中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか (一九二八年十月五日)
これは、毛沢東同志が党の湖南・江西辺区第二回代表大会のために書いた決議の一部分で、もとの題名は「政治問題と省境地区の党の任務」であった。
一 国内の政治情勢
現在の国民党新軍閥の支配は、依然として都市の買弁階級と農村の豪紳階級の支配であって、対外的には帝国主義に投降し、対内的には新車閥が旧軍閥にとってかわり、労農階級にたいする経済的搾取と政治的抑圧は、まえよりもいっそうひどくなっている。広東省からはじまったブルジョア民主主義革命は、中途で買弁・一家紬階級に指導権をさらわれて、たちまち反革命の方向にむけられてしまい、全国の労・農・平民からブルジョア階級〔1〕までが、依然として反革命の支配下におかれており、政治的にも経済的にも、少しも解放されていない。
国民党新軍閥の蒋、桂、馮、閻の四派〔2〕は、北京、天津を攻めおとすまでは、張作霖〔3〕に対抗して一時的に結束していた。北京、天津を攻めおとしてしまうと、この結束はたちまちくずれて、局面は四派の内部のはげしい闘争に変わり、しかも蒋派と桂派とのあいだには戦争がはらまれている。中国内部の軍閥各派の矛盾と闘争は、帝国主義諸国の矛盾と闘争を反映している。したがって、帝国主義諸国が中国を分割している状態が存在するかぎり、軍閥各派はどうしても妥協できるものではなく、どのような妥協も一時的なものである。今日の一時的な妥協は、明日のもっと大きな戦争をはらんでいる。
中国はブルジョア民主主義革命をさしせまって必要としているが、この革命をなしとげるにはプロレタリア階級が指導しなければならない。広東省からはじまり、長江にむかって発展した一九二六年から一九二七年にかけての革命は、プロレタリア階級が自己の指導権を断固として行使しなかったために、指導権を買弁・豪紳階級にうばいとちれ、反革命が革命にとってかわった。ブルジョア民主主義革命はこうして一時的失敗をなめた。中国のプロレタリア階級と農民は、この失敗で、大きな打撃をうけ、中国のブルジョア階級(買弁・豪紳階級でない)もまた打撃をうけた。だが、最近数ヵ月のあいだに、共産党に指導された労農階級による組織的な都市のストライキと農村の暴動は、南北各地で発展している。軍閥の軍隊の内部では兵士たちのあいだに、飢えと寒さから大きな不安がうまれている。他方、ブルジョア階級も汪精衛、陳公博一派にあおられて、沿海および長江流域の各地にかなり大きな改良主義運動〔4〕を発展させている。この運動の発展は新しい事実である。
中国の民主主義革命の内容は、コミンテルンおよび党中央の指示によると、帝国主義およびその手先である軍閥の中国での支配をくつがえし、民族革命を達成することと、土地革命を実行し、農民にたいする豪紳階級の封建的搾取をなくすことである。このような革命の実際の運動は、一九二八年五月の済南虐殺事件〔5〕以後、日一日と発展している。
二 中国赤色政権〔6〕の発生と存在の原因
一国のなかで、一つの小さな、あるいはいくつかの小さな赤色政権の地域が、周囲を白色政権にとりかこまれながら、長期にわたって存在することは、いままで世界のどの国にもなかったことである。このような不思議なことがおこるには、それなりの特有の原因がある。またその存在と発展にも、かならずそれに相応した条件がある。第一に、こうしたことは、どの帝国主義国にも、また帝国主義が直接に支配しているどの植民地にもおこりえない〔7〕が、帝国主義が間接に支配している、経済的におくれた半植民地の中国では、必然的におこるのである。なぜなら、このような不思議な現象は、かならず白色政権のあいだの戦争というもう一つの不思議な現象とむすびついているからである。帝国主義と国内の買弁・豪紳階級の支持している新旧軍閥の各派は、民国元年いらい、たがいにたえまのない戦争をつづけている。