党内のブルジョア思想に反対する (一九五三年八月十二日)
これは、毛沢東同志が一九五三年夏の全国財政・経済活動会議でおこなった演説である。
今回の会議はひじょうによかったし、周総理の結論もよかった。
いま、われわれは「三反」「五反」運動のあと、党内に性質の異なった二つの誤りがあるのを見いだすことができる。一つは一般的な誤り、たとえば「五多」で、これはだれでも犯すだろうし、いつでも犯す可能性がある。「五多」の誤りはまた「五少」の誤りに変わることもある。もう一つは原則的な誤りで、たとえば資本主義的偏向である。これは党内におけるブルジョア思想の反映であり、マルクス・レーニン主義にそむく立場の問題である。
「三反」「五反」運動は、党内のブルジョア思想にたいへん大きな打撃をあたえた。しかし、当時はただ汚職、浪費の面でのブルジョア思想に基本的な打撃をあたえたにすぎず、路線問題に反映されたブルジョア思想を解決するまでにはいたらなかった。このようなブルジョア思想は、財政・経済活動のなかに存在するばかりでなく、政治・法律、文化・教育およびその他の活動分野のなかにも存在し、中央の同志のなかにも、地方の同志のなかにも存在している。
財政・経済活動のなかでの誤りにたいしては、去年の十二月に薄一波同志が「公私の一律平等」の新税制①をもちだしてから今回の会議にいたるまで、きびしく批判してきた。この新税制をおし進めていけば、必然的に、マルクス・レーニン主義から遊離し、過渡期における党の総路線から遊離して、資本主義にむかって発展していくであろう。
過渡期は、社会主義にむかって発展するのか、それとも資本主義にむかって発展するのか。党の総路線からいえば、社会主義へ移行していくのである。それには相当長い期間の闘争を経なければならない。新税制の誤りは、張子善〔1〕の問題とはちがって思想上の問題であり、党の総路線から遊離しているという問題である。党内においてブルジョア思想に反対する闘争をくりひろげなければならない。思想状況についていえば、党内には三種類の人がいる。ある同志たちは確固としており、動揺しておらず、マルクス・レーニン主義の思想をもっている。一部の同志は、基本的にはマルクス・レーニン主義であるが、非マルクス・レーニン主義の思想もいくぶんかまざっている。少数の人はよくない。かれらの思想は非マルクス・レーニン主義である。薄一波の誤った思想にたいする批判のなかで、薄一波の誤りは小ブルジョア階級の個人主義だという人がいるが、これは妥当ではない。おもにはかれの、資本主義に有利で社会主義に不利なブルジョア思想を批判すべきである。このような批判こそが正しい。「左」翼日和見主義の誤りは、小ブルジョア階級の熱狂性の党内への反映である、とかつてわれわれは言ったが、これはブルジョア階級との決裂の時期に発生したものである。ブルジョア階級と合作をした三つの時期、つまり第一次国共合作の時期、抗日戦争の時期と現在のこの時期には、いずれもブルジョア思想が党内の一部の人に影響をおよぼし、かれらを動揺させた。薄一波は、このような状況のもとで誤りを犯したのである。
薄一波の誤りは孤立したものではなく、中央にあるばかりか、大行政区や省・市の両段階にもある。各大行政区と省・市は、会議をひらいて、中国共産党第七期中央委員会第二回総会の決議と今回の会議の総括をもとに、自己の活動を点検し、これによって幹部を教育する必要がある。
最近、わたしは武漢、南京をひとまわりし、多くの状況を知って大いに得るところがあった。北京ではわたしは、ほとんど何も耳にすることができない。今後も各地をまわってみたいとおもう。中央の指導機関は思想製品をつくる工場である。もし地方の状況を知らず、原料もなく半製品もないとすれば、どうやって製品をつくりだせるのか。あるものは地方ですでに製品になっている。中央の指導機関はこれを全国におしひろめればよいのである。たとえば、旧「三反」と新「三反」〔2〕はともに地方で先にはじめられたのである。中央の各部門は指示を乱発している。もともと中央の各部門が出すものは一級品でなければならない。だが、現在は二級品であるばかりか、大量の製品はまったく使用価値がなく、廃品となっている。大行政区と省・市の指導機関は、思想製品をつくる地方工場であり、ここでも一級品を出さなければいけない。
薄一波の誤りはブルジョア思想を反映したものである。これは資本主義に有利で、社会主義と半社会主義に不利であり、七期二中総の決議に違反している。
