもどった。いまのところわが地区は、南は遂川県の井岡山の南麓から、北は蓮花県の県境まで、寧岡県の全部、遂川、酃県、永新の各県の一部分をふくみ、南北に細長い一つにまとまった地区になっている。蓮花県の上西区、永新県の天竜区、万年山区は、このまとまった地区とよくつながってはいない。敵は軍事的進攻と経済的封鎖によってわれわれの根拠地を消滅しようとしているが、われわれはいま敵の進攻をうちやぶる用意をしている。
軍事問題
省境地区の闘争は、まったく軍事的な闘争であり、党も大衆も軍事化しないわけにはいかない。どのように敵にたちむかい、どのように戦うかが、日常生活の中心問題となっている。割拠というものは武装されたものでなければならない。武装されていなかったり、武装が十分でなかったり、あるいは敵にたちむかう戦術にあやまりがあったりしたところは、すぐ敵に占領されてしまう。このような闘争は、日一日とはげしくなり、問題もまた非常に複雑できびしい。
省境地区の赤軍はつぎのところからきている。(一)潮州、汕頭の葉挺、賀竜の旧部隊〔4〕、(二)もとの武昌国民政府警備連隊〔5〕、(三)平江県、瀏陽県の農民〔6〕、(四)湖南省南部の農民〔7〕と水口山の労働者〔8〕、(五)許克祥、唐生智、白崇禧、朱培徳、呉尚、熊式輝らの部隊から捕虜にした兵士、(六)省境地区各県の農民。しかし、葉挺・賀竜の旧部隊、警備連隊および平江県、瀏陽県の農民は、一年あまりの戦闘をへて、三分の一しか残っていない。湖南省南部の農民も多くの死傷者をだしている。したがって、まえの四つの部分はいまなお赤軍第四軍の中核ではあるが、数のうえであとの二つの部分にははるかにおよばない。あとの二つの部分でも敵軍の捕虜の方が多いが、もしこの方面からの補充がなければ、兵員の問題は重大なことになるであろう。それにしても、銃はめったに失わないが、兵士は負傷、死亡、疾病、逃亡があってずっと損失しやすいので、兵士の増加と銃の増加とはやはりつりあいがとれない。湖南省委員会は、安源の労働者〔9〕をこちらに送ると約束されたが、すみやかに実行していただきたい。
赤軍の構成要素は、一部分が労働者、農民で、一部分がルンペン・プロレタリアである。ルンペンの要素が多すぎることは、もちろんこのましくない。しかし、ルンペン分子には戦闘力がある。毎日戦闘がおこなわれ、死傷者も多いなかで、そのルンペンをみつけてきて補充することもすでに容易ではなくなっている。このような状況のもとでは、政治的訓練を強化する以外に方法はない。
赤軍兵士の大部分はやとい兵部隊からきているが、赤軍にはいるとすぐに質が変わる。まず第一に、赤軍がやとい兵制度を廃止したことは、兵士に、他人のために戦争するのではなくて自分のため人民のために戦争するのだと感じさせている。赤軍にはいまでも正規の給与制というものはなく、食糧と食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用、それにわずかばかりのこづかい銭を支給するだけである。赤軍将兵のうち、他の地方の出身者にまで土地を分配することはかなり困難であるが、この省境地区の出身者にはそれぞれ土地が分配されている。
政治教育をつうじて、赤軍兵士はみな階級的自覚をもち、みな土地の分配、政権の樹立、および労働者・農民の武装化などの常識を身につけるようになり、自分のため、また労農階級のために戦うのだということを知るようになった。だから、かれらは苦しい闘争のなかでも不平をいわない。中隊、大隊、連隊には兵士委員会ができて、兵士の利益を代表し、また政治工作③や民衆工作をやっている。
党代表制度〔10〕は、経験が証明しているように、廃止してはならない。党細胞が中隊に組織されているので、とくに中隊段階では、党代表はいっそう重要になる。党代表は、兵士委員会が政治訓練をおこなうよう督促し、民衆運動工作を指導すると同時に、党細胞の書記をも担当しなければならない。事実が証明しているように、中隊の党代表がわりあいしっかりしていれば、その中隊はわりあい健全なものになるが、中隊長では政治的にそのような大きな役割をはたすことはむずかしい。なぜなら、下級幹部の死傷があまりに多いので、敵軍の捕虜の兵士で編入されてまもないのに、すぐ中隊長や小隊長になることがよくあるからである。ことしの二、三月ころの捕虜の兵士で、いま大隊長になっているものもいる。表面的にみれば、赤軍といわれる以上、党代表はなくてもよいようであるが、それは実に大きなまちがいである。第二十八連隊は湖南省南部にいたときに、党代表を廃したことがあったが、のちにまたこれを復活した。指導員と改称すれば、国民党の指導員と混同されて、捕虜出身の兵士はこれをいやがる。それに、名称を変えることは、制度の本質にかかわることではない。だから、われわれは変えないことにさめた。党代表には死傷者が非常に多いので、訓練班を自分でもうけて訓練し、補充はするが、そのほかに、党中央および両省委員会から党代表になれる同志をすくなくとも三十名は派遣してもらいたい。
一般の兵士は半年か一年訓練しなければ戦争をやれないが、われわれの兵士は、きのう入隊すれば、きょうはもう戦争をしなければならないので、まったく訓練というものがない。軍事技術はあまりに劣っていて、戦いは勇敢さだけにたよっている。長期間の休息と訓練は不可能なので、なんとかして一部の戦闘をさけ、時間をつくって訓練するほかはない。それができるかどうかやってみることにする。下級将校を訓練するため、現在、百五十人からなる教導隊を設けており、これを恒常的にやっていくつもりでいる。党中央および両省委員会は、中隊長、小隊長以上の将校を多く送ってもらいたい。
湖南省委員会は、兵士の物質生活をすくなくとも一般の労働者、農民の生活よりはいくらかよくすることに気をくばるよう、われわれにいってきている。だが、現在はその反対で、主食のほかは、食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用として毎日一人あたりただの五分④しかあてておらず、それさえ続けることは困難である。食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用を支給するだけでも、毎月一万元以上の銀貨が必要であり、それはすべて土豪からの徴発で支給している〔11〕。現在、全軍五千人の冬服についていうと、綿はあるが、綿布がない。こんなに寒いのに、多くの兵士はまだ夏服を二枚重ね着しているだけである。さいわいに苦しい生活にはなれている。しかも、その苦しさは誰もがおなじで、軍長から炊事兵にいたるまで、主食以外は一触に五分ぶんの食事しかとっていない。こづかい銭を支給するにも二角なら一律に二角にし、四角なら一律に四角にしている〔12〕。だから、兵士はだれにも不平をいわない。
戦闘のあるたびに負傷兵がでる。栄養不足や寒さやその他の原因で、病気する将兵が多い。病院は山に設けられており、漢方と洋式の二つの方法で治療しているが、医者も薬も欠乏している。現在、入院中のものは八百余人である。湖南省委員会は薬を買ってくれるといったが、いまになってもまだとどいていない。何人かの医師といくらかのヨード剤を送られるよう、あらためて党中央および両省委員会にお願いする。