これが半植民地中国の特徴の一つである。全世界の帝国主義国のどの国にも、このような現象がないばかりでなく、帝国主義が直接に支配している植民地のどこにも、このような現象はない。このような現象があるのは、帝国主義が間接に支配している中国のような国だけである。このような現象のうまれた原因は二つある。すなわち、地方的な農業経済(統一された資本主義経済ではない)および勢力範囲を分割する帝国主義の分裂と搾取の政策である。白色政権のあいだに長期にわたる分裂と戦争があるので、共産党の指導する一つの小さな、あるいはいくつかの小さな赤色地域が、周囲を白色政権にとりかこまれながら発生し、もちこたえていける一つの条件がうまれている。湖南・江西省境地区①での割拠も、こうしたたくさんの小さな地域のうちの一つである。一部の同志は、困難なとき、危険がせまっているときには、とかくこのような赤色政権の存在に疑いをもち、悲観的な気持ちをおこす。それは、このような赤色政権が発生し存在する理由について、正しい解釈をみいだしていないからである。われわれは、中国における白色政権の分裂と戦争がたえまなくつづくということを知りさえすれば、赤色政権が発生し、存在し、しかもそれが日ましに発展していくことには、疑いをもたなくなる。第二に、中国で赤色政権がさいしょに発生し、長期にわたって存在することのできる地方は、四川省や貴州省や雲南省および北方各省のような、民主主義革命の影響をうけたことのない地方ではなく、湖南、広東、湖北、江西の各省のように、一九二六年と一九二七年の二年にわたるブルジョア民主主義革命の過程で、労農兵大衆が、かつて大きく立ちあがったことのある地方である。これらの省の多くの地方では、かつて労働組合と農民協会がひじょうに広範に組織されたことがあり、地主・豪紳階級とブルジョア階級にたいして労農階級が多くの経済的、政治的闘争をおこなったことがある。だから、広州では、三日にわたる都市の民衆政権がつくられたことがあり、海豊・陸豊県、湖南省東部、湖南省南部、湖南・江西省境地区、湖北省の黄安県などでは、農民による割拠がおこなわれたことがある〔8〕。いまの赤軍についていえば、やはり民主的な政治訓練をうけ、労農大衆の影響をうけた国民革命軍のなかから分化してきたものである。民主的な政治訓練を少しも受けたことがなく、労働者、農民の影響を少しも受けたことのない軍隊、たとえば閻錫山や張作霖の軍隊から赤軍を構成できる部分が分化してくることは、いまのところけっしてありえない。第三に、小地域の民衆政権が長期にわたって存在することができるかどうかは、全国の革命情勢が発展するかどうかという条件によってきまる。全国の革命情勢が発展していくのであれば、小さな赤色地域が長期にわたって存在することは疑う余地がないばかりでなく、またそれは必然的に、全国的な政権をかちとるための多くの力のなかの一つとなる。もし全国の革命情勢がひきつづき発展するのではなく、比較的長期にわたる停滞がおこるとすれば、小さな赤色地域が長期にわたって存在することは不可能である。現在の中国の革命情勢は、国内の買弁・豪紳階級および国際ブルジョア階級のたえまない分裂と戦争にともない、ひきつづき発展している。したがって、小さな赤色地域が長期にわたって存在することには疑う余地がないはかりでなく、これらの赤色地域は発展をつづけ、しだいに全国的な政権の獲得にちかづいていくであろう。第四に、相当の力をもつ正規の赤軍の存在は、赤色政権の存在にとって欠くことのできない条件である。もし地方的性格の赤衛隊〔9〕だけで、正規の赤軍がないとすれば、挨戸団にはたちむかうことができても、正規の白色軍隊にたちむかうことはできない。だから、優秀な労農大衆がいても、相当の力をもつ正規の武装組織がなければ、けっして割拠の局面をつくりだすことはできないし、まして、長期にわたって日ましに発展していく割拠の局面をつくりだすことなどはできない。だから、「労農武装割拠」という思想は、共産党や割拠地区の労農大衆が十分にのみこんでおかなければならない重要な思想である。第五に、赤色政権が長期にわたって存在し、しかも発展するには、以上にのべた条件のほかに、もう一つ重要な条件がなければならない。それは、共産党の組織が強力であること、その政策にあやまりがないことである。
