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中国革命戦争の戦略問題 第五章(一九三六年十二月)

第五章 戦略的防御




 この題目のもとで、わたしはつぎの諸問題を説明しようとおもう。(一)積極的防御と消極的防御、(二)反「包囲討伐」の準備、(三)戦略的退却、(四)戦略的反攻、(五)反攻開始の問題、(六)兵力集中の問題、(七)運動戦、(八)速決戦、(九)殲滅戦。






     第一節 積極的防御と消極的防御




 なぜ防御から説きはじめるのか。一九二四年から一九二七年までの、中国の第一次民族統一戦線が失敗してから、革命はきわめて深刻な、きわめて残酷な階級闘争となった。敵は全国的な支配者であり、われわれはわずかな小部隊しかもっていなかったので、はじめから敵の「包囲討伐」とのたたかいとなった。われわれの進攻は、「包囲討伐」をうちやぶることと密接に結びついており、われわれの発展の運命は、「包囲討伐」をうちやぶることができるかどうかにかかっている。「包囲討伐」をうちやぶる過程は、往々にして、まがりくねったもので、思うままにまっすぐすすめるものではない。まず第一の、しかも重大な問題は、どういうふうに力を保存し、敵をやぶる機会を待つかということである。したがって、戦略的防御の問題は、赤軍の作戦のなかで、もっとも複雑なもっとも重要な問題となる。


 十年間にわたるわれわれの戦争のなかでは、戦略的防御の問題について、二種類の傾向がしばしばうまれた。一つは敵をみくびることであり、もう一つは敵におびえることである。


 敵をみくびったために、多くの遊撃隊は失敗したし、赤軍は、敵の何回かの「包囲討伐」をうちやぶることができなかった。


 革命的な遊撃隊ができたばかりのころ、指導者は敵味方の情勢にたいして、とかく正しくない見方をしがちであった。かれらは、自分たちがあるところで、突然武装蜂起をおこして勝利したか、または反乱をおこして白軍からでてきて、一時的に環境が非常に順調であったことしか見なかったため、あるいはきびしい環境にありながら、それが目にはいらなかったために、とかく敵をみくびりがちであった。他面、かれらは自分の弱点(経験がなく力が弱いといった点)についても理解していなかった。敵が強く、味方が弱いということは、もともと客観的に存在している現象であるが、そのことをその人たちは考えようとせず、防御と退却をとりあげずに、一途いちずに進攻だけをとりあげて、防御について精神的に武装を解除したため、行動をまちがった方向にみちびいた。多くの遊撃隊は、このために失敗した。


 これとおなじような原因で、赤軍が「包囲討伐」をうちやぶれなかった例としては、一九二八年の広東コヮントン省海豊ハイフォン・陸豊ルーフォン地域での赤軍の失敗〔17〕があり、また一九三二年、湖北・河南・安徽辺区の赤軍が、国民党は補助軍となったという説にひきずられて、四回目の「包囲討伐」に反対する闘争で、余裕のある措置をとる能力を失ってしまった事実がある。


 敵におびえて挫折ざせつした例は多い。


 敵をみくびるものとは反対に、ある人びとは敵を強く見すぎ、味方を弱く見すぎたため、必要でない退却の方針をとり、おなじように防御について精神的に武装を解除してしまった。その結果、あるいは遊撃隊の失敗となり、あるいは赤軍のいくつかの戦役での失敗となり、あるいは根拠地の喪失となった。


 根拠地を失ったもっともいちじるしい例は、五回目の「包囲討伐」に反対する闘争において江西省の中央根拠地を失ったことである。ここでのあやまりは、右翼的な観点からうまれている。指導者たちは敵を虎のようにおそれ、敵の後方へ攻めいるもともと有利な進攻もしきれなければ、また、大胆に思いきって敵をふかく誘いいれ、それを包囲して殲滅することもしきれずに、いたるところで防備をし、一歩一歩さがっては抵抗した結果、根拠地全部を失い、赤軍に一万二千余キロの長征をおこなわせることになった。しかし、このようなあやまりには、しばしばある種の極左的な、敵を軽視するあやまりが先立っていた。一九三二年にとられた中心都市進攻の軍事的冒険主義こそ、のちに敵の五回目の「包囲討伐」に対処するにあたって、消極的な防御路線をとるようになった根源である。


 敵におびえた極端な例は、退却主義の「張国燾路線」である。赤軍第四方面軍の西路軍の黄河ホヮンホー以西での失敗〔18〕は、この路線の最終的な破産であった。


 積極的防御は攻勢防御ともいい、決戦防御ともいう。消極的防御は専守防御ともいい、単純防御ともいう。消極的防御は、実際には、にせの防御であって、積極的防御だけがほんとうの防御であり、反攻と進攻のための防御である。わたしの知っているかぎりでは、価値のあるどんな兵書でも、また、わりあい聡明などんな軍事家でも、古今東西をとわず、戦略的にも、戦術的にも、消極的防御に反対しないものはない。もっともおろかなものか、あるいは、もっとも思いあがったものだけが、消極的防御を万能の宝としてあがめるのである。しかし、世間にはあいにくとこういう人間がいて、こういうことをしでかす。これは戦争のなかでの過失であり、軍事上における保守主義のあらわれであり、われわれは断固としてこれに反対しなければならない。


 あとからおこって、しかも急速に発展した帝国主義国、すなわち、ドイツ、日本両国の軍事家は、戦略的防御に反対し、戦略的進攻の利益を積極的に鼓吹している。このような思想は、中国の革命戦争には全然適しない。帝国主義ドイツ、日本の軍事家たちは、防御の重要な弱点として、人心をふるいたたせることができず、逆に人心を動揺させるという点を指摘している。これは、階級間の矛盾がはげしく、反動的な支配階層ないし政権をにぎっている反動的な政党だけが、戦争から利益をうける国家についていうことである。われわれの事情はこれとちがう。われわれは被抑圧者であり、被侵略者であるから、革命の根拠地をまもれ、中国をまもれ、というスローガンのもとで、最大多数の人民を結集し、心を一つにして戦うことができる。ソ連の国内戦争の時期における赤軍もやはり防御形態のもとで、敵にうち勝った。かれらは、帝国主義諸国が白衛軍を組織して進攻してきたときに、ソビエトをまもれというスローガンのもとで戦ったばかりでなく、十月蜂起を準備した時期にも、やはり首都をまもれというスローガンのもとで軍事動員をおこなった。正義の戦争での防御戦はすべて、政治的異分子をまひさせる作用をもっているばかりでなく、おくれた人民大衆を動員して戦争に参加させることができるのである。


 武装蜂起をおこしたのちは、かたときも進攻を停止してはならない〔19〕とマルクスがいっているのは、敵の不備に乗じて突如蜂起した大衆が、反動的支配者に、政権保持、政権奪回の機会をあたえず、この一瞬を利用して、国内の反動的支配勢力を、手のうつすきもないようにたたかなければならないのであって、すでにえた勝利に満足して敵をみくびったり、敵にたいする進攻をゆるめたり、あるいはたじろいで進まず、みすみす、敵を消滅する時機を失い、革命の失敗をまねくようなことがあってはならないという意味である。これは正しい。だが、これは、敵味方の双方がすでに軍事的に敵対していて、しかも、敵が優勢で、敵からの圧迫をうけているときでも、革命党員は防御の手段をとってはならないという意味ではない。もし、そんなふうに考えるものがあるとすれば、それこそ、一番のおろか者である。


 われわれの過去の戦争は、全体としていえば、国民党にたいする進攻であるが、軍事上では「包囲討伐」をうちやぶる形態をとった。


 軍事上からいうと、われわれの戦争は防御と進攻を交互に応用したものである。われわれにとって、問題の鍵は「包囲討伐」をうちやぶることにあるので、防御のあとに進攻があるといってもよいし、あるいは防御のまえに進攻があるといってもよい。「包囲討伐」をうちやぶるまでは防御であり、「包囲討伐」をうちやぶったとたんに進攻がはじまるが、それは一つのことの二つの段階にすぎず、しかも敵の「包囲討伐」はそのつど、つぎの「包囲討伐」と連結している。この二つの段階のうち、防御の段階は進攻の段階よりいっそう複雑であり、いっそう重要である。この段階は、「包囲討伐」をどのようにうちやぶるかについての多くの問題をふくんでいる。その基本的原則は、消極的防御に反対し、積極的防御を認めることである。


 国内戦争からいうと、もし赤軍の力が敵をしのいだときには、一般的に、戦略的防御をとる必要はなくなる。そのときの方針は戦略的進攻だけである。このような変更は、敵味方の力の全般的な変化によるものである。そのときになれば、のこされた防御の手段は、ただ局部的なものでしかない。






第二節 反「包囲討伐」の準備




 敵の毎回の計画的な「包囲討伐」にたいして、もしわれわれが、必要な、また十分な準備をしていなければ、必然的に受動的地位におちいる。そのときになってあわてて応戦するのでは、勝利の確実性はない。したがって、敵が「包囲討伐」を準備しているそのときに、われわれも反「包囲討伐」の準備をすることが、ぜひとも必要である。われわれの隊列内にかつてあらわれたような準備に反対する意見はふきだすほど幼稚なものである。


 ここには、論争を引きおこしやすい一つの困難な問題がある。それは、いつ味方の進攻をうちきって、反「包囲討伐」の準備段階にうつるかということである。なぜなら、味方が勝利の進攻をつづけ、敵が防御の地位にあるときには、敵の「包囲討伐」の準備は秘密のうちにすすめられており、かれらがいつ進攻をはじめるかをわれわれが知るのはむずかしいからである。われわれが反「包囲討伐」の準備活動を早めにはじめると、進攻の利益が減少することはまぬがれず、しかも、ときには、赤軍や人民にいくらかわるい影響をあたえることもある。なぜなら、準備段階での主要な段どりは、軍事上の退却準備と、退却準備のための政治的動員をおこなうことだからである。ときには、準備が早すぎたため、敵を待つことになり、ながいこと待っても、敵がやってこないので、ふたたび自分から進攻をはじめなければならなくなることもある。また、われわれがふたたび進攻をはじめたばかりのときに、ちょうど敵の進攻の開始にであい、困難な立場に立たされることもある。したがって、準備をはじめる時機を選ぶことは、重要な問題となる。このような時機の断定には、敵味方の双方の状況と、両者間の関係からみていかなければならない。敵の状況を知るためには、敵側の政治、軍事、財政および社会世論などの各方面から資料をあつめなければならない。またこれらの資料を分析するときには、敵の力全体を十分に評価しなければならず、敵の過去における失敗の程度を過大にみてはならないが、敵の内部の矛盾、財政上の困難、過去の失敗による影響などを評価しないようなことがけっしてあってはならない。自分の側についてはL 過去における勝利の程度を過大にみてはならないが、過去の勝利がもたらした影響を十分評価しないようなこともけっしてあってはならない。


 しかし、準備をはじめる時機の問題では、一般的にいうと、おそすぎるよりも、むしろ早すぎる方がよい。なぜなら、後者の方が、前者よりも損失がすくなく、その利益としては、備えあれば憂いなしで、根本的に不敗の地位にたつからである。


 準備の段階での主要な問題は、赤軍の退却準備、政治的動員、新兵の募集、財政および糧秣りょうまつの準備、政治的異分子の処置などである。


 赤軍の退却準備ということは、つまり、赤軍を退却に不利な方向にむかわせないこと、あまり遠くまで進攻しないこと、赤軍をあまり疲労させないことである。これは敵が大挙進攻してくる前夜において、主力としての赤軍がとるべき措置である。このばあい、赤軍の注意力は、主として、戦場の創造、資材の調達、自己の拡大と訓練などの計画にそそがれなければならない。


 政治的動員は、反「包囲討伐」闘争における第一の重要な問題である。それは、敵の進攻が必至であり切迫していることと、敵の進攻が人民にたいして重大な危害をもたらすことについて、また、敵の弱点や、赤軍のすぐれた条件、われわれはかならず勝利しなければならないという決意、われわれの活動の方向などについて、赤軍の成員と根拠地の人民に、明確に、決然と、十分に説明することである。そして赤軍および全人民に、「包囲討伐」反対と、根拠地防衛のためにたたかうようよびかける。軍事機密をのぞいて、政治的動員は、公然とやるべきであり、しかも、革命の利益を擁護する可能性のあるすべての人びとにゆきわたるようにつとめなければならない。その重要な環は幹部を説得することである。


 新兵の募集は二つの面から考えていかなければならない。一つは、人民の政治的自覚の程度と人口状態を配慮することであり、もう一つは、その時の赤軍の状況と反「包囲討伐」戦役全体のなかでの赤軍の消耗の可能な限度を配慮することである。


 財政と糧秣の問題が、「包囲討伐」反対闘争において重大な意義をもっていることはいうまでもない。「包囲討伐」の期間が長びくかもしれないことを配慮しなければならない。主として赤軍、さらには、革命根拠地の人民が反「包囲討伐」闘争全体で必要とする物資の最低限度を計算しておくべきである。


 政治的異分子にたいして、かれらを警戒しないのはいけないが、かれらの裏切りをおそれるあまり、過度の警戒手段をとるのもいけない。地主と商人と富農のあいだには、区別をつけるべきであるが、主要なことは、かれらに政治の面から説明し、かれらの中立化をたたかいとるとともに、民衆を組織してかれらを監視することである。逮捕などのきびしい手段をとってもよいのは、ごく少数のもっとも危険な分子にかぎられる。


 反「包囲討伐」闘争の勝利の度合いは、準備段階での任務の完成の度合いと密接に結びついている。敵をみくびることからうまれる準備怠慢、敵の進攻におびえることからうまれるあわてふためきは、いずれも断固として反対すべきわるい偏向である。われわれの必要とするものは、熱烈であるが沈着な態度と、緊張しているが秩序のある活動である。



第三節 戦略的退却


 戦略的退却は、劣勢な軍隊が優勢な軍隊の進攻を前にして、その進攻を急速に撃破できないとみたばあいに、軍事力を保存し、敵をやぶる機会を待つためにとる計画的な戦略的段どりである。ところが、軍事冒険主義者は、「敵を国門の外でふせぐ」ということを主張し、このような段どりにあくまで反対する。

 だれでも知っているように、ふたりの拳法けんぽう家が立ちむかったばあい、かしこい拳法家はよく相手に一歩をゆずるが、おろかな者は、猛烈ないきおいで、初手にすべての手をだしつくしてしまい、その結果、ゆずったほうに打ちたおされることがしばしばある。

 『水滸すいこ伝』にでてくる供師範は柴進の家で林冲を打とうとして、「さあ来い、さあ来い」とつづけざまに叫んだが、その結果、供師範は、一歩ゆずった林冲にすきを見ぬかれて、ひとけりで、けたおされてしまった〔20〕。

