映画『武訓伝』についての討論を重視すべきである (一九五一年五月二十日)
これは、毛沢東同志が『人民日報』にかわって書いた社説の抜粋である。
『武訓伝』の提起している問題は、根本的な性質をおびている。武訓①のような人物は、清朝の末期、中国人民が外国の侵略者や国内の反動的な封建支配者とたたかったその偉大な闘争の時代に生きながら、封建的な経済的土台とその上部構造には指一本ふれなかったばかりか、逆に封建的文化を熱狂的に宣伝し、しかも自分のもっていなかった、封建的文化の宣伝者としての地位を手にいれようとして、反動的な封建支配者のまえにはいつくばうという卑屈のかぎりをつくしたのである。このような醜悪な行為は、われわれの賛美すべきものであろうか。このような醜悪な行為を人民大衆のまえで賛美し、さらには「人民に奉仕する」という革命の旗じるしをもちだして賛美し、ついには革命的な農民闘争の失敗まで引きあいにだして賛美するということは、果たしてわれわれの許せることであろうか。このような賛美を認め、あるいは許すということは、とりもなおさず農民の革命闘争を誹謗し、中国の歴史を誹謗し、中国民族を誹謗する反動的宣伝を、正当な宣伝として認め、あるいは許すことである。
映画『武訓伝』があらわれたこと、とくに武訓と映画『武訓伝』にたいする賛美がこんなにも多いことは、わが国文化界の思想的混乱がどんなにひどいものであるかを物語っている。
多くの論者の目からみると、歴史の発展とは、新しい事物を旧い事物にとって代わらせることではなく、旧い事物を死滅させぬよう、さまざまな努力をはらって守っていくことであるらしい。それはまた、当然くつがえすべき反動的な封建支配者を階級闘争によってくつがえすことではなく、武訓のように被抑圧人民の階級闘争を否定し、反動的な封建支配者に投降することであるらしい。われわれの論者たちは、これまでの歴史において、中国人民を抑圧した敵はどういう人間であったのか、これらの敵に投降し、奉仕した人間には果たして称賛すべき点があったのかどうかを検討しようとしない。われわれの論者たちはまた、一八四〇年のアヘン戦争いらい百年あまりのあいだに、中国では旧い社会経済構造およびその上部構造(政治、文化など)とたたかうどのような新しい社会経済構造、新しい階級勢力、新しい人物、新しい思想がうまれたのか、これを検討したうえでなにを称賛あるいは賛美すべきであるか、なにを称賛あるいは賛美すべきでないか、なにに反対すべきであるかを決めようとはしないのである。
とくに注意を要するのは、マルクス主義を身につけたと称する一部の共産党員である。かれらは社会発展史――史的唯物論を学びはしたが、いったん具体的な歴史上の事件、具体的な歴史上の人物(たとえば武訓)、具体的な反歴史的思想(たとえば映画『武訓伝』、その他の武訓にかんする著作)にぶつかると、それを批判する能力をうしない、なかにはこうした反動思想に投降するものさえ出てくる。ブルジョア階級の反動思想が戦闘的な共産党にはいりこんでいること、これは事実でないとでもいうのだろうか。一部の共産党員が身につけたと称するそのマルクス主義は、いったいどこへ消しとんでしまったのであろう。
以上にのべたいろいろな理由から、この問題での混乱した思想を徹底的にただすため、映画『武訓伝』、その他の武訓にかんする著作と論文について討論をくりひろげるべきである。
〔訳注〕
① 武訓(一八三八~一八九六年)は山東省堂邑の人で、もとは無職の遊民であった。「乞食興学」(こじきをして私塾をつくる)の看板をかかげて、金銭をだまし取り、土地を買ったり金を貸したりして、ついに大地主、大金貸しになった。かれは、悪徳地主と結託して「義学」なるものをつくり、封建的文化をさかんに宣伝して、搾取階級の奴僕を養成し、歴代の反動的支配者から大いに称揚された。




