平津戦役〔1〕の作戦方針について (一九四八年十二月十一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために起草した、林彪、羅栄桓らの同志あての電報である。平津戦役は、中国人民解放戦争のなかで決定的な意義をもつ三つのもっとも大きな戦役の最後の一つであった。この戦役では、五十二万余の国民党軍を殲滅あるいは編成がえし、北平、天津、張家口などの重要都市を解放し、華北解放の戦争を基本的に終わらせた。毛沢東同志がここで提起している戦役方針は完全に実現された。
一、張家口、新保安、懐来の敵ならびに北平、天津、塘沽、唐山全地区の敵は、いくつかの部隊、たとえば第三十五軍団、第六十二軍団、第九十四軍団のうちの若干の師団が、防御工事によって守備すればなお比較的大きな戦闘力をもっているほかは、いずれもはなはだしく攻撃精神に欠けており、弓の音におびえる鳥のようになっている。諸君が山海関以南にはいってからはとくにそうである。敵の戦闘力をけっして過大評価してはならない。わが一部の同志は、これまで敵の戦闘力を過大評価して痛い目にあったことがあったが、批判されてからは、かれらもそれがわかるようになった。現在、張家口、新保安両地の敵は確実に包囲されており、だいたいにおいて、包囲を突破して逃げることはむずかしい。第十六軍団はその約半数がたちまち殲滅された。懐来の敵第一○四軍団はあわてて南へ逃げたが、今明日中にはおそらく殲滅されるだろう。この敵が殲滅されたのち、諸君は第四縦隊を西南方〔2〕から東北方にすすめて、南口・北平間の連係を断つよう準備されたい。これを実現するのは容易ではないとおもう。というのは、第九十四軍団と第十六軍団の残りの部隊が急速に北平に撤退するか、第九十四軍団、第十六軍団、第九十二軍団が南口・昌平・沙河鎮地区に集結して、集団防御にあたるかするからである。しかし、第四縦隊がこの行動に出れば、北平の西北郊と北郊を直接おびやかすことになるので、これらの敵を牽制して動けないようにすることができる。もし、これらの敵がそれでもなお西進し、第三十五軍団の増援にむかうならば、直接その退路を断つかあるいは直接北平を攻撃することができるので、これらの敵はおそらくそれ以上西進することはあえてしないだろう。華北のわが楊得志・羅瑞卿・耿飈兵団は、九コ師団で第三十五軍団の三コ師団を包囲しているが、これは圧倒的に優勢である。かれらははやくその敵を殲滅したいといっているが、われわれは、北平、天津の敵をひきつけて、敵が海上から逃げる決意を容易に下しかねるようにさせるため、かれらにしばらくのあいだ攻撃をひかえさせようと考えている。かれらは、今度、二コ縦隊で第三十五軍団を包囲し、一コ縦隊で第一〇四軍団を阻止して、両方とも撃退した。
二、われわれは現在、諸君が第五縦隊をただちに南口付近にさしむけて、東北方から北平、南口、懐柔の敵をおびやかすことに同意する。この縦隊を同地にとどまらせて、のちに(ほぼ十日または十五日後、つまり華北の楊得志・羅瑞卿・耿飈兵団が第三十五軍団を殲滅したのち)第四縦隊を東にまわすことができるようにする。したがって、第五縦隊にたいして、本日もひきつづき西進するよう命令されたい。
三、第三縦隊はぜったいに南口にむかってはならない。同縦隊は、九日のわれわれの電報どおり、北平以東、通県以南の地区に移動し、東から北平をおびやかし、第四縦隊、第十一縦隊、第五縦隊とともに北平にたいする包囲を形成する。
四、しかし、われわれの真の目的は、まず北平を包囲することではなく、まず天津、塘沽、蘆台、唐山の諸点を包囲することである。
五、われわれの見通しでは、諸君の第十縦隊、第九縦隊、第六縦隊、第八縦隊、砲兵縦隊、第七縦隊は、ほぼ十二月十五日前後に、玉田を中心とする地区に集結することができるだろう。天津、塘沽、蘆台、唐山の諸点の敵が十二月二十日から十二月二十五日までの数日間なおだいたいにおいて現状のままであれば、諸君はこの間に迅速な行動をとり、第三縦隊(北平東郊から東へさしむける)、第六縦隊、第七縦隊、第八縦隊、第九縦隊、第十縦隊などの六コ縦隊をもってこれら諸点の敵を包囲するようわれわれは提案する。その方法は、ニコ縦隊を武清を中心とする地区、すなわち廊房、河西務、楊村の諸点に配置し、五コ縦隊を天津、塘沽、蘆台、唐山、古冶の諸点間に突入させ、これらの敵のあいだの連係を断ちきることである。各縦隊はいずれも、敵を阻止する陣地を両面に構築し、敵がのがれられないようにしておいて、部隊の休養と整備・訓練をおこない、疲労を回復し、そのうえで、いくつかの比較的小さな敵を攻撃、殲滅する。そのさい、第四縦隊は、北平の西北から北平の東に移動する。華北のわが楊得志・羅瑞卿・耿飈兵団は、第四縦隊が移動するまえに新保安の敵を殲滅する。東側では、状況におうじて、まず塘沽の敵を殲滅し、海港を制圧するようつとめる。塘沽(もっとも重要)、新保安の二点を攻略しさえすれば、それで全局が生きてくる。以上の部署配置は、事実上、張家口、新保安、南口、北平、懐柔、順義、通県、宛平涿県、良郷はすでにわが軍に占領されている)、豊台、天津、塘沽、蘆台、唐山、開平の諸点の敵をぜんぶ包囲したことになるのである。
