日本帝国主義に反対する戦術について (一九三五年十二月二十七日)
これは、毛沢東同志が陝西省北部瓦窰堡の党活動者会議でおこなった報告で、一九三五年十二月の中国共産党中央委員会政治局瓦窰堡会議のあとでおこなわれたものである。この政治局会議は、きわめて重要な党中央の会議で、中国の民族ブルジョア階級は中国の労働者、農民と連合して抗日することができないという党内のあやまった観点を批判し、民族統一戦線をうちたてる戦術を決定した。この報告で、毛沢東同志は党中央の決議にもとづいて、抗日という条件のもとで民族ブルジョア階級とあらたに統一戦線をうちたてる可能性と重要性を十分に説明し、この統一戦線のなかで、共産党と赤軍が決定的意義をもつ指導的役割をはたすことをとくに指摘し、中国革命の長期性を指摘し、それまで長いあいだ党内に存在していたせまい閉鎖主義と革命にたいするせっかち病――これらは第二次国内革命戦争の時期に党と赤軍が重大な挫折をこうむった基本的原因である――を批判した。同時に、毛沢東同志は、一九二七年に陳独秀の右翼日和見主義が革命を失敗にみちびいた歴史的教訓について党内の注意をよびおこし、蒋介石が革命勢力を破壊するのは必至であると指摘した。こうして、毛沢東同志は、蒋介石のはてしない欺瞞とたびかさなる武装攻撃にあっても革命勢力に損害をこうむらせることのないよう、わが党がその後の新しい情勢のなかではっきりした考え方をもつことができるように保障した。一九三五年一月、党中央は、貴州省の遵義でひらかれた政治局拡大会議で、それまでの「左」翼日和見主義の指導をあらため、毛沢東同志をはじめとする新しい党中央の指導をうちたてた。だが、その会議は赤軍の長征の途上でひらかれたため、当時もっとも切迫していた軍事問題と中央委員会書記処、中央革命軍事委員会の組織問題についてしか、決議することができなかった。赤軍が長征して陝西省北部に到着したのち、党中央ははじめて政治上の戦術の諸問題を系統的に説明できるようになったのである。こうした政治上の戦術の諸問題について、毛沢東同志のこの報告は、もっとも完全な分析をくわえている。
当面の政治情勢の特徴
同志諸君、当面の政治情勢には、すでに大きな変化がおきている。この変化した情勢にもとづいて、わが党はすでに自己の任務をさだめた。
当面の情勢はどうか。
当面の情勢の基本的特徴は、日本帝国主義が中国を植民地に変えようとしていることである。周知のように、ほぼ百年らい、中国はいくつもの帝国主義国が共同で支配する半植民地国であった。中国人民の帝国主義にたいする闘争と帝国主義国相互間の闘争によって、中国はなお半独立の地位をたもっている。第一次世界大戦は、ある期間、日本帝国主義に中国をひとりじめする機会をあたえた。だが、中国人民の日本帝国主義反対の闘争と他の帝国主義国の干渉によって、当時の売国奴のかしら袁世凱〔1〕が署名した日本にたいする屈服と投降の条約二十一ヵ条〔2〕は、無効に終わらざるをえなかった。一九二二年には、アメリカの招集したワシントン九ヵ国会議で条約がむすばれて〔3〕、中国はふたたびいくつかの帝国主義国が共同で支配する状態にもどった。ところが、まもなく、こうした状況にもまた変化がおきた。一九三一年九月十八日の事変〔4〕で、中国を日本の植民地にかえる段階がはじまったのである。ただ、日本の侵略の範囲がしばらく東北四省〔5〕にかぎられていたことから、人びとは、日本帝国主義者がおそらくそれ以上前進することはあるまいとおもっていた。こんにちでは事情がちがっている。日本帝国主義者は、中国中心部に進出し、全中国を占領しようとしていることを、すでにはっきりとしめしている。いま日本帝国主義は、全中国をいくつかの帝国主義国がわけまえにあずかる半値民地の状態から、日本が独占する植民地の状態に変えようとしている。最近の冀東事変〔6〕や外交交渉〔7〕は、この方向をはっきりとしめし、全国人民の生存をおびやかしている。こうした状況は、中国のすべての階級、すべての政党政派に「どうするか」という問題をなげかけた。抵抗か、投降か、それともこの二つのあいだをゆれ動くか。
では、中国の各階級がこの問題にどうこたえているかを見ることにしよう。
中国の労働者と農民は、みな抵抗を要求している。一九二四年から一九二七年までの革命、一九二七年から現在までの土地革命、一九三一年の九・一八事変いらいの反日の波は、中国の労働者階級と農民階級が中国革命のもっとも確固とした勢力であることを証明している。
中国の小ブルジョア階級も抵抗しようとしている。青年学生と都市の小ブルジョア階級は、いますでに大きな反日運動をまきおこしているではないか〔8〕。中国の小ブルジョア階級のこれらの層は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命に参加している。かれらは農民とおなじように、帝国主義とは両立しない小生産者の経済的地位にある。帝国主義と中国の反革命勢力は、かれらに大きな損害をあたえ、かれらのうちの多くのものを失業、破産、または半破産の状態におとしいれてきた。かれらはいまにも亡国の民になろうとしており、もはや抵抗する以外に活路はない。
この問題をまえにして、では民族ブルジョア階級、買弁階級、地主階級、そして国民党はどうするだろうか。
大土豪、大劣紳、大軍閥、大官僚、大買弁は、早くから腹をきめている。かれらはこれまでもそうであったが、いまもやはり、革命(どんな革命であろうと)はどうあっても帝国主義よりわるい、といっている。かれらは売国奴の陣営をつくっており、かれらにとって亡国の民になるかどうかなどは問題にならない。かれらはすでに民族のけじめをなくし、かれらの利益は帝国主義の利益と切りはなせなくなっている。かれらの大頭目が蒋介石である〔9〕。この売国奴の陣営は、中国人民のうらみかさなる敵である。もしこの売国奴の一味がいなければ、日本帝国主義はこれほどまでのさばることはできなかったであろう。かれらは帝国主義の手先である。
民族ブルジョア階級の問題は複雑である。この階級は、かつて一九二四年から一九二七年までの革命に参加したが、その後、この革命の炎に腰をぬかして、人民の敵、すなわち蒋介石集団の側についてしまった。問題は、こんにちの状況のもとで、民族ブルジョア階級に変化のおこる可能性があるかどうかということである。われわれはその可能性があると考える。それは、民族ブルジョア階級が地主階級、買弁階級とおなじものでなく、かれらのあいだにはちがいがあるからである。民族ブルジョア階級には、地主階級ほどつよい封建性もなければ、買弁階級ほどつよい買弁性もない。民族ブルジョア階級のなかには、外国資本や国内の土地所有制とわりあいふかい関係をもつものも一部いるが、この部分の人びとは民族ブルジョア階級の右翼であり、われわれは、しばらく、これらの人の変化の可能性については考えないことにする。問題は、そうした関係をもたないか、あるいは関係のわりあいすくない部分にある。われわれは、植民地化の脅威がせまっている新しい環境のもとでは、民族ブルジョア階級のこれらの部分の人びとの態度に変化のおこる可能性があると考える。その変化の特徴はかれらの動揺である。かれらは、一方では帝国主義をこのまないが、他方では革命の徹底性をおそれ、この両者のあいだを動揺している。このことは、一九二四年から一九二七年までの革命の時期に、かれらがなぜ革命に参加したか、またこの時期の終わりになると、なぜ蒋介石の側についてしまったかを説明している。現在の時期は、一九二七年に蒋介石が革命を裏切った時期とどうちがっているだろうか。当時の中国はまだ半植民地であったが、いまは植民地になりつつある。こと九年らい、かれらは、自分の同盟者である労働者階級をすてて、地主・買弁階級を友にしてきたが、なにか得をしただろうか。えたものといえば、民族工商業の破産、または半破産の境遇だけで、なにも得はしていない。こうした状況から、こんにちの時局のもとでは、民族ブルジョア階級の態度に変化のおこる可能性があると、われわれは考える。ではどの程度の変化であろうか。全般的な特徴は動揺である。だが、闘争のある段階では、かれらの一部(左翼)は闘争に参加する可能性がある。他の一部も、動揺から中立的な態度をとるようになる可能性がある。