 春秋時代の魯国が斉国〔21〕と戦ったとき、魯の荘公ははじめ、斉軍の疲れるのを待たずに、出撃しようとしたが、曹劌そうけいにとめられ、「敵が疲れればわれわれは襲う」方針をとって、斉軍に勝ち、中国の戦史で、弱軍が強軍に勝った有名な戦例をつくった。歴史家左丘明〔22〕の記述によるとつぎのようである。



 「春、斉の、我をつ。公、まさに戦わんとす。曹劌、まみえんことをこわんとす。その郷人曰いわく、『肉食の者、これをはかる。またなんぞかんせん。』劌曰く、『肉食の者はいやし。いまだ遠く謀ることあたわず』と。すなわちりて見ゆ。問う、『何をもって戦わんとするや。』公曰く、『衣食の安んずるところ、あえもっぱらにせず、かならずもって人にわかてり。』こたえて曰く、『小恵にしていまだ遍からず、民従わざらん。』公曰く、『犠牲玉帛ぎせいぎょくばく、敢てくわえざるなり、かならず信を以てせり。』こたえて曰く、『小信にしていまだならす。神福さいわいせざるなり。』公曰く、『小大の獄、察することあたわずといえども、かならず情を以てせり。』こたえて曰く、『忠のたぐいなり、以て一戦すべし。戦わばすなわちしたがわん』と。公これとともに乗りて長勺ちょうしゃくに戦う。公まさにこれにつづみうたんとす。劌曰く、『いまだ可ならず』と。斉人三たびうつ。劌曰く、『可なり』と。斉の師敗績す。公まさにこれにせんとす。劌曰く、『いまだ可ならす』と。くだりてそのわだちをみ、しょくに登りてこれを望みて曰く、『可なり』と。遂に斉の師をおう。すでにかちて、公その故を問う。こたえて曰く、『それ戦いは勇気なり。一たび鼓うちて気をおこし、ふたたびして衰え、みたびしてく。彼竭き、我盈つ。故にこれにかてり。それ大国ははかりがたし。伏あらんことをおそれたり。われ、その轍をみるに乱れ、その旗を望むになびきたり。故にこれをおえり』と。」〔23〕


 当時の状況は、弱国が強国に抵抗していたのである。この文章のなかには、戦いの前の政治上の準備――人民の信頼をうる点が指摘されており、反攻に転ずるのに有利な陣地――長勺のことがのべられており、反攻をはじめるのに有利な時機――敵軍の勇気が尽き、わが軍の勇気がみらている時のことがのべられており、追撃開始の時機――わだちがみだれ、旗がたおれている時のことがのべられている。これは大きな戦役ではないが、同時に、戦略的防御の原則が説かれている。中国の戦史には、この原則にあって勝利をかちえた実例は非常に多い。楚と漢の成皐せいこうの戦い〔24〕、新と漢の昆陽の戦い〔25〕、袁紹えんしょう曹操そうすおの官渡の戦い〔26〕、呉との赤壁の戦い〔27〕、呉としょく彝陵いりょうの戦い〔28〕、秦と晋の淝水ひすいの戦い〔29〕など有名な大戦は、いずれも双方に強弱のちがいがあるばあい、弱者が先に一歩をゆずり、あとからうってでて相手を制したために、戦いに勝ったものである。

 われわれの戦争は、一九ニ七年の秋からはじまったが、当時はぜんぜん経験がなかった。南昌蜂起〔30〕、広州コヮンチョウ蜂起〔31〕は失敗した。秋収蜂起〔32〕では、湖南・湖北・江西省境地区の赤軍も、数回敗戦をなめて、湖南、江西省境の井岡山地区にうつった。その翌年の四月、南昌蜂起の失敗後保存されていた部隊も、湘南省南部をへて、井岡山にうつってきた。しかし、一九二八年の五月からは、当時の状況にかなった、素朴な性質をもつ、遊撃戦争の基本原則がうまれていた。それは「敵が進んでくれはわれわれは退き、敵がとどまればわれわれはなやませ、敵が疲れればわれわれは襲い、敵が退けばわれわれは追いかける」という四句の要訣ようけつである。この四句の要訣の軍事原則は、李立三路線以前の党中央が承認したものである。そののち、われわれの作戦原則には、一歩すすんだ発展がみられた。江西省の根拠地での一回目の反「包囲討伐」のときになって、「敵をふかく誘いいれる」という方針が提起され、しかも応用して成功した。敵の三回目の「包囲討伐」にうち勝ったころになると、赤軍の作戦原則全部ができあがっていた。このときは、軍事原則の新しい発展段階で、内容は大いに豊富になり、形式にもまた多くの変化があった。主としては、いままでの素朴性をのりこえたことであるが、基本的な原則はやはりさきの四句の要訣であった。四句の要訣には反「包囲討伐」の基本原則が包括され、戦略的防御と戦略的進攻の二つの段階が包括され、防御のばあいには、また戦略的退却と戦略的反攻の二つの段階が包括されている。のちのものは、それが発展したにすぎない。

 ところが、一九三二年の一月から、すなわち、「三回にわたる『包囲討伐』が粉砕されたのち、一省または数省でまず勝利をたたかいとる」という重大な原則上のあやまりをふくむ党の決議が発表されてからは、「左」翼日和見主義者は正しい原則にたいして闘争をすすめ、最後には、この一連の正しい原則を廃して、これとは反対のいわゆる「新原則」あるいは「正規の原則」という別の一体系をつくりあげた。これ以後は、いままでのは正規のものといわれなくなり、それは否定すべき「遊撃主義」というものになった。「遊撃主義」反対の空気が、まる三年間も支配した。その第一段階は軍事冒険主義であり、第二段階では軍事保守主義にうつり、最後の第三段階では逃走主義に変わってしまった。党中央が一九三五年一月、貴州コイチョウ省の遵義で拡大政治局会議をひらくにいたって、はじめてこのあやまった路線の破産が宣告され、まえの路線の正しさが、あらためて確認された。そうなるまでにはなんと大きな代価を払ったことか!

 「遊撃主義」にやっきになって反対する同志たちはいう。敵をふかく誘いいれるのは、多くの土地を放棄することで、まちがいである。まえには、それで勝利をえたことがあるが、いまはもう、まえとはちがっているではないか。しかも、土地を放棄しないで敵に勝てるなら、なおよいではないか。敵の地区、あるいはわが方の地区と敵の地区とが境を接しているところで、敵にうち勝つ方が、なおよいではないか。いままでのものは、なんらの正規性もなく、遊撃隊のつかう方法にすぎない。現在、われわれの国家はすでに成立しており、われわれの赤軍も正規化している。われわれと蒋介石との戦争は、国家と国家との戦争であり、大軍と大軍との戦争である。歴史はくりかえすべきではなく、「遊撃主義」的なものは全部なげすてるべきである。新しい原則は「完全なマルクス主義」的なものである。いままでのものは、遊撃隊が山のなかでつくりあげたもので、山のなかにはマルクス主義はない。新しい原則は、これとは反対で、「一をもって十にあたり、十をもって百にあたり、勇猛果敢で、勝利に乗じてまっしぐらに追撃し」、「全線にわたって出撃し」、「中心都市を奪いとり」、「二つのゲンコツで敵をうつ」ものである。敵が進攻したときに対処する方法は、「敵を国門の外でふせぎ」、「先んじて相手を制し」、「家財道具をぶちこわされないようにし」、「一寸の土地をも失わず」、「兵を六路にわける」ことであり、「革命への道と植民地への道との決戦」であり、短距離強襲、堡塁戦、消耗戦、「持久戦」であり、大後方主義、絶対的集中指揮であり、そして最後は、大規模な引っ越しである。しかも、これらのことを承認しない者には、懲罰をくわえ、日和見主義というレッテルをはる、等々である。

 疑いもなく、これらすべての理論と実際は、みなあやまったものである。これは主観主義である。これは環境の順調なときの小ブルジョア階級の革命的熱狂と革命せっかち病のあらわれであり、情勢が困難になると、状況の変化につれて、体当たり主義、保守主義、さらに逃走主義へとつぎつぎに変わっていく。これこそ、向こうみず屋としろうとの理論と実践であり、マルクス主義のにおいはいささかもないもので、反マルクス主義的なものである。

 ここでは戦略的退却についてのべるだけであるが、江西省ではこれを「敵をふかく誘いいれる」といい、四川スーチョワン省では「陣地のひきしめ」といっている。従来の軍事理論家や実際家も、これを弱軍が強軍と戦うばあい、戦争開始の段階でとらなければならない方針だと認めないものはない。外国の軍事家も、かつて「戦略的守勢に立つ作戦においては、たいてい、まず不利な決戦をさけ、有利な状況にしてからはじめて決戦する」といっている。これは完全に正しいし、われわれもこれになんらつけ加えるものはない。

 戦略的退却の目的は、軍事力を保存し、反攻を準備することにある。退却が必要なのは、強敵の進攻を前にして、もし一歩ゆずらなければ、かならず軍事力の保存をあやうくするからである。ところが前には、多くの人が、退却を「日和見主義的な、防御一点ばりの路線」とみなして、断固反対した。われわれの歴史は、すでに、こうした反対が完全にあやまりであることを証明している。

 反攻を準備するには、味方に有利で、敵に不利ないくつかの条件をえらび、つくりださなければならず、敵味方の力の対比に変化をおこさせてのち反攻の段階にはいるのである。

 われわれの過去の状況からいえば、だいたい退却の段階で、つぎの諸条件のうち、すくなくとも二つ以上の条件を獲得しなければ、味方に有利で敵に不利だということにはならず、反攻に転ずることができるようにはならない。その条件とは――

 (一)赤軍を積極的に援助する人民があること

 (二)作戦に有利な陣地があること

 (三)赤軍主力を全部集中すること

 (四)敵の弱い部分を発見すること

 (五)敵を疲労させ、士気を阻喪させること

 (六)敵にあやまちをおかさせること

 人民というこの条件は、赤軍にとってもっとも重要な条件である。根拠地の条件とはこれである。しかも、この条件から、第四、第五、第六の条件も容易につくられ、あるいは発見されるのである。だから、敵が大挙して赤軍を進攻してくるときには、赤軍はいつも白色区から根拠地に退却するのである。なぜなら、根拠地の人民は、赤軍が白軍とたたかうのをもっとも積極的に援助するからである。根拠地でも、周縁地区と中心地区とではちがいがある。中心地区の人民は情報もれの防止、偵察、輸送、戦争への参加などの点で、周縁地区の人民よりすぐれている。だから「退却の終点」としては、これまで、江西省での一、二、三回目の反「包囲討伐」のときには、いずれも人民という条件がもっともよいか、あるいは比較的によい地区をえらんだ。根拠地のこうした特徴が、赤軍の作戦に、通常の作戦とくらべて、非常に大きな変化をおこさせ、それがのちに敵に堡塁主義をとることをよぎなくさせた主要な原因ともなった。

 進攻してくる軍隊を、どうしてもこちらのおもうつぼにはまりこむように、退却する軍隊が、自分のおもいどおりの有利な陣地をえらべるということ、これが内線作戦のすぐれた条件の一つである。弱軍が強軍にうち勝つには、陣地というこの条件を吟味しなければならない。しかし、この条件だけではまだたらず、それに呼応する他の条件がなお要求される。まず第一は人民という条件である。そのつぎには、攻撃しやすい敵、たとえば敵が疲労しているとか、あるいはまちがいをおこしたとか、あるいは前進してくる敵のその部隊が、比較的に戦闘力に欠けているとか、が要求される。これらの条件がそなわらないときは、たとえすぐれた陣地があっても、それをすておいて、自分のおもいどおりの条件がみたされるまで、ひきつづき退却するよりほかない。白色区には、すぐれた陣地がないわけではないが、人民というすぐれた条件がない。もし、他の条件もまだつくりだされていないか、あるいはまだ発見されていないばあいには、赤軍は根拠地にむかって退却せざるをえない。根拠地の周緑地区と中心地区の区別も、だいたいこれとおなじである。

 地方部隊と牽制兵力をのぞいたすべての突撃兵力は、全部集中するのが原則である。戦略上守勢をとっている敵を進攻するときには、赤軍は往々にして分散しているものである。しかし、ひとたび敵がわれわれにむかって大挙進攻してきたときには、赤軍はいわゆる「求心的退却」をおこなう。退却の終点には、よく根拠地の中央部がえらばれる。しかし、ときには前部がえらばれ、ときには後部がえらばれるが、それは状況によって決定される。このような求心的退却は、赤軍の主力全体を完全に集中させることができる。

 弱軍の強軍にたいする作戦での、もう一つの必要な条件は、弱い部分をえらんでたたくことで

ある。しかし、敵が進攻しはじめたとき、分進してくる敵のどの部隊がもっとも強く、どの部隊がつぎに強く、どの部隊がもっとも弱く、どの部隊がつぎに弱いのか、われわれにはわからないことがよくあり、偵察の過程が必要である。その目的をたっするには長い時間を必要とすることがしばしばである。これもまた、戦略的退却が必要とされる理由の一つである。

 もし、進攻してくる敵が、その数の上でも、また強さの上でも、はるかにわが軍をしのいでおり、われわれがその強弱の対比に変化をおこさせようとするなら、三回目の「包囲討伐」において、蒋介石のある旅団の参謀長がいったように「引きずりまわされて、ふとったものはやせ、やせたものは死ぬ」とか、また「包囲討伐」軍西路総司令陳銘枢チェンミンシューがいっているように、「国軍はどこにいってもまっ暗で、赤軍はどこにいっても明るい」という状態になるまで、敵が根拠地にふかくはいりこみ、根拠地で苦しみをなめつくすのを待たなければ、その目的はたっせられない。こうなったときには、敵軍は強くても、大いに弱まっており、兵力は疲労し、士気は阻喪して、多くの弱点をみな暴露してくる。赤軍は弱くても、鋭気をやしない力をたくわえ、休息をえて疲労した敵を待つことになる。このときの双方の対比は、しばしば、ある程度の均衡状態にたっしているか、あるいは敵軍の絶対的優勢が相対的優勢に、わが軍の絶対的劣勢が相対的劣勢に変わるかし、さらには、敵軍がわが軍より劣勢になり、わが軍がかえって敵軍より優勢になることさえある。江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、赤軍は一種の極端な退却をしたが(赤軍は根拠地の後部に集中した)、それは当時の「包囲討伐」軍が、赤軍の十倍をこえていたので、どうしてもそうしなければ、敵に勝つことができなかったのである。孫子が「その気、鋭なるときをさけ、おとろえ、つきはてたるをうつ」といっているのは、敵の優勢をそぐために敵を疲労させ、士気を阻喪させることをいうのである。

