元中国侵略日本軍総司令官岡村寧次の再逮捕と国民党内戦犯罪人の逮捕を国民党反動政府に命令することについての中国共産党スポークスマンの談話 (一九四九年一月二十八日)
南京国民党反動政府の中央通信社一月二十六日発の電報はこうつたえている。「政府スポークスマンはつぎのように語った。政府は、早急に戦争を終わらせて人民の苦しみを軽減するために、一月以来さまざまな段どりをつけ措置をこうじてきた。本月二十二日にはさらに正式に和平交渉の代表を任命した〔1〕。この数日間は、話し合いをおこなうために、中共側が代表を指名し場所をきめるのを待つばかりである。だが二十五日の新華社陝北放送のつたえる中共スポークスマンの談話〔2〕は、一方では、政府と平和的解決について話し合いたいと声明しながら、他方では、ほしいままに侮辱的言辞を弄し、理不尽なことばかりいっている。しかも交渉の場所は、北平がすっかり解放されてからでなければ確定できないという。では聞くが、中共側がもし即時代表を指名し場所をきめることをせず、また、軍事行動を停止せずに、北平の完全解放後まで待つということを口実にするなら、それは時間をひきのばし、戦禍を長びかせるものではないか。戦禍を終わらせたいという全国人民の希望にはすでに猶予できないものがあることを知らねばならない。政府は絶大の誠意を披瀝するために、中共がつぎのこと、つまり、こんにちの問題は、人民を救うことを前提として、すみやかに代表を指名し、話し合いをすすめて、平和をはやく実現するにあるということをはっきり認識するよう、いまなお期待するものである。」また南京中央社一月二十六日上海発の電報はこうつたえている。「日本人戦犯、元中国派遣軍総司令官岡村寧次大将は、二十六日、国防部戦犯裁判軍事法廷で再審ののち、十六時、石美瑜裁判長から無罪の判決を言いわたされた。そのとき、法廷は緊張した空気につつまれた。岡村は不動の姿勢で判決の言いわたしを聞き、かすかに顔をほころばせた」うんぬんと。以上にもとづいて、中国共産党スポークスマンはつぎの諸点を表明する。
(一)日本人戦犯、元中国派遣軍総司令官岡村寧次大将は、日本の中国侵略派遣軍のあらゆる戦争犯罪人のなかでも主要な戦争犯罪人であるが〔3〕、このたび南京国民党反動政府の戦犯軍事法廷で無罪の判決をうけた。中国共産党と中国人民解放軍総司令部は、これは許すべからざることである、と声明する。中国人民は、八年の抗日戦争のあいだに、数知れぬ生命、財産をうしなったが、さいわいにして勝利をおさめ、この戦犯を捕えたのであり、南京国民党反動政府が勝手に無罪の判決を下すことは断じて許せない。全国の人民、すべての民主政党、人民団体および南京国民党反動政府関係の愛国者は、このような、民族の利益を売りわたし日本のファシスト軍閥と結託する、南京反動政府側の犯罪行為にたいし、ただちに立ちあがって反対しなければならない。われわれはここで、南京反動政府の先生がたに厳重に警告する。諸君はただちに岡村寧次をあらためて逮捕監禁しなければならない、これにそむくことは許されない、と。このことは、諸君が現在われわれとの交渉をもとめていることと密接な関係がある。われわれの見るところでは、諸君の現在のさまざまな行為は、いつわりの和平交渉によってふたたび戦備をととのえるのをおおいかくすためのものであって、その戦備のなかには、諸君が日本の反動派を中国につれこみ、いっしょになって中国人民を殺すという陰謀がふくまれている。諸君が岡村寧次を釈放した目的は、そこにあったのである。したがって、われわれは、諸君がそんなことをするのを断じて許さない。われわれは諸君にたいし、つぎのように命令する権利がある。諸君はあらためて岡村寧次を逮捕するとともに、われわれがのちほど通知する期日と地点にしたがって、責任をもってかれを人民解放軍のもとに護送しなければならない。その他の日本人戦犯は、しばらく諸君が拘禁しておき、われわれの処理をまつこと、これを一人でも勝手に釈放したりわざと逃がしたりしてはならない。違反者は容赦なく厳罰に処する。