三 湖南・江西省境地区での割拠と八月の失敗
軍閥のあいだの分裂と戦争は、白色政権の支配力をよわめた。だから、小地域の赤色政権がその機に乗じてうまれることができたのである。だが、軍閥のあいだの戦争は、毎日つづいているわけではない。一つの省あるいはいくつかの省の白色政権が、一時的な安定をたもっているばあいには、その一つの省の支配階級またはいくつかの省の支配階級は、かならず連合し、全力をあげてこの赤色政権を消滅しようとする。赤色政権を樹立しもちこたえていくのに必要な各種の条件がまだ十分にそなわっていないところでは、敵にうちたおされる危険性がある。ことしの四月以前に、機に乗じてつくられた多くの赤色政権、たとえば広州、海豊・陸豊県、湖南・江西省境地区、湖南省南部、醴陵県、黄安県の各地の赤色政権が、前後して白色政権によって破壊されたのも、こうした理由からである。四月以降の湖南・江西省境地区での割拠は、ちょうど中国南部の支配勢力が一時的に安定したときであったので、湖南、江西両省から「討伐」に派遣された軍隊はいつも八、九コ連隊以上の兵力をもち、多いときには十八コ連隊にもたっした。ところが、われわれは、四コ連隊たらずの兵力で四ヵ月ものあいだ敵とたたかい、割拠地区を日一日とひろげ、土地革命を日一日とふかめ、民衆政権の組織を日一日とおしひろげ、赤軍と赤衛隊を日一日とつよめたが、その原因は、湖南・江西省境地区の共産党(地方の党組織と軍隊の党組織)の政策が正しかったことにある。当時、党の省境地区特別委員会と軍事委員会②のとった政策は、逃走主義に反対し、だんこ敵とたたかって、羅霄山脈〔10〕の中部地域に政権を樹立すること、割拠地区の土地革命をふかめること、軍隊の党組織は地方の党組織の発展をたすけ、正規の軍隊は地方の武装組織の発展をたすけること、敵から各個撃破されないように兵力の分散に反対し、赤軍を集中し機会をとらえて当面の敵にたちむかうこと、割拠地区の拡大は暴進政策に反対し、波状的におしすすめる政策をとることであった。これらの戦術が適切であったうえに、地形が闘争にとって有利であり、進撃してきた湖南、江西両省の軍隊の足並みが完全にはそろっていなかったため、四月から七月までの四ヵ月間に、何回も勝利をおさめたのである。敵はわれわれに数倍する軍隊をもちながら、この割拠をうちやぶることができなかったばかりでなく、この割拠がますます拡大していくのを阻止することもできなかった。しかも、この割拠が湖南、江西両省にあたえている影響は、ますます拡大するいきおいにある。八月の失敗は、まったく、一部の同志が、そのころちょうど支配階級が一時的な安定の時期にあったことを理解せず、逆に、支配階級が政治的に分裂している時期にとる戦略をとり、兵力をわけて暴進したためであり、それで、省境地区と湖南省南部はどちらも失敗したのである。湖南省委員会代表の杜修経同志は、当時の情勢をみきわめず、省境地区特別委員会、軍事委員会および永新県委員会の合同会議の決議を無視し、湖南省委員会の命令を形式的に執行することしか知らす、闘争からのがれて郷里にかえりたがっている赤軍第三十九連隊の意見に追随した。そのあやまりは実に大きかった。このような失敗の情勢は、九月以後になって、省境地区特別委員会と軍事委員会があやまりをただす措置をとったので、もちなおされたのである。
四 湖南・江西省境地区での割拠の局面が湖南、湖北、江西三省ではたす役割