 退却で要求される最後の一つは、敵にあやまちをしでかさせ、発見することである。どんな能力のある敵軍の指揮員でも、相当長い時間のあいだに、少しもあやまちをおかさないというのは不可能であること、したがって、われわれが敵のすきに乗ずる可能性はかならず存在していることを知らなければならない。われわれ自身が、ときには、まちがうこともあれば敵に乗ぜられるすきをあたえることもあるのとおなじように、敵もあやまりをおかすのである。しかもわれわれは、孫子のいっている「形をしめす」(東に形をしめして西を撃つこと、すなわち東を撃つとみせかけて西を撃つこと)などのように、人為的に敵軍にあやまちをしでかさせることができる。こうするには、退却の終点をある地区に限定してはならない。その地区にまで退いても、まだ乗ずるすきがないばあいには、乗ずる「すき」が敵にあらわれるのを待つために、さらに何歩か退かなければならない。

 退却でもとめる有利な条件とは、だいたい以上のべたようなものである。しかし、このことはこれらの条件が完全にそなわらないと、反攻がおこなえないということではない。これらの条件を同時にそなえることは不可能であり、しかもそのような必要もない。しかし、敵の当面の情勢に応じて、若干の必要な条件をたたかいとることは、弱い兵力で強い敵にあたる内線作戦をおこなう軍隊が心をそそがなければならないところであり、このことについての反対意見は正しくない。

 退却の終点をけっきょくどこに決定するかは、全体の情勢から出発しなければならない。局部の情勢からみて反攻に転ずることが有利でも、もし同時に全体の情勢からみてわが方に有利でないばあいは、これによって、退却の終点を決定することは、正しくない。なぜなら反攻をはじめるには、それからのちの変化までを計算にいれなければならないからである。ところがわれわれの反攻は、いつも局部からはじまるのである。退却の終点は、ときには根拠地の前部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の二回目と四回目の反「包囲討伐」、陝西、甘粛省での三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の中部にえらぶべきであり、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときがそれである。ときには根拠地の後部になることもあり、たとえば、江四省の三回目の反「包囲討伐」のときがそれである。これらはいずれも局部の情勢を全体の情勢と結びつけて決定したものである。江西省の五回目の反「包囲討伐」では、局部の情勢にも、全体の情勢にも、目をむけなかったことが原因で、わが軍は全然退却について考えもしなかったが、これはまったく向こうみずのむちゃなやり方である。情勢は条件によってつくられる。局部の情勢と全体の情勢との結びつきを観察するには、局部と全体とにあらわれているそのときの敵味方の双方のもつ条件が、わが軍の反攻開始にある程度有利であるかどうかによって、判断しなければならない。

 退却の終点は、根拠地では、だいたい前部、中部、後部の三種類にわけられる。それなら、白色区での作戦を頭から拒否するのであろうか。そうではない。われわれが白色区での作戦を拒否するのは、ただ敵軍の大規模な「包囲討伐」に対処するばあいだけについていうのである。敵味方の強弱の差がはなはだしいばあいに、われわれは軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つという原則のもとで、はじめて根拠地に退却することを主張し、敵をふかく誘いいれることを主張するのであり、反攻に有利な条件をつくるか、あるいは発見するには、どうしてもそうしなければならないからである。もし状況がそれほどきびしくないばあい、または、赤軍が根拠地においてさえまったく反攻のはじめようがないほど状況がきびしいばあい、あるいは反攻が不利で、局面の変化をもとめるためさらに退却する必要があるばあいには、退却の終点を白色区にえらぶことも認めるべきであり、たとえ、われわれがこれまでこのような経験をほとんどもたなかったにしても、すくなくとも理論的には認めるべきである。

白色区での退却の終点も、だいたい三種類にわけられる。第一は根拠地の前方であり、第二は根拠地の側面であり、第三は根拠地の後方である。第一種の終点としては、たとえば、江西省の一回目の反「包囲討伐」のさいに、もし赤軍の内部の不統一と地方の党の分裂がなかったならば、すなわち李立三路線とAB団〔33〕という二つの困難な問題が存在しなかったならば、吉安チーアン南豊ナンフォン樟樹チャンシューの三地点のあいだに兵力を集中して、反攻をおこなうことも考えられることであった。なぜなら、当時贛江カンチァン撫水フーショイの二つの川のあいだ〔34〕を前進してきた敵の兵力は、赤軍にくらべてそれほど優勢でもなかった(十万対四万)からである。人民という条件は、根拠地ほどよくなかったが、陣地という条件があり、しかも敵が各路にわかれて前進していたのに乗じて、それを各個撃破することもできたのである。第二種の終点としては、たとえば江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、かりに当時敵の進攻の規模があのように大きくなく、そして敵の一路の部隊が福建、江西両省の境界にある建寧チェンニン黎川リーチョワン泰寧タイニンから前進し、この一路の部隊の力がまたわれわれの攻撃に手ごろのものであったならば、赤軍は千里も遠まわりして瑞金ロイチンをへて興国シンクォへいく必要がなく、福建省西部の白色区に集結して、まずこの敵をうちやぶることも考えられる。第三種の終点としては、たとえばいまのべた江西省での三回目の反「包囲討伐」のとき、もし敵の主力が西にむかわずに、南にむかっていたとすれば、われわれはおそらく会昌ホイチャン尋鄥シュインウー安遠アンユァン地区(そこは白色地域である)まで退却をよぎなくされ、敵をもっと南の方へ誘うことになったであろう。そのときには北部の根拠地内部にある敵軍はあまり多くないはずだから、赤軍は南から北にむけて根拠地内部の敵をたたくことができたであろう。だが、以上の説明はいずれも仮定であって、経験したものではないから、特殊なものとしてあつかうのはよいが、一般原則としてあつかってはいけない。敵が大規模な「包囲討伐」をおこなっているとき、われわれにとっての一般原則は、敵をふかく誘いいれることであり、根拠地に退却して戦うことであって、これは、われわれが、敵の進攻をうちやぶるいちばん確実なやり方だからである。

 「敵を国門の外でふせぐ」ことを主張する人たちは、退却によって土地を失い、人民に危害をあたえ(いわゆる「家財道具をぶちこわされる」)、対外的にもわるい影響をおよぼすということを理由にして、戦略的退却に反対する。五回目の反「包囲討伐」のとき、かれらはつぎのようにいった。われわれが一歩退くと、敵の堡塁は一歩まえにおしすすめられ、根拠地は日ましにちぢまっていって、回復できなくなる。敵をふかく誘いいれるということは、まえには役にたったとしても、敵が堡塁主義をとった五回目の「包囲討伐」では役にたたない。それで五回目の「包囲討伐」に対処するには、兵をわけて抵抗することと、短距離強襲の方法をとるよりほかない、と。

 これらの意見にこたえることはたやすく、われわれの歴史がすでにこたえをだしている。土地を失うという問題では、失ってこそ、失わなくてすむようになるということがよくあり、これが「とろうとすればまずあたえよ」の原則である。もしわれわれの失うものが土地で、得るものが敵にたいする勝利であり、そのうえ土地をとりもどし、さらに土地を拡大するならば、これはもうかる商売である。市場での取り引きでも、買う人は金を失わなければ、品物を手にいれることはできないし、売る人は品物を失わなければ、金を手にいれることはできない。革命運動がもたらす損失は破壊であるが、得るものは進歩的な建設である。睡眠と休息によって時間は失われるが、翌日の活動のエネルギーが得られる。もしこの理屈がわからず、睡眠をとることを拒否するようなおろか者がいるとすれば、その人は翌日は元気がなくなる。これはもとでを食いこむ商売である。敵の五回目の「包囲討伐」のときに、われわれがもとでを食いこんでしまったのはこのためである。一部の土地も失うまいとした結果、土地の全部を失ってしまった。エチオピアが叫歩もひかない戦争をやったことも、全国士を失う結果をまねいた。もちろん、エチオピアが失敗した原因は、たんにこの点だけではないが。

 人民に危害をあたえるという問題も、これとおなじ道理である。一部の人民の家でいくらかの家財道具を一時的にぶちこわされないと、全人民が長期にわたって家財道具をぶちこわされることになる。一時のわるい政治的影響をおそれるならば、長期のわるい影響を代価として受けとることになる。十月革命後、ロシアのボリシェビキ党が、もし「左翼共産主義者」の意見にしたがって、ドイツとの講和条約を拒否したならば、うまれたばかりのソビエトは若死にする危険があったであろう〔35〕。

 革命的にみえるこのような極左的な意見は、小ブルジョア知識分子の革命焦燥病に由来しており、同時に、農民小生産者の局部的保守性にも由来している。かれらは全局をみわたす能力がなく、問題を一局部からしかみず、きょうの利益とあすの利益とを結びつけようとせず、部分の利益と全体の利益とを結びつけようとせず、一局部、一時期のものにしがみついて、どうしてもはなさない。たしかに、そのときの具体的な状況からみて、そのときの全局および全時期にとって利益のあるもの、とくに決定的な意義をもつ一局部および一時期は、すべてしっかりつかまえてはなすべきではない。そうでなければ、われわれは、なりゆき主義、あるいは放任主義になってしまう。退却には終点がなければならないというのは、こうした道理からである。しかし、けっして、小生産者的な近視眼にたよってはならない。われわれが学ばなければならないのは、ボリシェビキの聡明さである。われわれは眼力がたりないので、望遠鏡や顕微鏡の力を借りなければならない。マルクス主義の方法が政治上、軍事上での望遠鏡であり、顕微鏡である。

 もちろん、戦略的退却には困難がある。退却開始の時機の選定、退却の終点の選定、幹部や人民を政治的に説得することなど、いずれも困難な問題であり、解決しなければならないものである。

 退却開始の時機の問題は重要な意義をもっている。江西省の小回目の反「包囲討伐」でのわれわれの退却が、もし、ちょうどあのような時機でなかったならば、つまり、それよりおくれていたならば、すくなくともわれわれの勝利は、ある程度影響をうけていたであろう。退却は早すぎても、おそすぎても、もちろん損失をこうむる。だが一般的にいえば、早すぎるより、おそすぎるばあいの損失が大きい。適時に退却し、自分を完全に主動的な地位にたたせること、これは、退却の終点に到着したのち、部隊の態勢をととのえ、休息をえて疲労した敵を待って、反攻に転ずるうえに、きわめて大きな影響をもつものである。江西省で、敵の一回目、二回目、四回目の「包囲討伐」を粉砕した戦役では、いずれもゆうゆうと敵に対処した。ただ、ご三目の戦役だけは、二回目の戦役であのような惨雌を喫した敵が、新しい進攻をそんなに早くやるとはおもわなかったので(一九三一年五月二十九日に、われわれは二日の反「包囲討伐」の作戦を終結させたが、七月一日には、蒋介石はその三回目の「包開討伐」をはじめた)、亦車は、あわただしく回り道して集結することになり、そのためにすっかり疲れてしまった。どのようにその時機をえらぶかは、さきにのべた準備段階の開始の時機をえらぶのにとる方法とおなじように、もっぱら必要な資料をあつめることによって、敵味方の双方の大勢から判断するのである。

 戦略的退却で、幹部と人民にまだ経験がないばあい、また軍事指導の権威が、戦略的退却の決定権をごく少数の人ないしはひとりの手に集中し、しかも幹部の信服をうるまでにはいたっていないばあい、幹部と人民を説得するという問題は、きわめて困難な問題である。幹部が経験をもたず、戦略的退却を信じなかったために、一回目と四回目の反「包囲討伐」の初期でも、五回目の反「包囲討伐」の全時期でも、この問題で、大きな困難にぶつかった。一回目の反「包囲討伐」のときには、説得されるまでの幹部の意見は、李立三路線の影響によって、退却ではなくて進攻であった。四回目の反「包囲討伐」のときには、軍事的冒険主義の影響によって、幹部の意見は準備に反対であった。五回目の反「包囲討伐」のときには、幹部の意見は、はじめは敵をふかく誘いいれることに反対し軍事的冒険主義をつづける観点であったが、のちには軍事的保守主義に変わった。チベット族やホイ族〔36〕の地区ではわれわれの根拠地がうちたてられないことを信じなかった張国燾路線が、壁にぶちあたってからはじめて信じるようになったことも、その実例である。経験は幹部にとって必要なものであり、失敗はたしかに成功のもとである。だが、他人の経験を謙虚にうけいれることもまた必要である。なにもかも自分の経験にたよろうとし、そうでないと、他人の経験はうけいれないで自分の意見を固執するというなら、これこそ、正真正銘の「せまい経験主義」である。われわれの戦争が、こうしたことからうけた損失はすくなくなかった。

 人民が経験をもたないために、戦略的退却の必要を信じなかったことでは、江西省の一回目の反「包囲討伐」のときよりひどいものはない。当時、吉安、興国、永豊ヨンフォン等の県の党の地方組織や人民大衆で、赤軍の退却に反対しないものはなかった。しかし、このたびの経験をもってから、その後の何回かの反「包囲討伐」では、この問題はまったくなくなってしまった。人びとは、根拠地の損失、人民の苦痛は、一時的なものであることを信じるようになり、赤軍は「包囲討伐」をうちやぶることができるのだという確信をもつようになった。ところが、人民が信じるかどうかは、幹部が信じるかどうかと密接につながっているので、主要な、また第一の任務は、幹部を説得することである。

 戦略的退却の全役割は、反攻に転ずることにあり、戦略的退却は、戦略的防御の第一段階にすぎない。全戦略の決定的な鍵は、それにつづく反攻の段階で、勝つことができるかどうかにある。



第四節 戦略的反攻


 絶対的に優勢な敵の進攻にうち勝つには、戦略的退却の段階でつくりだされる、味方に有利で敵に不利な、敵が進攻をはじめたときにくらべて変化のおこった情勢にたよるのであって、そのような情勢は、いろいろな条件によってつくりだされる。この点については、まえにのべた。

 ところが、味方に有利で敵に不利な条件と情勢があるだけでは、まだ敵を失敗させたことにはならない。このような条件や情勢は、勝敗を決定する可能性をもっているが、それはまだ勝敗の現実性にはなっていないし、両軍の勝敗はまだ実現されていない。この勝敗の実現は、両軍の決戦にかかっている。両軍のうちいずれが勝ち、いずれが負けるかという問題を解決できるのは、決戦だけである。これが戦略的反攻の段階での全任務である。反攻は一つの長い過程であり、防御戦でのもっとも精彩にとんだ、もっとも活発な段階であり、防御戦の最終段階でもある。いわゆる積極的防御とは、主としてこのような決戦的性質をもつ戦略的反攻をさすのである。

 条件と情勢は、たんに戦略的返却の段階でつくりだされるばかりでなく、反攻の段階でもひきつづいてつくりだされる。そのときの条件と情勢は、まえの段階での条件や情勢と完全には同一形態、同一性質のものではない。

 同一形態、同一性質のものもありうる。たとえば、そのときの敵軍のいっそうの疲労と兵員の減少は、まえの段階での疲労と兵員の減少の継続にすぎない。

 だがまた、完全に新しい条件や情勢も必然的にあらわれてくる。たとえば、敵軍が一回または数回敗戦したばあい、そのときの味方に有利で敵に不利な条件には、たんに敵軍の疲労などだけではなくて、敵軍の敗戦という新しい条件がくわわってくる。情勢にも新しい変化がおこる。敵軍は軍隊の移動配置でごったがえし、その措置をあやまるので、両軍の優劣の関係も、まえとはちがってくる。