蔡廷鍇らが指導している十九路軍〔10〕は、どんな階級の利益を代表しているだろうか。かれらは、民族ブルジョア階級、小ブルジョア階級の上層、農村の富農と小地主を代表している。蔡廷鍇らはかつて赤軍と死にものぐるいの戦争をしたのではなかったか。だが、のちには赤軍と抗日反蒋同盟をむすんだ。かれらは、江西省では、赤軍を攻撃したが、上海に移ると、日本帝国主義に抵抗し、福建省に移ると、こんどは赤軍と妥協し、蒋介石にたいして戦争をはじめた。蔡廷鍇らが将来どういう道にすすもうと、また当時の福建人民政府がどんなにありきたりのやり方にしがみついて民衆を闘争に立ちあがらせなかったとしても、かれらがそれまで赤軍にむけていた銃口を日本帝国主義と蒋介石にむけかえたことは、革命にとって有利な行為だといわなければならない。これは国民党陣営の分裂である。九・一八事変後の環境でもこうした一部の人びとを国民党の陣営から分裂させることができたのに、こんにちの環境でどうして国民党の分裂をひきおこせないことがあろうか。地主・ブルジョア階級の全陣営は統一し、固定しており、どんな状況のもとでも変化をおこさせることはできないという見方をもつものがわが党内にいるが、それはまちがいである。かれらは、こんにちのこの重大な情勢を認識しないばかりか、歴史さえもわすれてしまっている。
もうすこし歴史についてはなしてみよう。一九二六年と一九二七年、革命軍が武漢にむかって前進し、さらに武漢に攻めいり、河南省に攻めいったとき、唐生智や馮玉祥〔11〕が革命に参加するということがおこった。馮玉祥は、一九三三年にも察蛤爾省①で共産党と協力し、抗日同盟軍をつくったことがある。
もう一つはっきりした例をとると、かつて十九路軍といっしょに江西省の赤軍を攻撃した第二十六路軍は、一九三一年十二月、寧都県で蜂起して〔12〕赤軍になったではないか。この寧都の蜂起を指導した趙博生や董振堂らは、確固とした革命の同志となった。
東北三省における馬占山の抗日の行動〔13〕も、支配者陣営内の分裂である。
こうした例はすべて、日本の爆弾の脅威圏が全中国におよぶばあい、また闘争が普通の状態から突然はげしい勢いで進展するばあいには、敵の陣営に分裂がおこりうることをしめしている。
同志諸君、それでは問題をもう一つの点にうつしてみよう。
もし、中国の民族ブルジョア階級の政治的、経済的軟弱性というこの点をとらえて、われわれの論点に反対し、中国の民族ブルジョア階級は新しい環境でも態度を変える可能性はないというものがあるとしたら、そういういい方は正しいだろうか。わたしは、やはりまちがっているとおもう。もし、態度を変えられない原因が民族ブルジョア階級の軟弱性にあるとしたら、どうして、かれらは一九二四年から一九二七年にかけて、通常の態度を変え、たんに動揺しただけでなく、革命にまで参加したのだろうか。民族ブルジョア階級の軟弱性は、あとから身についた新しい欠陥であって母胎からもってでたふるい欠陥ではないのだろうか。いまは軟弱だが、あのときは軟弱ではなかったのだろうか。半値民地の政治、経済の主要な特徴の一つは、民族ブルジョア階級の軟弱性にある。だからこそ、帝国主義はあえてかれらをしいたげるのであり、それがまた、かれらの帝国主義をこのまない特徴を規定しているのである。またこの点から、帝国主義や地主・買弁階級はその場かぎりのある種の餌をもって、かれらをたやすく釣っていけるし、それがまた、かれらの革命にたいする不徹底性を規定しているということを、もちろんわれわれは否定しないばかりか、完全に認めている。だからといって、こんにちの状況のもとで、かれらが地主階級や買弁階級となんのちがいもないとは、どうしてもいえないのである。
したがって、われわれは、民族的危機が重大な瀬戸ぎわにたっしたとき、国民党の陣営には分裂が生ずることをとくに指摘する。このような分裂は、民族ブルジョア階級の動揺にもあらわれ、馮玉祥、蔡廷鍇、馬占山ら、いちじ名をとどろかせた抗日の人物にもあらわれている。このような状況は、基本的にいって、反革命には不利であるが革命には有利である。中国の政治経済の不均等、また、それからうまれる革命の発展の不均等によって、こうした分裂の可能性は大きくなっている。
同志諸君、これでこの問題の正面からの説明は終わった。こんどはその逆の面から説明してみよう。つまり、民族ブルジョア階級のある一部のものは、しばしば民衆をだます名人だという問題である。それはなぜか。かれらのうち、ほんとうに人民の革命事業を支持しているものは別として、多くのものは、ある一時期、革命的またはなかば革命的なふりをしてあらわれることができるため、同時に民衆をだます元手をもっており、したがって、民衆にはかれらの不徹底性やもっともらしく見せかけたにせの姿がなかなか見ぬけないのである。このため、同盟者を批判し、にせの革命家を暴露し、指導権をかちとるという共産党の責務は増大する。もし大きな変動のなかで民族ブルジョア階級が動揺し、革命に参加する可能性のあることをわれわれが否定するなら、それは指導権をかちとるわが党の任務を解消するか、すくなくともこれを軽減することになる。なぜなら、民族ブルジョア階級が地主や買弁とまったくおなじように売国奴としての凶悪なつらがまえをしているなら、指導権をかちとるという任務は大いに解消できるか、すくなくとも軽減することができるからである。
大変動のさなかにある中国の地主・ブルジョア階級の態度を全体的に分析するばあい、もう一つ指摘しておかなければならない側面がある。それは、地主・買弁階級の陣営さえ完全には統一していないことである。これは、半植民地の環境、つまり多くの帝国主義が中国を奪いあっている環境からでてくるのである。闘争が日本帝国主義にむけるれるばあい、アメリカやイギリスの飼い犬どもは、その主人のけしかける声の強さに応じて、日本帝国主義者やその飼い犬と、かくれた闘争ひいては公然とした闘争をおこなう可能性がある。これまでにも、こうした犬どものかみあった事実はたくさんあったが、それにはふれないでおこう。ここでは、蒋介石に監禁されたことのある国民党の政治屋胡漢民〔14〕も、さきごろ、われわれの提起した抗日救国六大綱領〔15〕の文書に署名したことだけをのべておく。胡漢民がたのみにしている広東・広西派の軍閥〔16〕も、いわゆる「失地回復」とか「抗日と討匪〔17〕の併進」(蒋介石のばあいは「討匪をさきにし、抗日をあとにする」)といった欺瞞的なスローガンをかかげて、蒋介石と対立している。どうだろう、すこし変ではないだろうか。変ではない。それはただ、大きな犬と小さな犬、食いぶくれた犬と飢えた大の、とくにおもしろい争いであり、大きいとはいえないが小さくもない裂け目であり、痛しかゆしの矛盾である。だが、そのような争い、そのような裂け目、そのような矛盾も、革命的な人民には役にたつ。われわれは、敵の陣営内のすべての争いや裂け目や矛盾をみんなあつめてきて、当面の主要な敵とたたかうために利用しなければならない。
こうした階級関係の問題をまとめてみると、日本帝国主義が中国中心部に攻めこんできたこの基本的な変化のもとで、中国の各階級の相互関係に変化がおこり、民族革命陣営の勢力が大きくなり、民族反革命陣営の勢力が弱まった、ということになる。
つぎに、中国の民族革命陣営内の状態についてのべよう。
まず、赤軍の状態である。同志諸君、ご承知のように、ほぼこの一年半のあいだに、中国の三つの赤軍主力部隊が陣地の大移動をおこなった。昨年八月、任弼時同志〔18〕らのひきいる第六軍団が賀竜同志のところへ移動をはじめて〔19〕から、つづいて十月には、われわれの移動がはじまった〔20〕。ことしの三月には、四川・陝西辺区の赤軍も移動をはじめた〔21〕。この三つの赤軍部隊はいずれも、もとの陣地を放棄して、新しい地区に移動したのである。この大移動で、もとの地区は遊撃区に変わった。また、移動中に、赤軍自身はひどく弱まった。もし全局面のなかのこの面だけを見れば、敵は一時的、部分的な勝利をおさめ、われわれは一時的、部分的な失敗をなめたことになる。こうしたいい方は正しいだろうか。わたしは正しいとおもう。それは事実だからである。しかし、あるもの(たとえば張国燾〔22〕)は、中央赤軍〔23〕は失敗したという。このことばは正しいだろうか。正しくない。それは事実ではないからである。マルクス主義者は、問題を見るばあい、部分を見るだけでなく、全体をも見なければならない。井戸のなかのかえるが「空の大きさは井戸口ほどだ」というなら、それは正しくない。空の大きさは井戸口ぐらいのものではないからである。だが、もし「空のある部分の大きさは井戸口ほどだ」というなら、これは正しい。事実に合っているからである。われわれはいう。赤軍は一つの面(もとの陣地を確保した面)からいえば失敗したが、もう一つの面(長征計画を完遂した面)からいえば勝利した。敵は一つの面(わが軍のもとの陣地を占領した面)からいえば勝利したが、もう一つの面(「包囲討伐」や「追撃討伐」の計画を実現する面)からいえば失敗した。われわれは長征をやりとげたのだから、こういってこそ適切である。
