延安の一時放棄と陝西・甘粛・寧夏辺区の防衛についての中国共産党中央の二つの文書 (一九四六年十一月、一九四七年四日)
毛沢東同志が起草したこの二つの文書は、一つは、一九四六年の冬、国民党軍が延安を攻撃しようとしているときに延安で書かれたものであり、もう一つは、国民党軍が一九四七年三月十九日延安を占領してから二十日後に、陳西省北部の横山県青陽岔で書かれたものである。蒋介石は、解放区にたいする全面的進攻の計画が破たんしたのち、瀕死の状態にあるその支配をもちなおすために、にせ国民大会の招集、中国共産党代表の追放、中国共産党中央の所在地延安の攻撃など、狂気じみた措置をとった。本文でのべられているように、蒋介石はこうした措置をとった結果、政治上、完全に自滅にむかうこととなった。また軍事上では、解放区の東西両翼、すなわち山東解放区と陝西・甘粛・寧夏解放区に兵力を集中して、重点攻撃なるものをくわだてたが、やはり完全な失敗に終わった。陝西・甘粛・寧夏辺区を攻撃した国民党軍の兵力が二十三万余人であったのにたいし、西北人民解放軍の陝西・甘粛・寧夏辺区における部隊は二万余人にすぎなかったため、敵軍はいちど、わが軍が主動的に放棄した延安と陝西・甘粛・寧夏辺区のすべての県都をあい前後して占領した。たが、敵軍は、中国共産党中央首脳機関と西北人民解放軍の消滅、あるいは黄河以東への駆逐という目的をとげることができなかったばかりか、わが軍のたびかさなる痛撃にあって、ほぼ十万人の兵力をうしない、ついには命からがら辺区から逃げ出さざるをえなくなり、わが軍は勝利のうちに広大な西北地方解放のための進攻に転じた。同時に、西北戦場のわが軍は、きわめてわずかな兵力で敵軍の大量の主力部隊をひきつけ、殲滅し、その他の戦場、まず第一に山西・河北・山東・河南戦場におけるわが軍の作戦に有力な支援をあたえ、比較的急速に進攻に転ずるのをたすけた。わか軍が一九四七年三月に延安を撤退してから、一年後に西北戦場で進攻に転ずるまで、毛沢東同志と中国共産党中央、人民解放軍総司令部はずっと陝西・甘粛・掌夏辺区にとどまっていたが、この事実は、きわめて大きな政治的意義をもっている。それは、陝西・甘粛・寧夏辺区をはじめ全国の解放区の軍民の戦意と勝利の確信をかぎりなく強め、ふるいたたせた。毛沢東同志は陝西・甘粛・寧夏辺区にとどまっているあいだ、全国各戦線の人民解放戦争をひきつづき指導したばかりでなく、西北戦場の人民解放戦争を直接に指揮し、本文で提起した「断固たる戦闘精神をもって陝西・甘粛・寧夏辺区と西北解放区を防衛し、発展させる」という目的をみごとに達成した。西北戦場での戦闘については、本巻の『西北戦場の作戦方針について』と『西北地方の大勝利を評し、あわせて解放軍の新しい型の整軍運動を論ず』を参照されたい。
一 一九四六年十一月十八日の指示
窮地におちいった蒋介石は、「国民大会」の招集と延安攻撃という三つの手段によって、わが党に打撃をくわえ、自己の強化をはかろうとしている。だが、実際にはまったく逆の結果となるであろう。中国人民は蒋介石お手盛りの分裂のための「国民大会」にだんこ反対しており、その開会の日は、蒋介石集団がみずから滅亡にむかいはじめる日となるであろう。蒋介石軍がわれわれに三十五コ旅団〔1〕を殲滅されて、その進攻能力がつきはてようとしているとき、たとえ突然の襲撃によって延安を占領しても、人民解放戦争の勝利の大局にはひびかず、蒋介石を滅亡の運命から救うことはできない。要するに、蒋介石はみずから破滅への道をあゆんでおり、「国民大会」の招集と延安攻撃という二つの手をうてば、その欺瞞性があますところなく暴露されることとなろう。これは人民解放戦争の展開にとって有利である。各地では、蒋介石の「国民大会」招集と延安攻撃という二つの点について党内外によく説明し、全党、全軍および全人民を結集して、蒋介石の進攻を粉砕し民主の中国を樹立するためにたたかわなければならない。
二 一九四七年四月九日の通達
国民党は、瀕死の状態にあるその支配をもちなおすために、にせ国民大会の招集、にせ憲法の制定、南京、上海、重慶などに駐在するわが党の代表機関の追放、国共決裂の宣言〔2〕などの措置をとったばかりでなく、わが党中央と人民解放軍総司会部の所在地である延安および陝西・甘粛・寧夏辺区を攻撃するという措置をとった。
国民党がこれらの措置をとったことは、いささかも国民党支配の強さをしめすものではなく、国民党支配の危機が異常に深まっていることをしめすものである。また、かれらが延安と陝西・甘粛・寧夏辺区を攻撃したのは、まず、西北問題をかたづけてわが党の右腕を切りおとすとともに、わが党中央と人民解放軍総司令部を西北地方から追いだし、そのうえで兵力を動かして華北地方を攻撃し、各個撃破の目的をとげようと夢みていたためでもある。
上述の状況のもとで、党中央はつぎの決定をおこなった。
一、断固たる戦闘精神をもって陝西・甘粛・寧夏辺区と西北解放区を防衛し、発展させなければならない。この目的は完全に達成できるものである。
二、わが党中央と人民解放軍総司令部は、ひきつづき陝西・甘粛・寧夏辺区にとどまらなければならない。ここは、地勢がけわしく、大衆の条件がよく、機動できる地域が広いので、安全が完全に保障されている。
三、また、活動の便宜をはかるために、劉少奇同志を書記とする中央工作委員会を組織し、山西省西北部あるいはその他の適当な地点におもむいて中央の委託する活動をおこなわせる〔3〕。
以上の三項目は先月決定され、それぞれ実行にうつされている。ここにこれを通達する。
〔注〕
〔1〕 これは一九四六年七月のはじめから十一月十三日までの統計である。
〔2〕 一九四七年二月二十七、二十八の両日、国民党政府は、南京、上海、重慶などに駐在して交渉と連絡にあたっていた中国共産党の代表と勤務員全員に、期限つきで引き揚げることをせまった。一九四七年三月十五日、国民党は第三回中央執行委員会全体会議を招集したか、蒋介石はその席上、国共両党の決裂を宣言し、最後まで戦う決意をあきらかにした。
〔3〕 一九四七年三月十九日に人民解放軍が延安を撤退したのち、毛沢東同志、周恩来同志、任弼時同志など、中国共産党中央書記局の多数の同志は、ひきつづき陝西・甘粛・寧夏辺区にとどまった。また、中国共産党中央書記局書記劉少奇同志、朱徳同志、その他一部の中央委員は、劉少奇同志をはじめとする中央工作委員会をつくり、山西・綏遠解放区をへて山西・察哈爾・河北解放区にはいり、河北省平山県西柏坡村におもむいて、中央から委託された活動をおこなった。一九四八年五月、毛沢東同志と中国共産党中央が西柏坡村に到着したのち、中央工作委員会は解散した。