六、この方法は、諸君が義県、錦州、錦西、興城、綏中、山海関、灤県の線での作戦で用いた方法〔3〕とだいたい同じである。
七、本日から三週間のあいだ(十ニ月十一日から十二月二十五日まで)は、包囲はしても攻撃はせず(たとえば張家口、新保安にたいしておこなっているように)、あるばあいには遮断はしても包囲はしない(すなわち、戦略的包囲をおこない、敵のあいだの連係を断ちきるだけで、戦役的包囲はおこなわない。たとえば、北平、天津、通州にたいしておこなっているように)ことを基本原則とし、部署配置の完了をまって敵を各個に殲滅する。とくに張家口、新保安、南口の敵はこれをみな殲滅してはならない。それは、南口以東の敵に、一目散に逃げだすことをいそいで決断させることになるからである。この点はぜひのみこんでおいてもらいたい。
八、蒋介石に、北平、天津の敵を海上から南へ輸送することをいそいで決断させないようにするため、われわれは劉伯承、鄧小平、陳毅、粟裕にたいし、黄維兵団を殲滅したのち、杜聿明の指揮する邱清泉、李瀰、孫元良の諸兵団(すでにその約半数を殲滅している)の残存兵力をそのままにしておき、二週間のあいだはこれを最後的に殲滅する部署配置をしないよう命令するつもりである。
九、敵を青島へ逃がさないようにするため、われわれは山東方面にたいし、若干の兵力を集中して済南付近の黄河の一区間を制圧するとともに、あらかじめ青島=済南鉄道沿線で準備をととのえておくよう命令するつもりである。
十、敵が徐州、鄭州、西安、綏遠の各方面にむかって逃げる可能性はないか、あるいはきわめてすくない。
十一、唯一の、あるいは主な懸念は、敵が海上から逃げることである。このため、ここ二週間は、一般的に、包囲はしても攻撃はしない方法、あるいは遮断はしても包囲はしない方法をとる。
十二、この計画は敵の意表にでるものであるから、諸君が部署配置を最後的に完了するまでは、敵にはなかなか察知できない。敵はいまおそらく、諸君が北平を攻撃するものと考えているだろう。
十三、敵は弓の音におびえる鳥のようになっていながらも、つねにわが軍の積極性を過小評価し、自己の力を過大評価している。北平、天津の敵は、諸君が十二月二十五日以前に上述の部署配置を完了できるとはけっして考えていないだろう。
十四、十二月二十五日以前に上述の部署配置を完了するため、諸君は、この二週間は疲労をいとわず、兵員の減少をおそれず、寒さや飢えをおそれぬよう部隊を激励し、上述の部署配置を完了してから休養と整備・訓練をおこない、そのうえでゆうゆうと攻撃にうつる。
十五、攻撃の順序はだいたい、第一に塘沽・蘆台地区、第二に新保安、第三に唐山地区、第四に天津、張家口の両地区、最後に北平地区とする。
十六、上述の計画についての諸君の見解はどうか。この計画になにか欠点はないか。これを遂行するにあたって、どんな困難があるか。すべてを考慮のうえ返電されたい。
〔注〕
〔1〕 平津戦役は、東北野戦軍と華北の二コ兵団が、林彪、羅栄桓、聶栄臻らの同志の指揮のもとに、共同しておこなったもので、一九四八年十二月上旬、東北の遼瀋戦役が勝利のうちに終わったのち、ただちに開始された。東北野戦軍は、東北地方全域を解放する任務を勝利のうちになしとげたのち、毛沢東同志の指示にしたがい、すみやかに行動をおこして山海関以南にすすみ、人民解放軍華北兵団と力をあわせて華北の国民党軍を包囲殲滅した。そのとき、国民党華北「匪賊討伐総司令部」総司令傳作義の指揮する六十余万の国民党軍は、人民解放軍の東北地方における勝利におどろき、あわてて兵力をひっこませ、海上から南へ逃げるか、あるいは西の綏遠にのがれようとした。わが軍は迅速な行動をもって敵を北平、天津、張家口、新保安、塘沽の五つの拠点に分断して包囲し、南と西への敵の退路を遮断した。十二月二十二日には、新保安の敵の主力第三十五軍団の本部と二コ師団を包囲殲滅した。二十四日には張家口を攻略し、ここを守備する敵第十一兵団所属の一コ軍団の本部と七コ師団、計五万四千余人を殲滅した。一九四九年一月十四日には、天津を包囲したわが軍は、敵の守備部隊の指揮官陳長捷が武装解除を拒否したのち、総攻撃を開始し、二十九時間にわたる激戦をへて、敵の守備部隊十三万余人をせんぶ殲滅し、陳長捷を捕虜にして、天津を解放した。こうして、北平守備の二十余万の敵は、わが方の厳重な包囲をうけて、まったく窮地におちいった。わが方の働きかけによって、北平守備の敵は、傳作義将軍に率いられて、平和的に編成がえすることをうけいれた。わが軍は、一月三十一日、北平に入城し、北平を平和裏に解放した。こうして、平津戦役は勝利のうちに終わった。この戦役で、塘沽守備の敵五万余人が海上から逃げたのをのぞいて、人民解放軍は計五十二万余人の国民党軍を殲滅あるいは編成がえした。綏遠の国民党軍は、一九四九年九月、蜂起して、編成がえをうけいれるむね通告電を発した。
〔2〕 ここでいう「西南方」とは、南口の西南地区をさす。
〔3〕 東北野戦軍は、一九四八年九月に北平=瀋陽鉄道沿線で戦ったさい、この線の義県、錦州、錦西、興城、綏中、山海関、灤県、昌黎の敵がしりぞいて集結しないようにするため、まず一部の兵力をもって上述の諸点の敵をそれぞれ包囲し、遮断したうえで、一つ一つ殲滅するという方法をとった。




