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戦争と戦略の問題 (一九三八年十一月六日)

 これは、毛沢東同志が党の第六期中央委員会第六回総会でのべた結論の一部である。毛沢東同志は『抗日遊撃戦争の戦略問題』と『持久戦について』の二つの著作のなかで、すでに、抗日戦争における党の指導の問題を解決した。右翼日和見主義のあやまりをおかした同志は、統一戦線における独立自主を否定したことから、戦争と戦略の問題についての党の方針にたいしても、やはり、懐疑的な、反対の態度をとった。党内のこの種の右翼日和見主義を克服して、中国革命の問題で戦争と戦略の問題が第一に重要な地位をしめていることを全党にいっそう明確に理解させ、また、しんけんにこの仕事にとりくむよう全党を動員するために、毛沢東同志は、第六期中央委員会第六回総会において、さらに中国の政治闘争の歴史の面からこの問題をとくに力をいれて説明すると同時に、われわれの軍事活動の発展と戦略方針の具体的な変化の過程を説明し、それによって、指導思想と活動のうえでの全党の統一をかちとった。



一 中国の特徴と革命戦争


 革命の中心任務と最高形態は、武力で政権を奪取することであり、戦争で問題を解決することである。このマルクス・レーニン主義の革命原則は普遍的に正しく、中国においても外国においてもすべて正しい。

 だが、おなじ原則であっても、プロレタリア政党がさまざまな条件のもとでこの原則を実行する表現形態についていえば、それは条件の相違によってちがってくる。資本主義諸国では、ファシズムも戦争もない時期においては、そこでの条件は、国内的には封建制度がなくなり、ブルジョア階級の民主制度があるということ、外部的には民族的抑圧をうけておらず、自分の民族が他の民族を抑圧しているということである。これらの特徴にもとづいて、資本主義諸国のプロレタリア政党の任務は、長期の合法闘争をつうじて労働者を教育し、力をのばし、資本主義を最後的にくつがえす準備をすることである。そこでは、長期の合法闘争であり、議会の演壇の利用であり、経済的、政治的なストライキであり、労働組合の組織と労働者の教育である。そこでの組織形態は合法的なものであり、闘争形態は血を流さない(戦争でない)ものである。戦争の問題では、そこの共産党は自国の帝国主義戦争に反対することであり、このような戦争がおこったばあい、党の政策としては、自国の反動政府を敗北させることである。自分の必要とする戦争は、準備中の国内戦争だけである〔1〕。だが、このような蜂起や戦争は、ブルジョア階級がほんとうに無能力な状態になったときでなければ、またプロレタリア階級の大多数が武装蜂起と戦争遂行の決意をしたときでなければ、そしてまた農民大衆が自発的にプロレタリア階級を援助するようになったときでなければ、おこなうべきではない。蜂起や戦争をおこなうときがきたら、まず最初に都市を占領し、そのあとで農村に進攻するのであって、その反対ではない。これらすべては資本主義諸国の共産党がかつてやってきたことであって、ロシアの十月革命で実証されたことである。

 中国はそれとはちがっている。中国の特徴は、独立した民主主義国ではなく、半植民地的・半封建的な国である。内部的には民主制度がなく、封建制度の抑圧をうけており、外部的には民族の独立がなく、帝国主義の抑圧をうけている。したがって、利用する議会もなければ、労働者を組織してストライキをおこなう合法的権利もない。ここでは、共産党の任務は、基本的には、長期の合法闘争をつうじて蜂起や戦争にすすむことでなく、また、まず都市を占領してから農村を奪取することでもなく、それとは反対の道をあゆむことである。

 中国共産党についていえば、帝国主義が武力による進攻をおこなわないときには、一九二四年から一九二七年までの広東コヮントン戦争〔2〕や北伐戦争のように、ブルジョア階級といっしょに軍閥(帝国主義の手先)に反対する国内戦争をおこなうか、あるいは一九二七年から一九三六年までの土地革命戦争のように、農民、都市小ブルジョア階級と連合して地主階級と買弁ブルジョア階級(おなじように帝国主義の手先である)に反対する国内戦争をおこなうかである。帝国主義が武力による進攻をおこなうときには、現在の抗日戦争のように、外国侵略者に反対する国内のあらゆる階級や階層と連合して対外的な民族戦争をおこなうのである。