(二)南京国民党反動政府スポークスマンの一月二十六日の声明からわかったことは、南京の先生がたの和平交渉にたいする要求があれほど懸命、熱烈、慇懃、切実であるのは、すべて「戦争の期間を短縮し」「人民の苦しみを軽減し」「人民を救うことを前提とする」ためだそうだ、ということであり、また、中国共産党側が諸君のねがいをうけいれることにそれほど懸命でも熱烈でも熊熱でも切実でもなく、「軍事行動も停止しない」というのは、まったく「時間をひきのばし、戦禍を長びかせる」ものだというふうにうけとられている、ということである。われわれは、南京の先生がたに卒直に申しあげたい。諸君は戦争犯罪人であり、裁きをうける人間である。諸君が口にする「平和」とか「民意」といったものを、われわれは信じない。諸君はアメリカの勢力をたのみにし、人民の意志にそむき、休戦協定と政治協商会議の決議をふみにじって、この残酷きわまる反人民、反民主、反革命の国内戦争をおこした。そのとき諸君はあんなにも懸命、熱烈、慇懃、切実になって、だれの勧告も聞きいれなかった。諸君はにせ国民大会をひらき、にせ憲法を制定し、にせ総統を選挙し、「反乱鎮定のための動員」というにせ政令を出すのにもあんなに懸命、熱烈、慇懃、切実になって、またもやだれの勧告も聞きいれなかった。そのときは、上海、南京および各大都市の官営団体、御用団体のいわゆる参議会、商業会議所、労働組合、農民組合、婦人団体、文化団体がいっせいに「反乱鎮定のための動員の支持」「共産匪の消滅」をわめきたてたが、このばあいにもまたあんなに懸命、熱烈、慇懃、切実になって、またまただれの勧告をも聞きいれなかった。そのときから二年半たったが、諸君に殺された人民は数百万にとどまらず、諸君に焼きはらわれた村落、暴行をくわえられた婦人、略奪された財物、諸君の空軍の爆撃によってうしなわれた生命、財産は数えきれないほどである。諸君はこのうえもない大罪をおかしたのだ。この債務はどうしても清算しないわけにはいかない。聞けば、諸君は清算闘争にかなり反対だとのことである。しかし、こんどの清算闘争はいわれのあることで、どうしても清算しないわけにはいかないし、どうしても闘争にかけないわけにはいかない。諸君は戦争に負けたのだ。諸君は人民を激怒させた。人民はいっせいに立ちあがって、諸君と必死にたたかった。人民は諸君を好まず、人民は諸君を責め、人民は立ちあがった。諸君は孤立した。そのために諸君は戦争に負けたのだ。諸君は五ヵ条〔4〕をかかげ、われわれは八ヵ条〔5〕をかかげたが、人民はただちにわれわれの八ヵ条を支持し、諸君の五ヵ条は支持しなかった。諸君にはわれわれの八ヵ条を反はくするだけの勇気がなく、諸君の五ヵ条を堅持するだけの勇気がなかった。諸君はわれわれの八ヵ条を交渉の基礎にしたいと声明した。そして、これならいいだろう、なぜはやく交渉をはじめないのか、というわけで、諸君はひどく懸命、熱烈、慇懃、切実になり、「無条件に休戦する」「戦争の期間を短縮する」「人民の苦しみを軽減する」「人民を救うことを前提とする」としきりに主張するようになった。ところでわれわれのほうはどうか、というと、あきらかに、懸命でも熱烈でも慇懃でも切実でもなく、「時間をひきのばし、戦禍を長びかせ」ている。だが、南京の先生がた、ちょっと待ちたまえ。われわれもいまに懸命になり、熱烈になり、慇懃になり、切実になるし、戦争の期間はかならず短縮することができ、人民の苦しみはかならず軽減することができる。諸君がわれわれの八つの条件を双方の交渉の基礎とすることに同意した以上、諸君とわれわれはこれからいっせいに忙しくなるにちがいない。この八ヵ条を実行するとなると、諸君も、われわれも、すべての民主政党も、人民団体も、さらに全国各界の人民も、数ヵ月、半年、一年、数年は忙しくなるだろうし、おそらくは、それでもまだかたづかないだろう。南京の先生がた、よく聞いてもらいたい。八ヵ条は抽象的な条文ではなく、具体的な内容をもつものにしなければならないので、さしあたっては、やはりみんなでよく考えてみることが大切である。そのためにいくらかひまだったところで、人民も了解してくれるにちがいない。卒直にいって、こんどの交渉はじゅうぶんに準備をととのえてかかるようにというのが、人民の意見である。