長征についていえば、それにはどんな意義があるだろうか。われわれはいう。長征は歴史の記録にあらわれた最初のものである。長征は宣言書であり、宣伝隊であり、種まき機である、と。盤古が天地をひらいてから、三里五帝②をへて、こんにちにいたるまで、われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。十二ヵ月のあいだ、空ではまいにち何十機という飛行機が偵察と爆撃をおこない、地上では何十万という大軍が包囲し、追撃し、阻止し、遮断し、途上ではことばでいいつくせない困難と険害に出あったにもかかわらず、われわれはめいめいの二本の足を動かして二万余華里を踏破し、十一の省を縦横断した。われわれのこのような長征がかつて歴史上にあっただろうか。なかった、いまだかつてなかった。長征はまた宣言書である。それは、赤軍が英雄であり、帝国主義者やその手先蒋介石などのやからはまったく無能であることを全世界に宣言した。長征は、帝国主義や蒋介石の包囲、追撃、阻止、遮断が破産したことを宣言した。長征はまた宣伝隊である。それは、十一の省のおよそ二億の人民にたいして、かれらを解放する道は赤軍の道しかないことを宣布した。もしこの壮挙がなかったら、世界には赤軍というこの大きな道理があることを、広範な民衆はどうしてこんなに早く知ることができただろうか。長征はまた種まき機である。それは、十一の省にたくさんの種をまいたが、それらは芽をだし、葉をのばし、花をきかせ、美をむすび、やがては収穫されることになる。要するに、長征はわれわれの勝利、敵の失敗という結果をもって終わりをつげた。だれが長征を勝利させたのか。共産党である。共産党なしには、このような長征は想像することもできない。中国共産党、その指導機関、その幹部、その党員は、どんな困難や苦労もおそれない。革命戦争を指導するわれわれの能力を疑うものは、すべて日和見主義の泥沼におちこむだろう。長征が終わったとたんに、新しい局面があらわれた。直羅鎮の戦いは、中央赤軍と西北赤軍が兄弟のような団結によって、売国奴蒋介石の陝西・甘粛辺区にたいする「包囲討伐」を粉砕し〔24〕、全国の革命の大本営を西北地方におくという党中央の任務のための基礎がための式典となった。
赤軍の主力部隊は以上のようであるが、南方各省の遊撃戦争はどうだろうか。南方の遊撃戦争は、ある程度の挫折をこうむったが、消滅されてはいない。多くの部分が、回復し、成長し、発展しつつある〔25〕。
国民党の支配地域では、労働者の闘争は、工場のなかから工場のそとへ、経済闘争から政治闘争へとむかっている。労働者階級の反日・反売国奴の英雄的な闘争の気運は大きくもりあがっており、爆発の時期はそう遠くはなさそうにおもわれる。
農民の闘争はやんだことがない。外患、内憂、さらに自然災害などの圧迫のもとで、農民は遊撃戦争、一揆、米よこせ騒動など、さまざまな形態の闘争を広範に展開している。東北地方や河北省東部の抗日遊撃戦争〔26〕は、日本帝国主義の進攻に回答をあたえているのである。
学生運動は、すでにきわめて大きな発展をとげており、今後はいっそう大きく発展するにちがいない。だが、学生運動が持久性をもち、売国奴の戒厳令や、警察、スパイ、学校ゴロ、ファシストの破壊と虐殺の政策をつきやぶるためには、どうしても労働者、農民、兵士の闘争に呼応する以外にない。
民族ブルジョア階級と、農村の富農、小地主らの動揺、ひいては抗日闘争への参加の可能性については、まえにのべた。
少数民族、とくに内蒙古の民族は、日本帝国主義に直接おびやかされて、闘争に立ちあがりつつある。将来は、華北地方の人民の闘争や西北地方の赤軍の活動と合流するだろう。
すべてこうしたことは、革命の勢力配置が、局部的なものから全国的なものに変わり、不均等状態からしだいにある種の均等状態にうつりつつあることをしめしている。いまは大変動の前夜にある。党の任務は、赤軍の活動を全国の労働者、農民、学生、小ブルジョア階級、民族ブルジョア階級のすべての活動と合流させて、統一的な民族革命戦線を結成することである。
民族統一戦線
反革命と革命の両方の情勢をみたので、われわれは党の戦術的任務を容易に説明することができる。
党の基本的な戦術的任務はなにか。ほかでもなく、広範な民族革命統一戦線をつくることである。
革命の情勢が変化したときには、革命の戦術、革命の指導方式もこれに応じて変えなければならない。日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の任務は、中国を植民地に変えることであり、われわれの任務は、中国を独立、自由、領土保全の国家に変えることである。
中国の独立と自由を実現することは偉大な任務である。そのためには、外国帝国主義および自国の反革命勢力と戦わなければならない。日本帝国主義は、がむしゃらに突きすすもうと決意している。国内の蒙紳・買弁階級の反革命勢力は、いまのところまだ人民の革命勢力をしのいでいる。日本帝国主義と中国の反革命勢力をうちたおす事業は、一日や二日で成功するものではなく、長い時間をかける心がまえがなければならず、また、すこしばかりの力で成功するものではなく、巨大な力をつみあげていかなければならない。中国と世界の反革命勢力はまえよりも弱まっており、中国と世界の革命勢力はまえよりも大きくなっている。これは正しい評価であり、一面の評価である。だが同時に、ここしばらく、中国と世界の反革命勢力はやはり革命勢力よりも大きいというべきである。これも正しい評価であり、もう一つの面の評価である。中国の政治経済の発展の不均等は、革命の発展の不均等をうみだしている。革命の勝利は、いつも、反革命勢力のわりに弱いところから、さきにはじまり、さきに発展し、さきに勝利する。そして、反革命勢力の強いところでは、革命はまだおきていないか、あるいはその発展が非常におそい。これは、中国革命がすでにこれまでの長い期間にぶつかったことである。将来、ある段階では、革命の全般的な情勢がさらに発展しても、不均等な状態はなお存在することが考えられる。不均等な状態をほぼ均等した状態に変えるには、なお長い時間をかけ、大きな努力をはらい、党の戦術路線の正しさに依拠しなければならない。ソ連共産党の指導した革命戦争〔27〕が三年で終わったとすれば、中国共産党の指導する革命戦争は、これまですでに長い時間をかけてきたものの、内外の反革命勢力を最終的、徹底的に片付けるには、なおそれに相応した時間をかける心がまえがなくてはならず、これまでのような過度のあせりは禁物である。その上、りっぱな革命の戦術を提起しなければならず、これまでのように、いつも狭いわくのなかをぐるぐるまわりしていたのでは、大きな仕事がやれるものではない。もちろん、中国のことはのんびりやるほかはないというのではない。亡国の危険は、われわれに一分でも気をゆるめることをゆるさず、中国のことは果敢にやらなければならない。こんごの革命の発展速度も、これまでよりずっと早くなるにちがいない。中国と世界の局面は、いずれも戦争と革命の新しい時期にのぞんでいるからである。だが、そうはいうものの、中国の革命戦争はやはり持久戦であり、帝国主義の力と革命の発展の不均等がその持久性を規定しているのである。われわれはいう。時局の特徴は、あらたな民族革命の高まりがおとずれ、中国があらたな全国的大革命の前夜にあることであり、これが現在の革命情勢の特徴である、と。これは事実であり、これは一面の事実である。だが、われわれはまたいう。帝国主義はまだ容易ならぬ勢力であり、革命勢力の不均等な状態は重大な欠点であって、敵をたおすには持久戦の心がまえがなければならず、これが現在の革命情勢のもう一つの特徴である、と。これも事実であり、もう一つの面の事実である。この二つの特徴、この二つの事実がいっしょに出てきて、われわれに教訓をあたえ、状況に応じて戦術をあらため、戦闘のための勢力配置の方式をあらためるよう要求している。当面の情勢は、われわれに閉鎖主義を勇敢にすてさり、広範な統一戦線を採用し、冒険主義を防ぐよう要求している。決戦の時期にならなければ、決戦の力をもたなければ、向こうみずに決戦をおこなってはならない。