 これらすべては、中国と資本主義国とのちがいをしめしている。中国では、主要な闘争形態は戦争であって、主要な組織形態は軍隊である。他のすべて、たとえば民衆の組織や民衆の闘争なども非常に重要であり、どうしても欠くことのできない、無視することのできないものではあるが、いずれも戦争のためのものである。戦争が勃発ぼっぱつするまえのすべての組織と闘争は、戦争準備のためのもので、たとえば五・四運動(一九一九年)①から五・三〇運動(一九二五年)②までの時期がそうであった。戦争が勃発したのちのすべての組織と闘争は、直接または間接に戦争に呼応するものである。たとえば、北伐戦争の時期には、革命軍の後方のすべての組織と闘争は、直接に戦争に呼応していたし、北洋軍閥の支配地域内のすべての組織と闘争は、間接に戦争に呼応していた。また、土地革命戦争の時期には、赤色地域内のすべての組織と闘争は、直接に戦争に呼応していたし、赤色地域外のすべての組織と闘争は、間接に戦争に呼応していた。さらに、現在の抗日戦争の時期には、抗日軍の後方および敵軍占領地のすべての組織と闘争も、同様に直接または間接に戦争に呼応しているのである。

 「中国では、武装した革命が武装した反革命とたたかっている。これは、中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある。」〔3〕スターリン同志のこの断定はまったく正しい。それは北伐戦争についていっても、土地革命戦争についていっても、こんにちの抗日戦争についていっても、すべて正しい。これらの戦争はすべて革命戦争であり、戦争の反対する対象はすべて反革命であり、戦争に参加する主要な構成要素はすべて革命的な人民である。ちがうのは、国内戦争であるか、民族戦争であるか、また、共産党が単独でおこなう戦争であるか、国共両党が連合しておこなう戦争であるかという点だけである。もちろん、これらの区別は重要である。これらの点は、戦争の主体に広いか狭いかの区別がある(労働者、農民の連合か、あるいは労働者、農民、ブルジョア階級の連合)こと、戦争の対象に円か外かの区別がある(国内の敵とのたたかいか、あるいは国外の敵とのたたかい。またおなじ国内の敵であっても北洋軍閥と国民党とにわけられる)ことをしめしており、中国革命戦争の歴史の進展過程の各時期にはそれぞれ異なった内容のあることをしめしている。しかしながら、それらはいずれも武装した革命が武装した反革命とたたかっているのであり、いずれも革命戦争であり、いずれも中国革命の特徴と長所をしめしている。革命戦争は「中国革命の特徴の一つであり、その長所の一つでもある」という断定は、中国の状況と完全に合致している。中国のプロレタリア政党の主要な、そしてほとんどその最初から直面している任務は、できるだけ多くの同盟軍と連合して、武装闘争を組織し、状況に応じて、内部あるいは外部の武装した反革命とたたかい、民族的、社会的解放をかちとるために闘争することである。中国では、武装闘争をはなれてはプロレタリア階級と共産党の地位はなく、いかなる革命の任務も達成することはできない。

 この点について、わが党は、一九二一年に成立してから一九二六年の北伐戦争に参加するまでの五、六年のあいだは、認識がたりなかった。当時は、中国における武装闘争の極度の重要性を理解せず、しんけんに戦争の準備と軍隊の組織をせず、軍事的な戦略と戦術の研究を重視しなかった。北伐の過程では軍隊の獲得を無視して、一面的に民衆運動に重きをおいたが、その結果、自民党がいったん反動化すると、民衆運動はすべてくずれてしまった。一九二七年以後の長いあいだ、多くの同志は依然として、党の中心任務を都市における蜂起の準備と白色区の活動の面においていた。一部の同志がこの問題について考えを根本的に変えたのは、一九三一年、敵の三回目の「包囲討伐」にたいするたたかいに勝利してからのことである。しかし、まだ全党的に変わったのではなく、一部の同志はやはりいまのわれわれのようには考えていなかった。

 経験がわれわれに教えているように、中国の問題は武力をはなれては解決することができない。この点を認識することは、今後、抗日戦争を勝利のうちにすすめていくのに有益である。抗日戦争における全人民の武装抵抗という具体的な事実は、この問題の重要性をよりふかく認識するよう全党を教育するであろう。党員の一人ひとりは、いつでも武装して前線におもむく用意をすべきである。また、われわれのこんどの会議で、党の主要な活動方面が戦区と敵の後方にあるときめたことは、さらに明確な方針をあたえた。これは、一部の党員が党の組織活動や民衆運動の活動をやりたがるが、戦争の研究や戦争への参加はのぞまないとか、一部の学校が学生を前線におもむかせるよう激励することに注意をはらわないとかいった現象にたいしては、やはり症状にあった良薬である。中国の大部分の領土では、党の組織活動と民衆運動の活動は武装闘争に直接つながっており、単独の孤立した党の活動や民衆運動はないし、またありえない。戦区からかなり遠い一部の後方(たとえば雲南ユィンナン省、貴州コイチョウ省、四川スーチョワン省)や敵が制圧している一部の地区(たとえば北平ペイピン天津ティエンチン南京ナンチン上海シャンハイ)でも、党の組織活動と民衆運動はやはり戦争に呼応するものであって、前線の要求にしたがうほかなく、またしたがうべきである。一言でいえば、全党は戦争を重視し、軍事を学習し、戦う準備をすべきである。



