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状況についての通報 (一九四八年三月二十日)

 これは、毛沢東同志が中国共産党中央のために書いた党内通報である。これ以後、党中央は、陝西・甘粛・寧夏辺区をはなれ、山西・綏遠解放区をへて山西・察哈爾・河北解放区にはいり、一九四八年五月に河北省西部の平山県の西柏坡村についた。



 一、この数ヵ月、党中央は、全力を集中して新しい情勢下における土地改革、商工業、統一戦線、整党、新解放区での活動など各方面にかんするそれぞれの具体的な政策、戦術の問題を解決し、党内の右翼的傾向と「左」翼的傾向、主として「左」翼的傾向に反対してきた。わが党の歴史は、わが党と国民党が統一戦線を結成している時期には、党内に右翼的傾向がうまれやすく、わが党と国民党が分裂している時期には、党内に「左」翼的傾向がうまれやすいことをしめしている。現在の「左」翼的傾向は、主として、中農の利益を侵すこと、民族ブルジョア階級の利益を侵すこと、労働運動のなかで労働者の目先の福利を一方的に強調すること、地主と富農とのとりあつかいに区別がないこと、地主のなかの大、中、小のとりあつかい、悪覇あくはと悪覇でないものとのとりあつかいに区別がないこと、平均分配の原則にもとづいて地主に必要な生活の道をのこしてやるということをしないこと、反革命弾圧闘争にあたって政策上の限界を一部とえること、そしてまた、民族ブルジョア階級を代表する政党をのけものにすること、開明紳士をのけものにすること、新解放区において打撃面を縮小するということの戦術上の重要性を無視すること(つまり富農や小地主の中立化を無視すること)、仕事の段どりをふむうえでせっかちであること、などである。これらの「左」翼的傾向は、この二ヵ年ほどのあいだに、各解放区に多かれ少なかれ発生しており、ときには重大な冒険主義的偏向となったこともある。さいわい、これらの傾向を是正するのはそれほど困難ではなく、数ヵ月のうちにすでにだいたい是正したか、あるいは現に是正しつつある。しかし、各級の指導者がとくに力をそそがなければ、これらの傾向は徹底的に是正することができない。右翼的傾向は主として、敵の力を過大評価すること、アメリカが蒋介石チァンチェシーに大量の援助をあたえるのをおそれること、長期の戦争にいくらか嫌気がさしていること、国際的な民主勢力の強大さについていくらか懐疑的であること、封建制度を消滅するうえで思いきって大衆を立ちあがらせようとしないこと、党内の階級構成の不純、作風の不純を見ても気にとめないこと、などである。しかし、これらの傾向は、いまのところ主要なものではなく、あらためるのも困難ではない。この数ヵ月、わが党は、戦争、土地改革、整党と整軍、新解放区の創設、民主諸政党の獲得など、どの面でも成果をあげており、これらの活動のなかでうまれた傾向はすでに力をいれて是正したか、あるいは現に是正しつつある。こうして、中国の革命運動ぜんたいを健全な発展の軌道にのせることができるようになった。党の政策と戦術がすべて正しい軌道にのってこそ、中国革命は勝利することができる。政垢と戦術は党の生命である。各級の指導者は、これにじゅうぶんな注意をはらうべきで、けっしておろそかにしてはならない。

 二、アメリカと蒋介石にある種の幻想をいだいていたために、わが党と人民が内外のいっさいの敵にうち勝つだけの力をもっているということを疑い、そこから、いわゆる第三の道〔1〕がなお存在しうるものと考えて国共両党の中間の立場にたっていた一部の民主的な人びとは、国民党の突然の攻勢にあって受動的な立場にたたされ、一九四八年一月ついにわが党のスローガンを採用し、反蒋反米、連共連ソを声明した〔2〕。これらの人びとにたいして、われわれは団結の政策をとるべきであり、かれらのある種のまちがった見方にたいしては適切な批判をくわえる。将来、中央人民政府が成立したさいに、そのなかの一部の人を招請して政府の仕事に参加させることは必要であり、また有益である。これらの人びとの特徴は、勤労大衆に近づこうとしたことがなく、また大都市の生活になじんでいて、おいそれとは解放区にこようとしないことである。とはいっても、かれらの代表する社会的基盤つまり民族ブルジョア階級は、それなりの重要性をもっており、ゆるがせにしてはならない。したがって、かれらを獲得しなければならない。われわれがさらに大きな勝利をおさめ、瀋陽シェンヤン北平ペイピン天津ティエンチンのようないくつかの都市を奪取し、共産党が勝ち国民党が負けるという情勢がすっかりあきらかになってから、かれらを中央人民政府に参加するよう招請すれば、かれらもおそらく解放区にやってきてわれわれといっしょに仕事をする気になるだろう。