寧岡県を中心とする湖南・江西省境地区での労農武装割拠の意義は、けっして省境地区の数県にかぎられるものではない。このような割拠は、湖南、湖北、江西三省の労働者、農民が暴動によって三省の政権をうばいとる過程で、大きな意義をもっている。省境地区での土地革命と民衆政権の影響を、とおく湖南、江西両省の湘江と[章+”ふゆがまえ”の下に”貢”]江の下流地帯、さらには湖北省にまでおよぼすこと、赤軍が闘争のなかでますますその数をふやし、質をたかめ、将来、三省における全面的な暴動のさいに、そのはたすべき使命をはたすくとができるようにすること、各県の地方武装組織、すなわち赤衛隊や労農暴動隊の数をふやし、質をたかめて、当面は挨戸団や少数の軍隊とたたかい、将来は省境地区の政権をまもることのできるものにすること、赤軍からの派遣にたよることをだんだんすくなくして、地方の要員が完全に自立できるようにし、省境地区の活動にはその地区の要員をあて、さらにすすんで赤軍にも、拡大された割拠地域にも要員をおくりこむことができるようにすること――これらは、いずれも、省境地区の党が湖南、湖北、江西三省の暴動の発展のなかでになう、きわめて重要な任務である。
五 経済問題
周囲を白色勢力にとりかこまれているので、軍隊や人民の日用必需品や現金の欠乏は、きわめて大きな問題になっている。この一年来、省境地区政権が割拠している地区では、敵のきびしい封鎖によって、食塩、綿布、薬品などの日用必需品がいつもひどく欠乏しており、価格もひどくたかいので、労働者、農民、小ブルジョア階級〔11〕の大衆や赤軍兵士大衆の生活は困難をきたし、ときには、まったく極点にたっした。赤軍は戦争をしながら、給養をまかなわなければならない。毎日、主食をのぞいた五分③の副食費にさえこと欠き、栄養は不足し、病人は続出し、入院中の負傷兵の状態はいっそう苦しい。このような困難は、全国的な政権をかちとるまでは、もちろんさけられないことではあるが、このような困難をいくらかでも解決し、生活をいくらかでもよくすること、とくに赤軍の給養をいくらかでも充実させることが、さしせまって必要となっている。省境地区の党が経済問題にたいする適切な措置をとることができなければ、敵の勢力がなおも比較的長期間にわたって安定するであろう条件のもとでは、割拠は大きな困難にぶつかるであろう。この経済問題をある程度解決することは、たしかに、一人ひとりの党員が心がけなければならないことである。
六 軍事根拠地の問題
省境地区の党には、もう一つの任務がある。すなわち大・小の五井〔12〕と九隴との二つの軍事根拠地をかためることである。水新、[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県、寧岡、遂川の四県の境にある大・小の五井山区と、水新、寧岡、茶陵、蓮花の四児の境にある九隴川区のこの地形の有利な一つの他方、とりわけ民衆からの支持もあり、地形もきわめて険要な大・小の五川は、現在、省境地区での重要な軍事根拠地であるばかりでなく、湖南、湘北、江西三省で暴動が発展する将来においても、やはり重要な軍事根拠地になる。この根拠地をかためる方法は、第一に、完備した陣地をきずくこと、第二に、十分な食糧をたくわえること、第三に、比較的よい赤軍病院をつくることである。この三つのことを着実になしとげることが、省境地区の党の努力しなければならない点である。
〔注〕
〔1〕 毛沢東同志かここでさしているのは、民族ブルジョア階級のことである。毛沢東同志は、一九三五年十二月に書いた『日本帝国主義に反対する戦術について』および、一九三九年十一月に書いた『中国革命と中国共産党』という論文のなかで、買弁ブルジョア階級と民族ブルジョア階級の区別についてくわしく説明している。