ここでは、閉鎖主義と冒険主義の関係についても、将来の大きな情勢の展開のなかで冒険主義がうまれる危険性についても、のべないことにする。こうした点については、後日にゆずってもおそくはない。ここでは、統一戦線の戦術と閉鎖主義の戦術がまったく正反対の異なった戦術であることだけをのべておく。
一方は、ひろく人馬をあつめて、敵を包囲し、これを消滅しようとする。
他方は、ただ単騎で、強大な敵と強引な戦いをしようとする。
一方はつぎのようにいう。中国を植民地に変える日本帝国主義の行動が、中国の革命と反革命の戦線に変化をもたらすことを十分に評価しなければ、広範な民族革命統一戦線を組織する可能性を十分に評価することはできない。日本の反革命勢力、中国の反革命勢力、中国の革命勢力という、このいくつかの方面の強い点や弱い点を十分に評価しなければ、広範な民族革命統一戦線を組織する必要性を十分に評価することはできず、断固とした措置をとって閉鎖主義をうちやぶることはできず、統一戦線という武器によって何百何千万の民衆や、革命の友軍となりうるすべてのものを組織し結集して、日本帝国主義とその手先である中国の売国奴というもっとも中心的な目標にむかって前進し攻撃することはできず、また自分の戦術的武器で当面のもっとも中心的な目標を射撃することはできずに、目標を分散させ、そのため主要な敵には命中しないで、かえって副次的な敵、ひいては同盟軍にわれわれの弾丸をあびせるようになるのである。これが、敵をえらべず、弾薬を浪費するということである。こんなことでは、敵を孤立したせまい陣地に追いこむことができない。こんなことでは、敵の陣営内の脅かされて従っている人びとや、まえには敵であったがこんにちでは友軍になりうる人びとを、敵の陣営と敵の戦線からひきぬくことができない。こんなことでは、実際には敵に手をかすことになり、革命を停滞させ、孤立させ、縮小させ、退潮させ、ひいては失敗の道に向かわせることになる。
他方はつぎのようにいう。こういう批判はみなまちがっている。革命の勢力は、純粋なうえにも純粋でなければならないし、革命の道は、まっすぐなうえにもまっすぐでなければならない。聖典にのっているものだけが正しい。民族ブルジョア階級は全部が永遠に反革命である。富農には一歩もゆずってはならない。御用組合とはあくまでもたたかいぬくだけだ。もしも蔡廷鍇と握手するなら、握手した瞬間にかれを反革命とののしらなければならない。油をなめない猫がどこにいるか。反革命でない軍閥がどこにあるか。知識人の革命性は三日坊主だ。かれらをひきいれるのは危険である。したがって、結論としては、閉鎖主義が唯一の万能の宝で、統一戦線は日和見主義の戦術だということになる。
同志諸君、統一戦線の道理と閉鎖主義の道理とは、いったいどちらが正しいのか。 マルクス・レーニン主義は、いったいどちらに賛成するのか。統一戦線に賛成し、閉鎖主義に反対すると、わたしはきっぱり答える。人間のなかには三歳の子どももあり、三歳の子どものいうことにも道理にかなったことはたくさんある。だが、このような子どもに天下国家の大事をまかせるわけにはいかない。かれらにはまだ天下国家の道理がわからないからである。マルクス・レーニン主義は革命の隊列内の小児病に反対する。閉鎖主義の戦術を固執している人びとの主張しているのは、小児病そのものである。革命の道は世界のあらゆる事物の運動の道とおなじように、まっすぐではなく、つねにまがりくねっている。革命と反革命の戦線が変動しうるのも、世界のすべての事物が変動しうるのとおなじである。日本帝国主義が全中国を植民地に変えようときめていること、また、中国革命の現在の勢力がまだ重大な弱点をもっていること、この二つの基本的な事実が党の新しい戦術、すなわち広範な統一戦線の出発点である。何百何千万の民衆を組織し、津波のような革命の部隊をうごかすことは、こんにち革命勢力が反革命勢力を攻撃するために必要なことである。日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴をうちたおすことができるのは、このような勢力以外にない。これはだれにもわかる真理である。だから、統一戦線の戦術だけが、マルクス・レーニン主義の戦術である。閉鎖主義の戦術は一人天下の戦術である。閉鎖主義は「魚を深みに追いこみ、すずめを茂みに追いこみ③」「何百何千万の民衆」と「津波のような革命の部隊」をみな敵の側に追いやるもので、敵の喝采をうけるだけである。閉鎖主義は、実質的には、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の忠実な下僕である。閉鎖主義のいわゆる「純粋」とか「まっすぐ」とかは、マルクス・レーニン主義からは横っつらをはられ、日本帝国主義からはほめられるしろものである。われわれは、ぜったいに閉鎖主義を必要としない。われわれが必要とするのは、日本帝国主義と民族裏切り者、売国奴の死命を制する民族革命統一戦線である。
人民共和国〔28〕
われわれのこれまでの政府が労働者、農民、都市小ブルジョア階級の同盟による政府であったというなら、これからは、労働者、農民、都市小ブルジョア階級のほか、さらに、その他の階級のなかの、民族革命に参加することをのぞむすべての人びとをもふくめたものにあらためなければならない。
いまのところ、この政府の基本任務は、日本帝国主義の中国併呑に反対することである。この政府の構成要素は広い範囲に拡大される。土地革命には興味をもたなくても、民族革命には興味をもっているものも、これに参加できるだけでなく、欧米帝国主義と関係があって欧米帝国主義には反対できなくても、日本帝国主義とその手先には反対できる人びとも、かれらがのぞみさえすれば、これに参加することができる。したがって、この政府の綱領は、当然、日本帝国主義とその手先に反対するという基本任務に合致することを原則とし、これにもとづいて、われわれのこれまでの政策を適切にあらためるべきである。
現在の革命の側の特徴は、きたえあげられた共産党が存在し、またきたえあげられた赤軍が存在することである。これはきわめて重要なことである。もし、いまでもまだきたえあげられた共産党と赤軍が存在しないとすれば、きわめて大きな困難がうまれるにちがいない。なぜか。中国の民族裏切り者、売国奴は数も多く、力も強く、かれらは、かならず、さまざまな手口を考えだして、この統一戦線をうちこわす、すなわち、売国奴からはなれてわれわれとともに日本とたたかおうとする、かれらよりも小さい勢力を各個撃破するため、脅迫、誘惑やあらゆる術策によって挑発と離間をはかり、また武力によって強圧するからである。もし、抗日の政府と抗日の軍隊に共産党と赤軍という重要な要素が欠けるなら、こうした状態はさけがたい。一九二七年の革命が失敗したおもな原因は、共産党内の日和見主義路線から、自己の隊列(労農運動と共産党の指導する軍隊)の拡大につとめず、一時的な同盟者である国民党だけにたよったことにある。その結果、帝国主義は自分の手先である豪紳・買弁階級に命じて、ありとあらゆる手を動かし、まず蒋介石を、のちにまた汪精衛を抱きこんで、革命を失敗におちいらせた。当時の革命統一戦線には中心の支柱がなく、強固な革命の武装部隊がなかったので、四方八方に裏切りがはじまると、共産党は孤軍奮闘せざるをえなくなり、帝国主義と中国の反革命勢力の各個撃破戦術に対抗することができなかった。当時、賀竜、葉挺の部隊はあったが、まだ政治的に強固な軍隊でなく、党もそれをうまく指導できなかったので、ついに失敗してしまった。これは、革命の中心勢力が欠けていたために革命の失敗をまねいた血の教訓である。こんにちでは、この点が変わって、すでに強固な共産党と強固な赤軍が存在し、そのうえ赤軍の根拠地もある。共産党と赤軍は、いま抗日民族統一戦線の発起人になっているばかりでなく、将来の抗日政府や抗日軍隊のなかでも、かならずしっかりした大黒柱になり、日本帝国主義者と蒋介石に抗日民族統一戦線切りくずし政策の最後の目的をとげさせないであろう。疑いもなく、日本帝国主義者と蒋介石は、多くの面で脅迫、誘惑やあらゆる術策をつかうにきまっている。われわれは、それを十分注意しなければならない。