 三、われわれはことしのうちに中央人民政府を設立しようとはおもわない。それは時機がまだ熟していないからである。ことし蒋介石のにせ国民大会がひらかれ、蒋介石が総統に選挙され〔3〕、かれの威信がいっそう地におちたのちには、また、われわれがさらに大きな勝利をおさめ、もっと多くの地域を拡大するとともに、できれば第一級の大都市を一つ、二つ手にいれたのちには、そして東北、華北、山東シャントン江蘇チァンスー北部、河南ホーナン湖北フーペイ安徽アンホイなどの地区を一つに結びつけたのちには、中央人民政府をつくることもまったく必要になってくる。その時機は、だいたい一九四九年になるだろう。いま、われわれは山西シャンシー察哈爾チャーハール河北ホーペイ辺区、山西・河北・山東・河南辺区、山東の渤海ポーハイ地区を一つの党委員会(華北局)、一つの政府、一つの軍事機構の指揮下に統一しようとしている(渤海地区は合併がすこしおくれるかもしれない)。この三つの地区には、天水ティエンショイ連雲港レンユィンカン鉄道以北、天津=浦口プーコウ鉄道および渤海以西、大同タートン風陵渡フォンリントウ鉄道以東、北平=包頭パオトウ鉄道以南の広大な地域がふくまれる〔4〕。この三つの地区はすでに一つにつながっていて、合計五千万の人口があり、合併の仕事はおそらく短期間で完成されるだろう。そうなれば、南部戦線の作戦を力づよく支援することができるし、多くの幹部を新解放区へまわすことも可能になる。この地区の指導の中心は石家荘シーチァチョワンにおく。党中央も、華北に移転して中央工作委員会と合併する予定である。

 四、わが南部戦線の各軍、つまり山東兵団の九コ旅団、江蘇省北部地区兵団の七コ旅団、黄河ホヮンホー淮河ホヮイホー間地区兵団の二十一コ旅団、河南・湖北・陝西シャンシー辺区兵団の十コ旅団、長江チャンチァン・淮河・漢水ハンショイ間地区兵団の十九コ旅団、西北兵団の十二コ旅団、山西省南部・河南省北部地区兵団の十ニコ旅団は、長江・淮河・漢水間地区の劉伯承リウポーチョン鄧小平トンシァオピン兵団の主力だけが、白崇禧パイチョンシーが兵力を集中して大別山に進攻してきたため〔5〕、まだ休養と整備・訓練ができず、二月末になってやっとその一部を淮河以北にやって休養と整備・訓練をさせたというのをのぞいて、みな、十二月から二月までに休養と整備・訓練をすませている。これは、この二十ヵ月の作戦における最初の大がかりな休養と整備・訓練であった。こんどの休養と整備・訓練では、大衆による訴苦(旧社会と反動派が勤労人民にあたえた苦しみを訴えること)、三査(出身階級を点検し、活動を点検し、闘志を点検すること)、大衆的な訓練(将校が兵士に教え、兵士が将校に教え、兵士が兵士に教えること)の方法によって、全軍の指揮員、戦闘員に高度の革命的積極性を発揮させ、軍隊のなかにいる一部の地主、富農または悪質分子を教育改造し、あるいはこれを追いだし、規律性をたかめ、土地改革における各種の政策、商工業と知識人にたいする政策をはっきりと説明し、軍隊における民主的作風を発揚し、軍事技術と戦術を向上させた。このようにしてわが軍は大いに戦闘力を増強することができた。いま、劉伯承・鄧小平兵団はその一部がまだ休養と整備・訓練をおこなっているが、その他の各兵団はすべて、二月末から三月はじめにかけて、あい前後して新しい作戦行動をおこし、二週間で敵九コ旅団を殲滅せんめつした。北部戦線の各軍、つまり東北兵団の四十六コ旅団、山西・察哈爾・河北辺区兵団の十八コ旅団、山西・綏遠スイユァン辺区兵団の二コ旅団は、冬季には大部分が作戦に従事し、一部が休養と整備・訓練をおこなった。東北兵団は、遼河リァオホーの結氷を利用して三ヵ月にわたる作戦をおこない、敵八コ旅団を殲滅し、敵一コ旅団を蜂起させ、彰武チァンウー法庫ファークー新立屯シンリートン遼陽リァオヤン鞍山アンシャン宮口インコウ四平街スーピンチェを攻略し、吉林チーリンを奪回した。この兵団はいま休養と整備・訓練をはじめている。休養と整備・訓練がおわれば、長春チャンチュンを攻撃するか、または北平=瀋陽鉄道沿線の敵を攻撃する。山西・察哈爾・河北辺区兵団は一ヵ月あまりの休養と整備・訓練をおえて、いま北平=包頭鉄道へむかって行動をおこしている。山西・綏遠辺区兵団は数が比較的すくなく、その主要な任務は、閻錫山イェンシーシャン牽制けんせいする役割をはたすことである。総計すると、わが軍は現在、南北両戦線に大小十コ兵団を擁しており、正規の兵力はすでに五十コ縦隊(縦隊は国民党の改編師団にひとしい)―百五十六コ旅団(旅団は国民党の改編旅団にひとしい)、百三十二万二干余人にたっし、各旅団(三コ連隊)の人数は平均八千前後である。このほかに、地方の兵団、部隊、遊撃隊および後方の軍事機関、軍事学校などをふくむ非正規軍が百十六万八千余人(このうち戦闘部隊は八十万人をしめる)あり、全軍の総計はニ百四十九万一千余人となっている。ところが、一九四六年七月以前には、われわれは正規軍二十八コ縦隊―百十八コ旅団、六十一万二干余人をもっていたにすぎず、各旅団(三コ連隊)の人数は平均五千に満たなかった。これに非正規軍の六十六万五千余人をくわえても、総計百二十七万八千余人であった。これからみても、われわれの軍隊がいまは大きなものになっていることがわかる。旅団の数はそうふえていないが、各旅団の人数は大いにふえている。二十ヵ月の戦いをへて、戦闘力も大いに増強した。