二 中国国民党の戦争史


 われわれが自民党の歴史に目をむけ、国民党がどのように戦争に注意をはらったかに目をむけることは、有益である。

 孫中山スンチョンシャンは、革命的な小団体を組織したときから、いくどか清朝に反対する武装蜂起をおこなった〔4〕。同盟会の時期になると、辛亥シンハイ革命で清朝を武力によってくつがえすまで、いっそう多くの武装蜂起の事績〔5〕があった。中華革命党の時期には、かれは武力による東世凱反対運動をおこなった〔6〕。その後における海軍の南下〔7〕、桂林コイリンからの北伐〔8〕、黄埔ホヮンプー軍官学校の創立〔9〕は、いずれも孫中山の戦争の事業である。

 蒋介石チァンチェシーが孫中山にとって代わると、国民党の軍事的全盛時代がつくりだされた。かれは、北伐、内戦、抗日の三つの時期をつうじて、軍隊を自分の命のように考えてきた。過去十年間の蒋介石は反革命であった。反革命のために、かれは膨大な「中央軍」をつくりあげた。軍隊があれば権力があり、戦争がすべてを解決するというこの基本点を、かれはしっかりつかんでいる。この点については、われわれはかれに学ぶべきである。この点では、孫中山と蒋介石はともにわれわれの先生である。

 辛亥革命ののち、すべての軍閥は軍隊を自分の命のように大切にし、「軍隊があれば権力がある」という原則を重視した。

 譚延闓タンイェンカイ〔10〕はりこうな官僚で、湖南フーナン省でなんどか起伏をくりかえしたが、これまでただの省長になったことはなく、いつも督軍兼省長になった。かれは、のちに広東と武漢ウーハンの国民政府の主席になったが、やはり第二軍の軍長をかねた。中国にはこのような軍閥が多くあり、かれらはこの中国の特徴を知っているのである。

 中国には軍隊をもとうとしない政党もいくつかあるが、そのうちのおもなものは進歩党〔11〕である。しかし、この政党も、官職にありつくにはある軍閥にたよらなければならないことを知っていた。そこで、袁世凱、段祺瑞トヮンチーロイ〔12〕、蒋介石(蒋にくっついているのは、進歩党の一部から転じた政学系〔13〕である)がそのうしろだてとなった。

 青年党〔14〕などのような歴史のあさいいくつかの小さな政党は、軍隊をもっていないから、これといったことはなに一つできない。

 外国のブルジョア政党は、各自が一部の軍隊を直接にぎる必要はない。だが、中国はそれとはちがい、封建的な分割のために、地主やブルジョア階級の集団または政党では、鉄砲のあるものが勢力をもち、鉄砲の多いものほど勢力が大きい。このような環境におかれているプロレタリア政党は、問題の中心を見きわめるべきである。

 共産党員は、個人の兵権は争わないが(けっして争ってはならず、二度と張国燾チャンクォタオのようなことをしてはならない)、党の兵権は争わなければならず、人民の兵権は争わなければならない。現在は民族的抗戦をしているので、さらに民族の兵権を争わなければならない。兵権の問題で小児病になれば、なに一つえられないのは必定である。勤労人民は数千年らい、反動支配階級のあの欺瞞ぎまんや威嚇の手にのせられてきたので、鉄砲を自分の手に握ることの重要性は、はなはだ悟りにくかった。日本帝国主義の抑圧と全人民の抗戦によって、勤労人民が戦争の舞台におしあげられた以上、共産党員はこの戦争のもっとも自覚のある指導者となるべきである。共産党員の一人ひとりが、「鉄砲から政権がうまれる」という真理を理解すべきである。われわれの原則は党が鉄砲を指揮するのであって、鉄砲が党を指揮するのをけっしてゆるさない。しかし、鉄砲があれば党をつくりあげることができるのもたしかで、げんに八路軍は華北地方で大きな党組織をつくりあげた。さらに幹部をも、学校をも、文化をも、民衆運動をもつくりあげることができる。延安イェンアンのすべては鉄砲がつくりだしたものである。鉄砲からすべてのものがうまれてくる。マルクス主義の国家学説にかんする観点からみれば、軍隊は国家権力の主要な構成要素である。国家権力を奪取し保持しようとするものは、強大な軍隊をもたなければならない。われわれを「戦争万能論」だと笑うものがあるが、そのとおり、われわれは革命戦争万能論者である。これはわるいことではなく、よいことであり、マルクス主義である。ロシア共産党の鉄砲は社会主義をつくりだした。われわれは民主共和国をつくりだすのである。帝国主義時代の階級闘争の経験がわれわれに教えているように、労働者階級と勤労大衆は鉄砲の力によらないかぎり、武装したブルジョア階級と地主にうち勝つことはできない。この意味から、世界全体を改造できるのは鉄砲だけである、といってよい。われわれは戦争消滅論者であり、戦争を不要とするものである。だが、戦争をつうじて戦争を消滅するよりほかなく、鉄砲を不要にするには、鉄砲を手にとらなければならない。