交渉はかならずやる。だれにしても、中途で態度をかえて交渉をこばむようなことは、ぜったいに許されない。したがって、諸君の代表もかならず、来るように準備をととのえていなければならない。だが、われわれはなおしばらく準備をしなければならないし、戦争犯罪人たちがわれわれにかわって交渉の期日をきめることは許さない。われわれと北平の人民はいま、八つの条件にもとづいて平和的に北平問題を解決するという重要な仕事にとりくんでいる。北平にいる諸君の側の人、たとえば傳作義将軍などもこの仕事にくわわっているが、諸君はすでに、諸君の通信社の公告をつうじて、この仕事の正しさを認めている〔6〕。このことは和平交渉のために場所を準備するばかりか、さらに南京、上海、武漢、西安、太原、帰綏、蘭州、迪化、成都、昆明、長沙、南昌、杭州、福州、広州、台湾、海南島などの和平問題の解決に手本をしめすものである。したがって、この仕事は称賛されるべきもので、南京の先生がたもこれにたいしてあまり慎重さを欠く態度をとるべきではない。われわれはいま、戦争犯罪人の名簿の問題について、われわれの区域と諸君の区域の両方の各民主政党、人民団体および無党派民主人士と相談し、第一の条件の具体的内容を準備している。この名簿は多分まもなく、正式に発表できるだろう。南京の先生がた、諸君も知っているとおり、われわれと各民主政党、人民団体は現在なお、そうした名簿について相談をすませて正式に発表するところまできていない。これは先生がたにご了承をねがわなければならないことである。その原因は、諸君の和平交渉についての要求がいささかおそかったことにある。もうすこしはやければ、われわれはもう準備を終えていたかもしれない。しかし、諸君もやることがないわけではない。日本人戦犯の岡村寧次を逮捕するだけでなく、諸君はただちに一群の内戦犯罪人の逮捕、何よりもまず、昨年十二月二十五日の中国共産党権威筋の声明のなかに名前をあげられた四十三人の戦犯で、南京、上海、奉化、台湾などにいるものの逮捕にとりかからなければならない。そのうちのもっともおもだったものは、蒋介石、宋子文、陳誠、何応欽、顧祝同、陳立夫、陳果夫、朱家驊、王世杰、呉国楨、戴伝賢、湯恩伯、周至柔、王叔銘、桂永清などである〔7〕。とくに重要なのは蒋介石で、同犯人は現在すでに奉化に逃げており、外国に逃げだしてアメリカあるいはイギリス帝国主義に庇護をもとめる可能性が多分にある。したがって諸君は、ぜひとも、すみやかに同犯人を逮捕すべきで、逃がしてはならない。このことについては諸君が完全に責任を負うべきで、もし逃亡するようなことがおこれば、かならず匪賊放任の罪に問い、断じて容赦はしない。そのときになって、予告がなかったなどといってはならない。これらの戦争犯罪人を逮捕してはじめて、戦争の期間を短縮し、人民の苦しみを軽減するためにまじめに仕事を一つしたことになる、とわれわれは考える。戦争犯罪人どもがなお存在するかぎり、戦争の期間はひきのばされ、人民の苦しみは増すばかりである。
(三)以上の二項目について、南京反動政府の回答をもとめる。
(四)八ヵ条のうちのその他の各条について双方が準備すべきことがらは、別の機会にあらためて南京に通知する。
〔注〕
〔1〕 当時、国民党反動政府の任命した和平交渉の代表は、邵力子、張治中、黄紹竑、彭昭賢、鐘天心の五人であった。
〔2〕 一九四九年一月二十五日の、中国共産党スポークスマンの和平交渉にかんする談話は、つぎのように指摘した。「南京反動政府が代表を派遣してわれわれと交渉をおこなうことをわれわれが承認したのは、この政府にまた中国人民を代表する資格かあると認めているからではなく、この政府の手もとにまだ一部の反動的な残存軍事力があるからである。もしこの政府が、自分はすでにまったく人民の信任をうしなっていると感じ、その手中にある残存反動軍事力ではもはや強大な人民解放軍に抵抗すべくもないと感じて、中国共産党の八つの和平条件をうけいれることをねがうならば、交渉という方式で問題を解決して人民の苦しみを少なくすることは、もちろんより好ましく、人民の解放事業にも有利である。」また、談話は、交渉の場所については、「北平がすっかり解放されてからでなければ確定できないが、おそらく北平になろう」とのべ、交渉の代表については、「彭昭賢は、もっとも強硬な主戦派である国民党CC派の主要幹部の一人で、人びとから戦争犯罪人とみなされており、中国共産党側はこうした代表をうけいれることはできない」とのべている。