 五、国民党の正規軍は、一九四六年七月から昨年の夏までは九十三コ師団―二百四十八コ旅団であったが、いまは、百四コ師団―三百七十九コ旅団の部隊名をもっている。その分布は、北部戦線に二十九コ師団―九十三コ旅団(瀋陽の衛立煌ウェイリーホヮンの十三コ師団―四十五コ旅団、北平の傳作義フーツォイーの十一コ師団―三十三コ旅団、太原タイユァンの閻錫山の五コ師団―十五コ旅団)約五十五万人、南部戦線に六十六コ師団―百五十八コ旅団(鄭州チェンチョウ顧祝同クーチュートンの三十八コ師団―八十六コ旅団、九江の白崇禧の十四コ師団―三十三コ旅団、西安シーアン胡宗南ホーツォンナンの十四コ師団―三十九コ旅団)約百六万人、第二線に九コ師団―二十八コ旅団(蘭州ランチョウ以西の地区をふくむ西北地区に四コ師団―八コ旅団、四川スーチョワン西康シーカン雲南ユィンナン貴州コイチョウの各省をふくむ西南地区に四コ師団―十コ旅団、長江以南の各省をふくむ東南地区に八コ旅団、台湾タイワン省に一コ師団―二コ旅団)約十九万六千人である。国民党正規軍の部隊名がふえたのは、国民党軍が、わが軍から大量に殲滅され、また戦略的攻勢から戦略的守勢に転じたのち、兵力の不足を痛感して、大量の地方部隊とかいらい軍を正規軍に格上げまたは編成したからであり、そのうちわけは、北部戦線の衛立煌系が三コ師団―十四コ旅団の増加、傳作義系が二コ師団ー六コ旅団の増加、南部戦線の顧祝同系が六コ師団―九コ旅団の増加、胡宗南系がニコ旅団の増加で、合計十一コ師団―三十一コ旅団の増加となっている。このため、国民党軍は現在では、九十三コ師団ではなくて百四コ師団となり、二百四十八コ旅団ではなくて二百七十九コ旅団となっている。しかし、第一に、この数ヵ月間(三月二十日まで)に、わが軍に殲滅された六コ師団―二十九コ旅団は部隊名があるだけで、まだ再建も補充もできないままであるし、一部は永久に再建も補充もできないかもしれない。したがって、国民党軍は現在実際には九十八コ師団―二百五十コ旅団を擁するにすぎず、昨年の夏以前にくらべて、師団名が五つ、実際は旅団が二つふえているにすぎない。第二に、現在実際にある二百五十コ旅団のうち、わが軍からまだ殲滅的打撃をうけていないのは百十八コ旅団にすぎず、あとの百三十二コ旅団は、わが軍によって、一回、二回、または三回も殲滅され、そのあとで補充されたものか、あるいはわが軍によって一回、二回、または三回も殲滅的打撃(旅団を単位として、全部が消滅されたかまたは大部分が消滅されたばあいを殲滅といい、一コ連隊以上消滅されたが主力はまだ損害をうけていないばあいを殲滅的打撃という)をうけたもので、その士気と戦闘力はいちじるしく低下している。まだ殲滅的打撃をうけていない百十八コ旅団のうち、一部は第二線で訓練中の新兵であり、他の一部は地方部隊とかいらい軍から格上げまたは編成されたものであり、戦闘力はひじょうに弱い。第三に、国民党軍は人数も減っている。一九四六年七月以前には、その正規部隊は二百万人、非正規部隊は七十三万八千人、特種部隊は三十六万七千人、海空軍部隊は十九万人、後方勤務機関、学校にいるものは百一万人、合計四百三十万五千人であった。ところが、一九四八年二月には、その正規部隊は百八十一万人、非正規部隊は五十六万人、特種部隊は二十八万人、海空軍部隊は十九万人、後方勤務機関、学校にいるものは八十一万人、合計三百六十五万人となっている。つまり、六十五万五干人減ったわけである。一九四六年七月から一九四八年一月までの十九ヵ月間に、わが軍は国民党の軍隊を合計百九十七万七千人(二月と三月の前半は統計がまだできていないが、およそ十八万人前後)消滅した。つまり、国民党は、これまでの作戦期間中に軍隊にいれた百余万の新兵を消耗したばかりでなく、さらに、もとからあった兵力をもおびただしく消耗したわけである。こうした情勢のもとで、国民党は、われわれとは逆の方針をとり、各旅団の人員を充実させるのでなく、旅団の人員を減らして、旅団名をふやした。国民党軍は、一九四六年には、各旅団が平均ほぼ八千人を擁していたが、現在では、各旅団は平均六千五百人前後にすぎない。今後わが軍の占領地域は日ましに拡大し、国民党軍の兵員と食糧の補給源は日ましにせばまっていくので、さらにまる一年戦えば、つまり来年の春になれば、敵軍とわが軍は数のうえでほぼ同じくらいになるだろう。われわれの方針は、速効をもとめず着実に戦うことで、ただ毎月平均して国民党の正規軍八コ旅団前後を消滅し、毎年敵軍百コ旅団前後を消滅すればよいのである。ところが実際には、昨年の秋以後はこの数をこえており、今後はいっそう大幅にこえることになるだろう。五年前後(一九四六年七月からかぞえて)〔6〕で国民党の全軍を消滅する可能性は存在するのである。