〔2〕 蒋派とは蒋介石派をさす。桂派とは広西省軍閥の李宗仁、白崇禧派をさす。馮派とは馮玉祥派をさす。閻派とは山西省軍閥の閻錫山脈をさす。かれらは連合して張作霖と戦い、一九二八年六月、北京と大和を占領した。
〔3〕 張作霖は奉天系軍閥の首領である。一九二四年、呉佩孚が第二次直奉戦争でやぶれてからは、張作霖が中国北部でもっとも勢力のある軍閥になった。一九二八年、かれは呉佩孚と連合して北京を占拠した。一九二八年六月、北京から東北地方に退去する途中、これまでかれを道具として利用してきた日本帝国主義者によって爆死させられた。
〔4〕 一九二八年五月三日、日本侵略者が済南を占領し、蒋介石が恥しらずにもおおっぴらに日本と妥協すると、かつて一九二七年の反革命クーデターに追随した民族ブルジョア階級の一部は、自分たちの利益のため、したいに蒋介石政権にたいする在野反対派を形成するようになった。当時、汪精衛、陳公博らの投機的な反革命の政派は、この運動のなかでうごきまわり、国民党内のいわゆる「改組派」を形成した。
〔5〕 一九二八年、蒋介石は日本帝国主義の支持のもとに、北上して張作霖を攻撃した。日本帝国主義は、英米勢力の北部にのびるのをはばむため出兵して、山東省の省都済南を占領し、津浦鉄道(天津―浦口)をたちきった。五月三日、日本侵略軍は済南で数多くの中国人を虐殺した。これを「済南虐殺事件」という。
〔6〕 中国赤色政権の組織形態は、ソビエト政権に似ている。ソビエトとは代表者会議のことで、ロシアの労働者階級が一九〇五年の革命のときにつくりだした一種の政治制度である。レーニンとスターリンはマルクス主義の理論から出発して、ソビエトの共和国が、資本主義から社会主義への過渡期におけるもっとも適切な社会政治組織形態だという結論をひきだした。一九一七年、ロシアの十月社会主義革命は、レーニンとスターリンのボリシェビキ党の指導のもとに、世界ではじめてプロレタリア独裁の社会主義のソビエト共和国をうちたてた。中国では、一九二七年に革命が失敗したのち、中国共産党が毛沢東同志を先頭として指導した各地の人民大衆の革命蜂起は、代表者会議をもって民衆政権の形態とした。しかし、中国のこの革命段階では、こうした政権の性質は、プロレタリア階級の指導する反帝、反封建の新民主主義革命の人民民主主義独裁であり、ソ連のプロレタリア独裁の政治権力とは区別される。
〔7〕 第二次世界大戦中、もとイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義の支配下にあった東方の多くの植民地は、日本帝国主義者に占領された。それらの植民地の労働者、農民、都市小ブルジョア階級の大衆と民族ブルジョア分子は、共産党の指導のもとに、イギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの帝国主義と日本帝国主義との矛盾を利用して、ファシストの侵略に反対する広範な統一戦線を結成し、抗日根拠地をうちたて、苦難にみちた抗日遊撃戦争をすすめて、第二次世界大戦前の政治情勢を転換させはじめていた。第二次世界大戦が終わって、日本帝国主義が追いだされると、アメリカ、イギリス、フランス、オランダなどの帝国主義は、もとの植民地支配をつづけようとしたが、各植民地の人民は、すでに抗日戦争のなかで、相当な力をもつ武装勢力をきたえあげていて、これまでのような状態には甘んじなくなった。しかも、ソ連が強大になっていたこと、アメリカをのぞくすべての帝国主義国が、戦争中あるものはうちたおされ、あるものはよわめられていたこと、さらに中国革命の勝利が中国における帝国主義の戦線をつきやぶったこと、こうしたことによって、帝国主義制度全体はすでに世界的に大きくゆらいでいた。こうして、アジア、アフリカ、ラテン・アメリカの各植民地、および半植民地の人民も、だいたい中国とおなじように、大小さまざまの革命根拠地と革命政権をもちこたえることができ、農村をもって都市を包囲する革命戦争を長期にわたって堅持することができ、さらにそこから一歩一歩おしすすめて、都市をうばい、その植民地と半植民地で全国的な範囲での勝利をかちとることができるようになった。こうした新しい情勢にもとづいて、帝国主義の直接支配する植民地の条件のもとでという、この問題についての毛沢東同志の一九二八年の観察は、すでにあらためられている。