われわれはだれに依拠するのか。労働者階級に依拠するのか、それともブルジョア階級に依拠するのか。「ひたすら労働者階級に依拠しなければならない」と、七期二中総の決議にはすでにはっきりのべられている。また、決議は、生産を回復し発展させる問題については、第一が国営工業の生産であり、第二が私営工業の生産であり、第三が手工業の生産であると確定すべきだ、といっている。重点は工業であり、工業の重点は重工業であって、これは国営である。わが国における現在の五種類の経済要素のなかで、国営経済は指導的要素である。資本主義工商業は逐次、国家資本主義へみちびくべきである。
二中総の決議では、生産を発展させる基礎のうえで労働者と勤労人民の生活を改善する、とのべている。ブルジョア思想をもつ人は, この点に留意しない。薄一波はその代表である。われわれの重点は、かならず生産の発展におかれなければならない。しかし、生産の発展と人民の生活改善の両方をともに配慮すべきである。福祉は、はからねばならず、はかりすぎてもいけないが、はからないのはよくない。いま、人民の生活をかえりみず、人民の死活をかえりみない幹部がまだ少なからずいる。貴州省のある連隊は、かつて農民の田畑を大量に占拠したことがあるが、これは人民の利益にたいするゆゆしい侵害行為である。人民の生活をかえりみないのは誤りである。だが重点はやはり生産建設におくべきである。
資本主義経済を利用し、制限し、改造する問題については、二中総でもはっきり言っている。私的資本主義経済にたいしては、その活動範囲、徴税政策、市場価格、労働条件など各方面から制限をくわえ、はびこるにまかせてはならない、と決議にのべている。社会主義経済と資本主義経済は指導と被指導の関係である。制限と反制限は、新民主主義国家における階級闘争の主要な形態である。いま新税制で「公私の一律平等」をとなえているが、これは国営経済が指導的要素であるという路線に違反するものである。
個人経営の農業経済および手工業経済の協同化の問題について、二中総の決議は明確に次のようにのべている。「この種の協同糾合は私有制を基礎とした、プロレタリア階級の指導する国家権力の管理のもとにおかれた、勤労人民大衆の集団経済組織である。中国人民は文化的におくれており、協同組合の伝統がないので、われわれの協同組合運動は、これを普及させ発展させるうえでたいへん困難を感じている。しかし、協同組合はつくることができるし、また、つくらなければならず、普及させ発展させなければならない。国営経済があるだけで、協同組合経済がなければ、われわれは勤労人民の個人経営経済を一歩一歩集団化の方向にむかうよう指導することはできず、新民主主義国家を将来の社会主義国家に発展させることはできず、国家権力におけるプロレタリア階級の指導権をうち固めることはできない。」これは一九四九年三月の決議であるのに、かなり多くの同志は心にとめていないし、これを初耳だとおもっているが、じつは旧聞なのである。薄一波は『農村における党の政治活動を強化せよ』という論文を書いた。そのなかでかれは、個人経営の農民が互助・協同化を経て集団化の道をあゆむのは、「まったくの空想である。なぜなら現在の互助組は、個人経営経済を基礎としており、このような基礎から漸次集団農場に発展することはできず、このような道を経て全体的な規模で農業を集団化させることはなおさらできない」とのべている。これは党の決議に違反している。
いま、二種類の統一戦線、二種類の同盟がある。一つは労働者階級と農民との同盟で、これが基礎である。一つは労働者階級と民族ブルジョア階級との同盟である。農民は勤労者であり、搾取者ではない。労働者階級と農民との同盟は長期的なものである。しかし、労働者階級と農民のあいだには矛盾がある。われわれは自由意思の原則にもとづいて、農民を個人所有制から集団所有制に一歩一歩みちびくべきである。将来、国家所有制と集団所有制のあいだにも矛盾が出てくる。これらは非敵対性の矛盾である。労働者階級とブルジョア階級との矛盾は敵対性の矛盾である。
ブルジョア階級はかならず人をむしばみ、糖衣弾を打ちこんでくる。ブルジョア階級の糖衣弾には物質的なものもあれば精神的なものもある。その精神的な糖衣弾が一つの標的に命中した。それが薄一波である。かれの誤りはブルジョア思想の影響をうけたことにある。新税制を宣伝した社説に、ブルジョア階級は拍手をおくり、薄一波は喜んだ。新税制についてかれは、事前にブルジョア階級の意見を求め、ブルジョア階級と紳士協定を結んだが、中央には報告していないのである。当時、商業部、購買販売合作総社はこれに賛成していなかったし、軽工業部も不満であった。財政・経済、商業関係の百十万の幹部と職員・労働者の絶対多数はよいが、少数のよくない者がいる。これらのよくない者はまた二つにわけることができる。一部分は反革命分子で、これは一掃すべきである。もう一部分は党員と非党員をふくむ、誤りを犯した革命者であり、批判、教育の方法でかれらを改造すべきである。