 三 中国共産党の戦争史


 わが党は、一九二一年(中国共産党の成立)から一九ニ四年(国民党の第一回全国代表大会)までの三、四年間は、直接に戦争を準備し軍隊を組織することの重要性を理解していなかったし、一九二四年から一九二七年までの時期、ないしその後の一時期にも、これについての認識がまだ不十分であった。だが、一九二四年、黄浦軍官学校に参与してからは、新しい段階にはいり、軍事の重要性を理解するようになった。国民党の広東戦争を援助したことと北伐戦争をつうじて、党はすでに一部の軍隊を掌握した〔15〕。革命の失敗から、痛い教訓をくみとり、そこで、南昌ナンチャン蜂起③、秋収蜂起④、広州コヮンチョウ蜂起⑤をおこし、赤軍創設の新しい時期にはいった。この時期は、わが党が軍隊の重要性を徹底的に認識したきわめて重要な時期であった。この時期の赤軍と、赤軍が進めた戦争がなかったならば、すなわち、共産党がもし陳独秀チェントウシウの解消主義をとっていたとすれば、こんにちの抗日戦争とその長期にわたる堅持は、思いもよらないことである。

 一九二七年八月七日の党中央の緊急会議は、.政治上の右翼日和見主義に反対し、党を大きく一歩前進させた。一九三一年一月の第六期中央委員会第四回総会は、名目のうえでは政治上の「左」翼日和見主義に反対したが、実際には、「左」翼日和見主義のあやまりをふたたびおかしたのである。この二つの会議の内容と歴史的役割は異なるが、この二つの会議はどちちも戦争と戦略の問題を重点的にとりあげはしなかった。これは、当時の党の活動の重点がまだ戦争におかれていなかったことを反映したものである。一九三三年、党中央が赤色地域にうつってから、状況は根本的に変わったが、しかし、戦争の問題(およびすべての主要な問題)では、また原則的なあやまりをおかし、革命戦争に重大な損失をあたえた〔16〕。一九三五年の遵義ツンイー会議は、主として戦争における日和見主義に反対し、戦争の問題を第一位においたが、これは戦争という環境の反映である。中国共産党は十七年にわたる闘争のなかで、確固たるマルクス主義の政治路線をきたえあげたばかりでなく、確固たるマルクス主義の軍事路線をもきたえあげた、とこんにちではわれわれは自信をもっていうことができる。われわれは、マルクス主義を運用して政治問題を解決することができるばかりでなく、マルクス主義を運用して戦争問題を解決することもできるのである。また、党を指導し国家を指導できる有能な幹部を大量に養成したばかりでなく、軍隊を指導できる有能な幹部をも大量に養成したのである。これは、無数の革命烈士が熱血をそそいでつちかった革命の花であり、中国共産党と中国人民の誇りであるばかりでなく、世界の共産党と世界の人民の誇りでもある。全世界では、ソ連、中国、スペインの三ヵ国の共産党の指導する三つの軍隊だけがプロレタリア階級と勤労人民のものである。他の各国の党はいずれもまだ軍事的経験をもっていない。したがって、われわれの軍隊と軍事的経験はとりわけ貴重である。

 こんにちの抗日戦争を勝利のうちにすすめていくためには、八路軍、新四軍およびわが党の指導するすべての遊撃隊を拡大し強化することが非常に重要である。この原則のもとで、党は、もっともりっぱな、そして十分な数の党員と幹部を前線へおくるべきである。すべては前線の勝利のためであり、組織的任務は政治的任務にしたがわなければならない。



四 国内戦争と民族戦争における党の軍事戦略の転換


 わが党の軍事戦略の変化は、研究に値する問題である。それを国内戦争と民族戦争の二つの過程にわけてのべよう。

 国内戦争の過程は、だいたい、前後二つの戦略的時期にわけることができる。前期では、主として遊撃戦争であり、後期では、主として正規戦争であった。しかし、正規戦争といっても中国型のもので、兵力を集中しておこなう運動戦、指揮と組織のうえでのある程度の集中性と計画性といった点にあらわれているにすぎず、その他は、依然として遊撃的な低い段階のもので、外国の軍隊と一様に論じることはできないし、国民党の軍隊とも多少ちがっている。したがって、このような正規戦は、ある意味ではたかめられた遊撃戦である。