赤軍の物質生活がこのように粗末であり、戦闘がこのように頻繁にやられているにもかかわらず、赤軍が依然としてくずれず維持できているのは、党のはたしている役割のほかに、軍隊内で民主主義が実行されているからである。上官は兵士をなぐちず、将兵は平等に待遇されており、兵士には会議をひらき意見をのべる自由があり、わずらわしい儀礼は廃止され、会計は公開されている。兵士はまかないを管理し、鯨日五分の食油、食塩、たきぎ、野菜などの費用のなかから少しばかり節約してこづかい銭にあてている。これを「食費の余り」とよんで、一人あたり毎日六、七十文もらっている。こうしたやり方に、兵士は満足している。とくに、新しくはいってきた捕虜の兵士は、国民党の部隊とわれわれの軍隊とではまったくちがった世界であることを感じている。かれらは、赤軍の物質生活が白軍より劣ってはいても、精神的には解放されたと感じている。おなじ兵士で、きのうは敵軍内で勇敢でなかったものが、きょうは赤軍内で非常に勇敢になるのは、民主主義の影響である。赤軍はるつぼのようなもので、捕虜の兵士がはいってくると、たちまちとかしてしまう。中国では人民が民主主義を必要としているばかりでなく、軍隊もまた民主主義を必要としている。軍隊内の民主主義制度は、封建的なやとい兵部隊をうちこわす重要な武器となるであろう〔13〕。
党の組織は、現在、中隊細胞、大隊委員会、連隊委員会、軍委員会の四段階にわかれている。中隊には細胞があり、分隊には細胞班がある。赤軍が苦難のなかで奮戦しながらも崩壊しない重要な原因の一つは、「細胞が中隊に組織されている」ことにある。二年前には、国民党軍隊内のわが党の組織は、葉挺の部隊〔14〕でさえ、まだ各連隊ごとに一つの細胞しかなかったように、まったく兵士をつかんでおらず、そのためにきびしい試練にたえきれなかったのである。いまでは、赤軍内の党員と非党員の比率は、だいたい一対三、すなわち平均して四人のうちに一人の党員がいる。最近、党員と非党員を半々にするという目標を達成するため、戦闘員兵士のあいだに、党員数をふやすことにきめた〔15〕。現在、中隊細胞にはすぐれた書記がすくないので、各地でそこにおれなくなった活動家のなかから多数のものを送られるよう、党中央にお願いする。湖南省南部からきた活動家は、そのほとんどが軍隊内で党の仕事をしている。だが、八月に湖南省南部で一部のものがちりぢりになったので、いまのところ人をだすことはできない。
地方の武装組織には赤衛隊と労農暴動隊がある。暴動隊はほこや先込め銃を武器にしており、郷を単位にし、各郷に一隊ずつあり、人数は郷の大小に比例している。その任務は反革命を弾圧し、郷の政権をまもり、敵がくれば、赤軍あるいは赤衛隊の戦闘に協力することである。暴動隊はさいしょ永新にでき、もとは秘密のものであったが、県全体を奪取してから公然化した。こうした制度はいま省境地区の各県にひろがっているが、名まえはそのままである。赤衛隊の武器は主として五発銃であるが、九発銃も単発銃もある。各県の銃の数は、寧岡に百四十、永新に二百二十、蓮花に四十三、茶陵に五十、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に九十、遂川に百三十、万安に十、合計六百八十三ちょうである。大部分は赤軍が支給したものであるが、一部分は自分で敵から奪いとったものである。各県の赤衛隊はほとんどすべてが、たえず豪紳の保安隊、挨戸団と戦っており、戦闘力は日ましに増大している。馬日事変〔16〕のまえには、各県に農民自衛軍があった。 その銃の数は、[イ++攵]県に三百、茶陵に三百、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県に六十、遂川に五十、永新に八十、蓮花に六十、寧岡(袁文才部隊)に六十、井岡山(王佐部隊)に六十、合計九百七十ちょうであった。馬日事変以後、袁、王両部隊は損失をうけなかったが、そのほかわずかに遂川県で六ちょう、蓮花県で一ちょう保存されただけで、あとはすっかり豪紳にとられてしまった。農民自衛軍にこれほど銃を確保する能力がなかったのは、日和見主義路線のせいである。現在も各県の赤衛隊の銃はまだまだ不足しており、豪紳ほど多くはもっていない。赤軍は、武器の点で赤衛隊にひきつづき援助をあたえなければならない。赤軍の戦闘力を低下させないことを条件にして、人民が武装するのをできるかぎり援助しなければならない。われわれはすでに、赤軍の各大隊を四コ中隊編成とし、各中隊の歩兵銃を七十五ちょうにして、これに連隊本部付中隊、機関銃中隊、追撃砲中隊、連隊本部および三つの大隊本部をくわえて、各連隊は歩兵銃千七十五ちょうをもつことにきめている。戦闘でぶんどった銃は、できるだけ地方の武装にあてる。赤衛隊の指揮官には、各県から赤軍の教導隊に送られて訓練をうけたものをあてる。赤軍からその地方の出身でないものを派遣して地元の隊長の職につかせることは、しだいに少なくしていかなければならない。朱培徳もかれの保安隊や挨戸団の武装をつよめ、省境地区各県の豪紳の武装組織の数や戦闘力は相当のものである。だからこそ、われわれ赤色地方武装組織の拡大は、一刻もゆるがせにできない。
赤軍は集中を原則とし、赤衛隊は分散を原則とする。反動政権が一時的に安定しているこの時期には、敵は大量の軍事力を集中して赤軍を攻撃することができるので、赤軍が分散することは不利である。われわれの経験では、兵力を分散させたときに失敗しなかったことはほとんどないが、兵力を集中して、わが兵力よりも小さいか、わが兵力に等しいか、または、わが兵力よりもいくらか大きい数を攻撃したときには、よく勝利をおさめている。党中央がわれわれに指示している遊撃地域の拡大は、たてよこ数千華里におよび、広すぎるきらいがある。これはおそらく、われわれの力を過大に評価しているためであろう。赤衛隊は分散したほうが有利なので、現在各県の赤衛隊はみな分散して戦う方法をとっている。
敵軍にたいする宣伝で、もっとも効果的な方法は、捕虜を釈放したり負傷兵を治療してやったりすることである。敵軍の兵士や大隊長、中隊長、小隊長がわが軍の捕虜になれば、すぐかれらに宣伝をおこない、残りたいものと、帰りたいものとにわけ、帰りたいものには旅費をあたえて釈放する。このようにすれば、「共産匪は手あたりしだいに人を殺す」といった敵の欺瞞は、たちどころにうちやぶられてしまう。楊池生の「九師団旬刊』は、われわれのこのようなやり方について「悪辣なるかな」と驚嘆している。赤軍兵士たちは、とらえてきた捕虜にたいして非常に親切にいたわったりあたたかく見送ったりするので、「新しい兄弟の歓送集会」があるたびに、捕虜たちはその演説で、われわれに心からの感謝をもってこたえている。敵の負傷兵を治療してやることも、大きな効果がある。李文彬のようなりこうな敵は、ちかごろ、われわれのやり方を見ならい、捕虜を殺さず、捕虜となった負傷兵を治療している。それでも、われわれの兵士には、つぎの戦いのときに銃をさげて帰ってくるものがある。このようなことがすでに二回もあった。このほかに、文字による宣伝、たとえば、標語を書くことなども、できるだけやっている。いく先ざきで、スローガンを壁いっぱいにかいている。ただ絵のかけるものがいないので、党中央および両省委員会から何人か送ってもらいたい。