 もし、一回ないし数回の敗戦が敵軍にではなくて、わが軍にあったならば、条件と情勢の有利と不利も、逆になってしまう。つまり敵にとっての不利がすくなくなり、味方にとっての不利がうまれはじめ、拡大さえする。これもまた完全に新しい、まえとはちがったものである。

 どちら側が失敗しても、それは失敗した側のある新しい努力を直接に急速にひきおこす。すなわちそれによって、この新しくあらわれた味方に不利で敵に有利な条件と情勢からぬけだし、ふたたび味方に有利で敵に不利な条件と情勢をつくりだして相手を制圧するために、危険な局面の打開をはかる努力である。

 勝利した側の努力はこれとは反対で、味方にとっての有利な条件と情勢の増大、あるいは発展をもとめ、不利からぬけだし危険な局面を打開しようとする相手の企図を達成させないようにもとめて、自分の勝利をひろげ、敵にいっそう大きな損害をあたえるよう極力はかるのである。

 したがって、どちら側からいっても、決戦段階での闘争は、戦争全体あるいは戦役全体のなかで、もっとも激烈な、もっとも複雑な、もっとも変化にとんだものであり、またもっとも困難な、もっともつらいものであって、指揮の面からいえば、もっともむずかしい時である。

 反攻の段階には問題が非常に多く、主要なものとしては、反攻開始の問題、兵力集中の問題、運動戦の問題、速決戦の問題、殲滅戦の問題などがある。

 これらの問題の原則は、反攻についていっても、進攻についていっても、基本的な性質においてはちがいはない。この意味では、反攻はすなわち進攻だといえる。

 しかし、反攻はそのまま進攻だとはいえない。反攻の原則は、敵が進攻してきたときに応用されるものである。進攻の原則は、敵が防御しているときに応用されるものである。この意味では、また若干のちがいがある。

 重複をさけるために、ここでは作戦上の多くの問題をすべて戦略的防御の反攻の部でのべ、戦略的進攻の部では、他の問題について少しのべるだけであるが、前述の理由からして、われわれが応用するばあいには、その共通点を見おとしてはならないとともに、その相違点をも見おとしてはならない。




第五節 反攻開始の問題


 反攻開始の問題とは、いわゆる「緒戦」あるいは「序戦」の問題である。

 多くのブルジョア軍事家は、いずれも緒戦を慎重にすることを主張しており、これは、戦略的防御でも戦略的進攻でもおなじであるが、防御ではなおさらであるとしている。われわれもかつて、この問題をきびしく提起したことがある。江西省での敵の一回目から五回目までの「包囲討伐」に反対する作戦は、われわれに豊富な経験をあたえた。これらの経験について研究してみることは、無益ではない。

 一回目の「包囲討伐」のときには、敵は十万もの兵力をもって、北から南へ、吉安、建寧の線から八つの縦隊にわかれて赤軍の根拠地に進攻してきた。当時の赤軍は約四万で、江西省寧都ニントウ県の黄陂ホワンピー小布シャオプー地区に集結していた。

 当時の状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は十万にすぎず、しかも蒋介石の直系は全然なく、全体の情勢はそれほどきびしいものではなかった。(二)吉安を防衛していた敵軍の羅霖ルオリン師団は、贛江の西側にへだてられていた。(三)敵軍の公秉藩コンピンファン張輝瓚チャンホイツァン譚道源タンタオユァンの三コ師団は吉安の東南、寧部の西北にある富田フーティエン東固トンクー竜岡ロンカン源頭ユァントウ一帯を占領していた。張師団の主力は竜岡におり、護師団の主力は源頭にいた。富田、東固の両地では、人民がAB団にだまされて一時赤軍を信用せず、赤軍と対立していたので、ここは戦場としてえらぶには適しない。(四)敵軍の劉和鼎リウホーティン師団は遠く福建省白色区の建寧におり、江西省にはいってくるとはおもわれない。(五)敵軍の毛炳文マオピンウェン許克祥シュイコーシァンの二コ師団は、広昌コヮンチャンと寧都のあいだの頭陂、洛口ルオコウ東韶トンシャオ一帯にまですすんでいた。頭陂は白色区であり、洛口は遊撃区で、東韶にはAB団がいて、情報がもれやすかった。しかも、毛炳文、許克祥の部隊をうってから西にうって出ると、おそらく西の張輝瓚、譚道源、公秉藩の三コ師団は集中するだろうから、決定的に勝利することは容易でなく、問題を最終的に解決することはできない。(六)張、譚両師団は、「包囲討伐」の主力軍で、「包囲討伐」軍総司令江西省主席魯滌平ルーテイピンの直系部隊であり、それに、張輝瓚は前線総指揮であった。この二コ師団を消滅すれば、「包囲討伐」は基本的にうちやぶったことになる。この二コ師団はそれぞれ約一万四千で、しかも張師団はニヵ所にわかれていたので、われわれが一回に一コ師団ずつをたたけば、絶対的に優勢である。(七)張、譚両師団の主力がいた竜岡、源頭一帯は、われわれの集結地点に近接しており、しかも人民という条件がよかったので、隠蔽しながら近づくことができる。(八)竜岡にはすぐれた陣地がある。源頭は戦いにくい。もし敵が小佈を攻撃してわが軍の方によってきたとしても、陣地はやはりすぐれている。(九)われわれは竜岡の方向に最大の兵力を集中することができる。竜岡の西南方数十里の興国には、なお千余人の独立師団がおり、敵の背後に迂回することもできる。(十)わが軍が中間突破を実行し、敵の戦線に突破口をひらくと、敵の東と西の諸縦隊は、遠くはなれた二つの部分に分割される。以上の理由にもとづいて、われわれの第一戦は、張輝瓚の主力二コ旅団と一つの師団司令部を攻撃することにきめ、しかも、それが成功して、師団長をふくめて九千人を全部捕虜にし、人ひとり、馬一匹ものがさなかった。この一戦の勝利によって敵はきもをつぶし、譚師団は東韶にむかって逃げ、許師団は頭陂にむかって逃げた。わが軍はさらに譚師団を追撃し、その半分を消滅した。五日間(一九三〇年十二月二十七日から一九三一年一月一日まで)に二回戦ったので、富田、東固、頭陂にいた敵はたたかれるのをおそれ、算をみだして撤退し、一回目の「包囲討伐」はそれで終わった。

 二回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)「討伐」軍は二十万で、何応欽ホーインチンが総司令となり、南昌に駐屯していた。(二)一回目の「包囲討伐」のときとおなじように、蒋介石の直系部隊は全然なかった。蔡廷鍇ツァイティンカイの第十九路軍と、孫連仲スンリェンチョンの第二十六路軍、朱紹良チューシャオリァンの第八路軍がもっとも強いか、あるいは比較的強かったが、その他はみな比較的に弱かった。(三)AB団は一掃され、根拠地の人民は全部赤軍を支持していた。(四)王金鈺ワンチンユイの第五路軍は北方からやってきたばかりで、おびえていて、その左翼にいた郭華宗クォホワツォン郝夢齢ハオモンリンの両師団もだいたいおなじ状態であった。(五)わが軍が富田から攻撃をはじめ、東にむかって横にないでいけば、福建省と江西省との境界地帯の建寧、黎川、泰寧地区で根拠地をひろげ、物資を徴集することができ、つぎの「包囲討伐」をうちやぶるのに便利であった。もし東から西にむかって攻撃していけば、贛江にさえぎられ、戦局が終結したのちの発展の余地がない。またこの戦いが終わってから東に転じると、時間がかかり軍を疲労させる。(六)わが軍の人数は、前回の戦役のときよりすこし減っていた(三万余)が、四ヵ月のあいだに鋭気を養い力をたくわえてきていた。以上の理由にもとづいて、富田地区の王金鈺、公秉藩(合計十一コ連隊)をえらび、これと第一戦をまじえることにした。勝利ののち、ひきつづき郭軍をうち、孫軍をうち、朱軍をうち、劉軍をうった。十五日のあいだ(一九三一年五月十六日から三十日まで)に七百華里歩き、五回戦いをまじえて、銃二万余を分捕り、「包囲討伐」を思う存分うちやぶった。王金鈺の部隊をうったときは、蔡廷階と郭華宗の二つの敵部隊のあいだにいて、郭軍からは十余華里、蔡軍からは四十余華里であったので、あるものはわれわれが「袋小路につっこんだ」といったが、ついにそれをつきぬけたのである。それは主として根拠地という条件によるが、さらに敵軍の各部隊の不統一にもよる。郭師団がやぶれると、郝師団も夜中に永豊まで逃げかえって難をのがれた。

 三回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。(一)蒋介石みずから出馬して総司令となり、その下に左、石、中の三路の総司令をおいた。中路は何応欽で、蒋介石とともに南昌に駐屯し、右路は陳銘枢で、吉安に駐屯し、左路は朱紹良で、南豊に駐屯した。(二)「討伐」軍は三十万であった。主力軍は陳誠チェンチョン羅卓英ルオチュオイン趙観濤チャオコヮンタオ衛立煌ウェイリーホヮン蒋鼎文チァンティンウェンなど蒋介石直系の五コ師団で、どの師団も九コ連隊からなり、全部で約十万であった。そのつぎは蒋光鼐、蔡廷鍇、韓徳勤ハントーチンの三コ師団で、四万であった。そのつぎは孫連仲軍で、二万であった。そのほかもみな蒋の直系ではなく、比較的弱かった。(三)「討伐」の戦略は、二回目の「包囲討伐」での「一歩ごとに陣地をかためる」やり方とは大いにちがって、「長駆直進」であり、赤軍を贛江に追いつめて消滅しようとねらっていた。(四)二回目の「包囲討伐」が終わってから三回目の「包囲討伐」がはじまるまでのあいだは、わずか一ヵ月しかなかった。赤軍が苦戦ののち、休息もとらず、補充もしないで(三万人前後)、千華里もまわり道して江西省南部根拠地の西部にある興国にもどって集結したときには、敵はすでに数路にわかれて、われわれの目のまえにせまっていた。以上のべた状況のもとで、われわれの決定した第一の方針は、興国から万安をへて富田の一点を突破したのち、西から東へ敵の後方連絡線を横にないでいき、敵の主力を江西省南部根拠地に深くはいらせて、役にたたなくさせることであり、これを作戦の第一段階とした。敵がむきをかえて北にむかう時になれば、ひどく疲労するにちがいないから、そのすきに乗じてうつことのできるものをうち、これを第三段階とした。この方針の核心は、敵の主力をさげながら、その弱い部分をうつことであった。ところが、わが軍が富田にむけて開進しているとき、敵に気づかれ、陳誠、羅卓英の二コ師団が富田にせまってきた。わが軍はやむなく計画を変え、興国県西部の高興圩カオシンユイにひきかえしたが、このとき、わが軍の集結のゆるされる地区は、この高興圩およびその付近の地区数十平万華里しかのこっていなかった。集結したつぎの日に、東にむかい、興国県東部の蓮塘リェンタン、永豊県南部の良村リァンツン、寧都県北部の黄陂の方向に突進することを決定した。一日目は夜に乗じて、蒋鼎文師団と蒋光鼐、蔡廷鍇、韓徳勤の部隊とのあいだの四十華里の間隙かんげき地帯をぬって、蓮塘に移動した。二日目に、上官雲相シャンコヮニュインシァンの部隊(上官雲相はかれ自身の一コ師団と郝夢齢師団を指揮していた)の前哨ぜんしょうと接触した。三日目に上官師団をたたいたのが第一戦で、四日目に郝夢齢師団をたたいたのが第二戦で、その後三日間行軍して黄陂にたっし、毛炳文師団をたたいたのが第三戦である。三つの戦いとも勝利し、分捕った銃は万をこえた。このとき、西と南にむかって進んでいたすべての敵軍の主力は、みな方向を変えて東にむかい、黄陂に視線を集中して、猛烈な勢いで並進し、わが軍と戦うために密集した大包囲態勢をとってわが軍に近づいてきた。わが軍は、蒋光鼎、蔡廷鍇、韓徳勤の部隊と陳誠、羅卓英の部隊とのあいだの二十華里の間隙にある大きな山をひそかにこえて、東側から西側の興国県内にもどって集結した。敵がそれを発見して、ふたたび西にむかって進んできた時には、わが軍はすでに半ヵ月ほどの休息をとっていたが、敵は飢えと疲れで士気は阻喪し、どうする力もなくなっていたので、決心して退却した。わが軍は、かれらの退却に乗じて蒋光鼐、蔡廷鍇、蒋鼎文、韓徳勤の部隊をうち、蒋鼎文の一コ旅団と韓徳勤の一コ師団を消滅した。蒋光鼎、蔡廷鍇の二コ師団とは戦って対峙たいじ状態となり、かれらを逃がしてしまった。

 四回目の「包囲討伐」のときの状況はつぎのようであった。敵は三路にわかれて、広昌にむかって進み、主力は東路にあり、西路車の二コ師団はわれわれのまえに暴露され、しかも、わが軍の集結地点にせまっていた。このため、わが軍はまずその西路軍を宜黄イーホヮン南部の地区でうち、李明リーミン陳時驥チェンシーチーの二コ師団を一挙に消滅することができた。敵が左路軍から二コ師団をさいて中路軍と呼応してふたたび前進してきたので、わが軍は、またその一コ師団を宜黄南部の地区で消滅することができた。この二回の戦いで一万余の銃を分捕り、このたびの「包囲討伐」を基本的にうちやぶった。

 五回目の「包囲討伐」では、敵は堡塁主義という新しい戦略をとって前進し、まず黎川を占領した。ところがわが方は、敵を根拠地の外で防ごうとして黎川の奪回をはかり、黎川以北の敵の堅固な陣地で、しかも白色区である硝石シァオシーをせめた。この戦いでは勝てず、さらにその東南の資渓橋ツーシーチァオをうったが、ここも敵の堅固な陣地であり、白色区であったので、また勝てなかった。それからのちは、敵の主力と堡塁のあいだを戦闘をもとめて転々とし、完全に受動的な地位にたたされてしまった。五回目の反「包囲討伐」戦争は一年もの長いあいだをつうじて、主動的に活躍することが全然なかった。最後には江西省の根拠地から退去しなければならなくなった。

 上述の一回目から五回目までの反「包囲討伐」の時期におけるわが軍の作戦の経験は、防御の地位にある赤軍が強大な「討伐」軍をうちやぶるには、反攻の最初の戦闘が非常に大きな関係をもつものであることを証明している。最初の戦闘の勝敗は全局にきわめて大きな影響をあたえ、さらには最後の戦闘にまでずっと影響をおよぼすものである。したがって、つぎのような結論がえられる。