もちろん、抗日民族統一戦線のはばひろい隊列にたいして、そのすべての部分が共産党や赤軍とおなじように強固であることはのぞめない。その活動の過程では、一部の悪質分子が敵の影響をうけて、統一戦線をぬけだすようなこともありうる。だが、われわれは、そうした人びとの脱落をおそれない。一部の悪質分子が敵の影響をうけてぬけだしても、一部のよい人がわれわれの影響をうけてはいってくる。共産党と赤軍そのものが存在し、発展するかぎり、抗日民族統一戦線もかならず存在し、発展する。これが民族統一戦線における共産党と赤軍の指導的役割である。共産党員は、いまはもう子どもではない。かれらは、すでに自分のことをりっぱにさばいていくことができるし、また同盟者をもうまくさばいていくことができる。日本帝国主義者や蒋介石があらゆる術策をつかって革命の隊列にむかってくることができるなら、共産党もあらゆる術策をつかって反革命の隊列にたちむかうことができる。かれらがわれわれの隊列内の悪質分子をひきぬくことができるなら、われわれももちろん、かれらの隊列内の「悪質分子」(われわれにとってはよい人びと)をひきぬくことができる。もし、われわれがかれらの隊列から一人でも多くひきぬくことができれば、それだけ敵の隊列は減り、われわれの隊列は大きくなる。要するに、いまは二つの基本的な勢力がたたかっており、すべての中間勢力はあちら側につくか、さもなければこちら側につく。これは理の当然である。そして、日本帝国主義者の中国を滅ぼす政策と蒋介石の中国を売りわたす政策は、どうしても多くの勢力をわれわれの側に追いやり、直接共産党や赤軍の隊列に参加させるか、または共産党や赤軍と連合戦線をむすばせるようになる。われわれの戦術が閉鎖主義でないかぎり、この目的はたっせられるのである。
では、なぜ労農共和国を人民共和国に変えなければならないのか。
われわれの政府は、労働者と農民を代表するばかりでなく、民族をも代表するものである。労農民主共和国のスローガンには、もともとその意義がふくまれていた。なぜなら、労働者と農民が全民族の人口の八〇パーセントないし九〇パーセントをしめているからである。わが党の第六回全国代表大会できまった十大政綱〔29〕は、労働者と農民の利益を代表しているばかりでなく、同時に民族の利益をも代表している。だが、いまの状況は、われわれに、このスローガンをあらためること、つまり人民共和国にあらためることをもとめている。それは、日本の侵略という状況が中国の階級関係を変え、小ブルジョア階級だけでなく、民族ブルジョア階級も抗日闘争に参加する可能性がうまれたからである。
人民共和国が敵階級の利益を代表しないことは、もちろんである。反対に、人民共和国は帝国主義の手先である豪紳・買弁階級とは正反対の立場に立つもので、これらの階級を人民という範囲には入れない。これは、蒋介石の「中華民国国民政府」が、ただ最大の金持ちを代表するだけで、民衆を代表せず、民衆をいわゆる「国民」の範囲には入れていないのと同様である。中国の八〇パーセントないし九〇パーセントの人□が労働者と農民であるから、人民共和国はなによりもまず、労働者と農民の利益を代表しなければならない。だが、人民共和国が帝国主義の抑圧をはらいのけて、中国を自由・独立の国にすること、地主の抑圧をはらいのけて、中国を半封建制度からぬけださせること、こうしたことは、労働者と農民に利益をあたえるばかりでなく、他の人民にも利益をあたえる。労働者、農民その他の人民のすべての利益を一括したものが、中華民族の利益を構成している。買弁階級や地主階級も中国の土地に住んではいるが、かれらは民族の利益をかえりみず、かれらの利益は多数の人びとの利益と衝突している。われわれが決別するのはかれらのような少数者だけであり、われわれが衝突するのも、かれらのような少数者だけである。だから、われわれには、われわれこそ全民族を代表するものだという権利がある。
労働者階級の利益は、民族ブルジョア階級の利益とも衝突するところがある。民族革命をくりひろげるには、民族革命の前衛に政治上、経済上の権利をあたえ、労働者階級に帝国主義とその手先である売国奴に立ちむかう力をださせるようにしなければ、成功するものではない。しかし、民族ブルジョア階級が帝国主義反対の統一戦線に参加するなる、労働者階級と民族ブルジョア階級は共通の利害関係をもつことになる。ブルジョア民主主義革命の時代において、人民共和国は、非帝国主義的、非封建主義的な私有財産は廃止せず、民族ブルジョア階級の工商業は没収しないばかりか、これらの工商業の発展を奨励する。どんな民族資本家でも、帝国主義と中国の売国奴に手をかさないかぎり、われわれはこれを保護する。民主主義革命の段階では、労資間の闘争には限度がある。人民共和国の労働法は労働者の利益を保護するが、民族資本家の金もうけにも反対しないし、民族工商業の発展にも反対しない。なぜなら、このような発展は、帝国主義にとっては不利で、中国の人民にとっては有利だからである。このことからもわかるように、人民共和国は、帝国主義に反対し封建勢力に反対する各階層人民の利益を代表するものである。人民共和国の政府は、労働者、農民を主体とし、同時に、帝国主義に反対し封建勢力に反対するその他の階級をも包容する。
これらの人びとを人民共和国の政府に参加させるのは、危険ではないのか。危険ではない。労働者、農民は、この共和国の基本大衆である。都市小ブルジョア階級、知識層および反帝・反封建の綱領を支持するその他の人びとに人民共和国政府のなかで発言し仕事をする権利をあたえ、選挙権と被選挙権をあたえるが、労農基本大衆の利益にそむくことはできない。われわれの綱領の重要な部分は、労農基本大衆の利益を保護するものでなければならない。人民共和国政府のなかで労農基本大衆の代表が大多数をしめること、共産党がこの政府のなかで指導と活動をおこなうことによって、かれらがはいってきても危険でないように保障される。中国革命の現段階がプロレタリア社会主義的性質の革命ではなく、いまなおブルジョア民主主義的性質の革命であることは、きわめてあきらかである。中国ではすでにブルジョア民主主義革命は完成した、つぎに革命をやるなら、社会主義革命よりほかにない、とでたらめをいうのは、ただ反革命のトロツキスト〔30〕だけである。一九二四年から一九二七年までの革命はブルジョア民主主義的性質の革命であったが、その革命は達成されず失敗した。一九二七年から現在までの、われわれの指導してきた土地革命も、ブルジョア民主主義的性質の革命である。なぜなら、革命の任務は反資本主義ではなく、反帝・反封建だからである。今後のかなり長い期間における革命も、やはりそうしたものである。
革命の原動力は、基本的にはやはり労働者、農民、都市の小ブルジョア階級であるが、現在ではもう一つ民族ブルジョア階級がくわわることも可能である。
革命の転化は将来のことである。民主主義革命は、将来、必然的に社会主義革命に転化する。いつ転化するかは、転化の条件がそなわったかどうかによってきめられなければならないが、時間的にはかなり長くかかる。政治上、経済上のすべての必要条件がそなわらないうちは、また、転化が全国の最大多数の人民にとって不利でなく、有利になるような時がこないうちは、かるがるしく転化を提起すべきではない。この点に疑いをもって、ごく短期間での転化をのぞむのは、いぜん一部の同志が民主主義革命が重要な省で勝利しはじめたときこそ革命が転化しはじめるときだといったのと同様に、まちがっている。それは、かれらが中国はどんな政治経済状態の国であるかがわからないからであり、中国が政治的、経済的に民主主義革命を達成するのは、ロシアよりもずっと困難で、ずっと多くの時間と努力が必要であることを知らないからである。