 抗日戦争の過程も、わが党の軍事的任務からいうと、だいたい、二つの戦略的時期にわけられる。前期(戦略的防御と戦略的対峙たいじの二つの段階をふくむ)においては主として遊撃戦争であり、後期(戦略的反攻の段階)においては主として正規戦争となる。だが、抗日戦争前期の遊撃戦争は、国内戦争前期の遊撃戦争とは多くの異なった内容をもっている。それは正規性(ある程度の)をもった八路軍が分散して遊撃の任務を遂行しているからである。抗日戦争後期の正規戦争も、国内戦争後期の正規戦争とは異なったものとなるであろう。これは新式の兵器で装備されたのちは軍隊と作戦にも一大変革がおこることを想定していうのである。そのときの軍隊は高度の集中性と組織性をもつことになり、作戦は遊撃性が大いに減じて、高度の正規性をもつことになり、低い段階のものは高い段階のものに変わり、中国型のものは世界型のものに変わるであろう。これが戦略的反攻の段階でなすべき仕事である。

 これからみると、国内戦争、抗日戦争という二つの過程と四つの戦略的時期のあいだには、全部で三つの戦略転換がある。第一は、国内遊撃戦争から国内正規戦争への転換である。第二は、国内正規戦争から抗日遊撃戦争への転換である。第三は、抗日遊撃戦争から抗日正規戦争への転換である。

 三つの転換のうち、第一の転換は大きな困難にうちあたった。そこには、二つの面の任務があった。一つは、遊撃性におぼれて正規性に転換したがらない、地方主義と遊撃主義の右よりの偏向に反対することであって、この偏向は幹部がすでに変化した敵情と任務を十分に評価しなかったことからうまれたものである。この点、中央赤色地域についていうと、困難な教育活動をおこなったことによって、ようやくこれをしだいに転換させたのであった。もう一つは、正規化を必要以上に重視する集中主義と冒険主義の「左」よりの偏向に反対することであって、この偏向は、一部の指導幹部が敵情と任務を過大に評価し、しかも実情をみないで、機械的に外国の経験を転用したことからうまれたものである。この点、中央赤色地域では、三年もの長いあいだ(遵義会議以前)、きわめて大きな犠牲をはらったのち、血の教訓のなかからようやくそれを是正したのであった。その是正は遵義会議の成果である。

 第二の転換は、二つの異なった戦争過程のあいだでおこなわれたもので、それは一九三七年の秋(蘆溝橋ルーコウチァオ事変後)のことである。このときの敵は新しい敵、すなわち日本帝国主義であり、友軍はこれまでの敵、国民党(われわれにたいして依然として敵意をいだいている)であり、戦場は広大な華北地方(一時的にはわが軍の正面であるが、まもなく、長期にわたって敵の後方となる)であった。われわれの戦略転換は、こうした特殊な状況のもとでおこなわれたきわめて重大な転換であった。こうした特殊な状況のもとでは、これまでの正規軍と運動戦を、遊撃軍(組織性と規律性についていっているのではなく、分散して使用することをさしている)と遊撃戦に転換させなければ、敵情と任務に合致させることはできなかった。だが、このような転換は、現象的には後退的な転換としてあちわれるので、当然、この転換は非常に困難なものとなる。このときうまれる可能性のあるものは、一つは敵を見くびる偏向であり、もう一つは恐日病であるが、これらはいずれも国民党内ではうまれたのである。国民党は、国内戦争の戦場から民族戦争の戦場に転換するにあたって、主として敵を見くびったことから、同時に恐日病(韓復榘ハンフーチュイ劉峙リウチー〔17〕がその代表である)が存在していたことから、うけなくてもすむ多くの損失をこうむった。ところが、われわれは、かなり順調にこの転換を実行し、挫折ざせつや失敗をこうむらなかったばかりでなく、大きな勝利をおさめた。それは、党中央と一部の軍事幹部のあいだにかつて深刻な論争がおきたにもかかわらず、広範な幹部がときをうつさず党中央の正しい指導をうけいれ、機敏に状況を観察したことによってかちとられたものである。この転換が抗日戦争全体の堅持、発展、勝利、および中国共産党の前途に非常に大きなかかわりをもっていることは、中国の民族解放の運命にたいする抗日遊撃戦争の歴史的意義を考えさえすればわかることである。中国の抗日遊撃戦争は、その特殊な広大さと長期性からいえば、たんに東方で空前のものであるばかりでなく、全人類の歴史のうえでも空前のものであろう。

 抗日遊撃戦争から抗日正規戦争への第三の転換は、戦争の発展する将来にぞくすることであり、そのときには、また新しい状況や新しい困難がうまれるものと予想されるので、いまはそれにふれなくてもよい。