 六、いまのところ、南北両戦線の敵軍は、二つの地区でまだかなり大きな機動兵力をもっており、戦役的進攻をおこなうことができ、そこにいるわが軍を一時困難な立場にたたせている。その一つは大別山で、機動できる旅団を約十四擁している。もう一つは淮河以北地区で、機動できる旅団を約十二擁している。この二つの地区では、国民党軍がまだ主動権をにぎっている(淮河以北地区では、わが方が、主力の九コ旅団を他の方面の任務につかせるため、それを黄河以北にまわして休養と整備・訓練をおこなわせているので、国民党軍が主動権をにぎっている)。その他のすべての戦場の敵軍はみな、受動的な、たたかれる立場にある。わが方にとってとくに情勢が有利な戦場は、東北地方、山東省、西北地方、江蘇省北部地区、山西・察哈爾・河北辺区、山西・河北・山東・河南辺区および鄭州=漢□《ハンコウ》鉄道以西、長江以北、黄河以南の広大な地域である。




〔注〕

〔1〕 本巻の『当面の情勢とわれわれの任務』注〔8〕を参照。

〔2〕 一九四七年十月、国民党反動政府は民主同盟の解散を命じた。国民党反動派の圧力をうけて、民主同盟内の一部の動揺分子は、民主同盟を解散し活動を停止するむねの宣言を発表した。当時は、他の民主政党もみな国民党反動派の迫害をうけ、国民党支配区では公然と活動することはできなかった。一九四八年一月、民主同盟の指導者沈鈞儒らは香港で会議をひらき、民主同盟の指導機関を再建し、活動を再開することを決定した。おなじ月に、国民党民主派の李済深らも香港で国民党革命委員会を結成した。当時、かれらはみな、時局についての中国共産党の主張をうけいれ、中国共産党および他の民主政党と連合して蒋介石の専制政権をくつがえし、中国の内政にたいするアメリカの武力干渉に反対することを主張する宣言を発表した。民主同盟内の動揺分子たちも、当時これらのスローガンをうけいれた。

〔3〕 一九四八年三月二十九日から五月一日にかけて、国民党反動派は南京でにせ「国民大会」をひらき、蒋介石を「総統」に、李宗仁を「副総統」に「選挙」した。

〔4〕 一九四八年五月、山西・察哈爾・河北解放区と山西・河北・山東・河南解放区が合併して、華北連合行政委員会と華北軍区が成立した。同年八月、華北適合行政委員会は華北人民政府と改称された。

〔5〕 白崇禧が大別山地区にたいして進攻を開始した時期は一九四七年十二月で、進攻してきた兵力は合計三十三コ旅団であった。

〔6〕 五年前後で国民党の全軍を消滅するというのは当時の予測であった。のちに、この期間は三年半前後に短縮された。本巻の『中国の軍事情勢の重大な変化』を参照。

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