〔3〕 岡村寧次は、中国侵略の経歴のもっとも長い、罪のもっとも大きな日本人戦犯の一人である。かれは一九二五年から一九二七年まで、北洋軍閥孫伝芳の軍事顧問をつとめた。一九二八年に日本軍の歩兵連隊長となり、日本軍の済南侵略戦争に参加し、済南虐殺事件の下手人となった。一九三二年には、日本の上海派遣軍副参謀長として上海侵略戦争に参加した。一九三三年には、日本政府を代表して国民党売国政府と「塘沽協定」に調印した。一九三七年から一九四五年までの期間に、日本軍第十一軍、華北方面軍、第六方面軍の司令官、および中国派遣軍総司令官を歴任し、中国において、残虐きわまりない、焼きつくし、殺しつくし、奪いつくす「三光政策」を実行した。一九四五年八月、延安で公布された日本人戦犯名簿に、最重要戦争犯罪人としてあげられた。人民解放戦争の期間には、蒋介石の秘密軍事顧問として、蒋介石のために解放区への進攻を画策した。一九四九年一月、国民党反動政府から無罪の判決をうけ、釈放されて帰国した。一九五〇年にはまたもや、蒋介石から「革命実践研究院」の高級教官として招聘された。 一九五五年からはまた、日本陸海軍の旧軍人をあつめて「戦友団体連合会」(のちに郷友連盟と改称)をつくり、日本軍国主義復活の反動的活動に積極的に参与している。
〔4〕 国民党反動政府のかかげた「五ヵ条」とは、蒋介石が一九四九年元旦の声明のなかでかかげた、和平交渉についての五つの条件、つまり、一、「国家の独立・保全をそこなわないこと」、二、「人民の休養・生存に役立つこと」、三、「神聖な憲法が余の故をもっておかされることなく、民主的憲政がそれによって破壊されることなく、中華民国の国体が確保され、中華民国の法的正統性が中断されないこと」、四、「軍隊が確実な保障をあたえられろくと」、五、「人民が自由な生活様式と当面の最低生活水準を維持しうること」をさす。毛沢東同志は当時この五ヵ条にきびしい反ばくをくわえた。本巻の『戦犯の和を乞うを評す』にみられる。
〔5〕 中国共産党の「八ヵ条」とは、一九四九年一月十四日に毛沢東同志が時局についての声明のなかでかかげた、和平交渉についての八つの条件をさす。本巻の『中国共産党中央委員会毛沢東主席の時局にかんする声明』にみられる。
〔6〕 国民党中央通信社が一九四九年一月二十七日に発表した南京政府国防部の公告にはつぎのようにのべられていた。「華北方面では、戦争の期間を短縮し、平和を招来して、古都北平の基礎および文化財、古跡の保全をはかるため、傳作義総司令は、二十二日、公告を発表し、二十二日午前十時より停戦にはいるむね宣言した。北平市の国軍の大部分は、ただちに総司令部の指示にしたがい、前後して市区より撤退し、指定の地点にはいった。」公告にはまた「綏遠、大同の両地もまた停戦にはいることになっている」とのべられていた。
〔7〕 宋子文は国民党の財閥で、国民党政府の財政部長、行政院長、外交部長、駐米特使などを歴任した。陳誠はかつて国民党参謀総長をつとめたが、当時は国民党政府の台湾省主席であった。何応欽はかつて国民党の参謀総長、国防部長をつとめた。顧祝同は当時、国民党軍の参謀総長をつとめていた。陳立夫、陳果夫、朱家驊はいずれも国民党CC派のおもだった頭目であった。王世杰はかつて国民党政府の外交部長をつとめた。呉国楨は当時、国民党政府の上海市長をつとめていた。載伝賢とは載季陶のことで、長いあいだ、蒋介石の策士としてはたらき、当時は国民党の中央常務委員であった。湯恩伯は当時、国民党の南京・上海・杭州警備総司令をつとめていた。周至柔は当時、国民党空軍総司令をつとめていた。王叔銘は当時、国民党空軍副総司令兼参謀長をつとめていた。桂氷清は当時、国民党海軍総司令をつとめていた。