国際的援助
最後に、中国革命と世界革命の相互関係にひとことふれる必要がある。
帝国主義という怪物がこの世にあらわれてから、世界のことがらは一つにつながり、切りはなそうとしても切りはなせなくなった。われわれ中華民族は、自分たちの敵と最後まで血戦をする気概をもち、自力更生を基礎として失われたものを回復する決意をもち、世界の諸民族のあいだに自立する能力をもっている。だが、このことはわれわれに国際的援助がなくてもよいという意味ではない。いや、国際的援助は現代のあらゆる国、あらゆる民族の革命闘争にとって必要である。昔のひとは「春秋に義戦なし」〔31〕といったが、いまの帝国主義にはなおさら正義の戦争はなく、ただ、被抑圧民族と被抑圧階級にだけ正義の戦争がある。人民が立ちあがって抑圧者とたたかう全世界のすべての戦争は、正義の戦争である。ロシアの二月革命と十月革命は正義の戦争であった。第一次世界大戦後のヨーロッパ各国人民の革命も正義の戦争であった。中国における、アヘン反対の戦争〔32〕、太平天国の戦争〔33〕、義和団の戦争〔34〕、辛亥革命の戦争〔35〕、一九二六年から一九二七年までの北伐戦争④、一九二七年から現在までの土地革命戦争⑤、こんにちの抗日と売国奴討伐の戦争は、みな正義の戦争である。当面の全中国における抗日の高まりと全世界における反ファシズムの高まりのなかで、正義の戦争は全中国、全世界にひろがるだろう。すべて、正義の戦争はたがいにたすけあうものであり、不正義の戦争は正義の戦争に転化させなければならないものである。これがレーニン主義の路線である〔36〕。われわれの抗日戦争は、国際的な人民の援助、まず第一にソ連人民の援助を必要とし、かれらもまた、われわれを援助してくれるにちがいない。われわれとかれらは苦楽をともにしているからである。過去のある時期、中国の革命勢力と国際的な革命勢力の結びつきは蒋介石によって断ちきられていたので、この点からいえばわれわれは孤立していた。いまでは、こうした情勢はすでに変わり、われわれに有利になっている。今後、こうした情勢はなおひきつづき有利な方向に変わっていくだろう。われわれはもう孤立することはない。これは、中国の抗日戦争と中国革命が勝利をかちとるのに必要な条件の一つである。
〔注〕
〔1〕 袁世凱は清朝末期の北洋軍閥の頭目である。一九一一年の革命で清朝がくつがえされたのち、かれは、反革命の武力と帝国主義の支持にたより、当時革命を指導していたブルジョア階級の妥協性を利用して、総統の地位を奪いとり、大地主、大買弁階級を代表する最初の北洋軍閥政府をつくった。一九一五年、かれは皇帝になろうとして、日本帝国主義の支持を得るために、全中国の独占を企図した日本の二十一ヵ条の要求を承認した。同年十二月、皇帝を名のる袁世凱に反対する蜂起が雲南省におこり、それに呼応する運動がたちまち全国各地にひろがった。袁世凱は、一九一六年六月、北京で死亡した。
〔2〕 一九一五年一月十八日、日本帝国主義は中国の袁世凱政府に二十一ヵ条の要求をつきつけ、五月七日には、四十八時間以内に回答をもとめる最後通牒を出した。この要求の全文は五つの大項目からなり、まえの四つの大項目には、ドイツにかすめとられた山東省の権利を日本に移譲するとともに、山東省における日本の新しい権利を認めること、南満州と東蒙古における土地租借権、あるいは所有権、居住権、工商業経営権、鉄道敷設および鉱山採掘の独占権を日本にあたえること、漠治菰公司を中国と日本の共同経営にすること、また中国沿海の港湾、島嶼などはすべて第三国に譲渡してはならないことなどの条項があった。第五の大項目には、中国の政治、財政、警察、軍事を支配する大権をうばいとるとともに、湖北、江西、広東の諸省をむすぶ重要な鉄道の敷設権をうばいとる各条項があった。袁世凱は、第五の項目について「日をあらためて協議したい」と声明したほかは、すべて承認した。しかし、中国人民の一致した反対にあって、日本の要求は実行されなかった。
〔3〕 一九二一年十一月、アメリカ政府は、中国、イギリス、フランス、イタリア、ベルギー、オランダ、ポルトガル、日本の八ヵ国の代表を招集し、アメリカをくわえたワシントン九ヵ国会議をひらいた。これは、アメリカと日本が極東の覇権をあちそった会議である。翌年の二月六日、「中国における各国の機会均等」「中国の門戸開放」というアメリカの主張にもとづいて、九ヵ国条約が締結された。九ヵ国条約は日本の中国独占計画をうちこわすため、帝国主義列強による中国の共同支配の局面、実際にはアメリカ帝国主義の中国独占を準備する局面をつくりだす役割をはたした。
〔4〕 一九三一年九月十八日、中国の東北地方に駐屯していた日本のいわゆる「関東軍」が瀋陽を襲撃、占領した。当時、瀋陽をはじめ東北各地に駐屯していた中国の軍隊(東北軍)が、蒋介石の「絶対に抵抗するな」という命令を受けて山海関以南に撤退したため、遼寧、吉林、黒竜江などの諸省はたちまち日本軍に占領されてしまった。中国人民のあいだでは、日本侵略者のこの侵略行動を「九・一八事変」とよんでいる。
〔5〕 東北四省とは、当時中国の東北部にあった遼寧、吉林、黒竜江、熱河の四省のこと(現在の遼寧、吉林、黒竜江の三省および河北省東北部の長城以北と内蒙古自治区東部の地区をさしている――訳者)。九・一八事変後、日本侵略軍は、まず遼寧、吉林、黒竜江の三省を占領し、一九三三年にはさらに熱河省を占領した。
〔6〕 一九三五年十一月二十五日、日本は国民党の民族裏切り者殷汝耕をそそのかして、河北省東部の二十二県にかいらい政権をつくらせ、「冀東防共自治政府」と名づけた。これが「冀東事変」である。
〔7〕 外交交渉とは、当時、蒋介石政府と日本政府とのあいだですすめられたいわゆる「広田三原則」についての交渉をさす。「広田三原則」とは、当時の日本の外相広田弘毅が提出したいわゆる「対華三原則」のことである。その内容は、一、中国はすべての排日運動をとりしまる、二、中国、日本、「満州国」の経済協力体制をうちたてる、三、中日共同で防共にあたる、というものであった。一九三六年一月二十一日、広田は、日本の議会で、「中国政府はすでに帝国の提出した三原則を承認した」とのべている。
〔8〕 一九三五年、全国人民の愛国運動はあらたなもりあがりをみせはじめた。北京の学生は、中国共産党の指導のもとで、まず十二月九日、「内戦を停止し、一致して外敵にあたれ」「日本帝国主義をうちたおせ」などのスローガンをかかげて、愛国的なデモをおこなった。この運動は国民党政府と日本侵略者の同盟による長期のテロ支配をつきやぶり、全国人民が急速にこれに呼応した。これは「一二・九運動」とよばれている。これによって、全国の各階級間の関係にはっきりした新しい変化があらわれ、中国共産党の提起した抗日民族統一戦線はすべての愛国的な人びとの公然と主張する国是となった。蒋介石政府の売国政策は極度の孤立におちいった。
〔9〕 毛沢東同志がこの報告をおこなった当時、蒋介石はひきつづき東北を売りわたしていたばかりでなく、華北をも売りわたしており、同時に、赤軍にたいしてもさかんに攻撃をつづけていた。したがって、中国共産党としては、売国奴蒋介石の正体を極力暴露しなければならなかったから、当時、中國共産党の提起していた抗日民族統一戦線には、また蒋介石はふくまれていなかった。しかし、毛沢東同志はこの報告のなかでも、すでに、帝国主義諸国間の矛盾は中国の地主、買弁階級の陣営に分化をもたらす可能性のあることをのべている。のちに、日本帝国主義が華北に進攻し、英米帝国主義の利益とひどく衝突するようになると、中国共産党は、英米帝国主義の利益と密接につながる蒋介石集団がその主人の命令にしたがって、日本にたいする態度をかえる可能性があるとみて、蒋介石に圧力をくわえて抗日に転じさせる政策をとった。一九三六年五月、赤軍は山西省から陝西省北部に軍をひきあげ、直接、南京の国民党政府にむかって、内職を停止して一致抗日することを要求した。同年八月、中国共産党中央委員会は、また自民党中央執行委員会に書簡をおくって、両党が共同抗日の統一戦線を結成することと、代表を派遣してその交渉をすすめることを要求した。ところが、蒋介石は依然として共産党の主張を拒否した。かれは、一九三六年十二月、国民党内の連共抗日を主張する軍人に西安で監禁されたとき、はじめて、内戦を停止して抗日するという共産党の要求をやむなくうけいれた。