軍事根拠地――第一の根拠地は井岡山であり、寧岡、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、遂川、永新の四県の県境にまたがっている。北麓は鰹岡県の茅坪、南麓は遂川県の黄[土+凹]で、両地のあいだは九十華里ある。東麓は永新県の拿山、西麓は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の水口で、両地のあいだは八十華里ある。周囲は拿山からはじまり、竜源口(以上は永新県)、新城、茅坪、大竜(以上は寧岡県)、十都、水口、下村(以上は[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県)、営盤[土+于]、戴家埔、大汾、堆子前、黄[土+凹]、五斗江、車[土+凹](以上は遂川県)をへて拿山まで、合計五百五十華里である。山上の大井、小井、上井、中井、下井、茨坪、下荘、行州、草坪、白泥湖、羅浮の各地には、みな水田と村落があり、もともと匪賊や敗残兵の巣窟となっていたところであるが、いまでは、われわれの根拠地となっている。しかし、人口は二千にも満たず、もみの生産は一万担⑤たらずで、軍の糧秣はすべて寧岡、永新、遂川の三県からの輸送に依存している。山の要所要所には防御工事がほどこされている。病院、被服廠、兵器部、各連隊の留守本部はみなここにある。いま寧岡から食糧を山に運搬中である。もし十分の給養さえあれば、敵は攻めこめない。第二の根拠地は寧岡、永新、蓮花、茶陵の四県の県境にある九隴山で、その重要性は井岡山ほどではないが、四つの県の地方武装組織の最後の根拠地であって、ここにも防御工事がほどこされている。周囲を白色政権にとりかこまれている赤色割拠地では、山の険要を利用することが必要である。
土地問題
省境地区の土地状況――大まかにいえば、土地の六〇パーセント以上が地主ににぎられ、農民の手にあるものは四〇パーセント以下である。江西省方面では、土地がもっとも集中しているのは遂川県で、約八〇パーセントが地主のものである。永新県がそれにつぎ、約七〇パーセントが地主のものである。万安県、寧岡県、蓮花県では自作農が比較的多いが、やはり地主の土地が多くて、約六〇パーセントをしめ、農民の土地は四〇パーセントしかない。湖南省方面では、茶陵、酃県の両県とも約七〇パーセントの土地が地主の手中にある。
中間階級の問題――さきにのべたような土地状況のもとでは、すべての土地を没収して再分配する〔17〕ことが、大多数の人びとの支持をうける。しかし、農村のなかは大体三つの階級、すなわち大・中地主階級、小地主・富農の中間階級、中農・貧農階級にわかれている。富農はたいてい小地主と利害が結びついている。富農の土地は、総土地面積のうちではすくない方であるが、小地主の土地とあわせると、かなり多いものになる。このような状態は、おそらく全国的にみても大差ないであろう。省境地区では、土地を全部没収し、徹底的に分配する政策をとっている。したがって、赤色地域では、豪紳階級も中間階級も、おなじように打撃をこうむる。政策はそうであるが、実際にそれを実施したら、中間階級からひどく妨害をうけた。革命の初期には、中間階級は表面的には貧農階級に屈服するが、実際には、以前からの社会的地位や同族主義を利用して、貧農をおどし、土地分配の時期をひきのばす。どうしてもひきのばせなくなると、土地の実際の面積をごまかしたり、自分が肥えた土地をとって、人にはやせた土地をやる。貧農は長いあいだうちひしがれてきたし、また革命の勝利もたしかでないような気がして、この時期には、しばしば中間階級の意見をいれ、積極的な行動にふみきれない。県全体、さらには数県にわたって政権を手に入れ、反動軍隊を何回かうちやぶり、赤軍が何回か威力を発揮するような革命の高まりがこなければ、農村で中間階級にたいする積極的な行動はおこらない。たとえば、永新県の南部は、中間階級のもっとも多い地方で、土地分配のひきのばしや土地のごまかしがもっともひどかった。ここでは、六月二十三日に竜源口で赤軍が大勝利をおさめたのち、さらに区政府が土地分配のひきのばしをやった人を何人か処分したので、やっと実際に分配がおこなわれるようになった。しかし、どこの県でも、封建的な同族組織が非常に普遍的で、一村一姓、あるいは数村一姓のところが多く、比較的長い期間をかけなければ、村内の階級分化は完成されないし、同族主義も克服されない。
白色テロ下の中間階級の寝がえり――中間階級は革命の高揚期に打撃をうけたので、白色テロがひとたびやってくると、たちまち寝がえりをうつ。反動軍隊を手びきして永新県、寧岡県の革命的な農民の家をさかんに焼きはらったのは、この両県の小地主と富農であった。かれらは反動派の指示にしたがって、家を焼きはらい、人をつかまえたりして、なかなか勇ましかった。赤軍が二度目に寧岡、新城、古城、礱市一帯にやってきたとき、数千の農民は、共産党がかれらを殺すという反動派の宣伝を真にうけて、反動派について永新に逃げていった。われわれが「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民が刈り入れに帰ってくるのを歓迎する」と宣伝したので、やっと一部の農民がそろそろ帰ってきた。
革命の全国的退潮期に、割拠地区のもっとも困難な問題は、中間階級をつかめないことである。中間階級が裏切るのは、革命によってあまりにもひどい打撃をうけたことがおもな原因である。しかし、革命が全国的に高揚していれば、貧農階級はよりどころができて勇気づけられ、中間階級もまたおそれをなして、勝手なふるまいができなくなる。李宗仁と唐生智との戦争が湖南省へ発展してくると、茶陵県の小地主は農民に和解をもとめ、お歳暮に豚肉を贈ったものもいた(このとき赤軍はすでに茶陵県から撤退して遂川県にむかっていた)。李・唐間の戦争が終わると、もうそんなことは見られなくなった。現在、全国的に反革命が高まっている時期なので、打撃をうけた中間階級は、白色地域内ではほとんど完全に豪紳階級についてしまい、貧農階級は孤立してしまった。この問題はきわめて重大である〔18〕。
日常生活の圧迫による中間階級の寝がえり――赤色地区と白色地区とが敵対し、二つの敵対国ができている。敵の厳重な封鎖と、小ブルジョア階級にたいするわれわれの扱いかたの不手ぎわという、この二つの原因によって、二つの地区の貿易はほとんど完全にとだえ、食塩、綿布、くすりなどの日用必需品は欠乏し、値段が高くなり、木材、茶、油類などの農産物は輸出できず、農民には現金収入の道が絶たれて、その影響は一般人民にまでおよんでいる。貧農階級はそれでもまだ、この苦しみにたえることができるが、中間階級はたえられなくなると、豪紳階級に屈服する。もし、中国で豪紳・軍閥の分裂と戦争がつづけられていず、また全国的革命情勢が発展していないとすれば、小地区での赤色割拠は、経済的にきわめて大きな圧迫をうけ、割拠の長期的な存在は問題になってくるであろう。なぜなら、このような経済的圧迫には、中間階級がたえられないばかりでなく、労働者、貧農および赤軍もたえられなくなるときがくるかもしれないからである。永新、寧岡両県では塩がなくなり、綿布、くすりは完全にこなくなり、その他のものはいうまでもない。現在、塩は買えるようになったが、値段はひどく高い。綿布、くすりは依然としてない。寧岡県、永新県の西部、遂川県の北部(以上はいずれもいまの割拠地)の最大の産物である木材や茶や油類は、依然として運びだせないでいる〔19〕。