五 抗日遊撃戦争の戦略的地位


 抗日戦争の最後の運命は正規戦争でしか解決できないので、抗日戦争の全体からいえば、正規戦争が主要なものであり、遊撃戦争は補助的なものである。全国的にいえば、抗日戦争の全過程の三つの戦略的段階(防御、対峙、反攻)のうち、始めと終わりの二つの段階は、どちらも正規戦争を主とし、遊撃戦争で補う。中間の段階では、敵が占領地を保持し、わが方は反攻を準備しながらもまだ反攻をおこなうことのできない状況にあることから、遊撃戦争が主要な形態としてあらわれ、正規戦争で補うことになろう。だが、これは時間的にはもっとも長いかもしれないが、戦争全体のなかでは三つの段階のうちの一つの段階にすぎない。それで、全体からいえば、正規戦争が主要なものであり、遊撃戦争は補助的なものである。こうした状況を認識せず、正規戦争が戦争の最後の運命を決するかぎであることを理解せず、正規軍の建設や正規戦の研究と指導に注意をはらわないならば、日本侵略者にうち勝つことはできない。これが一つの側面である。

 だが、遊撃戦争は戦争全体のなかで重要な戦略的地位をしめている。遊撃戦争をおこなわず、遊撃隊と遊撃軍の建設を無視し、遊撃戦の研究と指導を無視するなら、やはり日本侵略者にうち勝つことはできないであろう。なぜなら、中国の大半が敵の後方になるので、もしもっとも広範でもっとも持久的な遊撃戦争をおこなわず、敵をなんら後顧の憂いなく平穏にいすわらせておくなら、わが正面主力の損傷はかならず大きく、敵の進攻はかならずさらに狂気じみたものとなり、対峙の局面はあらわれにくくなって、抗戦の継続に動揺をきたす可能性があり、たとえそうならなくても、わが方の反攻の力を十分に準備できないとか、反攻のときに呼応するものがないとか、敵は消耗しても補充できるとかいった不利な状況もうまれてくるからである。もしもこうした状況があらわれたときに、広範で持久的な遊撃戦争をいちはやく発展させて、それを克服しないならば、日本侵略者にうち勝つことはやはり不可能である。したがって、遊撃戦争は、戦争全体のうえで補助的地位にあるとはいえ、実際には、きわめて重要な戦略的地位をしめている。抗日をしていて、遊撃戦争を無視するのは、疑いもなく非常なあやまりである。これがもう一つの側面である。

 遊撃戦争は、大国という条件さえそなわっていれば可能であるから、古代にも遊撃戦争はあった。しかし、遊撃戦争の堅持は共産党の指導のもとでしかありえない。したがって、古代の遊撃戦争はほとんどが失敗した遊撃戦争であり、現代において共産党の存在する大国、たとえば国内戦争の時期のソ連や中国のような国だけに勝利の遊撃戦争が存在するのである⑥。当面の条件および一般的条件からいうと、抗日戦争における国共両党の戦争の問題での分業として、国民党が正面の正規戦をうけもち、共産党が敵後方の遊撃戦をうけもっということは、不可欠かつ適切なことであり、たがいに必要とし、たがいに呼応し、たがいに協力しあうものである。

 以上のことから、わが党の軍事戦略方針が、国内戦争後期の正規戦争から抗日戦争前期の遊撃戦争に転換したことは、いかに重要であり、必要であったかを知ることができる。その利点を総合すると、つぎの十八項目となる。(一)敵軍の占領地を縮小させること、(二)わが軍の根拠地を拡大すること、(三)防御の段階では、正面の作戦に呼応して敵を牽制すること、(四)対幅の段階では、敵後方の根拠地を堅持し、正面の部隊の整備を有利にすること、(五)反攻の段階では、正面に呼応して、失地を回復すること、(六)もっとも迅速に、もっとも効果的に軍隊を拡大すること、(七)いたるところに共産党を発展させ、どの村にも細胞がつくれるようにすること、(八)いたるところに民衆運動を発展させ、敵の拠点をのぞく敵後方の人民全体が組織できるようにすること、(九)抗日の民主政権をもっとも広範に樹立すること、(十)抗日の文化教育をもっとも広範に発展させること、(十一)もっとも広範に人民の生活を改善すること、(十二)敵の軍隊を瓦解がかいさせるのにもっとも好都合であること、(十三)もっとも広範に、もっとも持続的に全国の人心に影響をあたえ、全国の士気を高揚させること、(十四)もっとも広範に友軍、友党の進歩をうながすこと、(十五)敵が強く、味方が弱いという条件にかなっており、自分の損失を少なくさせ、勝ちいくさを多くさせること、(十六)敵が小さく、味方が大きいという条件にかなっており、敵の損失を多くさせ、その勝ちいくさを少なくさせること、(十七)もっとも迅速に、もっとも効果的に大量の指導幹部をつくりだすこと、(十八)給養の問題を解決するのにもっとも好都合であること。