社会主義事業の成功を保証するためには、全党で、まず中央、大行政区、省・中という三段階の共産党、政府、軍隊、人民団体の各指導機関で、右翼日和見主義の偏向、すなわち党内のブルジョア思想に反対しなければならない。各大行政区と省・市は、適当な時期に地区委員会書記、地区専員②の参加する会議を招集して、批判と討論をくりひろげ、社会主義の道と資本主義の道の問題についてはっきり説明すべきである。
社会主義事業の成功を保証するためには、かならず集団指導を実施し、分散主義に反対し、主観主義に反対すべきである。
われわれは、いま、主観主義に反対するにあたり、盲目的に暴走する主観主義に反対するとともに、保守的な主観主義にも反対しなければならない。かつて、新民主主義革命の時期に、主観主義の誤りを犯したことがあるが、それには右よりのものもあれば「左」よりのものもあった。陳独秀、張国燾は右より、王明は、はじめは「左」より、のちには右よりであった。延安での整風運動のときは、集中的に教条主義に反対し、付帯的に経験主義に反対した。両者とも主観主義であった。理論と実際が結びつかなければ、革命は勝利することができない。整風はこの問題を解決した。われわれは、前の誤りを後のいましめとし、病をなおして人を救うという方針をとったが、それは正しかった。今回、薄一波にたいして断固とした徹底的な批判をおこなったのは、誤りを犯した人に、誤りを改めさせるためであり、社会主義が勝利のうちに前進するのを保証するためである。いまは社会主義革命の時期であるが、この時期にも主観主義はある。あせって暴走するとか保守的であるとかいうのは、実際の状況に即して仕事をしていないことであって、ともに主観主義である。主観主義を一掃しないかぎり、革命と建設は成功しない。民主主義革命の時期には、主観主義の誤りにたいして整風の方法でこれを解決し、全党の正しい路線を実行した同志と誤りを犯した同志とを団結させた。こうして、みんな延安から出発してそれぞれの戦場におもむき、全党が一丸となって全国の勝利をかちとったのである。いま、幹部はわりあいに成熟しており、レベルも高まっている。あまり多くの時間をかけすに、指導活動のなかでの主観主義を基本的に一掃し、主観と客観を合致させるよう努力することを希望する。
これらのすべての問題を解決する鍵は、集団指導を強面にし、分散主義に反対することである。われわれは一貫して分散主義に反対してきた。一九四一年二月二日、中央は各中央局および各将領に指示を出し、およそ、全国的な意義のある通電や宣言、対内指示は、かならず事前に中央の指示を仰ぐよう規定した。五月に、中央は各根拠地における対外宣伝の統一についての指示を発した。同年七月一 日、党の成立二十周年を記念したさい、中央は、党性を強化することについての決定を発し、重点的に分散主義に反対した。一九四八年に中央が出した分散主義に反対する指示はもっと多い。一月七日、中央は、報告制度確立についての指示を発し、三月にまたその補充指示を出した。同年九月には、政治局会議で、中央にたいする指示要請と報告の制度にかんする決議をおこなった。九月ニ十日、中央は、党委員会制度の健全化をはかる決定をおこなった。一九五三年三月十日、政府の各部門が党中央の指導から離脱する危険をさけるため、中央は、政府活動への指導を強化する決定をおこなった。
集中と分散はつねに矛盾している。都市にはいってから、分散主義はひどくなっている。この矛盾を解決するためには、すべての主要な、また南要な問題は、まず党委員会が討議、決定してから政府によって執行されるべきである。たとえば、天安門に人民英雄記念碑を建てることや、北京の城壁をとりはらうことなどの大きな問題は、中央の決定を経て政府によって執行されている。副次的な問題は、政府部門の党グループによって処理されるべきで、あらゆる問題をみな中央が背負うわけにはいかない。分散主義に反対することは、たいへん人びとによろこばれる。なぜなら、党内の大多数の同志は、集団指導に心をくばっているからである。集団指導にたいする態度では、党内に三種類の人がいる。第一種の人は、集団指導に心をくばっている。第二種の人は、それほど心をくばらず、党委員会が自分を監督しないのがいちばんのぞましいが、監督してもよいと考えている。「監督しないのがいちばんのぞましい」、これは党性が欠如しており、「監督してもよい」にはまだ党性がある。われわれは、その「監督してもよい」という一面をとらえ、その党性の欠如している面について説得、教育すべきである。さもなければ、それぞれの部は自分勝手に事をはこび、中央はそれぞれの部を監督できず、部長は司・局長を監督できず、処長は科長を監督できず、だれかだれをも監督できなくなる。こうなれば王国がふえ、八百諸侯がのさばることになる。第三種の人はごく少数である。かれらはかたくなに集団指導に反対し、党が自分を永遠に監督しないのがいちばんよいと考えている。党性を強化することについての決定のなかで、民主集中制の規律を厳格に実施するよう強調し、少数は多数に服従し、個人は組織に服従し、下級は上級に服従し、全党は中央に服従する(これは多数が少数に服従するのであるが、この少数は多数を代表している)とのべている。意見があるなら出せばよく、党の団結を破壊するのはもっとも恥ずべきことである。集団の政治経験と集団の知恵に依拠してこそ、党と国家の正しい指導が保証され、党の隊列のゆるぎない一致団結が保証されるのである。