土地分配の基準――郷を土地分配の単位としている。山が多く、農地が少ない地方、たとえば永新県の小江区では、三つか四つの郷を一つの単位として分配したところもあるが、そういうところはきわめて少ない。農村では老若男女の別なくすべてに、均等に分配された。現在は党中央の規定にしたがい、労働力を基準とすることにあらため、労働できるものには労働できないものの二倍分を分配するようにした〔20〕。
自作農に譲歩する問題――これはまだ詳細には討議されていない。自作農中の富農は、生産力を基準にしてもらいたい、つまり働き手と資本(農具など)の多いものには、多く土地を分配してもらいたい、という要求をだしてきている。富農は、均等分配の方法も、労働力に応じた分配の方法も、どちらも自分たちに不利だと考えている。かれらとしては、働き手の面では、いっそう努力するつもりがあり、それに資本の力がくわわると、自分たちはより多くの収穫をあげることができる、と考えている。もし一般の人とおなじように分配されるならば、かれらの特別の努力と余分の資本とが無視される(なおざりにされる)ことになるので、かれらはそれをのぞまない。ここでは、やはり党中央の規定にしたがって実施している。しかし、この問題はなお討議する必要があり、結論をえてからあらためて報告する。
土地税――寧岡県では二〇パーセント徴収しており、党中央の規定より五パーセント多いが、いま徴収中なので変更するわけにもいかず、明年あらためて引きさげることにする。このほか、遂川、酃県、永新各県の一部は割拠地域内にあるが、いずれも山地で農民はあまりにも貧しいので、徴税するわけにはいかない。政府や赤衛隊の経費は、白色地域の土豪からの徴発に依存している。赤軍の給養については、米はいまのところ、寧岡県の土地税のうちからとっているが、現金はやはり全部土豪からの徴発に依存している。十月には遂川県を遊撃して、一万余元を調達した。これで一時はまにあうので、つかってしまったときにまた方法を考えよう。
政権の問題
県、区、郷の各級の民衆政権はどこにも組織されているが、名実あいともなっていない。多くの地方には労農兵代表者会議といわれるものもない。郷、区ないし県の政府の執行委員会は、いずれも大衆集会の形式で選出されたものである。にわか集めの大衆集会では、問題を討議することもできず、大衆に政治的訓練をほどこすこともできず、そのうえ知識分子や投機分子にもっともあやつられやすい。一部の地方には代表者会議がつくられたが、それもまたたんに執行委員会を選出する臨時の機関としか考えられていず、選挙が終われば、実権は委員会ににぎられてしまい、代表者会議はそれ以上口にもされなくなっている。名実ともにそなわった労農兵代表者会議の組織がないわけではないが、ただ非常にすくない。このようになっているのは、代表者会議という新しい政治制度についての宣伝と教育が欠けているからである。封建時代の独断専制の悪い習慣が、大衆から一般党員まで頭のなかにしみこんでいて、すぐにはとりのぞくことができず、ことごとに安易な道をとり、わずらわしい民主主義制度をこのまないのである。民主集中主義の制度は、それがもっとも大衆の力を動員することができ、もっとも闘争に有利なものであることを大衆に理解させるように、革命闘争のなかでその効力を発揮しなければ、普遍的に、実際に、大衆組織に適用されることにはならない。われわれは以前のあやまりをしだいにただしていくように、いま各級代表者会議の詳細な組織法(中央委員会の大綱にもとづいて)をつくっている。赤軍内でも、兵士委員会だけあって兵士代表者会議のなかった従来のあやまりをただしていくように、いま各級兵士代表者会議を恒常的なものとして確立しつつある。
現在民衆にひろく知られている「労農兵政府」とは、委員会のことである。というのは、かれらはまだ代表者会議の権力について知らず、ほんとうの権力機関は委員会だとおもっているからである。代表者会議をよりどころとしない執行委員会がことがらを処理すると、とかく大衆の意見から遊離しがちで、土地の没収や分配をためらったり、妥協したり、経費を乱用したり、汚職をしたり、また白色勢力をおそれたり、あるいはそれと断固たたかおうとしなかったりすることが、いたるところにあらわれる。委員会もまた、全体会議を開くことはまれで、問題があれば常任委員会で処理する。区や郷の政府になると、常任委員会もあまり開かず、問題があれば、委員会に常勤している議長、秘書、財務委員、または赤衛隊長(暴動隊長)の四人が、それぞれ自分で処理し決定する。だから、民主集中主義は、政府の活動のなかでもまだ板についていない。
初期の政府委員会では、とくに郷の政府では、小地手、富農がきそって役職につこうとする。かれらは赤い腕章をつけ、さも熱心なふうをよそおい、ごまかしの手をつかって政府委員会にもぐりこみ、すべてを一手ににぎり、貧農の委員をたんなるわき役にしてしまう。闘争のなかでかれらの仮面がはぎとられ、貧農階級が立ちあがったのちでなければ、かれらを追いだすことはできない。このような現象がどこにでもあるわけではないが、かなり多くの地方でみられた。
党は大衆のあいだできわめて大きな権威をもっているが、政府の権威はそれよりもずっとひくい。これは手間をはぶくために、党が多くのことがらを直接に処理し、政権機関をそっちのけにしておくからである。このような状況はかなり多い。政権機関内の党グループは、地方によってはないところもあり、あっても、うまく運用されていない。今後、党は政府を指導する任務を遂行しなければならす、党の主張と措置は、宣伝を別として、実施のさいは政府の組織を通さなければならない。国民党のように、直接政府に命令するまちがったやり方は避けなければならない。
党の組織問題
日和見主義との闘争の経過――馬日事変前後には、省境地区の各県の党は、日和見主義に牛耳られていたといえる。反革命がやってきたとき、断固としてたたかうことはまれであった。昨年十月、赤軍(労農革命軍第一軍第一師団第一連隊)が省境地区の各県にきたときには、身をかくし避難していた若干の党員が残っていただけで、党の組織はぜんぶ敵に破壊されていた。十一月からことしの四月までは、党を再建した時期であり、五月以後は党を大いに拡大した時期である。この一年来、党内の日和見主義的現象は依然としていたるところにみられ、一部の党員には闘争する決意がなく、敵がやってくると山奥にかくれて、それを「伏兵」と称した。一部の党員は積極性にとんではいたが、盲目的な暴動にながれた。これらはみな小ブルジョア思想のあらわれである。このような状況は、長期の闘争による鍛練と党内の教育によって、しだいに減少してきた。同時に赤軍内にもこのような小ブルジョア的な思想が存在していた。敵がやってくると、向こうみずにぶつかることを主張するか、さもなければ逃げようとする。この二つの考えが、作戦討議のさいにおなじ人の口からでることがよくある。長期にわたる党内の闘争と客観的な事実による教訓をつうじて、たとえば向こうみずにぶつかって損害をこうむったり、逃げだして失敗したりしたすえ、しだいにあらためられた。