 長期の闘争をつうじて、遊撃隊や遊撃戦争は、もとの状態にとどまらず、高い段階に発展し、しだいに正規軍と正規戦争に変わっていくべきであることは、これも疑いの余地がない。われわれは、遊撃戦争をつうじて力をたくわえ、自分自身を、日本帝国主義を粉砕する決定的な要素の一つにしていくであろう。



六 軍事問題の研究に注意すること


 両軍の敵対するすべての問題は戦争によって解決されるものであり、中国の存亡は戦争の勝敗にかかっている。したがって、軍事理論の研究、戦略と戦術の研究、軍隊の政治工作の研究は、一刻もゆるがせにしてはならない。戦術の研究は不十分ではあるが、この十年来、軍事活動にたずさわっている同志たちはすでに多くの成績をあげ、中国の条件に即して多くの新しいものを提起している。欠点はまだ総括していないことにある。戦略問題と戦争理論の問題の研究活動は、いまだに、ごくわずかな人びとにかぎられている。政治工作についての研究は第一級の成績をあげており、その経験が豊富なこと、新しい創造が多いうえにすぐれているということでは、全世界でソ連をのぞけばわれわれだといえるが、その欠点は総合性と体系性の不十分さにある。全党と全国の必要を満たすため、軍事知識の大衆化はさしせまった任務となっている。これらのすべてに今後注意すべきであるが、戦争と戦略の理論がすべての根幹である。軍事理論の研究から興味をひきおこして、軍事問題の研究に全覚の注意を喚起することは、必要であるとわたしはおもう。




〔注〕

〔1〕 レーニンの『戦争とロシア社会民主党』『ロシア社会民主労働党在外支部会議』『帝国主義戦争における自国政府の敗北について』『ロシアの敗北と革命的危機』などの著作を参照。レーニンのこれらの著作は、当時の帝国主義戦争について、一九一四年から一九一五年にかけて書いたものである。あわせて『ソ連共産党ボリシェビキ歴史小教程』第六章第三節の「戦争、平和および革命問題におけるボリシェビキの理論と戦術」を参照。

〔2〕 一九二四年、孫中山は、共産党および革命的労働者・農民と連合し、当時イギリス帝国主義と結託して広州で反革命活動をすすめていた買弁・豪紳の武装組織――「商団」をうちやぶった。一九二五年の初め、国共合作の革命軍は広州から東征し、農民の援助をえて、軍閥陳炯明の軍隊をうちやぶった。つづいて広州にもどり、そこで根をはっていた雲南、広西軍閥を消滅した。同年の秋、国共合作の革命軍は二回目の東征をおこない、陳炯明の軍隊を最後的に消滅した。これらの戦役で、共産党員と共産主義青年団員は勇敢に戦闘の最前線にたった。これらの戦役は、当時の広東省に統一の情勢をつくりだし、北伐戦争の基礎をうちたてた。

〔3〕 スターリンの『中国革命の見通しについて』から引用。

〔4〕 一八九四年、孫中山はホノルルで「興中会」という革命的小団体を結成した。一八九五年、清朝政府が中日戦争で失敗した後、孫中山は広東省内で、以前の民間秘密結社「会党」に依拠して、一八九五年の広州の戦いと一九〇〇年の恵州の戦いの二回にわたる清朝に反対する武装蜂起をおこした。

〔5〕 一九〇五年、興中会は清朝に反対する他の二つの団体――華興会および光復会と連合して、同盟会(これは、当時のブルジョア階級、小ブルジョア階級と、清朝に反対する一部の有力者との連合戦線の組織であった)を結成し、「満州族の駆逐、中華の回復、民国の樹立、地権の平均」というブルジョア革命の政綱をかかげた。同盟会の時期に、孫中山は「会見」および新軍と連合して、清朝に反対する武装蜂起を何度もおこした。そのうちの比較的大きなものには、一九〇六年の萍郷、瀏陽、醴陵の戦い、一九〇七年の潮州における黄岡の戦い、欽州の戦い、鎮南関(いまの友宜関――訳者)の戦い、一九〇八年の雲南省の河口の戦い、一九一一年の広州の戦いおよび武昌蜂起がある。

〔6〕 一九一二年、同盟会は改組されて国民党となり、当時の北洋軍閥袁世凱の支配と妥協をおこなった。一九一三年、袁世凱は軍隊を南下させ、辛亥革命から形成されてきた江西、安徽、広東諸省の勢力を圧迫しようとした。孫中山は武力抵抗をおこなったが、まもなく失敗した。一九一四年、孫中山は妥協で失策したことから、当時の国民党とのちがいをしめすため、日本の東京で別に中華革命党を結成した。これは、実際上、一部の小ブルジョア階級と一部のブルジョア階級の政治的代表者の反袁同盟であった。孫中山はこの同盟に依拠して、一九一四年、上海で小規模な蜂起をおこしたことがあった。一九一五年、袁世凱が皇帝と称すると、蔡鍔らの反袁勢力は雲南省で袁世凱討伐の戦争をおこしたが、当時孫中山も武力による袁世凱打倒の積極的な鼓吹者であり活動家であった。

