淮海戦役の作戦方針について (一九四八年十月十一日)
これは、毛沢東同志が中国共産党中央革命軍事委員会のために起草した、華東野戦軍と中原野戦軍、華東局と中原局あての電報である。淮海戦役は、中国人民解放戦争のなかで決定的な意義をもつ三つのもっとも大きな戦役の一つであった。この戦役は、華東野戦軍、中原野戦軍および華東、中原の地方部隊か協同しておこなったものである。この戦役では、計五十五万五千余人の国民党軍を殲滅した。毛沢東同志がこの電報のなかで提起した戦役方針は完全な成功をおさめた。ただ、戦役の発展か予想より順調であったため、その勝利も予想よりはやく、また大きかった。この戦役以後、国民党反動政府の首都南京は人民解放軍の直接の脅威にさらされるようになった。淮海戦役は一九四九年一月十日に終わり、一月二十一日には蒋介石が「引退」を宣言し、南京の国民党反動支配集団はこのときから瓦解状態におちいった。
淮海戦役〔1〕の部署配置について、ここにいくつかの意見をのべて、諸君に考えてもらうことにする。
(一)本戦役の第一段階の重点は、兵力を集中して黄伯韜兵団を殲滅し、中間突破を遂行して、新安鎮、運河駅、曹八集、[山+尺]県、棗荘、臨城、韓荘、沭陽、邳県、郯城、台児荘、臨沂などを占領することである。この目的をとげるためには、ニコ縦隊で敵の一コ師団を殲滅する方法をとり、計六ないし七コ縦隊で、敵の第二十五師団、第六十三師団、第六十四師団を分断して殲滅する。五ないし六コ縦隊で、増援部隊の阻止と攻撃にあたる。一ないしニコ縦隊で、臨城・韓荘地区の李瀰部隊の一コ旅団を殲滅するとともに、できるかぎり臨城、韓荘を占領して、北側から徐州をおびやかし、邱清泉、李瀰両兵団が全力をあげて東部へ救援にでられないようにする。一コ縦隊に地方兵団をくわえて山東省西南部に配置し、徐州、商邱区間を側面攻撃して、邱清泉兵団の一部を牽制する(孫元良の三コ師団にいま東進の動きがあるので、劉伯承、陳毅、鄧小平はただちに鄭州、徐州の線を攻撃する部署配置をおこない、孫元良兵団を牽制するようのぞむ)。一ないし二コ縦隊をもって、宿遷・[目+隹]寧・霊璧地区で活動し、李瀰兵団を牽制する。以上の部署配置はつまり、半分以上の兵力をもって邱清泉、李瀰両兵団に対処し、これを牽制し、阻止し、その一部を殲滅しなければ、黄伯韜兵団三コ師団を殲滅する目的はたっせられないということである。この部署配置は、九月の、済南攻撃のさい増援部隊をたたく〔2〕部署配置とほぼおなじであるが、こうしなければ黄伯韜兵団三コ師団を殲滅する目的はたっせられない。第一段階は、戦役開始後二週間ないし三週間で終わらせるよう努力する。
(二)第二段階では、約五コ縦隊で海州・新浦・連雲港・灌雲地区の敵を攻撃し、殲滅するとともに、これらの都市を占領する。そのさい、青島の第五十四師団、第三十二師団が海路から海州・新浦・連雲港地区におくられる可能性が大きい〔3〕と考えられる。同地区では、もとからいた一コ師団とあわせて計三コ師団になる。したがって、われわれはやはり、九月の、済南攻撃のさい増援部隊をたたく部署配置とおなじ原則をとり、五コ縦隊で攻撃にあたり、その他の兵力(主力)で邱清泉、李瀰両兵団を牽制する。この段階も二週間ないし三週間で終わらせるようにする。
(三)第三段階では、淮陰・淮安一帯での作戦が予想される。そのさい、敵は約一コ師団の兵力をふやしているだろうから(改編第八師団をいま烟台から南に輸送中である)、これもまた、約五コ縦隊の兵力で攻撃し、その他の主力で増援部隊を攻撃し、牽制する準備をする。この段階もほぼ二週間ないし三週間かかる。