地方主義――省境地区の経済は農業経済であり、一部の地方はまだ、きね・うすの時代に停滞している(山地ではほとんど、きねとうすとで米をつき、ふみうすは、平地でなければ多くはみられない)。社会組織はどこでも一つの姓を単位とした同族組織である。村落内の党組織は、居住の関係から、多くは一つの姓の党員で一つの細胞をつくっており、細胞会議は同時に同族会議のようなものである。このような状態では、「戦闘的ボリシェビキ党」を建設することは、非常にむずかしい。共産党は国境や省境を問題にしないといっても、かれらにはよくわからないし、県や区や郷の境を問題にしないといっても、かれらにはやはりよくわからない。各県のあいだには地方主義がひどく、一つの県内の各区ないしは各郷のあいだにも根づよい地方主義がある。このような地方主義をあらためるには、道理をはなしたところでいくぶん効果のあがるのが関の山で、多くのばあいは、白色勢力の非地方主義的な圧迫にまたなければならない。たとえば、二つの省の反革命の「共同討伐」によって、人民が闘争のなかで共通の利害をもつようになったとき、はじめてかれらの地方主義がしだいにうちやぶられていく。地方主義は、多くのこうした教訓をつうじて減少した。
土着民と移住民との問題――省境地区の各県には、もう一つ特別のことがある。それは土着民と移住民とのあいだにみぞがあることである。ここの土着民と数百年前北方から移住してきた移住民とのあいだには大きなみぞがあり、歴史的にその反日は非常に深く、ときには激しい争いがひきおこされる。このような移住民は、福建と広東との省境から、湖南、江西両省の省境にそって、湖北省南部にいたるまでのあいだに、およそ数百万人はいる。移住民は山地を占有しており、平地を占有している土着民に圧迫され、日ごろ政治的には無権利であった。一昨年と昨年の国民革命にたいして、移圧民はこれを歓迎し、これで日の目をみるときが近づいたと考えた。ところが、革命が失敗したので、移住民はあいかわらず土着民から圧迫をうけている。われわれの地域内の寧岡、遂川、酃県、茶陵の各県にはみな土着民と移住民の問題があり、寧岡県での問題がもっとも重大である。一昨年から昨年にかけて、寧岡県の土着民の革命派は移住民と結びつき、共産党の指導をうけて、土着の豪紳の政権をくつがえし、全県をにぎった。昨年六月、江西省の朱培徳政府が反革命化し、九月には、豪紳が朱培徳の軍隊の手びきをして寧岡を「討伐」し、ふたたび土着民と移住民とのあいだの争いに火をつけた。このような土着民と移住民とのみぞは、道理からいえば、搾取されている労農階級の内部にもちこまれるべきではないし、まして共産党内にもちこまれるべきではない。しかし、実際には、多年にわたって残されてきた習慣なので、このようなみぞは依然として存在している。たとえば、省境地区の八月の失敗のとき、土着の豪紳は反動軍隊を手びきして寧岡県に帰り、移住民が土着民を殺すといいふらしたので、土着農民の大部分が寝がえりをうち、白い腕章をつけ、白軍を手びきして家屋を焼きはらったり、山狩りをしたりした。十月、十一月に赤軍が白軍をうちやぶると、土着農民たちは反動派について逃げさり、移圧農民たちはまた、土着農民の財産を没収した。このような事情が党内に反映して、ときどき無意味の争いがおこる。われわれのやり方は、「寝がえりをうった農民を殺さない」、「寝がえりをうった農民も帰ってくれば同じように土地がもらえる」と宣伝して、かれらを豪紳の影響から切りはなし、安心して家に帰るようにさせる一方、県政府からは、移住農民に没収した財産をもとの所有者にかえすよう命令するとともに、土着農民を保護する旨の布告をだすことである。党内では、この二つの部分の党員がかならず一致団結するよう、教育をつよめることである。
投機分子の寝がえり――革命の高揚期 (六月)に、公然と党員を募集した機会に乗じて多くの投機分子が党内にもぐりこみ、省境地区の党員数は一時一万以上にふえた。細胞や区委員会の責任者の多くが新しい党員なので、よい党内教育のできるはずはなかった。白色テロがやってくると、投機分子は寝がえりをうち、反動派を手びきして同志たちをつかまえ、白色地区の党組織は大半がつぶれた。九月以後、党内の清掃を徹底的におこない、党員の出身階級について厳格な制限をくわえた。永新、寧岡両県の党組織は全部解散し、再登録をおこなった。党員数は大幅に減少したが、戦闘力はかえって増大した。それまで党の組織は全部公然化していたが、九月以後は、秘密の組織をつくり、反動派がやってきても活動できるように準備した。同時に、あらゆる手をつくして白色地区にはいりこみ、敵の陣営内で活動した。しかし、付近の各町にはまだ党の基盤がなかった。その原因は、一つには、町での敵の勢力が比較的大きいこと、二つには、わが軍がこれらの町を占領したときに、ブルジョア階級の利益をひどくそこねたので、党員がそこにおれなくなったことである。現在ではあやまりをあらため、町にわれわれの組織を建設することにつとめているが、成果はまだそれほどみられない。
党の指導機関――細胞幹事会は委員会と改称した。細胞の上は区委員会で、区委員会の上は県委員会である。区委員会と県委員会とのあいだには、特別の事情によって、永新県の北郷特別区および東南特別区のように、特別区委員会を組織しているところもある。省境地区には、寧岡、永新、蓮花、遂川、酃県の五つの県委員会がある。茶陵にはまえに県委員会があったが、活動が根をおろせなかったので、昨年の冬からことしの春にかけてつくられた多くの組織が大部分白色勢力のためにこわされてしまい、この半年来は、寧岡、永新に近い一帯の山地でしか活動できなかった。そのため、県委員会を特別区委員会にあらためた。攸県、安仁県はいずれも茶陵県をとおっていかなければならす、人を派遣してみたが、成果があがらずもどってきた。万安県委員会は一月にわれわれと遂川で合同会議を一回ひらいたが、半年以上も白色勢力のために連絡をたたれ、九月に赤軍が万安県に遊撃していってやっとまた一度連絡がついた。八十名の革命的農民が赤軍について井岡山にやってきて、万安赤衛隊を組織した。安福県には党の組織はない。吉安県は永新県と隣合っているのに、吉安県委員会はわれわれとたった二回連絡をとっただけで、少しも援助をあたえてくれないのは、不思議でならない。桂東県の沙田一帯では、三月と八月の二回土地を分配し、党の組織がつくられ、竜渓県十二洞を中心とする湖南省南部特別委員会の管轄下におかれている。各県の県委員会の上は湖南・江西省境地区特別委員会である。五月二十日、党の省境地区第一回代表大会が寧岡県茅坪でひらかれ、第一期特別委員会委員二十三名を選出し、毛沢東を書記とした。七月、湖南省委員会から楊開明が派遣されてきて、書記を代理した。九月、楊が病気になり、譚震林が書記を代理した。八月、赤軍の大部隊が湖南省南部にいき、白色勢力が省境地区に強い圧力をくわえてきたとき、われわれは永新県で緊急会議を一回ひらいた。十月、赤軍が寧岡県にもどり、また茅坪で党の省境地区第二回代表大会を招集した。