今回の会議で、劉少奇は自分にいくらかは誤りがあると言った。鄧小平同志も自分にいくらかは誤りがあると言った。だれであろうと誤りを犯したら自己批判すべきであり、党の監督をうけ、各段階の党委員会の指導をうけるべきである。これは党の任務をやりとげるための主要な条件である。全国には、無政府状態につけこんで飯を食っている人がたくさんいる。薄一波はこのような人物だ。かれは、政治上、思想上いくらか腐敗している。かれを批判するのはまったく必要なことである。
最後に話したいのは、謙虚と学習、それに堅忍不抜の精神を提唱すべきだということである。
堅忍不抜でなければならない。たとえば、抗米援朝の戦年で、われわれはアメリカ帝国主義をこっぴどくたたき、かれらは相当におそれをなしている。これは、われわれの建設に有利であり、われわれが建設をすすめる重要な条件である。とりわけ重要なのは、われわれの軍隊が鍛錬され、兵士は勇敢になり、幹部も知謀に富んできたことである。もちろん、われわれも犠牲者を出し、金をつかい、代償をはらった。しかし、われわれは犠牲をおそれない。やらないときはそれまでだが、やりだしたらとことんまでやるのである。胡宗南が陝西・甘粛・寧夏辺区に進攻してきたとき、われわれは県都を一つ残すのみであったが、辺区からは撤退しなかった。必要とあらば木の葉をも食べる。このような根性がなければならない。
学習しなければならない。おごり高ぶったり、他人を見下げたりしてはならない。鵝鳥のタマゴが鶏のタマゴを見下げたり、鉄金属が希有金属を見下げたりするような、他人を見下げる態度は非科学的である。中国は大きな国であり、わが党は大きな党ではあるが、小さな国や小さな党を見下げる理由はない。兄弟諸国の人民にたいしては、永遠に学ぶ態度をもつべきであり、真の国際主義精神をもつべきである。対外貿易の面で一部の人は、おごり高ぶり尊大にふるまっているが、これはまちがいである。全党で、とくに国外で仕事をする人たちのあいだで、この点について教育すべきである。一心に学び、懸命に仕事をして、十五年あるいはもうすこし長い期間に、社会主義的工業化と社会主義的改造を基本的に完成しなければならない。そのとき、わが国が強火になっても、やはり謙虚でなければならず、永遠に学ぶ態度をもつべきである。
七期二中総には、決議のなかに書きいれない幾つかの規定があった。その一に曰く、誕生祝いをしない。誕生祝いをしても長生きするわけではない。なによりも仕事をりっぱにやることである。その二に曰く、贈り物をしない。すくなくとも党内ではしてはならない。その三に曰く、あまり献杯してはいけない。特定の場合はかまわない。その四に曰く、拍手を少なくする。ただ、禁止する必要はなく、大衆の熱意から出たものには水をさすべきでない。その五に曰く、人の名前を地名につけない。その六に曰く、中国の同志をマルクス、エンゲルス、レーニン・スターリンと対等にならべてはいけない。これは学生と先生の関係であって、当然のことである。これらの規定を遵守することこそ謙虚な態度である。
要するに、謙虚と学習、それに堅忍不抜の精神を堅持し、集団指導の体制を壁侍して、社会主義的改造をなしとげ、社会主義の勝利をかちとらなければならない。
〔注〕
〔1〕 張子善は、かつて中国共産党天津地区委員会書記の任にあったが、ブルジョア階級にむしばまれて大汚職犯に堕落し、「三反」運動のなかで死刑に処せられた。
〔2〕 旧「三反」とは、一九五一年にくりひろげられた汚職反対、浪費反対、官僚主義反対の闘争をさす。新「三反」とは、一九五三年にくりひろげられた官僚主義反対、命令主義反対、法規・規律違反反対の闘争をさす。
〔訳注〕
① この新税制は、一九五二年十二月に提出され、一九五三年一月から実施された。こうした税制は、「公私の一律平等」とうたっているが、実際には納税の面で私営工商業の負担を軽くし、国営と協同組合経営の工商業の負担を重くするもので、国営と協同組合経営の工商業には不利であり、資本家に有利であった。毛沢東同志が批判したあと、この誤りはすみやかに是正された。
② 若干の県を管轄する地区段階の専員公署の行政面の責任者をいう。専員公署とは、省・自治区人民委員会の出先機関である。