〔7〕 一九一七年、孫中山はその影響下にある海軍をひきいて、上海から広州にいき、広東省を根拠地とし、当時、北洋軍閥段祺瑞に反対していた西南軍閥と連合して、段祺瑞反対の軍政府を組織した。

〔8〕 一九二一年、孫中山は桂林市で北伐の準備をおこなったが、部下の陳炯明が北洋軍閥と結託して寝がえったため、成果を得なかった。

〔9〕 一九二四年、孫中山は中国共産党とソ連の援助を得て国民党を改組したのち、広州付近の黄埔で車官学校を創立した。それが、黄埔軍官学校である。一九二七年、蒋介石が革命を裏切るまでは、ここは国共合作の学校であった。共産党員である周恩来、葉剣英、憚代英、蕭楚女その他多くの同志が前後してこの学校でいろいろな責任ある活動をうけもった。多くの学生も共産党員や共産主義青年団員であった。かれらは、この学校で革命的中堅を形成した。

〔10〕 譚延[”もんがまえ”+”山”の下に”豆”]は湖南省の出身で、清朝の翰林であった。もとは立憲君主制を主張していたが、のちに投機的に一九一一年の革命(辛亥革命)に参加した。その後、かれは国民党の陣営にはいったが、これは湖南地方の地主勢力と北洋軍閥の矛盾を反映したものであった。

〔11〕 進歩党は、民国初年、梁啓超らの一派が袁世凱に依存して組織した政党である。

〔12〕 段祺瑞は袁世凱のふるくからの部下で、北洋軍閥内の安徽系の頭目であった。袁世凱の死後、かれは何度も北京政府の政権をにぎった。

〔13〕 政学系とは、一九二八年、一部の進歩党員と一部の国民党員によって組織された極右の政派で、官職をあさるために南北の軍閥のあいだで投機的な活動をおこなっていた。一九二六年から一九二七年にかけての北伐戦争の時期には、政学系の一部のもの、たとえば親日派黄郛、張群、楊永泰のやからは蒋介石と結託しはじめ、その反動的な政治経験を利用して、蒋介石の反革命政権の樹立をたすけた。

〔14〕 「青年党」とは、いわゆる「国家主義派」の「中国青年党」のことである。本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔1〕にみられる。

〔15〕 ここでは主として、北伐戦争の時期、共産党員葉挺将軍を首長とする独立連隊をさす。本選集第一巻の『井岡山の闘争』注〔14〕を参照。

〔16〕 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』を参照。

〔17〕 韓復榘はもと山東省に駐屯していた国民党軍閥である。劉峙は蒋介石直系の軍閥で、もと河南省にいたか、抗日戦争勃発後、河北省保定の線の防御にあたった。この両軍閥は日本侵略軍が進攻してきたとき、どちらも戦わずに逃走した。

〔訳注〕

① 五・四運動とは、一九一九年五月四日におこった帝国主義、封建主義に反対する革命運動のことである。一九一九年の上半期、第一次世界大戦の戦勝国であるイギリス、フランス、アメリカ、日本、イタリアなどの帝国主義国は、パリで贓品の分配会議をひらき、中国の山東省におけるドイツのさまざまな特権を日本かひきつぐことを決定した。五月四日、北京の学生が真っ先に、集会をひらきデモ行進をおこなって、これに断固反対することを表明した。北洋軍閥政府はそれに弾圧を加え、学生三十余人を逮捕した。そこで北京の学生はストライキをおこして抗議し、各地の学生もぞくぞくとそれに呼応した。六月三日から、北洋軍閥政府はまたも北京で、よりおおがかりな逮捕をはじめ、二日間のうちに、約一千人の学生を逮捕した。この六月三日の事件は、全国人民のより大きな怒りをひきおこした。六月五日から、上海およびその他の多くの地方の労働者はあいついでストをはじめ、商人もあいついで閉店ストをはじめた。これまで、主として知識層の参加していた愛国運動は、その時からプロレタリア階級、小ブルジョア階級およびブルジョア階級の参加する全国的な愛国運動へと急速に発展していった。五・四運動以前におこされていた封建主義に反対し、科学と民主を提唱する新文化運動も、愛国運動の発展につれて、マルクス・レーニン主義の宣伝を主流とする大規模な革命文化運動へと発展していった。

② 本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』注〔7〕を参照。

③ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔30〕を参照。

④ 本選集第一巻の『中国革命戦争の戦略問題』注〔32〕を参照。

⑤ 本選集第一巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』注〔8〕を参照。

⑥ 本選集第一巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』注〔7〕を参照。

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