会議は十月十四日から三日間ひらかれ、「政治問題と省境地区党の任務」などの決議が採択され、譚震林、朱徳、陳毅、竜超清、朱昌偕、劉天千、円盤珠、譚思聡、譚兵、李郤非、宋亦岳、袁文才、王佐農、陳正人、毛沢東、宛希先、王佐、楊開明、同挺穎の十九名が第二期特別委員会の委員に選出された。うち五人が常任委員となり、譚震林(労働者)が書記、陳正人(知識人)が副書記になった。十一月十四日、赤軍第六回全軍大会をひらき、ニ十三名を選出して軍事委員会を組織し、うち五人を常任委員とし、朱徳を書記とした。特別委員会と軍事委員会は前敵委員会によって統轄される。前敵委員会は十一月六日に再組織されたものであり、党中央の指名によって、毛沢東、朱徳、地方党組織の書記(譚震林)、労働者の同志一名(宋喬生)、農民の同志一名(毛料文)の五人で構成され、毛沢東が書記となった。前敵委員会には、暫定的に総務部、宣伝部、組織部および労働運動委員会、軍事委員会を設けた。前敵委員会は地方の党を統轄する。前敵委員会は、時には軍と行動をともにしなければならないので、特別委員会はやはり存在させる必要がある。われわれは、プロレタリア思想による指導の問題は非常に重要な問題であると考える。省境地区各県の党は、ほとんど完全に農民出身者によって構成されている党であり、もし、プロレタリア思想による指導がなければ、その方向をあやまるにちがいない。各県の県都や主要な町の労働運動に積極的に気をくばるとともに、政権機関のなかにも労働者の代表をふやすべきである。党の各段階の指導機関も労働者と貧農の要素をふやすべきである。
革命の性質の問題
われわれはコミンテルンの中国問題にかんする決議に完全に同意する。中国は現在たしかにまだブルジョア民権革命の段階にある。中国の徹底した民権主義革命の綱領は、対外的には、帝国主義を倒して徹底的な民族解放をかちとること、対内的には、都市における買弁階級の勢力を一掃し、土地革命を完成し、農村の封建関係を消滅し、軍閥政府をくつがえすことをふくんでいる。社会主義に移行するほんとうの基礎をつくりだすには、かならずこのような民権主義革命をへなければならない。われわれは、この一年来、各地を転戦してみて、革命の全国的退潮を深く感じている。一方、少数の小地域の赤色政権はあるが、他方、全国の人民はまだ普通の民主的権利さえもたず、労働者、農民から民権派のブルジョア階級までが、すべて言論、集会の権利をもたず、共産党に加入することは最大の犯罪とされている。赤軍のいったところではどこでも、大衆はひっそりとしていて、宣伝がおこなわれたすえに、ようやく立ちあがってくる。敵軍とたたかうばあい、それが第何軍であろうと、敵軍の内部に寝がえりがおこったり反乱がおこったりすることはないので、力ずくのたたかいをしなければならない。馬日事変以後に「暴徒」をもっとも多く募集した第六軍でさえもそうである。われわれは深い寂莫を感じ、このような寂莫の生活が終わることを願わないときはない。わきたつような、全国的に高揚した革命に移っていくために、どうしてもとおらなければならない道は、都市の小ブルジョア階級をもふくめた政治上、経済上の民権主義闘争をひきおこすことである。
われわれは、小ブルジョア階級にたいする政策を、ことしの二月までは、わりあいによく遂行してきた。三月に湖南省南部特別委員会の代表が寧岡県にやってきて、われわれがあまりにも右よりで、焼きはらったり、殺したりすることが少なすぎる、「小ブルジョアをプロレタリアに変えたうえで、かれらに革命を強制する」政策といったものを実行していない、とわれわれを批判した。そこで前の前敵委員会の指導者がかえられ、政策が一変した。四月に全軍が省境地区にやってきてからも、焼きはらったり、殺したりすることはやはり多くはなかったが、町の中ぐらいの商人にたいする没収や、農村の小地主、富農からの現金調達は、たいへんひどかった。湖南省南部特別委員会の提起した「すべての工場を労働者へ」というスローガンも、ひろく宣伝された。小ブルジョア階級に打撃をあたえるこのような極左的な政策は、小プルジョア階級の大部分を豪紳の側に追いやり、白い腕章をつけてわれわれに反対するようにさせてしまった。近頃になってこのような政策はしだいにあらためられ、事態はしだいに好転してきた。遂川県では、とくによい成果をおさめ、県部や町の商人はわれわれをおそれなくなり、赤軍のことをよくいうものもかなり出てきた。草林圩の市の日(三日に一回、日中ひらかれる)には二万人も集まるが、こんなことは今までになかったことである。このことは、われわれの政策の正しかったことを証明している。豪紳の人民にかける税金は非常に重く、遂川県の靖衛団〔21〕は、黄坳から草林までの七十華里の路上で五回も税金をとり、どんな農産物も課税をまぬがれることはできなかった。われわれは靖衛団をたたきつぶし、これらの税金を廃止して、農民や中小商人全体の支持をかちとった。
党中央は、われわれに小ブルジョア階級の利益をふくむ政治要綱を公布せよと要求しているが、われわれとしては、党中央が、各地方のしたがうべき基準として、労働者の利益、土地革命および民族解放をふくむ民権革命全般にわたる政治要綱を制定されろよう提案する。
農業を主要経済とする中国の革命では、軍事によって暴動を発展させるのが特徴である。われわれは党中央が軍事運動に大いに力を入れるよう提案する。
割拠地区の問題
広東省北部から湖南、江西両省の省境地区にそって湖北省南部にいたるまでは、羅霄山脈地域にはいっている。羅霄山脈の全域をわれわれはくまなく歩きまわった。その各部分を比較してみると、寧岡県を中心とする羅霄山脈の中部地域が、われわれの軍事的割拠にもっとも有利である。北部は、地勢としては攻めるにも守るにも中部ほど有利ではなく、それに大きな政治的中心都市に近づきすぎており、長沙あるいは武漢を急速に奪取する計画がないかぎり、大部分の兵力を瀏陽県、醴陵県、萍郷県、銅鼓県一帯におくことは非常に危険である。南部は、地勢としては北部よりましであるが、大衆の基盤は中部よりおとり、政治的に湖南、江西両省におよぼす影響もいくぶん小さく、中部地域のようにその一挙一動が両省の湘江、贛江の下流地帯にすぐ影響をおよぼすといったようなことはない。中部地域の長所はつぎの点にある。(1)一年あまりもかけてきずいた大衆の基盤があること、(2)党の組織が相当の基礎をもっていること、(3)一年あまりの時間をかけて、闘争経験にとむ地方武装組織をつくったこと、これはなかなかえがたいものである。この地方武装組織の力は、それに赤軍第四軍の力をくわえると、どんな敵からも消滅されることはない。(4)すぐれた軍事根拠地――井岡山をもっており、地方武装組織の根拠地も各県にあること、(5)湖南省南部や江西省南部などの地方がたんにそれぞれの省にだけ、しかもその省のなかの上流地帯やへんぴな地方にだけ影響をあたえているのにくらべて、両省、なかでも、両省の下流地帯にも影響をおよぼすことができ、その政治的意義も大いに異なっていることである。中部地域の欠点は、すでに長いあいだ割拠しているために、「包囲討伐」軍が多くなり、経済問題、とくに現金の問題がたいへん困難になっていることである。