 第一には、かならず勝たなければならない。敵情、地形、人民等の条件がすべてわが方に有利で敵に不利であり、ほんとうに確実性があったとき手をくだすべきである。でなければ、むしろ退いて、自重して機会を待つべきである。機会というのはかならずあるもので、かるがるしく応戦してはならない。一回目の反「包囲討伐」のときは、まず譚道源師団をうとうとおもったが、敵が源頭のあの見とおしのきく高い陣地をはなれなかったばかりに、わが軍は二度も開進しながち、二度とも忍耐づよくひきかえし、何日かたったのち、うちやすい張輝瓚師団をみつけた。二回目の反「包囲討伐」のときも、わが軍は東固まで開進したが、ただ王金鈺の部隊が富田の堅固な陣地をはなれるのを待つために、むしろ情報のもれる危険をおかしても、すべてのせっかちな早急攻撃の提案をしりぞけて、敵のすぐ近くにとどまり、二十五日もの長いあいだ待って、ついにその目的をたっした。三回目の反「包囲討伐」は、あのあらしのような局面で、千華里も軍をひきかえしたが、敵の側背に迂回しようとした計画をまたさとられてしまった。それでもわれわれは忍耐づよくひきかえして、中間突破にあらため、ついに蓮塘で最初のみごとな勝ちいくさをした。四回目の反「包囲討伐」のときには、南豊を攻めたが、攻めおとせなかったので、決然として退却の段どりをとり、ついに敵の右翼にまわり、東韶地区に集結して、宜黄南部での大勝利の戦いをはじめた。ただ、五回目の反「包囲討伐」のときだけは、緒戦がどんなに大きな関係をもっているかをまったく知らす、黎川という町一つを失ったことにおどろき、それをとりもどそうとして、北上して敵によりついていき、洵口シュインコウで予期しない遭遇戦に勝利した(敵の一コ師団を消滅した)が、これを第一戦とみなさず、この戦いで必然的にひきおこされる変化をみないで、軽率にも必勝をのぞめない硝石を攻撃した。これは第一歩から主動権を失っており、たしかにもっともおろかな、もっともわるい戦い万である。

 第二には、緒戦の計画は、全戦役計画の有機的な序幕でなければならない。すぐれた全戦役計画がなければ、ほんとうにすぐれた第一戦というものはけっしてありえない。つまり緒戦で勝利したとしても、この戦いが全戦役にとって有利とならないばかりか、逆に有害になったときには、この戦いは勝っても負けたことになる(たとえば、五回目の「包囲討伐」のときの洵口の戦闘がそれである)。したがって、第一戦をはじめるに先だって、第二、第三、第四戦から最後の一戦にいたるまで、だいたいどういう戦い方をするか、われわれがつぎの戦いで勝ったばあいには、敵軍の全局にどういう変化がおこるか、また負けたばあいには、どういう変化がおこるかを一戦ごとに考えておかなければならない。結果がすべて予期したようになるとはかぎらないし、またなるはずもないが、しかし、双方の全局面にもとづいて、それを詳細に、実際的に考えぬいておかなければならない。全局が頭になければ、ほんとうによい手はうてるものではない。

 第三には、つぎの戦略段階での発展をも考えておかなければならない。ただ反攻のことだけを考え、その反攻が勝利したのち、あるいは万一反攻が失敗したのち、つぎはどうすればよいかを考えないならば、やはり戦略指導者としての責任をはたしていないことになる。戦略指導者は、ある一つの戦略段階にあるときに、その後の数多くの段階まで計算しておくべきであり、すくなくとも、つぎの段階は計算しておくべきである。たとえその後の変化が推測しにくく、遠い将来のことになればなるほど漠然ばくぜんとしてはくるが、だいたいの計算は可能であり、遠い将来を見とおしておくことは必要である。一歩すすめばその一歩のことしか考えない指導のしかたは、政治にとって不利であり、戦争にとっても不利である。一歩すすめばその一歩の具体的変化に目をむけ、それによって自分の戦略、戦役計画をあらためるか、または発展させなければならない。そうしなければ、ちょ突猛進のあやまりをおかすことになる。しかし、全戦略段階ないし、いくつかの戦略段階をつらぬく、そして、だいたいにおいて考えぬかれた一つの長期の方針は、どうしてもなくてはならないものである。そうしなければ、ためらい、立ち往生するあやまりをおかし、実際には、敵の戦略的要求にのせられ、自分を受動的地位におとしいれることになる。敵の統帥部はある種の戦略的眼力をもっているものであることを知らなければならない。われわれは、自分を敵よりもいっそう高いものにきたえあげなければ、戦略的に勝利することはできない。敵の五回目の「包囲討伐」の時期に、「左」翼日和見主義路線と張国燾路線の戦略指導があやまっていたのは、主としてこの点に欠けていたためである。要するに、退却の段階では反攻の段階までを計算しておかなければならないし、反攻の段階では進攻の段階までを計算しておかなければならず、進攻の段階では、さらに退却の段階までを計算しておかなければならない。このような計算がなく、目ききの利害にしばられるならば、それは失敗への道である。

 かならず勝たなければならないこと、全戦役の計画に配慮を加えなければならないこと、つぎの戦略段階に配慮を加えなければならないこと、これが反攻開始にあたって、つまり第一戦をおこなうにあたって、忘れてはならない三つの原則である。



第六節 兵力集中の問題


 兵力を集中することは、みたところ、たやすいようであるが、実行はかなりむずかしい。多数で少数に勝つのがもっともよい方法であることは、だれでも知っているが、多くの人にはそれができず、反対に、いつも兵力を分散させている。その原因は、指導者が戦略的頭脳に欠けていて、複雑な環境にまどわされるために、環境に左右され、自主的能力をうしない、まにあわせ主義をとることにある。

 どんなこみいった、きびしい、みじめな環境にあっても、軍事指導者にとって、まず第一に必要なことは、自分の力を自主独立的に組織し使用することである。敵から受動的地位に追いこまれるのはよくあることだが、重要なのは主動的地位をすみやかにとりもどすことである。もしこのような地位をとりもどせなければ、そのつぎにくるものは失敗である。

 主動的地位というのは、空想的なものではなく、具体的なものであり、物質的なものである。ここでもっとも重要なことは、最大の、しかも活気にみちた軍隊を保存し集結することである。

 防御戦は、もともと受動的地位におちいりやすく、とても進攻戦のように十分に主動権を発揮することはできない。ところが、防御戦は受動的な形式のなかに主動的な内容をもつことができるのであり、形式上の受動的段階から、形式のうえでも内容のうえでも主動的段階に転じることができるのである。完全に計画的な戦略的退却は、形式のうえでは、よぎなくとった行動であっても、内容のうえでは、軍事力を保存し敵をやぶる機会を待つものであり、敵をふかく誘いいれて反攻を準備するものである。ただ退却しようとしないで、あわてて応戦する(たとえば硝石の戦闘)だけでは、表面的には、主動性をかちとろうとつとめているようであっても、実際には受動的である。戦略的反攻は、その内容が主動的であるばかりでなく、形式のうえでも、退却時の受動的な姿勢をすてている。敵軍にとって、反攻とはわが軍が敵に主動権の放棄を強制し、同時に敵を受動的地位に立たせるよう努力することである。

 このような目的を完全にたっするためには、兵力の集中、運動戦、速決戦、殲滅戦はいずれも必要な条件である。その第一の、また主要なものが兵力の集中である。

 兵力の集中が必要なのは、敵味方の形勢を変えるためである。第一には、進退の形勢を変えるためである。まえには、敵が進みわれわれが退いていたが、いまは、われわれが進み敵を退かせるという目的をたっしようとはかるのである。兵力を集中し、一戦して勝てば、この目的はこの戦闘でたっせられ、また全戦役にも影響をあたえる。

 第二には、攻守の形勢を変えるためである。退却終点にまで退却するのは、防御戦では基本的にいって消極的な段階、すなわち「守る」段階に属する。反攻は積極的な段階、すなわち「攻める」段階に属する。戦略的防御の全過程では、防御の性質からはなれてはいないが、反攻は退却にくらべて、形式だけでなく、内容のうえでも、変化をきたしたものである。反攻は戦略的防御と戦略的進攻とのあいだにある過渡的なものであり、戦略的進攻前夜の性質をおびており、兵力の集中は、この目的をたっするためである。

 第三には、内線と外線との形勢を変えるためである。戦略的に内線作戦におかれている軍隊、とくに「包囲討伐」されている環境にある赤軍は、多くの不利をこうむっている。しかし、われわれは、戦役あるいは戦闘で、それを変えることができるし、またぜひとも変えなければならない。わが軍にたいする敵軍の一つの大「包囲討伐」を、敵軍にたいするわが軍の数多くの各個別の小包囲討伐に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の分進合撃を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の分進合撃に変える。わが軍にたいする敵軍の戦略上の優勢を、敵軍にたいするわが軍の戦役あるいは戦闘上の優勢に変える。戦略上で強者の地位にある敵軍を、戦役あるいは戦闘上では弱者の地位に立たせる。同時に、戦略上で弱者の地位にあるわが軍を、戦役あるいは戦闘上での強者の地位に変えていく。これがすなわち、内線作戦のなかでの外線作戦、「包囲討伐」のなかでの包囲討伐、封鎖のなかでの封鎖、防御のなかでの進攻、劣勢のなかでの優勢、弱者のなかでの強者、不利のなかでの有利、受動のなかでの主動というものである。戦略的防御のなかで勝利をたたかいとることは、基本的には、兵力の集中という一手にかかっている。

 中国赤軍の戦史のなかで、この問題はつねに重要な論争問題となっていた。一九三〇年十月四日、吉安の戦いでは、兵力の完全な集中を待たずに、開進と攻撃がおこなわれたが、敵(鄧英トンイン師団)が自分から逃げてしまったからよかったものの、われわれの攻撃そのものは効果をあげていなかった。

 一九三二年からは、根拠地の東西南北から四方に出撃することを要求した、いわゆる「全線出撃」というスローガンがあった。これは戦略的防御のときでもまちがいであるばかりか、戦略的進攻のときでさえもまちがいである。敵味方の対比の形勢全体に根本的な変化がないばあい、戦略にも、戦術にも、防御と進攻、牽制と突撃の両面があって、いわゆる「全線出撃」ということは実際にはごくまれである。全線出撃のスローガンは、軍事的冒険主義にともなってあらわれた軍事的平均主義である。

 軍事的平均主義者は、一九三三年になると、いわゆる「二つのゲンコツでうつ」といういい方をして、赤軍の主力を二つにわけ、二つの戦略方向で、同時に勝利をえようとはかった。その時の結果は、ゲンコツの一つはつかいようのない所におき、他の一つにはへとへとになるまでうちまくらせ、しかもその時にかちとれたはずの最大の勝利もかちとれなかった。わたしの意見では、強大な敵軍が存在する条件のもとでは、味方にどれだけの軍隊があろうと、一時期におけるその主要な使用方向は、ただ一つであるべきで、二つであってはならない。わたしは、作戦方向が二つあるいは二つ以上あることには反対しないが、しかし、同一の時期における主要な方向は、ただ一つでなければならない。中国赤軍は、弱小者の姿をもって国内戦争の戦場にあらわれ、たびたび強敵をくじいて、世界をおどろかすような戦果をあげたが、これは兵力の集中的使用によるところが非常に大きい。どの大勝利をとってみても、みなこの点を証明することができる。「一をもって十にあたり、十をもって百にあたる」というのは、戦略的ないい方であり、戦争全体、敵味方の対比全体についていったのであって、この意味では、われわれはたしかにそのとおりである。それは戦役および戦術についていったものではなく、この意味では、われわれはけっしてそうであってはならない。反攻においても、進攻においても、われわれはつねに大きな兵力を集結して、敵の一部をうっている。一九三一年一月、江西省寧都県東韶地区で譚道源師団をうった戦いでも、一九三一年八月、江西省興国県高興圩地区で第十九路軍をうった戦いでも、一九三二年七月、広東省南雄ナンシゥン県水口圩ショイコウユイ地区で陳済棠の部隊をうった戦いでも、一九三四年三月、江西省黎川県団村トヮンツン地区で陳誠をうった戦いでも、すべて兵力を集中しなかったために損をした。水口圩や団村のような戦いは、もともと一般的には勝ちいくさとみなされ、しかも大勝利とさえみなされているが(前者では陳済棠の二十コ連隊を撃破し、後者では陳誠の十二コ連隊を撃破した)、しかし、われわれは従来から、このような勝ちいくさは歓迎しないもので、ある意味では、まったく負けいくさであったとさえいえる。なぜなら、戦利品がないか、あっても消耗したものよりすくなくて、われわれからみると意義があまりないからである。われわれの戦略は「一をもって十にあたる」のであるが、われわれの戦術は「十をもって一にあたる」のであり、これは、われわれが敵に勝つための根本法則の一つである。

 軍事的平均主義は、一九三四年の五回目の反「包囲討伐」のときになると、その極点にまで発展した。「兵を六路にわけ」、「全線にわたって抵抗」すれば、敵を制圧できると考えたのが、敵から制圧される結果となった。その原因は、土地を失うのをおそれたことにあった。主力を一つの方向に集中して、他の方向には牽制兵力をのこすと、もちろん土地を失うことはさけられない。しかし、それは一時的、局部的損失であって、その代価としては突撃方向で勝利をうることである。突撃方向で勝利すれば、牽制方向での損失はとりかえすことができる。敵の一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」では、いずれもわれわれは土地を失い、とくに敵の三回目の「包囲討伐」では、江西省の赤軍の根拠地のほとんど全部を失ったが、結果は、われわれの土地を全部とりもどしたばかりでなく、さらに拡大したのである。

 根拠地の人民の力がみえないところから、赤軍が根拠地を遠くはなれるのをおそれるというあやまった心理がよくうまれる。一九三二年、江西省の赤軍が遠く福建省の漳州にうってでたときにも、一九三三年の四回目の反「包囲討伐」戦役が勝利したのち、赤軍が福建省への進攻に転じたときにも、このような心理がうまれた。前者は、根拠地全部が占領されるのをおそれ、後者は、根拠地の一部が占領されるのをおそれて、兵力の集中に反対し、兵力をわけて守備することを主張したが、結果は、いずれもまちがっていたことが証明された。敵からみれば、根拠地はかれらにとって、はいるのにおそろしいところであり、他方、白色区にうって出た赤軍は、かれらの主要な危険物である。敵軍の注意力はいつも主力の赤軍の所在地にむけられ、主力の赤軍を放置して、もっぱら根拠地にむかうことはごくまれである。赤軍が防御をおこなうときも、敵の注意力はやはり赤軍に集中される。根拠地を縮小させようとする計画は、敵の全計画の一部分であるが、もし赤軍が主力を集中して、敵の一路の部隊を消滅するならば、敵軍の統帥部は、かれらの注意力と兵力をいっそう多く赤軍にむけなければならなくなる。したがって、根拠地を縮小させようとする敵の計画も、うちやぶることができるのである。