〔10〕 当時、蔡廷鍇は国民党第十九路軍の軍長のひとりで、十九路軍の副総指揮をかね、陳銘枢、蒋光[”乃”の下に鼎]らとともに同軍の責任者であった。十九路軍は、もと江西省で赤軍と戦ったが、九・一八事変ののち、上海に移動した。当時、上海と全国人民のあいだにおきていた抗日のたかまりは、十九路軍に大きな影響をあたえた。一九三二年一月二十八日の夜、日本海軍の陸戦隣が上海を攻撃すると、十九路軍は上海の市民とともに抗戦した。だが、この戦争は、のちに蒋介石と汪精衛の裏切りによって敗北した。その後、十九路軍は、蒋介石によって福建省に移動させられ、赤軍と戦うことになった。当時、十九路軍を指導していた人たちは、赤軍と戦うのが活路のない行為であることをだんだん自覚してきた。一九三三年十一月、十九路軍の将領は、国民党内の李済深ら一部の勢力とむすんで、蒋介石との決裂を公然と宣言した。かれらは、福建省で「中華共和国人民革命政府」をうちたて、赤軍と抗日反蒋の協定をむすんだ。十九路軍と福建人民政府は蒋介石の兵力の圧迫によって失敗した。その後、蔡廷鍇らはしだいに共産党と協力する立場をとるようになった。
〔11〕 一九二六年九月、北伐の革命軍が武漢まで攻めのぼったとき、馮玉祥は綏遠省(現在の内蒙古自治区西部――訳者)で、自分の軍隊をひきいて北洋軍閥系からはなれることを宣言し、革命に参加した。一九二七年のはじめ、その部隊は陝西省を出発して、北伐軍と合流し、河南省に進攻した。一九二七年、蒋介石と汪精衛が革命を裏切ると、馮玉洋もまた反共活動に参加した。だが、かれと蒋介石集団とのあいだには終始利害の衝突があった。九・一八事変ののち、かれは抗日に賛成し、一九三三年五月、共産党と協力して張家口で民衆抗日同盟軍を組織した。このときの抗日蜂起は、蒋介石勢力と日本侵略軍の二重の圧迫をうけて、八月に失敗した。馮玉祥は、晩年においても共産党と協力する立場をとりつづけた。
〔12〕 国民党第二十六路軍は、蒋介石の命令で赤軍を攻撃するため江西省に派遣された。一九三一年十二月、同軍の一万余人は、趙博生、董振堂らの同志の指導のもとに、中国共産党の抗日のよびかけにこたえて、江西省寧都で蜂起し、赤軍に参加した。
〔13〕 馬占山はもと国民党東北軍の将校であり、その部隊は黒竜江省に駐屯していた。九・一八事変ののち、日本の侵略軍が遼寧省から黒竜江省にむかって進撃したとき、その部隊はこれに抵抗した。
〔14〕 胡漢民は国民党の有名な政治屋で、かつて孫中山が中国共産党と協力する政策をとったことに反対した。また、一九二七年、蒋介石が「四・一二」反革命クーデターをおこなったときの共謀者であった。その後、蒋介石との権力争いがもとで、蒋介石に監禁された。九・一八事変ののち、釈放されて、南京から広州にいき、広東・広西派の軍閥勢力をうごかし、蒋介石南京政府とのあいだに長期にわたる対立状態をつくりだした。
〔15〕 「抗日救国六大綱領」とは「中華人民対日作戦基本綱領」のことで、中国共産党が一九三四年に提起し、宋慶齢らの署名をえて公表されたものである。この綱領にはつぎのような項目がふくまれている。(一)全陸海空軍を総動員して日本と戦う。(二)全国人民を総動員する。(三)全国人民の総武装化をおこなう。(四)中国にある日本帝国主義の財産と売国奴の財産を没収して抗日の戦費にあてる。(五)労働者、農民、兵士、知識層、商工業者の代表が選出した全中国民族武装自衛委員会をつくる。(六)日本帝国主義のすべての敵と連合してこれを友軍とし、善意の中立をまもるすべての図と友好関係をうちたてる。
〔16〕 広東・広西旅軍閥とは、広東省の陳済[”学”の”子”の代わりに”呆”]、広西省の李宗仁、白崇禧らをさす。
〔17〕 蒋介石匪賊一味は、革命的な人民を「匪賊」といい、かれらが自己の軍隊をもって革命的な人民を攻撃し、虐殺する行為を「討匪」といった。
〔18〕 任弼時同志は、中国共産党のもっとも早くからの党員であり、組織者のひとりであった。一九二七年の中国共産党第五回全国代表大会いらい、毎回の党大会で中央委員に選出され、一九三一年の党の第六期中央委員会第四回総会では中央委員会政治局委員に選出された。一九三三年、湖南・江西辺区省委員会書記となり、赤軍第六軍団政治委員を兼ねた。赤軍第六軍団と赤軍第二軍団が合流してからは、第二、第六両軍団で編成した第二方面軍の政治委員となった。抗日戦争の初期には、八路軍総政治部主任となった。一九四〇年には、中国共産党中央委員会書記処の活動に参加した。一九四五年、党の第七期中央委員会第一回総会では、中央委員会政治局委員と中央委員会書記処書記に選出された。一九五〇年十月二十七日、北京で逝去した。
〔19〕 中国労農赤軍第六軍団は、もとは湖南・江西辺区の根拠地に駐屯していたが、一九三四年八月、中国共産党中央の命令によって、包囲を突破し、移動をはじめた。同年十月、貴州省東部で、賀竜同志のびきいる赤軍第二軍団と合流し、赤軍第二方面軍を編成して、湖南・湖北・四川・貴州革命根拠地をきりひらいた。
〔20〕 一九三四年十月、中国労農赤軍第一、第三、第五軍団(すなわち赤軍第一方面軍で、中央赤軍ともよばれる)は、福建省西部の長汀、寧化、江西省南部の瑞金、[”あまかんむり”の下に”一”、その下に”号の口のない字”]都などの各地から出発して、戦略的な大移動をはじめた。赤軍は、福建、江西、広東、湖南、広西、貴州、四川、雲南、西康(現在の四川省西部とチベット自治区の東部――訳者)、甘粛、陝西など十一の省を通過して、年中雪をいただく高山をこえ、人跡まれな湿地帯をすぎ、あらゆる困難をなめつくして、敵のたびかさなる包囲、追撃、阻止、遮断を撃破し、二万五千華里(一万二千五百キロ)を歩きとおして、ついに一九三五年十月、勝利のうちに陝西省北部の革命根拠地に到着した。
〔21〕 四川・陝西辺区の赤軍とは、中国労農赤軍第四方面軍のことである。一九三五年三月、第四方面軍は、四川・陝西辺区の根拠地をはなれて四川、西康両省の省境に移動した。同年六月には、四川省西部の懋功地方で赤軍第一方面軍と合流し、左路軍と右路軍を編成して北上した。同年九月、松潘付近の毛児蓋一帯の地区についたのち、第四方面軍で活動していた張国燾が、中国共産党中央の命令にそむいて、勝手に左路軍をひきいて南下し、赤軍を分裂させた。一九三六年六月、赤軍第二万両軍が湖南・湖北・四川・貴州辺区から包囲を突破し、湖南、貴州、雲南の諸省をとおって、西康省の甘孜に到着し、第四方面軍と合流した。このとき、第四方面軍の同志たちは、張国燾の意志にそむいて、第二方面軍とともに北方への移動をおこなった。同年十月、第二方面軍の全部と第四方面軍の一部は陝西省北部に到着し、赤軍第一方面軍と勝利のうちに合流した。
〔22〕 張国燾は中国革命の裏切り者である。かれは若いころ、投機的に革命にくわわり、中国共産党に入党した。党内でのかれのあやまりはきわめて多く、そのおかした罪悪ははかりしれない。なかでももっとも重大なのは、一九三五年、赤軍の北上に反対して、赤軍を四川省、西康省の少数民族地区に退却させることを主張した敗北主義と解党主義であり、同時にまた、公然と反党、反中央の裏切りをはたらき、勝手ににせの中央をつくりあげて、党と赤軍の統一を破壊し、赤軍第四方面軍に重大な損失をこうむらせたことである。赤軍第四方面軍とその広範な幹部は、毛沢東同志と党中央の辛抱づよい教育によって、すぐ党中央の正しい指導のもとにかえり、その後の闘争で光栄ある役割をはたした。しかし、張国燾自身は、ついに救いようもない状態になり、一九三八年春、陝西・甘粛・寧夏辺区を単身ぬけだして、国民党の特務集団に投じた。
〔23〕 中央赤軍とは、もと江西、福建地域で発展し、中国共産党中央の直接の情導をうけていた赤軍、すなわち赤軍第一方面軍のことである。