湖南省委員会は、ここでの行動計画について、六月から七月にかけての数週間に、三回もその主張をかえている。一回目には袁徳生がきて、羅霄山脈中部地域政権の計画に賛成した。二回目には、杜修経、楊開明がやってきて、赤軍はちゅうちょせずに、湖南省南部にむかって伸展し、あとに銃二百ちょうの兵力だけを残して赤衛隊といっしょに省境地区を防衛せよと主張し、しかもこれが「絶対に正しい」方針であるといった。三回目には、袁徳生がまたやってきて、十日しかたっていないのに、こんどの手紙ではさんざんわれわれをしかりつけたうえ、赤軍は湖南省東部にいけと主張し、またこれが「絶対に正しい」方針だといい、そのうえ、「ちゅうちょしてはならない」といっている。われわれは、このような融通のきかない指示をうけて、したがわなければそむくことになり、したがえば失敗することがわかりきっているので、まことにやりにくい。二回目の手紙がとどいたとき、軍事委員会、特別委員会、永新県委員会は合同会議をひらき、湖南省南部にいくことは危険であると考え、省委員会の意見を実行しないことにきめた。ところが、その数日後には杜修経、楊開明が省委員会の意見を固持してゆずらず、第二十九連隊の郷土観念を利用して赤軍を郴県攻撃にひっぱっていったため、省境地区と赤軍を両方とも失敗させた。赤軍は数のうえでは約半分をうしなった。省境地区では、焼かれた家、殺された人はかぞえきれないほどあり、各県はあいついで敵の手におちいり、いまになってもまだ完全に回復できないでいる。湖南省東部への進出も、湖南、湖北、江西三省の豪紳政権が分裂しないうちは、だんじて赤軍の主力をあてるべきではない。もし、七月に湖南省南部への進出ということがなかったならば、省境地区の八月の失敗はまぬがれることができたばかりか、国民党の第六軍と王均とが江西省の樟樹鎮で戦った機会に乗じて、永新県の敵軍を撃破し、吉安県、安福県を攻めとって、その前衛部隊は萍郷県にたっし、北部の赤軍第五軍と連絡をつけることもできたであろう。そのようなばあいでも、寧岡県を大本営とすべきであって、湖南省東部へは遊撃部隊しかおくれない。豪紳のあいだに戦争がおこっていず、湖南省省境の萍郷、茶陵、攸県の各県にはまだ敵の大部隊がいるので、主力が北にむかえば、かならず、かれらに乗ぜられる。党中央はわれわれに湖南省東部か、あるいは湘南省南部へ進出することを考えるようにといってきているが、これを実行するのは、どちらも非常に危険で、湖南省東部ゆきの案は実現していないが、湖南省南部ゆきはすでに実証ずみである。このような苦い経験は、われわれがつねに銘記しておく必要がある。
現在は豪紳階級の支配がまだ分裂していない時期であり、省境地区をとりまいて「討伐」をすすめている敵軍は、なお十コ連隊あまりもある。しかし、もし、われわれがひきつづき現金の問題を解決できれば(食糧や衣服はもはや大した問題ではない)、省境地区という基礎に依存して、これぐらいの敵あるいはもっと多くの敵にもあたることができる。省境地区のためを考えると、もし赤軍が立ちさるようなことをすれば、たちどころに、八月のときのようにふたたび踏みあらされるにちがいない。赤衛隊が完全に消滅されることはないにしても、党と大衆の基盤は非常に大きな破壊をうけるであろうし、八、九月のころとおなじように、山地の割拠地が一部保存できるにしても、平地はすべて秘密状態にはいるであろう。赤軍がここを立ちさらなければ、現在の基礎をもとにして、しだいに周囲に拡大していくことができ、前途には大いに希望がもてる。赤軍のためを考えると、その拡大をはかるには、湖南省の敵と江西省の敵の利害が一致せず、四方を守っているので集中できないという状況を利用して、大衆的基盤をもつ井岡山の周囲、すなわち寧岡、永新、酃県、遂川の四県で、敵と長期の闘争をおこなう以外にはない。正しい戦術をとって、戦わないならともかく、戦う以上はかならず勝ち、かならず捕虜や戦利品を獲得するというようにすれば、赤軍をしだいに拡大することができる。四月から七月の当時の省境地区の大衆の準備状態からみると、赤軍の大部隊が湖南省南部にいかずにいたら、八月には赤軍は疑いもなく拡大していたであろう。一度はあやまりを犯したが、赤軍はふたたび地の利と人の和のあるこの省境地区に帰ってきており、今後の見通しはそう悪くない。赤軍は、省境地区のこれらの地方で闘争する決意をかため、ねばり強く戦う勇気をもたなければならず、そうでなければ、武器をふやし、兵士をりっぱにきたえることはできない。省境地区の赤旗は、すでに一年ものあいだかかげつづけられた。それは、一方で、湖南、湖北、江西の三省ないし全国の豪紳階級のはげしいにくしみをひきおこしてはいるが、他方では、しだいに付近の各省の労働者、農民、兵士大衆の希望をよびおこしている。兵士についていえば、軍閥どもが省境地区の「匪賊討伐」を大仕事としており、「匪職討伐に年を重ね、出費すること百万元にたっす」(魯滌平)、「赤軍は兵二万、銃五千と号す」(王均)などといっているので、しだいに敵軍の兵士や活路をうしなった下級将校たちの、われわれにたいする注目をひいており、脱出してわれわれの側に帰順するものは日ましに多くなるであろう。赤軍には拡充の道がもう一つふえるわけである。そのうえ、省境地区の赤旗が終始倒れなかったことは、共産党の力をしめしたばかりでなく、また支配階級の破産をもしめしており、政治上、全国的に重大な意義をもっている。だから、われわれは、羅霄山脈中部地域の政権をつくり、これを拡大することは、ぜったいに必要で、まったく正しいことであるとつねに考えている。
〔注〕
〔1〕 この戦争は一九二七年十月におこった。
〔2〕 この戦争は一九二七年十一月から十二月にかけておこった。
〔3〕 赤軍の兵士代表者会議と兵士委員会の制度は、のちに廃止された。一九四七年になって、また幹部の指導する軍人会議と兵士委員会の制度が採用された。
〔4〕 これは、一九二七年八月一日、南員で蜂起した葉挺、賀竜両同志の旧部隊のことである(葉挺部隊については本文の注〔14〕にみられる)。これらの部隊は潮州、汕頭に進軍して失敗したのち、その一部は朱徳、林彪、陳毅らの諸同志にひきいられて広東省から撤退し、江西省をとおって湖南省南部にはいり、遊撃戦争をおこなった。一九二八年四月、井岡山に到着し、毛沢東同志と合流した。
〔5〕 一九二七年の革命の時期の武昌国民政府警備連隊は、幹部に共産党員が多かった。汪精衛らが革命を裏切ったのち、この警備連隊は、七月末、武昌をはなれ、南昌にいって蜂起軍に参加しようとした。その途中、南昌の蜂起軍がすでに南下したと聞いて、修水県にいき、平江県、瀏陽県の農民軍と合流した。
〔6〕 湖南省の平江県、瀏陽県一帯では、一九二七年の春には、相当有力な農民武装組織がつくられていた。五月二十一日、許克祥が長沙で反革命事変(つまり「馬日事変」)をおこし、革命的大衆を虐殺した。五月三十一日、平江県、瀏陽県一帯の農民軍は、長沙にむかってすすみ、反革命勢力に反撃をくわえようとしたが、日和見主義の陳独秀に阻止されて撤退した。そのうちの一部の農民部隊は、ただちに独立連隊をつくり、遊撃戦争をおこなった。八月一日の南昌蜂起ののち、平江県、瀏陽県の農民軍は、修水、銅鼓、平江、瀏陽一帯で、もとの武昌国民政府警備連隊と合流し、萍郷炭鉱労働者の武装組織と協力して、秋収蜂起をおこなった。蜂起部隊は十月、毛沢東同志にひきいられて井岡山にいった。