 「堡塁主義をとっている五回目の『包囲討伐』の時期には、われわれはただ兵をわけて防御し、短距離強襲をかけるほかなく、集中して戦うことはできない」、こういういい方もまたまちがっている。ひと進みに三里、五里、ひと推しに八里、十里とやってくる敵の堡塁主義の戦法は、まったく赤軍自身が一歩一歩さがっては抵抗していくというやり方によってもたらされたものである。もしわが軍が内線で一歩一歩さがっては抵抗していくという戦法をすてて、さらに、必要なまた可能なときには敵の内線にうってでたならば、局面は必然的にちがったものになる。兵力集中の法則こそ、堡塁主義にうち勝つ手段である。

 われわれの主張する兵力の集中には、人民の遊撃戦争を放棄するということはふくまれていない。李立三路線は、「一ちょうの銃も赤軍へ集中せよ」といって、小さな遊撃戦争を放棄することを主張したが、それがまちがいであることは、とうに証明された。革命戦争全体の観点からすると、人民の遊撃戦争は、主力の赤軍とたがいに両腕の関係をなしており、主力の赤軍だけで、人民の遊撃戦争がないならば、それは片腕将軍のようなものである。根拠地の人民という条件は、具体的にいうと、とくに作戦についていうと、武装した人民がいることである。敵がおそれをなしているのも、主としてこの点にある。

 赤軍の支隊を副次的な作戦方向におくこともまた必要であって、すべてを集中しなければならないというのではない。われわれの主張する兵力の集中は、戦場での作戦に絶対的あるいは相対的優勢を保障するという原則のうえにうちたてられている。強い敵に、あるいはきわめて重要な戦場での作戦にたいしては、絶対的優勢な兵力をもってのぞまなければならない。たとえば、一九三〇年十二月三十日の一回目の反「包囲討伐」の最初の戦いで、四万人を集中して張輝瓚師団の九千人をうったのがそれである。弱い敵に、あるいは重要でない戦場での作戦にたいしては、相対的に優勢な兵力をもってのぞめば十分である。たとえば、一九三一年五月二十九日の二回目の反「包囲討伐」の最後の一戦で、建寧にむかって劉和鼎師団の七千人をうったときには、赤軍は一万人あまりしか使わなかった。

 毎回優勢な兵力が必要だということでもない。ある状況のもとでは、相対的に劣勢な、あるいは絶対的に劣勢な兵力をもって戦場にのぞんでもよい。相対的に劣勢なばあいとして、たとえばある地域に大きくない赤軍の部隊が一つしかなくても(兵力をもっていながら集中しないのではない)、人民、地形あるいは天候などの条件が、ある優勢な敵の進攻をうちやぶるのに、われわれにとって大いにたすけとなりうるときには、遊撃隊あるいは小支隊で、敵の正面および一翼を牽制し、赤軍が全力を集中して、突如、敵の他の一翼の一部分を襲撃することも、もちろん必要なことであり、しかも勝利することのできるものである。われわれが、敵の一翼の一部分を襲撃するばあい、兵力の対比ではやはり優勢をもって劣勢にあたり、多数をもって少数に勝つという原則が適用される。絶対的に劣勢なばあいとして、たとえば遊撃隊が白軍の大部隊を襲撃するときには、その一小部分を襲撃するだけであり、同様に上述の原則が適用される。

 大軍を一つの戦場に集中して戦うと、地形、道路、給養、駐屯地などの制約をうけるといういいかたも、事情のちがいによってみなければならない。赤軍は白軍にくらべて、もっと大きな困難にたえることができるので、これらの制約は、赤軍と白軍とでは、その程度にちがいがある。

 われわれは少数をもって多数にうち勝つ――われわれは、全中国の支配者にむかってこのようにいう。われわれはまた多数をもって少数にうち勝つ――われわれは、戦場で戦っているそれぞれの局部の敵にむかってこのようにいう。このことは、もうなにも秘密ではなく、敵はたいていわれわれの気性をよく知っている。しかし、敵はわれわれを勝利させなくすることも、自分の損失をさげることもできない。なぜなら、われわれがいつ、どこでそうするのか、かれらにはわからないからである。その点、われわれは秘密をたもっている。赤軍の作戦は一般には奇襲である。



第七節 運動戦


 運動戦か、それとも陣地戦か。われわれの答えは運動戦である。大きな兵力もなく、弾薬の補充もなく、どの根拠地でも、一部隊しかない赤軍が戦いまわっているという条件のもとで、陣地戦はわれわれにとって基本的に無用である。陣地戦は、われわれにとって、防御のときに基本的に使えないばかりか、進攻のときにも、同様に使えないものである。

 敵が強大であること、赤軍の技術的装備が貧弱であることからうまれる赤軍の作戦のいちじるしい特徴の一つは、固定した作戦線をもたないということである。

 赤軍の作戦線は、赤軍の作戦方向にしたがう。作戦方向が固定しないので、作戦線も固定しなくなる。大方向は一つの時期においては変更しないが、大方向のなかの小方向は、そのつど変更するものであり、一つの方向が制約をうけると、別の方向に転じていかなければならない。一つの時期がすぎたあと、大方向も制約をうけるとなれば、その大方向でさえも変更しなければならない。

 革命の国内戦争の時期には、作戦線は固定できない。こうしたことはソ連でもあったことである。ソ連の軍隊がわれわれの軍隊とちがっている点は、その固定しない度合いが、われわれほどはなはだしくなかったことである。どんな戦争にも、絶対的に固定した作戦線というものはありえず、勝敗進退の変化がそれをゆるさないのである。ところが、相対的に固定した作戦線は、一般の戦争にはよくみうけられる。ただ、現段階の中国赤軍のように、敵との強弱の差がはなはだしい軍隊では、それは例外である。

 作戦線が固定しないので、根拠地の領土も固定しなくなる。大きくなったり小さくなったり、伸びたり縮んだりするのはつねであり、起伏はあちらこちらでしばしばおこる。このような領土の流動性は、完全に戦争の流動性に由来している。

 戦争と領土の流動性は、根拠地のさまざまな建設活動にも流動性をおこさせている。何年にもわたる建設計画などはおもいもおよばないことである。計画の頻繁ひんぱんな変更は、われわれにとって日常茶飯事である。

 このような特徴を認めることは、われわれにとってためになるのである。この特徴から、われわれの日程を定めるのであって、進むだけで退くことのない戦争を夢みてはならず、領土や軍事的後方の一時的な流動におどろいてはならず、長期にわたる具体的な計画をたてようとしてはならない。われわれの思想や活動を状況に適応させ、腰をおろす用意もするが、またいつでもでかける用意もし、口糧袋をすててはならない。将来の比較的に流動しない状態をかちとるためには、また最後の安定をかちとるためには、現在の流動生活のなかで努力する以外にはない。

 五回目の反「包囲討伐」の時期を支配していたいわゆる「正規の戦争」という戦略方針は、このような流動性を否定し、いわゆる「遊撃主義」に反対した。流動に反対した同志たちは、大国家の支配者気どりでことをはこぼうとしたが、結果は、ただごとならぬ大流動――二万五千華里の長征となったのである。

 われわれの労農民主共和国は、一つの国家ではあるが、こんにちでは、まだ不完全な国家である。こんにち、われわれは、まだ国内戦争の戦略的防御の時期におかれており、われわれの政権は完全な国家形態にはまだほどとおく、われわれの軍隊は、数のうえでも技術的装備のうえでも、敵よりまだはるかに劣っており、われわれの領土もまだ小さく、われわれの敵は四六時中われわれを消滅しようと考えており、そうしなければ胸がおさまらないのである。この点から、われわれの方針がきめられるのであり、それは、一般的に遊撃主義に反対することではなくて、赤軍の遊撃性をすなおに認めることである。ここではずかしがることは無用である。それどころか、遊撃性こそ、われわれの特徴であり、われわれの長所であり、われわれが敵にうち勝つための手段である。われわれは遊撃性をすてる用意をすべきであるが、こんにちでは、まだすてられない。遊撃性は、将来には、恥ずべきもの、またすてるべきものとなるにちがいないが、しかし、こんにちでは、なお貴重なまた堅持すべきものである。

 「勝てるなら戦い、勝てなければ去る」、これがこんにちのわれわれの運動戦についてのわかりやすい解釈である。世の中には、戦うことだけを認めて、去ることを認めない軍事家はいないが、ただわれわれほどひどく去らないだけである。われわれにとっては、ふつう、歩く時間の方が戦う時間より多く、平均して月に一回の大きい戦いがあればよい方である。「去る」ことはすべて「戦う」ためであり、われわれの戦略、戦役のすべての方針は「戦う」という一つの基本点のうえにうちたてられている。ところが、われわれには、戦いにくいばあいがいくつかある。第一に、直面している敵が多いと戦いにくい。第二に、直面している敵は多くなくても、それが近くにいる敵の部隊と非常に近接していると、戦いにくいときもある。第三に、一般的にいって、孤立していず、しかも、十分堅固な陣地をもっている敵はみな戦いにくい。第四に、戦っても戦闘をかたづけることができないときには、それ以上戦わない方がよい。以上のべたようなばあいには、われわれは、すべて去る用意をする。こういうときに去るのはゆるされるものであり、またそうすべきである。なぜなら、われわれは、まず戦うことの必要性を認めることを条件として、去ることの必要性を認めるからである。赤軍の運動戦の基本的な特徴はここにある。

 基本的なものが運動戦であるということは、必要なまた可能な陣地戦を拒否することではない。戦略的防御において、われわれが牽制方面で、あるいくつかの重要拠点を固守するばあいにも、戦略的進攻において、孤立無援の敵に出あったばあいにも、陣地戦でたちむかうことを認めるべきである。このような陣地戦で敵にうち勝った経験は、われわれの過去においてもすくなくない。多くの都市、堡塁、とりでが、われわれによってうちやぶられ、敵のある程度強固な野戦陣地が、われわれによって突破された。今後も、この方面での努力をかさね、この方面でのわれわれの弱点をおぎなわなければならない。状況が必要とし、しかもそれがゆるされる陣地攻撃と陣地防御はぜひとも提唱すべきである。われわれが反対しているのは、こんにちにおいて一般的な陣地戦をとること、あるいは陣地戦と運動戦を同等にあつかうことだけであって、これこそゆるすことのできないものである。

 赤軍の遊撃性、固定した作戦線のないこと、根拠地の流動性、根拠地の建設活動の流動性は、この十年の戦争のあいだに少しも変化がなかったであろうか。変化はあった。井岡山から江西省の一回目の反「包囲討伐」前までが第一段階で、この段階での遊撃性と流動性は大きく、赤軍はまだ幼年時代にあり、根拠地はまだ遊撃区であった。一回目の反「包囲討伐」から三回目の反「包囲討伐」までが第二段階で、この段階では、遊撃性と流動性はかなり縮小し、すでに方面軍がつくられ、何百万の人口をもつ根拠地が存在していた。三回目の反「包囲討伐」から五回目の反「包囲討伐」までが第三段階で、遊撃性と流動性はいっそう縮小した。中央政府と革命軍事委員会がすでにつくられていた。長征が第四段階である。小遊撃と小流動を否定するあやまりをおかしたばかりに、大遊撃と大流動をまねいたのである。現在は第五段階である。五回目の「包囲討伐」に勝てなかったことと大流動とによって、赤軍と根拠地は大いに縮小したが、すでに西北地方に足場をかため、陝西・甘粛・寧夏ニンシァ辺区の根拠地を強化し発展させている。赤軍主力の三つの方面軍はすでに統一的指揮のもとにあり、このことは前にはなかったことである。

 戦略の性質についていえば、井岡山の時期から四回目の反「包囲討伐」の時期までが一つの段階で、五回目の反「包囲討伐」の時期がもう一つの段階であり、長征からこんにちまでが第三の段階であるともいえる。五回目の反「包囲討伐」のさい、ある人びとは、それまでのもともと正しかった方針を否定するあやまりをおかしたが、こんにち、われわれはまた五回目の反「包囲討伐」のときのかれらのあやまった方針を正しく否定し、以前の正しい方針を復活させた。だが、五回目の反「包囲討伐」のときのすべてを否定するのではないし、以前のすべてを復活させるのでもない。復活させたのは、以前のすぐれたものであり、否定したのは五回目の反「包囲討伐」のときのあやまったものである。

 遊撃主義には二つの面がある。一つの面は非正規性、すなわち集中しないこと、統一しないこと、規律が厳格でないこと、活動方法が単純なことなどである。これらのものは、赤軍が幼年時代に身につけてきたもので、あるものは当時としてはまさに必要なものであった。だが、赤軍が高い段階にたっすれば、赤軍をより集中的にし、より統一的にし、より規律のあるものにし、その活動をより綿密なものにするため、つまりより正規性をもったものにするため、だんだんとそれを意識的にすてさらなければならない。作戦指揮のうえでも、高い段階では不必要になった遊撃性をだんだんと意識的にすくなくしていくようにしなければならない。この面で前進するのを拒否し、ふるい段階にとどまるのを固執するのは、ゆるされないことであり、有害なことであり、大規模な作戦にとって不利なことである。

 もう一つの面は、運動戦の方針であり、現在もなお必要な戦略および戦役作戦の遊撃性であり、阻止することのできない根拠地の流動性であり、根拠地の建設計画の臨機応変性であり、赤軍の建設において、その時の事情にあわないような正規化をしないことである。この面で、歴史的事実を拒否し、役にたつものをのこすことに反対し、軽率に現段階をはなれて、見えても近づけない、さしあたって現実的意義のない、いわゆる「新段階」にむかって盲滅法につっぱしることは、同様にゆるされないことであり、有害なことであり、当面の作戦にとって不利なことである。

 現在、われわれは赤軍の技術的装備および組織の面で、つぎの新しい段階の前夜にある。われわれは新しい段階にうつる用意をしなければならない。そのような用意をしないことはまちがいであり、将来の戦争にとって不利である。将来、赤軍の技術的装備や組織の条件が変わり、赤軍の建設が新しい段階にすすんだならば、赤軍の作戦方向および作戦線はわりあいに固定し、陣地戦は増加し、戦争の流動性、領土および建設の流動性も大いに減少して、最後には消滅することになり、現在われわれを制約しているもの、たとえば優勢な敵とかれらが守備している堅固な陣地も、われわれを制約できなくなるのである。

 われわれは、現在、一方では「左」翼日和見主義が支配していた時期のあやまったやり方に反対し、他方では、赤軍の幼年時代にあったもので、現在ではすでに不用になっている多くの非正規性の復活にも反対するものである。だがわれわれは、赤軍がいままでずっとそれによって勝利をえてきた多くの貴重な錘軍の原則や戦略戦術の原則を、断固として復活しなければならない。われわれは、こんにちの敵にたいする勝利をたたかいとるとともに、将来新しい段階にうつる用意をするためには、いままでのすべてのすぐれたものを総括して、それを体系だった、さらに発展した、より豊富な軍事路線にしなければならない。