〔8〕 これは、一九二七年、蒋介石、汪精衛があいついで革命を裏切ったのち、各地の人民が共産党の指導のもとで最初におこした反革命勢力にたいする反撃行動をさす。広州では、一九二七年十二月十一日、労働者と革命的な兵士が連合して蜂起し、人民の政権をうちたてて、帝国主義の直接援助のもとにあった反革命軍隊にたいして、はげしい戦闘をおこなったが、力の差があまりに大きかったため、この人民の蜂起は失敗した。広東省東部沿海の海豊・陸豊県などの農民は、一九二三年から一九二五年にかけて、共産党員彭湃同志の指導のもとで、強大な運動をおこし、反革命派陳炯明にたいする広州国民革命軍の二回にわたる東征の勝利に、大きな援助をあたえた。一九二七年四月十二日、蒋介石が革命を裏切ると、この地方の農民は、四月、九月、十月の前後三回にわたって蜂起し、海豊、陸豊一帯に革命政権をうちたて、一九二八年四月までもちこたえていた。湖南省東部では、一九二七年九月、蜂起した農民が瀏陽、平江、醴陵、株州の各県一帯を占拠したことがある。それとおなじときに、湖北省東北部の孝感、麻城、黄安などの県でも、数万の農民が武装蜂起し、三十数日間黄安県の県郡を占領した。湖南省南部では、一九二八年一月、宣章、[林+”おおざと”]州、耒陽、永興、資興などの諸県で蜂起した農民が、三ヵ月ものあいだ、革命政権をうちたてたことがある。
〔9〕 赤衛隊とは革命根拠地の大衆の武装組織のことである。赤衛隊の隊員は平常、生産に従事している。
〔10〕 羅霄山脈は、江西省と湖南省の省境にある大きな山脈で、井岡山はその中部にある。
〔11〕 毛沢東同志がここでいっている小ブルジョア階級は、農民以外の手工業者、小商人、さまざまな自由職業者および小ブルジョア階級出身の知識層のことである。中国では、これらの社会構成要素はおもに町にあるが、農村でもかなりの数をしめている。『中国社会各階級の分析』を参照。
〔12〕 大・小の五井山区というのは、江西省西部の永新、寧岡、遂川、湖南省東部の[”雨”の下に”口”三つ+”おおざと”]県の四県にまたがる井岡山のことをさす。井岡山には、大井、小井、上井、中井、下井というところがあるからである。
〔訳注〕
① 湖南・江西省境地区とは、一九二七年十月、毛沢東同志が秋収蜂起の部隊をひきいて井岡山についてからうちたてた、中国最初の農村革命根拠地である。こうした革命根拠地は、プロレタリア階級の指導のもとに、労農同盟に依拠し、革命武装組織によってうちたてられたため、「労農武装割拠」ともよばれた。これらの革命根拠地は、最初はいずれも、いくつかの省の境界地区につくられたので、「省境地区」とよばれ、のちには「辺区」とよばれた。抗日戦争の時期には、共産党の指導する軍隊がうちたてたこのような革命根拠地は、「抗日根拠地」とよばれ、「辺区」ともよばれ、「解放区」ともよはれた。第三次国内革命戦争の時期になると、こうした革命根拠地は、一般に「解放区」とよばれた。
② 省境地区特別委員会とは、中国共産党湖南・江西省境地区特別委員会をさし、当時、省委員会と県委員会の中間段階にある党機関であった。軍事委員会とは、湖南・江西省境地区労農赤軍第四軍の党の軍事委員会のことで、軍隊内の党の最高指導機関であり、同時に、省境地図軍事委員会として、省境地区赤軍および地方武装組織を指揮した。
③ 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』訳注⑤を参照。