〔7〕 一九二八年のはじめ、朱徳同志は湖南省南部で革命遊撃戦争をおこなった。もともと農民運動の基盤のあった宜章、郴県、耒陽、永興、資興の五つの県では、このとき農民軍が組織された。のちに、これらの農民軍は、朱徳同志にひきいられて井岡山にいき、毛沢東同志と合流した。
〔8〕 湖南省常寧県の水口山は、鉛鉱石の重要な産地である。ここの鉱山労働者は、すでに一九二二年には共産党の指導のもとで労働組合を組織し、毎年のように反革命勢力と闘争してきた。一九二七年の秋収蜂起ののち、多くの労働者が赤軍に参加した。
〔9〕 安源炭鉱は漢冶萍公司の一部で、江西省萍郷県内にある。当時、そこには炭鉱労働者が一万二千人いた。中国共産党湖南省委員会は、一九二一年から安源に人を送って活動させ、党と労働組合の組織をつくった。
〔10〕 赤軍内の党代表は一九二九年から政治委員と改称し、中隊の政治委員は一九三一年から政治指導
員と改称した。
〔11〕 「土豪からの徴発」という方法による軍費の調達は、一時的な、部分的なものでしかない。軍隊が大きくなり、地域がひろくなれば、徴税の方法で軍費を調達しなければならないし、またそれができるようになる。
〔12〕 このやり方は赤軍内で長いあいだ実行され、当時はそれが必要であったが、あとになると、等級に応じて多少差のあるようにあらためられた。
〔13〕 毛沢東同志はここで、革命軍隊の内部では一定の民主主義的生活が必要であることを、とくに強調して指摘している。それは、当時、赤軍かつくられたばかりであったので、民主主義を強調しなければ、新しく入隊した農民や捕虜になって編入された白軍出身の兵士の革命的積極性を十分鼓舞することができなかったし、また幹部のあいだにある、反動軍隊から伝わった軍閥主義の悪習を完全に一掃することができなかったからである。もちろん、部隊内の民主主義的生活は、軍事規律のゆるす範囲内のものでなければならないし、規律をよわめるものではなくて、規律をつよめるためのものでなければならない。したがって、部隊内で必要な民主主義を提唱するばあいには、同時に、極端な民主主義を要求する無規律の現象とたたかわなければならない。ところが、初期の赤軍のなかには一時、このような現象がひどく存在したことがある。毛沢東同志が軍隊内の極端な民主化に反対しておこなった闘争については、本巻の『党内のあやまった思想の是正について』という論文をみられたい。
〔14〕 一九二六年の北伐のさい、葉挺同志の部隊は共産党員を中核とした独立連隊で、北伐における有名な戦闘部隊であった。革命軍が武昌を占領したのち、拡大して第二十四師団になり、南昌蜂起ののち、さちに拡大して第十一軍になった。
〔15〕 実際には、赤軍内の党員の数は全軍の三分の一前後をしめていればよいのであり、その後、赤軍や人民解放軍のなかでは、だいたいそうなっている。
〔16〕 一九二七年五月二十一日、蒋介石、汪精衛らは湖南省の国民党反革命軍の将校許克祥、何鍵らをそそのかして、長沙で湖南の省労働組合、省農民協会およびその他すべての革命的な組織を包囲襲撃させ、共産党員や革命的な労農大衆を逮捕、殺害させた。中国の詩の韻についてのべた本では、「馬」の字および「馬」とおなじ韻の字を上声の第二十一韻にならべ、「馬」をその韻の韻目としているので、以前は二十一日のことを略して「馬日」とよんだ。したがって、五月二十一日におこった湖南事変も略して「馬日事変」とよんだ。この事変は、汪精衛をかしらとする武漢国民党反革命派と蒋介石をかしらとする南京国民党反革命派とが公然と合流する合図であった。
〔17〕 これは、一九二八年、湖南・江西辺区のきめた土地法のなかの一ヵ条である。あとになって、毛沢東同志は、地主の土地だけを没収するのではなくてすべての土地を没収するのはあやまりであり、このあやまりは、当時、土地闘争の経験に欠けていたことからきたものである、と指摘した。一九二九年四月にだされた興国県の土地法では、「すべての土地を没収する」を「公有地と地主階級の土地を没収する」にあらためている。
〔18〕 農村の中間階級を獲得することの重要性にかんがみ、毛沢東同志は、このあと、すぐ、中間階級にゆきすぎた打撃をあたえるあやまった政策を是正した。毛沢東同志の中間階級にたいする政策・主張は、この論文のほか、さらに、一九二八年十一月の赤軍第六回代表大会への提案(そのなかには「盲目的な焼き払い、殺害の禁止」、「中小商人の利益の保護」などの項目がある)、一九二九年一月の赤軍第四軍布告(そのなかには「都市の商人は零細なる利潤をかせぐものゆえ、服従するかぎり、他のことは問題にせず」などのことばがある)、一九二九年四月の興国県の土地法(本文の注〔17〕を参照)などにもみられる。
〔19〕 このような状態は、革命戦争の発展、根拠地の拡大および革命政府の工商業保護政策によってあらためることができるものであり、事実、のちにはあらためられた。そのばあい、断固、民族工商業を保護し、極左的な政策に反対することが鍵である。
〔20〕 労働力を基準にして土地を分配する方法は妥当でない。事実、赤色地域では人口に応じて均等に土地を分配する原則を長期にわたって実行していた。
〔21〕 靖衛団は反革命的な地方武装組織である。
〔訳注〕
① 前敵委員会とは、第二次国内革命戦争の時期に、敵にたいする作戦の必要から、一定の期間、前線の部隊と地方の党組織を統一的に指導して、作戦をおこなう党の臨時的な機構であり、その委員は党省委員会または党中央より任命された。ここでいう前敵委員会は一九二七年秋に成立し、一九二八年三月に解消したものである。その後、一九二八年十一月六日、井岡山で前敵委員会があらたに組織された。本文「党の組織問題」の節を参照。
② 一華里は約五百メートル、八華里が日本の約一里にあたる。華里は原文では里であるが、日本の里と混同しないために華里とした。
③ 原文の「工作」は「活動」と訳してもよいが、原文の「政治工作」を「政治活動」と訳すと誤解されやすいので、ここでは中国籍の「政治工作」をそのままつかった。ここでは人民の軍隊における政治工作のことをさしている。毛沢東同志は、中国共産党に指導されるさいしょの労農赤軍を創設するにあたって、人民の軍隊の建設が政治を先行させなければならないことを強調し、政治が統帥であり魂であり、政治が軍事を統率するということを強調した。これによって、労農赤軍のなかには、人民戦争に必要な一連の政治工作が確立された。政治工作の基本的な任務は、マルクス・レーニン主義、毛沢東思想によって軍隊を教育し、全軍のプロレタリア階級としての革命的自覚をたかめ、党の綱領、路線、政策および人民政府の法令を実行、貫徹し、軍隊にたいする党の絶対的指導を強化し、軍隊の高度な統一ときびしい規律をまもり、将兵間の団結、軍民間の団結と友軍間の団結をはかり、敵軍を瓦解させ、戦闘の勝利を保障することである。したがって、政治工作は人民の軍隊の生命線である。げんざい、政治工作の制度は、すでに経済建設、文化教育、科学研究などあらゆる分野と部門におしひろめられ、社会主義革命と社会主義建設を発展させる力づよい保障となっている。
④ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑤を参照。
⑤ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の訳注⑩を参照。