〔24〕 一九三五年七月、国民党軍は、陝西・甘粛革命根拠地にたいして三回目の「包囲討伐」をはじめた。陝西省北部の赤軍第二十六軍は、まず東部戦線で敵の二コ旅団をうちやぶり、この戦線の敵を黄河以東に追いやった。同年九月、もと湖北・河南・安徽根拠地にいた赤軍第二十五軍は、陝西省南部から甘粛省東部をへて陝西省北部に到着し、陝西省北部の赤軍と合流して、赤軍第十五軍団を編成した。赤軍十五軍団は、甘泉県の労山の戦役で、敵軍の一一〇師団の大部分を撃滅し、その師団長を戦死させた。その後まもなく、敵軍の一〇七師団の四コ大隊を甘泉県の楡林橋で撃滅した。そこで、敵はまた新しい攻撃を計画し、童英斌(東北軍の一軍長)が五コ師団をひきい、ふた手にわかれて進攻してきた。東の一コ師団は洛川、鄜県の街道を北上し、西の四コ師団は甘粛省の慶陽、合水から葫盧河にそって陝西省北部の鄜県方面に進撃してきた。同年十月、中央赤軍は陝西省北部に到着した。十一月、中央赤軍と赤軍十五軍団は共同して敵軍の一〇九師団を鄜県西南の直羅鎮で殲滅し、さらに追撃して敵軍一〇六師団の一コ連隊を黒水寺で殲滅した。こうして、陝西・甘粛根拠地にたいする敵の三回目の「包囲討伐」を徹底的に粉砕した。
〔25〕 一九三四年かち一九三五年にかけて、中国南部にいた赤軍の主力が移動したとき、一部の遊撃部隊をのこした。それらの遊撃部隊は、八つの省の十四の地域で遊撃戦争を堅持した。その他域とは、湖江省南部地域、福建省北部地域、福建省東部地域、福建省南部地域、福建省西部地域、江西省東北地域、福建・江西省境地域、広東・江西省境地域、湖南省南部地域、湖南・江西省境地城、湖南・湖北・江西省境地域、湖北・河南・安徽省境地域、河南省南部桐柏山地城および広東省の瓊崖地域である。
〔26〕 一九三一年、日本帝国主義が東北地方を侵略すると、中国共産党は、人民に武装抵抗をよびかけて、抗日遊撃隊と東北人民革命軍を編成し、さまざまな形態の抗日義勇軍を援助した。一九三四年以後になると、中国共産党の指導のもとに、東北のすべての抗日部隊をあわせて、統一した東北抗日連合軍が組織され、有名な共産党員楊靖宇が総指揮となって、長いあいだ東北の抗日遊撃戦争を堅持した。河北省東部の抗日遊撃戦争は、一九三五年五月におこった農民の抗日蜂起である。
〔27〕 ソ連共産党の指導した革命戦争とは、一九一八年から一九二〇年にかけて、ソ連人民がイギリス、アメリカ、フランス、日本、ポーランドなどの帝国主義国の武力干渉とたたかい、白衛軍の反乱を平定した戦争をいう。
〔28〕 毛沢東同志がここで提起している人民共和国の政権の性質とその諸政策は、抗日戦争の期間に、共産党の指導する人民解放区で完全に実現されていた。だからこそ、共産党は、敵の後方戦場で、人民を指導し、日本侵略者にたいする勝利的な戦争をすすめることができたのである。日本の降伏後に勃発した第三次国内革命戦争でも、戦争の進展につれて、人民解放区はしだいに全中国に拡大し、ついに統一された中華人民共和国が出現した。毛沢東同志の人民共和国の理想はついに全国的な範囲で実現したわけである。
〔29〕 一九二八年七月にびちかれた中国共産党第六回全国代表大会では、つぎの十六政綱がさだめられた。一、帝国主義の支配をくつがえす。二、外国資本の企業や銀行を没収する。三、中国を統一し、民族自決権を認める。四、軍閥国民党の政府をくつがえす。五、労農兵代表者会議の政府を樹立する。六、八時間労働制、賞金の引きあげ、失業救済、社会保障などを実施する。七、すべての地主階級の土地を没収し、耕地を農民のものにする。八、兵士の生活を改善し、兵士に土地と仕事をあたえる。九、すべての苛酷で雑多な税金を廃止し、統一的な累進税を実施する。十、世界のプロレタリア階級およびソ連と連合する。
〔30〕 トロツキスト集団は、もと、ロシアの労働運動のなかでレーニン主義に反対した一分派で、のちに完全な反革命の匪賊一味に堕落した。この裏切り者集団の変わりかたについて、スターリン同志は、一九三七年、ソ連共産党中央委員会総会における報告でつぎのように説明している――「過去七、八年まえまでは、トロツキズムは、労働者階級のなかの政治的一派であった。それはたしかに反レーニン主義的であり、したがって極度にまちがった政治的一派ではあったが、しかし、当時はやはり政治的一派といえた。……現在のトロツキズムは、けっして労働者階級のなかの政治的一派ではなく、原則のない、思想のない暗殺者であり、破壊者であり、スパイであり、殺人の下手人であり、外国のスパイ機関にやとわれて活動する労働者階級の仇敵である。」一九二七年、中国革命が失敗したのち、中国にも少数のトロツキストがあらわれた。かれらは陳独秀らの裏切り者とむすんで、一九二九年、反革命的グループをつくり、国民党はすでにブルジョア民主主義革命を完成したなどという反革命的宣伝をおこない、帝国主義と自民党の反人民的なきたない道具に完全になりさがった。中国のトロツキストは公然と国民党の特務機関に参加した。九・一八事変ののち、かれらはトロツキー一味から「日本帝国の中国占領を妨げるな」という指令をうけて、日本の持務機関に協力し、日本侵略者から手当をうけて、さまざまな利敵行為をおこなった。
〔31〕 「春秋に義戦なし」とは『孟子』のなかのことばである。春秋時代(西紀前七二二~前四八一年)には中国の多くの封建諸民のあいだで権力や利益を争う戦争かたえずおこなわれたので、孟子はこのようにいった。
〔32〕 一八四〇年から一八四二年にかけて、イギリスは、中国人がアヘン貿易に反対したので、通商保護を口実に出兵し、中国を侵略した。中国の軍隊は林則徐の指導のもとに抵抗戦争をおこなった。当時、広州の人びとも自然発生的に「平英団」を組織して、イギリスの侵略者に大きな打撃をあたえた。
〔33〕 太平天国の戦争は、一九世紀のなかごろ、清朝の封建支配と民族抑圧に反対しておこった農民の革命戦争である。一八五一年一月、この革命の指導者洪秀全、楊秀清らは、広西省の桂平県金田村で蜂起し、「太平天国」の成立を宣言した。太平軍は、一八五二年に広西省を出発して、湖南、湖北、江西、安徽の諸省をへて、一八五三年に南京を攻略した。その後すぐ南京から一部の兵力をさいて北上し、天津付近まで進撃した。しかし、太平軍は、占領した地方に強固な根拠地をつくらなかったことと、南京に都をおいてから、その指導者集団が政治上、軍事上の多くのあやまりをおかしたことから、清朝の反革命軍と英米仏侵略者の連合攻撃に抵抗できず、一八六四年に失敗した。
〔34〕 義和団の戦争とは、一九〇〇年、中国北部の農民、手工業者大衆が、神秘主義的な秘密結社の形態をとり、武力をもって帝国主義とたたかった広範な自然発生的運動である。八つの帝国主義国の連合軍は、北京、天津を占領し、この運動をきわめて残酷に弾圧した。
〔35〕 本巻の『湖南省農民運動の視察報告』の注〔3〕にみられる。
〔36〕 レーニンの『プロレタリア革命の軍事綱領』および『ソ連共産党歴史小教程』第六章第三節を参照。
〔訳注〕
① 察蛤爾省は現在の河北省西北部と内蒙古の中部にあたる。
② 中国の神話に、盤古が天地をびちき、人類最初の支配者になったとつたえられている。三皇五帝は、伝説にでてくる中国原始社会の部落の長である。ここでは、「歴史がはじまっていらい」という意味にたとえている。
③ 本巻の『小さな火花も広野を焼きつくす』訳注②を参照。ここでは、閉鎖主義者が結集できる人びとをも敵の側に追いやってしまうことのたとえにつかっている。
④ 北伐戦争とは、一九二六年七月、国民革命軍が広東省を出発して北上し、北洋軍閥を討伐した戦争をさす。国民革命軍は、中国共産党の政治的指導と広範な労農大衆の積極的支持をうけたので、急速に長江流域まで攻めよせ、中国のほぼ半分を占領し、帝国主義と封建勢力に手きびしい打撃をあたえた。ところが、一九二七年の春から夏へかけて、北伐戦争が発展していた矢先に、蒋介石に代表される国民党右派は、帝国主義の支持のもとに革命を裏切って、その成果を奪い、残忍きわまる新軍閥のテロ支配をうちたてた。
⑤ 土地革命戦争とは中国共産党の指導する第二次国内革命戦争のことである。一九二七年七月、第一次国内革命戦争が失敗したのち、毛沢東同志を代表とする中国共産党は、土地革命の旗を高くかかげて、敵の支配が比較的弱くて、革命の基礎が比較的しっかりした農村に活動の重点をうつし、おもいきり農民を立ちあがらせて土地改革をおこない、遊撃戦争を展開し、革命根拠地をうちたてた。一九三六年末、全国人民の抗日運動の新しい高まりによって、蒋介石国民党がやむなく国内戦争の政策を一時放棄し、第二次国内革命戦争は基本的に終わりをつげた。