 運動戦を実行する面では、問題が非常に多い。たとえば偵察、判断、決心、戦闘配置、指揮、隠蔽、集中、開進、展開、攻撃、追撃、襲撃、陣地攻撃、陣地防御、遭遇戦、退却、夜戦、特殊地形における戦闘、強敵をさけて弱敵をうつこと、敵を包囲してその援軍をうつこと、陽攻、防空、いくつかの敵部隊のあいだにおかれたばあいの作戦、超越作戦、連続作戦、無後方作戦、鋭気をやしない力をたくわえることの必要などである。これらの問題は、みな赤軍の戦史において多くの特徴をしめしており、戦役学のなかで筋道をたててのべ、また総括しなければならないものであって、わたしはここではふれないことにする。



第八節 速決戦


 戦略上の持久戦と、戦役および戦闘上の速決戦、これは一つのことがらの二つの側面であり、国内戦争で同時に重んじられる二つの原則であり、また、帝国主義反対の戦争にも適用できるものである。

 反動勢力が強大なので、革命勢力がじょじょにしか成長しないこと、このことが戦争の持久性を規定している。この面であせることは損をすることになり、この面で「速決」を主張することは正しくない。十年も革命戦争をつづけたことは、他の国にとっては、あるいは驚異に値するかもしれないが、われわれにとっては、ちょうど八股文をつくるのに、破題、承題および起講〔37〕だけを書いたようなもので、たくさんのにぎやかな文章は、まだこれからである。今後の発展は、内外のあらゆる条件の影響によって、過去にくらべて疑いもなく大いに速度をます可能性がある。国際的、国内的環境には、すでに変化がおきており、しかも、もっと大きな変化がやってこようとしているので、われわれは、すでにいままでのような発展のゆるやかな孤軍作戦の状態からはぬけだしたといえるのである。だからといって、あすにも成功するものと期待してはならない。「朝めし前にかたづける」という気概はよいが、「朝めし前にかたづける」という具体的な計画はよくない。なぜなら、中国の反動勢力は、多くの帝国主義によって支持されており、国内の革命勢力が内外の敵の主要な陣地を突破できるまでに集積されないうちは、また国際革命勢力が国際反動勢力の大部分をうちやぶり、それを牽制しないうちは、われわれの革命戦争は依然として持久的だからである。この点に立って、われわれの長期作戦の戦略方針を規定することは、戦略指導の重要な方針の一つである。

 戦役と戦闘の原則はこれとは逆で、持久ではなくて速決である。戦役と戦闘で速決をめざすことは、古今東西いずれもおなじである。戦争の問題では、古今東西をつうじて速決をもとめないものはなく、月日を長びかすことはなんといっても不利だとみられてきた。だが、中国の戦争だけは、最大の辛抱強さをもってあたらないわけにはいかないし、持久戦をもってこれにあたらないわけにはいかない。李立三路線の時期に、ある人はわれわれのやり方を、「拳法戦術」(何回もうったりうたれたりする手あわせをしなければ大都市は奪取できないという意味である)だとあざけり、またわれわれを、白髪にならなければ革命の勝利はみられないだろうとあざけった。このようなせっかち病の気分が正しくないことは、すでに早くから証明されている。だが、もしかれらの批判的意見が戦略問題にではなくて、戦役や戦闘の問題についておこなわれたのであれば、それは非常に正しい。その理由は、第一に、赤軍の兵器、とくに弾薬には補給源がないこと、第二に、白軍はたくさんの部隊をもっているが、赤軍には一つの部隊しかないので、一回の「包囲討伐」をうちやぶるには、迅速な連続的な作戦を準備しなければならないこと、第三に、白軍の各部隊は分進してはくるが、その多くは比較的に密集しており、かれらのなかの一つをうつさい、迅速に戦闘をかたづけることができなければ、他の部隊がみなやってくることである。こうした理由から、速決戦を実行しないわけにはいかない。われわれにとって、数時間とか、一日、あるいは二日のあいだに、一つの戦闘をかたづけてしまうのはよくあることである。ただ、「敵を包囲してその援軍をうつ」方針のもとでは、目的が包囲した敵をうつのではなくて、敵の援軍をうつのであるから、包囲した敵との作戦は相当に持久の準備をするが、敵の援軍にたいしてはやはり速決である。戦略的防御のさいに牽制方面の拠点を固守するとき、戦略的進攻のさいに孤立無援の敵をうつとき、根拠地内の白色拠点を消滅するとき、こうしたときにも、つねに戦役あるいは戦闘に持久の方針がとられる。しかし、こうした持久戦は、赤軍主力の速決戦をたすけこそすれ、それをさまたげはしない。

 速決戦は、頭のなかでそうしようと考えたらそれで実現できるというものではなく、それには、たくさんの具体的な条件が必要である。その条件の主要なものは、準備が十分できていること、時機を失わないこと、優勢な兵力を集中すること、包囲・迂回戦術をとること、よい陣地があること、運動中の敵をうつこと、あるいは駐止はしたが陣地をまだかためていない敵をうつことである。これらの条件を解決しないで、戦役あるいは戦闘の速決をもとめるのは不可能である。

 一回の「包囲討伐」をうちやぶることは、一つの大戦役であり、それには、持久の原則ではなくて、やはり速決の原則が適用される。なぜなら、根拠地の人力、財力、軍事力などの条件が、いずれも持久をゆるさないからである。

 だが、一般的な速決の原則のもとで、不当なあせりに反対することは必要である。革命根拠地の最高の軍事政治指導機関が、根拠地のもつこうした条件を考慮に入れ、敵の状況を考慮に入れて、敵の気勢にきもをつぶさず、まだたえられるような困難にくじけず、いくらかの挫折にも力をおとさずに、必要な忍耐心と持久力をもつことは、ぜひとも必要である。江西省で一回目の「包囲討伐」をうちやぶったのは、緒戦から終結までわずか一週間であり、二回目の「包囲討伐」をうちやぶったのは、わずか半ヵ月であったが、三回目の「包囲討伐」をうちやぶるには三ヵ月も苦労しぬき、四回目は三週間、五回目はまるまる中年も苦労しぬいた。ところが、五回目の「包囲討伐」をうちやぶることができず、包囲突破をよぎなくされたときには、あってはならないあわてぶりをしめした。状況からみれば、まだ二、三ヵ月もちこたえられ、それによって軍隊を休養・整頓することもできたはずである。もしそうであったならば、また包囲突破後の指導がもう少し賢明であったならば、状況は大いにちがっていたであろう。

 以上のべたとおりではあるが、全戦役の時間を極力縮めるというわれわれの原則は、やはりやぶられてはいない。戦役、戦闘の計画では、兵力の集中や連動戦などの条件を極力たたかいとって、内線で(根拠地において)敵の実兵力を消滅して「包囲討伐」の迅速な解決をはかるほかに、「包囲討伐」が内線で解決できないことが証明されたときには、主力の赤軍をもって敵の包囲攻撃線を突破し、わが方の外線、つまり敵の内線にはいっていって、この問題を解決すべきである。堡塁主義の発達したこんにち、このような手段は通常の作戦手段となるものである。五回目の反「包囲討伐」がはじめられてニヵ月後に、福建事変⑦がおきたとき、主力の赤軍は、疑いもなく、淅江チョーチァン省を中心とする江蘇チァンスー・淅江・安徽・江西省地区につき進んで、杭州ハンチョウ蘇州スーチョウ南京ナンチン蕪湖ウーフー、南昌、福州フーチョウのあいだを縦横にかけめぐり、戦略的防御を戦略的進攻に変えて、敵の中枢要地をおびやかし、堡塁のない広大な地帯で戦いをもとめるべきであった。このような方法がとられたならば、江西省南部、福建省西部地区を進攻していた敵は、その中枢要地を援助するためにひきかえすことをよぎなくされ、われわれは、江西省の根拠地にたいする敵の進攻を粉砕できるとともに、福建人民政府をも援助できたであろう。――このような方法は、たしかにかれらを援助できるものであった。この計略を用いなかったために、五回目の「包囲討伐」はうちやぶることができなかったし、福建人民政府もたおれるよりほかなかった。一年ものあいだ戦ったあとでは、淅江省にうって出るにはすでに不利であったが、もう一つの方向にむけて戦略的進攻をとること、すなわち主力を湖南省にむけて前進させ、湖南省をへて貴州省にむかうのではなくて、湖南省の中部にむけて前進し、江西省の敵を湖南省にひきよせて、それを消滅することもできたはずである。この計略も用いなかったので、五回目の「包囲討伐」をうちやぶる希望は最終的にたちきられ、ただ一つ長征の道だけがのこされた。



第九節 殲滅戦


 「消耗で張りあう」という主張は、中国の赤軍にとってはいまの事情にあっていない。「宝くらべ」を竜王が竜王とやるのでなくて、こじきが竜王とやったら、それこそこっけいである。ほとんどすべてのものを敵側から奪うことによってまかなっている赤軍にとっては、その基本的な方針は殲滅戦である。敵の実兵力を殲滅しないかぎり、「包囲討伐」をうちやぶることも、革命の根拠地を発展させることもできない。敵を殺傷するのは、敵を殲滅する手段としてとられるものであり、そうでなければ意義がない。敵を殺傷することで、味方も消耗するが、また敵を殲滅することで、味方が補充されるのであって、そうすればわが軍の消耗がつぐなえるばかりでなく、わが軍の力は増大される。撃破戦は、強大な敵にたいして勝敗を基本的に決するものではない。ところが、殲滅戦は、どんな敵にたいしても、ただちに重大な影響をもたらす。人のばあいでも、十本の指を傷つけるよりは一本の指を切りおとした方がよく、敵にたいしても、十コ師団を撃破するよりはその一コ師団を殲滅した方がよい。

 一回、二回、三回、四回目の「包囲討伐」にたいするわれわれの方針は、いずれも殲滅戦であった。毎回殲滅した敵は、敵全体にとっては一部分にすぎなかったが、しかし「包囲討伐」はうちやぶった。五回目の反「包囲討伐」のときは、反対の方針がとられ、じっさいには、敵の目的達成をたすけることとなった。

 殲滅戦と、優勢な兵力を集中して包囲・迂回戦術をとることとは、同一の意義をもっている。後者がなければ前者はない。人民の支持、すぐれた陣地、たたきやすい敵、敵の意表にでるなどの条件は、いずれも殲滅の目的を達成するのに欠くことのできないものである。

 撃破に意義があるといい、ひいては敵を逃走させることにも意義があるというのは、全戦闘あるいは全戦役で、わが軍の主力が、目標とした敵にたいして殲滅的な戦いをおこなうばあいにだけいえるのであって、そうでなければ、なんの意義もない。これは、失うことが得ることにたいして意義をもつ、もう一つのばあいである。

 われわれは軍需工業を建設するが、それへの依頼心を助長してはならない。われわれの基本方針は、帝国主義と国内の敵の軍需工業に依存することである。ロンドンと漢陽ハンヤンの兵器工場の製品にたいして、われわれは権利をもっており、しかも敵の輸送隊によってそれがはこばれてくる。このことは冗談ではなく、真理である。




〔注〕

〔1〕 中国の文字の「実際」という概念には、二つの意味がふくまれている。一つは実際の状況をさし、他の一つは人びとの行動(つまり一般にいわれる実際)をさす。毛沢東同志がその著作のなかでこの概念をつかうとき、しばしば両方の意味をかねている。

〔2〕 孫武子とは孫武のことで、西紀前五世紀の中国の著名な軍事学者であり、『孫子』十三縞をあらわした。本文に引用したことばは、『孫子』三巻の「謀攻」編にみられる。

〔3〕 一九二一年七月、中国共産党が成立してから、一九三六年に毛沢東同志がこの著作をあらわした時までが、ちょうど十五年である。

〔4〕 陳独秀は、もと北京大学の教授であったが、雑誌『新青年』を編集したことから有名になった。陳独秀は中国共産党の創立者のひとりであった。かれか五・四運動時代に有名であったことと、創立当初の党が幼稚であったことから、かれは党の総書記になった。一九二四年から一九二七年までの革命における最後の一時期には、陳独秀に代表される党内の右翼思想によって、投降主義の路線が形成された。当時の「投降主義者は、農民大衆、都市小ブルジョア階級および中層ブルジョア階級にたいする指導権をすすんで放棄し、とくに武装力にたいする指導権を放棄したため、そのときの革命を失敗に終わらせてしまった」(毛沢東『当面の情勢とわれわれの任務』)。一九二七年、革命が失敗したのち、陳独秀およびその他の少数の投降主義者は、革命の前途に悲観して解党主義者となり、トロツキー主義の反動的立場をとるとともに、トロツキストと結託して反党小グループをつくった。そのため、一九二九年十一月、党から追われた。陳独秀は一九四二年に死んだ。陳独秀の右翼日和見主義については、本選集第一巻の『中国社会各階級の分析』『湖南省農民運動の視察報告』の二つの論文の解題と第二巻の『「共産党人」発刊のことば』を参照。

〔5〕 李立三の「左」翼日和見主義とは、一九三〇年六月以後の約四ヵ月のあいだ、当時の中国共産党中央の主要な指導者李立三によって代表された「左」翼日和見主義路線のことであり、ふつう「李立三路線」といわれている。李立三路線の特徴は、党の第六回全国代表大会の方針にそむいて、革命が大衆的な力の準備を必要とし、革命の発展が不均等であることを否定したことである。李立三路線は、毛沢東同志の、長期にわたって主要な注意力を農村根拠地の創設にそそぎ、農村をもって都市を包囲し、根拠地をもって全国的革命の高まりをおしすすめるという思想を、いわゆる「極度にあやまった」「農民意識の地方的観念であり、保守的観念である」として、全国各地でただちに蜂起する準備をしなければならないと主張した。李立三はこのようなあやまった路線のもとで、全国各中心都市の武装蜂起をただちに組織するという冒険的な計画をたてた。同時に、李立三路線は世界革命の不均等性も認めず、中国革命の全面的勃発が必然的に世界革命の全面的勃発をひきおこし、しかも中国革命は世界革命の全面的勃発のなかにあってのみ成功しうるものだとした。李立三路線はまた、中国のブルジョア民主主義革命の長期性を認めず、一省あるいは数省でさきに勝利をうることが、社会主義へ転換するはじまりであるとして、これにもとづき、当時の事情にあわない若干の「左」翼的冒険政策をきめた。毛沢東同志はこのあやまった路線に反対し、全党の広範な幹部と党員もこの路線の是正を要求した。李立三自身も、一九三〇年九月、党の第六期中央委員会第三回総会で、当時指摘されたあやまりを認め、ついで中央の指導的地位からはなれた。李立三が長い期間のなかで自己のあやまった観点をあらためたので、党の第七回全国代表大会は、またかれを中央委員に選出した。