三つの段階には、ほぼ一ヵ月半ないしニヵ月の期間が必要である。
(四)諸君は十一月、十二月のニヵ月で淮海戦役を完了する。明年一月には休養と整備・訓練をおこなう。三月から七月までに劉伯承・鄧小平との協同作戦によって、敵を長江沿岸の各拠点まで追撃してそこを守るようにさせる。秋には、諸君の主力はたぶん渡河作戦を決行できるだろう。
〔注〕
〔1〕 淮海戦役は、人民解放軍が、徐州を中心に、東は海州から西は商邱、北は臨城(いまの薛城)から南は淮河にいたる広大な地域でおこなった決定的な意義をもつ戦役であった。この地域に集結した国民党軍は、徐州「匪賊討伐総司令部」司令官劉峙、副司令官杜聿明指陣下の四コ兵団と三つの綏靖区の部隊、それに、のちに華中から増援された黄維兵団をくわえて五コ兵団と三つの綏靖区の部隊であった。この戦役に参加した人民解放軍は、華東野戦軍の十六コ縦隊、中原野戦軍の七コ縦隊、華東軍区と中原車区の地方部隊ならびに華北軍区に所属する河北・山東・河南軍区の地方部隊などあわせて六十余万人であった。戦役は、一九四八年十一月六日から一九四九年一月十日まで六十五日間にわたっておこなわれ、国民党の精鋭部隊二十二コ軍団―五十六コ師団(うち四コ師団半が蜂起した)計五十五万五干人を殲滅し、このほかさらに、南京方面から増援されてきた劉汝明、李延年両兵団を撃退して、長江以北の華東地区、中原地区を基本的に解放した。淮海戦役は、全体が三つの段階にわけられる。第一段階は、十一月六日から二十二日までで、華東野戦軍は、中原野戦軍の協力のもとに、徐州以東の新安鎮・碾荘地区で黄伯韜兵団を包囲殲滅し、黄伯韜を戦死させ、碾荘以東の天水=連雲港鉄道の両側と天津=滝口鉄道の徐(州)・蚌(埠)区間の両側、徐州以西、以北の広大な地域を解放した。国民党第三綏靖区に所属する三コ師団半、計二万三千余人が台児荘・棗荘地区で蜂起した。第二段階は十一月二十三日から十二月十五日までで、中原野戦軍は、華東野戦軍の主力の協力のもとに、宿県西南方の双堆集地区で黄維兵団を包囲殲滅し、兵団司令黄維と副司令呉紹周を捕虜にした。同兵団の一コ師団が蜂起した。同時にまた、徐州から西に逃げた孫元良兵団を殲滅し、孫元良は身一つでのがれた。第三段階は一九四九年一月六日から十日までで、華東野戦軍は、中原野戦軍の協力のもとに、永城東北の青竜集・陳官荘地区で、杜聿明の直接指揮のもとに徐州から西にのがれた邱清泉、李瀰両兵団を包囲殲滅し、李瀰だけは逃げたが、杜聿明は捕虜となり、邱清泉は戦死した。こうして、きわめて大きな規模をもつ淮海戦役は勝利をもって終わった。
〔2〕 済南攻撃のさい増援部隊をたたくというのは、一九四八年九月中旬に人民解放軍が済南戦役でとった作戦方法である。済南は山東地区における国民党の戦略上の要地であった。国民党は、第二綏靖区の十一万余人をもって済南を守備していた。同時に、徐州地区に配置した主力二十三コ旅団約十七万人をいつでも北に増援する準備をととのえていた。華東野戦軍は七コ縦隊をもって都市攻撃集団を組織し、八コ縦隊をもって増援部隊攻撃集団を組織した。一九四八年九月十六日の夜、わが軍は済南を守備する敵にたいして攻撃を開始した。八昼夜にわたる連続攻撃の結果、二十四日には守備の敵をせんぶ殲滅し(うち一コ軍団は蜂起した)、国民党第二綏靖区司令官王耀武を捕虜にした。わが軍がすみやかに済南を攻略したため、徐州の敵はあえて北への増援にむかおうとはしなかった。
〔3〕 結局、この敵は出てくることができなかった。