〔6〕 一九三〇年九月にひらかれた党の第六期中央委員会第三回総会とその後の一時期の党中央は、李立三路線をうちきるために積極的な作用をもつ多くの措置をとった。ところが、第六期中央委員会第三回総会以後、革命闘争の実際の経験をもたない党内の一部の同志は、陳紹禹(王明)、秦邦憲(博古)を先頭として、中央の措置に反抗した。かれらは当時発表した『二つの路線』、または『中国共産党のいっそうのボリシェビキ化のためにたたかおう』と名づけられたパンフレットのなかで、李立三路線の「右」翼的なものにたいする「批判」をその活動のもとでにして、当時の党内の主要な危険が「左」翼日和見主義ではなく、いわゆる「右翼日和見主義」であるととくに強調した。かれらは、新しい形態のもとで李立三路線やその他の「左」翼的思想、「左」翼的政策を継続させ、復活させ、あるいは発展させる新しい政治綱領をうちだして、毛沢東同志の正しい路線に対立した。毛沢東同志のこの著作『中国革命戦争の戦略問題』は、主としてこの新しい「左」翼日和見主義路線が軍事の面でおかしたあやまりを批判するために書かれたものである。この新しい「左」翼的なあやまった路線は、一九三一年一月にひらかれた党の第六期中央委員会第四回総会から、一九三五年一月、党中央が貴州省の遵義でひらいた政治局会議で、あやまった路線の指導を終わらせ、毛沢東同志を先頭とする党中央の新しい指導がはじめられたときまで、党内を支配していた。この「左」翼的なあやまった路線が党内を支配していた時期はとくに長く(四年)、党と革命にあたえた損失はとくに重大であった。そのわるい結果として、中国共産党、中国赤軍および赤軍の根拠地は、その九〇パーセント前後を失い、革命根拠地の数干万の人民は国民党にふみにじられ、中国革命の進展をおくらせた。この「左」翼的路線のあやまりをおかした同志たちも、その大多数は、長期の体験をつうじて、自分のあやまりを認識し、是正して、党と人民にとって有益な多くの仕事をした。これらの同志は、他の広範な同志たちといっしょに、おなじ政治的認識を基礎として、毛沢東同志の指導のもとに、たがいに団結した。

〔7〕 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔21〕および注〔22〕を参照。

〔8〕 盧山軍官訓練団とは、蒋介石が反共の軍事幹部を訓練するためにつくった組織のことで、一九三三年七月、江四省九江県の盧山に設けられた。この訓練団では、蒋介石軍の将校が順番にあつめられ、ドイツ、イタリア、アメリカの軍事教官によって、ファッショ的な軍事訓練と政治訓練がほどこされた。

〔9〕 ここでいう五回目の「包囲討伐」でとられた新しい軍事原則とは、主として、トーチカをつくっては前進し、一歩ごとに陣地をかためるという蒋介石匪賊一味の「堡塁政策」のことである。

〔10〕 『レーニン全集』第三十一巻の『共産主義』という論文にみられる。この論文のなかで、レーニンはハンガリー共産党員べラ・クンを批判して、「かれは、マルクス主義のもっとも本質的なものとマルクス主義の生きた魂である具体的状況にたいする具体的分析を放棄した」と指摘している。

〔11〕 党の湖南・江西省境地区第一回代表大会とは、一九二八年五月二十日、湖南・江西辺区の共産党組織が寧岡県の茅坪でひらいた第一回代表大会のことである。

〔12〕 本巻の『党内のあやまった思想の是正について』の注〔2〕および〔3〕を参照。

〔13〕 「匪賊主義」とは、規律がなく、組織性がなく、明確な政治的目標のない略奪行為のことである。

〔14〕 赤軍が江西省から出発して陝西省北部に到達するまでの二万五千華里の長征をさす。本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔20〕にみられる。

〔15〕 ロシアで、一九〇五年十二月の蜂起が失敗したのち、革命が高揚からしたいに退潮に転じていった時期をいう。『ソ連共産党ボリシェビキ歴史小教程』第三章第五、第六節を参照。

〔16〕 ブレスト条約は、一九一八年三月、ソビエト・ロシアがドイツと締結した講和条約である。当時の状況では、敵の力があきらかに革命勢力をしのいでいたので、成立早々まだ自分の軍隊をもっていなかったソビエト共和国か、ドイツ対国主義の打撃をこうむらないようにするためにおこなった一時的な退却である。この講和条約の締結によって、ソビエト共和国はプロレタリア階級の政権を強固にし、経済を調整し、赤軍を建設するための時間をかせぐことができ、プロレタリア階級は農民にたいする指導を保持し、力を結集して、一九一八年から一九二〇年にかけての白衛軍およびイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドの諸国の武力千渉を撃破することができるようになった。

〔17〕 一九二七年十月三十日、広東省海豊、陸豊県の農民は、中国共産党の指導のもとで三回目の蜂起をおこない、海豊、陸豊県およびその付近の地区を占領し、赤軍を組織し、労農民主政権をうちたてた。その後、敵をみくびるというあやまりをおかしたため失敗した。

〔18〕 一九三六年の秋、赤軍第四方面軍は、第二方面軍と合流したのち、西康省東北部から出発して、北上のための移動をおこなった。張国燾は、このときにもやはり反党の立場を固持し、一貫してとりつづけてきた退却主義と解党主義を固持した。同年十月、赤軍第二万両軍と第四方面軍が甘粛省についたのち、張国燾は第四方面軍の前衛部隊二万余人にたいし、西路軍を編成し、黄河をわたって西の青海省へ進むことを命令した。一九三六年十二月、西路軍は、戦いで打撃をうけて基本的に失敗し、一九三七年三月には完全に失敗してしまった。

〔19〕 マルクスのクーゲルマンあてのパリ・コミューンについての書簡にみられる。

〔20〕 『水滸伝』は農民戦争を描いた中国の有名な小説で、十四世紀の元未明初の施耐庵の作と伝えられている。林冲、柴進はいずれもこの小説にでてくる英雄的な人物である。洪師範は柴家の武芸指南者である。

〔21〕 魯と斉は、中国春秋時代(西紀前七二二年~前四八一年)の二つの封建国家である。斉は大国で、いまの山東省中部にあり、魯はわりに小さく、いまの山東省南部にあった。魯の荘公は、西紀前六九三年から六六二年にかけての魯の君主であった。

〔22〕 左丘明は、中国の周代の有名な編年史『左伝』の著者である。本文に引用した部分は『左伝』「荘公十年」にみられる。

〔23〕 「肉食の者」とは役人をさす。「またなんぞ間せん」というのは「どうしてその仲間にくわわる必要があろうか」という意味。「犠牲玉帛、敢えて加えざるなり、かならず信を以てせり」という句の「犠牲玉帛」とは神をまつるときの供え物のことで、「加え」とは、誇大に報告するという意味。書の荘公が事実どおりに供え物を報告したといったのは、神にたいし信義をまもったということを表明したものである。「忠の属なり。以て一戦すべし」の忠とは、本分をつくすということである。曹劌のことばは、一国の君主が訴訟や疑獄にたいして情理にかなった処置をとれば、人民の支持をうることができるので、戦ってよろしい、という意味である。「公まさにこれに鼓うたんとす」とか「斉人三たびうつ」というこの「鼓」は、陣太鼓をうって兵士の突撃を指揮することをいう。「軾に登りてこれを望み」という「軾」は車に乗るものがつかまる前部の手すりのことで、車の上ではいちばん高いので、これにのぼって遠方を見るのである。

〔24〕 昔の成皐の城は、いまの河南省成皐県の西北部にあり、古代の軍事的要地であった。西紀前二〇三年、漢王劉邦と楚王項羽がこの一帯で戦った。当時項羽は滎陽、成皐をあいついで攻略し、劉邦軍はちりぢりになるまで撃破された。しかし、のちに劉邦は楚軍が氾水をなかばわたる時機をまちかまえて、ついに楚軍を大いにやぶり、成皐を奪回した。

〔25〕 昔の昆陽の城は、いまの河南省葉県にある。西紀二三年、劉秀(東漢光武帝)がここで王莽の軍隊をうちやぶった。この戦いでは、双方の兵力の差がはなはだしく、劉秀の軍隊はわずか八、九千人しかなかったのに、王莽の軍隊は四十余万であった。しかし、劉秀は王莽の将軍王尋、王邑が敵をみくびって、ゆるんでいた弱点を利用して、精兵三千人をひきいて、王莽の軍隊の中堅を突破し、勢いに乗じて進撃し、敵軍を大いにやぶった。

〔26〕 官渡はいまの河南省中牟県の東北部にある。西紀二〇〇年、曹操の軍隊と袁紹の軍隊がこの一帯で戦った。当時袁紹は十万の兵をもっていたが、曹操は兵もすくなく糧秣もつきはてていた。しかし曹操は、袁軍が敵をみくびって防備をしていないのに乗じて、軽装備の軍隊で奇襲をおこない袁軍の輜重しちょうに火をはなった。袁軍があわてふためくところを曹軍か出撃し、その主力を殲滅した。

〔27〕 呉とは孫権の側をいい、魏とは曹操の側をいう。赤壁はいまの湖北省嘉魚県の東北の長江南岸にある。西紀二〇八年、曹操は五十余万の兵をひきい八十万と称して孫権を攻撃した。孫権は曹操の敵である劉備と連合し、兵三万をくりだし、曹軍に伝染病があることと水戦に不慣れなことを利用して、火攻めで曹軍の軍船を焼きはらい、これを大いにやぶった。

〔28〕 彝陵はいまの湖北省宜昌県の東にある。西紀二二二年、呉の将軍陸遜はここで蜀漢の劉備を大いにやぶった。この戦いの初期には、劉備軍は連戦連勝して、彝陵まですすみ、呉の国境内に五、六百華里もはいった。陸遜は七、八ヵ月ものあいだたてこもって戦わず、劉備軍の「兵が疲れ、士気がくじけ、うつ手がなくなる」まで侍って、追い風を利用して火をはなち、大いに蜀軍をやぶった。

〔29〕 西紀三八三年、東晋の将軍謝玄は、秦の君主苻堅を安徽省の淝水で大いにやぶった。当時、苻堅は歩兵六十余万、騎兵二十七万、親衛隊三万余騎をもっていたのにたいし、東晋は水陸軍あわせてわずか八万しかなかった。両軍が淝水をへだてて対峙していたとき、晋軍の将領は、敵軍がおごり高ぶっているのを利用して、秦軍にたいし、晋軍が淝水をわたって決戦できるよう、淝水北岸に戦場をあけてほしいと申しいれた。秦軍はその予期したとおり承諾したが、軍隊かびとたび後退しだすととどまらなくなったので、晋軍はその機に乗じて淝水をわたって攻撃し、大いに秦軍をやぶった。

〔30〕 一九二七年八月一日、中国共産党は、蒋介石、汪精衛の反革命に反対し、一九二四年から一九二七年にかけての革命事業をつづけるため、江西省の省都南昌で有名な蜂起を指導した。この蜂起に参加した武装部隊は三万余人で、指導者には周恩来、朱徳、賀竜、葉挺らの同志がいた。八月五日、蜂起軍は予定の計画にしたがって南昌を撤退したが、広東省の潮州、汕頭一帯まで進んだときに挫折をこうむった。蜂起軍の一部は、のちに朱徳、陳毅、林彪らの同志にひきいられて、転戦をしながら、井岡山に到達し、毛沢東同志の指導する労農革命軍第一軍第一師団と合流した。

〔31〕 本巻の『中国の赤色政権はなぜ存在することができるのか』の注〔8〕を参照。

〔32〕 一九二七年九月、湖南・江西省境地区の修水、萍郷、平江、瀏陽などの県の人民武装組織は、毛沢東同志の指導のもとに、有名な秋収蜂起をおこし、労農革命軍第一軍第一師団をつくった。毛沢東同志はこの軍隊をひきいて井岡山につき、そこで湖南・江西辺区の革命根拠地をうちたてた。

〔33〕 AB団とは当時赤色地域にひそんでいた国民党の反革命特務組織のことである。ABとは英語のAnti-Bolshevik(反ボリシェビキ)の略語である。

〔34〕 江西省中部の贛江と東部の撫水の二つの川のあいだの地区をいう。

〔35〕 レーニンの『即時に単独講和し、領土割譲条約を締結する問題についてのテーゼ』、『奇妙なことと法外なこと』、『重大な教訓と重大な責任』、『戦争と平和にかんする報告』などの著作および『ソ連共産党ボリシェビキ歴史小教程』第七章第七節を参照。

〔36〕 ここでいっているチベット族、回族とは、西康省一帯に住むチベット族と、甘粛省、青海省、新疆に住む回族をさす。

〔37〕 八股文とは十五世紀から十九世紀にかけての中国の封建王朝の官吏登用試験に規定された一種の特殊な文体である。八股文とは破題、承題、起講、入題、短股、中股、後股、束股の部分からなりたっており、「破題」は二句で、まず題目の要義を穿うがつ。「承題」はふつう三句か四句で、破題の意義をうけ、それを説明する。「起講」は全体を概説し、ここから論議がはじまる。「入題」は起講ののちに本願に入るところである。起股、中股、後股および束股のこの四段落が、はじめて正式の論議を展開するところで、中股は全文の中心となる。この四段落は、さらにそれぞれたがいに対比した字句をつかう二つの股からなりたち、全部で八股となるので、八股文とよばれ、あるいは八比ともよばれる。毛沢東同志がここでいっているのは、八股文を書くにあたって、一つの部分から他の部分にうつる展開過程のことをさしており、それを革命の発展の各段階にたとえたのである。だが、ふつうのばあい、毛沢東同志は八股文なるものを教条主義にたいするたとえや風刺につかっている。

〔訳注〕

① 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注④を参照。

② ここでいう「部隊」は、だいたい連隊以下のものをさし、「兵団」は、だいたい師団以上のものをさす。

③ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の訳注⑤を参照。

④ 本巻の『経済活動に心をそそげ』の注〔1〕を参照。

⑤ この会議は一九三五年一月、貴州省の遵義でひらかれた。この会議は、全力を集中して、当時決定的な意義をもっていた軍事上、組織上のあやまりの是正に全力を集中し、党中央における日和見主義路線の支配に終止符をうち、毛沢東同志を代表とする党中央の新しい指導を確立した。これは中国共産党内でもっとも歴史的意義をもつ転換である。

⑥ 「大後方制度に反対する」とは、五回目の反「包囲討伐」のとき、革命根拠地を「大後方」とみなし、一つの国家とみなして、「敵を国門の外でふせぎ」「一歩一歩さがっては抵抗していく」ことと「短距離強襲」などをやろうとする「左」翼日和見主義者のあやまった作戦原則に反対することである。「小後方制度を認める」とは、革命根拠地では、革命戦争を支援するのに分散した小規模な後方を利用すべきことを認めることである。

⑦ 本巻の『日本帝国主義に反対する戦術について』の注〔10〕を参照。

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