王子の本音
ここがどこで、自分がだれかすら手放したように眠りこけていた気がする。
瞼を開けた先に在る景色に既視感すら浮かばない。部屋に漂う匂いも嗅ぎなれない。清潔とはまた違う、ハーブの香りと―――これは。
「コーヒーの匂い?」
苦みと酸味を帯びた深い香りが鼻をつく。吸い込んだとたん、喉奥がカラカラに乾いていたことを自覚したヒルメスは込みあげる堰を盛大にせき込みながら、ぼやけた視野で水を探していると。
「どうぞ。お水でございます。バカ王子様」
「あ、どうもありがと‥‥ってバカ王子?」
ヒルメスの言葉に返すことなく身をひるがえし出て行った。コーヒーの香りを纏った黒スーツの男と入れ替えるように入ってきたエドガーに、ヒルメスの顔が固く強張るのを見て。
「お久しぶりです。ヒルメス王子」
「なんで‥‥どうしてエドガーが?」
「昨夜の記憶はございますか?」
「いや。すまない。あまり記憶にない」
まだ酒が残っているのだろう。こめかみを走る痛みに目を細めながら脳から記憶を引っ張り出そうとするヒルメスを前に諭すように姿勢を正す。
「酒場で泥酔し、市民に絡んでいたそうです」
エドガーの言葉でヒルメスの全身の力が抜けていき、虚脱するように天を仰ぎ。
「そう」
他人事のように空返事した。ヒルメスの冷めた態度と顔にエドガーが向かう。
「あなたを兄上に託されました」
「ディルハルトお兄様に?」
「はい。あなたの教育係をしてほしいと」
「きみにぼくを‥‥そうか。そういうことか‥‥」
思い当たる節に勘が働きふと押し黙る。今朝、幽体離脱の実験をしたばかりの部屋に横たわる、まだあどけなさを残す青年の隣に腰降ろしたエドガーを、罰悪そうに上目遣いで見定めながら。
「怒ってる?」
「怒ってませんよ。お酒をよく飲まれるようになったのはいつから?」
「エドガーが城からいなくなってから‥‥」
水筒を傾けながらごくごくと音を鳴らす。飲み干した水筒をぼんやりと眺めながら言った。ヒルメスの言葉にエドガーの目が驚きで見開いていくのを見て。
「きみがいなくなってから、色々、あったんだよ」
力無く哂うヒルメスの顔に悲壮が漂っているのを見たエドガーは、彼の顔を覗いながら前に出ると。
「わたしがいなくなったのは、あなたが17歳にのときだ。若いあなたが酒を浴びているのを、従者たちは知っているのですか?」
「あぁ。知ってる」
ヒルメスの返事に絶句したエドガーの目線が遠くを馳せる。
王族の人間は早くから外交に駆られ、嗜む程度の飲酒はする。王に同行した先の各国の王子も飲酒はしていた。だが、それは監視の目があるからだ。泥酔する量を飲み、あまつ城下で飲み歩く王子を容認する王室など聞いたことが無い。少なくとも、自分がいた時代ならばありえないことで、エドガーの勘が警報を鳴らしていた。
「酒を浴びずにはいられないことが?」
エドガーの真剣な顔にヒルメスが意を定めた顔を向け。
「ぼくが、竜の眷族なんだって。エドガーは、知ってたの?」
「それは‥‥」
知らなかった。その事実を知らされたのは、一通の手紙だったと言ったらヒルメスはどんな顔をするか。頭の中で一連の場面が走馬灯のように流れていく。エドガーから返事がないことに、ヒルメスは苛立ち始め。
「言いたくないならいいよ。ぼくも好きにさせてもらうから」
立ち上がったヒルメスは、エドガーのお古のパジャマ姿を着たまま扉へと歩いていく。
「お待ちください。ヒルメス王子」
ずんずんと黙ったまま扉のノブにヒルメスが手をかけた瞬間 。
「ヒルメス!!」
エドガーの叫ぶ声に体を震わせ立ち止まる。そのまま観念したように扉から離れると、部屋の窓を押し開いた。生温い風が肌を掠めるのを感じながら、昼の喧騒に耳を馳せる。丁度昼食時なのか、市場らしき辺りにはたくさんの人が往来し、その間で威勢のいい呼び声が聞こえる。
彼らの動きを目で追いながら見据えるように細めると。
「なにをやってもだめなんだ。勉強だってできないし。剣術も下手。魔法も治癒魔法以外は全然できないし。その上、殺害予告まで‥‥」
「殺害予告?あなたを?」
「そうだよ。無能な王子は今すぐ退陣し、貴族と挿げ替えろって脅迫状が届いた」
「送り主に心当たりは?」
「最近、下級貴族から専任されて城内に入った者がいる。ぼくと同い年の魔法使いだ。彼は、城内の臣下を味方に付け、ぼくを退位させたくて入って来たって聞いてる。問い質したけど、彼の下につく臣下は多い。ぼくの派閥からも何人か鞍替えした。彼はぼくができないことを完ぺきにこなして見せるから」
ふわりと入った風に乗ってこうばしい香りが鼻を突いた。その先で市民が穏やかに蠢いているのを見据えながら、辛し気に眉を寄せたヒルメスがエドガーを振り返る。
「母上が目を醒まさないのは、ぼくのせいなの?」
「誰がそんなことを?」
「みんな言ってるよ。ぼくが忌み子で、妃を呪ってるって」
その発端は、誰かが流した竜の眷族であるという真実だろうと察しはついていた。竜に圧倒的力があることを良く思わない者は多い。人間と共存し始めたのもここ数百年の話で、それまでは敵対する関係だった時代もあった。その名残は今も偏見と言う形で残っている。
だがそれは、自分たちが人間を庇護したり、彼らの味方に付くことを択ばず、一族を優先してきた結果であることは史実に記された事実でもあったが。
「そんなことはない」
「なんで断言できるの?エドガーだって、竜の眷族だからって色々言われてただろ?いつもそうだ!エドガーは決まってぼくを安心させることを言うのに、大事な時にそばにいてくれない!」
叫ぶヒルメスの悲痛を帯びた言葉に胸が締め付けられながら、彼の言っている事実に押し黙るしかんなかった。エドガーは、窓辺で俯きながら涙をこぼすヒルメスの体を抱き寄せる。かたかたと震える体は、幼い頃から線が細く、体重も男とは思えないほど軽かったことを思い出しながら、宥めるように彼の背中を摩った。
「傍にいてやれなかったことはすまないと思う。だが、わたしはもう城内の人間ではないんだ。城内に味方を見つけて派閥をつくり、おまえの政権を造らなくてはならない。それは王族の勤めなんだ」
「わかってるよ、そんなこと!!」
震えながら胸を押し返す力に、幼い頃のヒルメスの顔が蘇る。ひ弱で病弱だったはずの細い体にたしかな男の力を蓄えつつあることを実感しながら、自分の胸の中でバタバタと暴れるヒルメスの腕を掴むと。
「いい加減に腹をくくれ」
低い声で唸るように諭されたヒルメスは腕に籠った力を抜きながら顔を俯く。項垂れる肩を震わせながら小さく嗚咽を零すと。
「なら、傍にいてよ。教育係でも、何でもいいから。ぼくの傍にいてよ」
子供のような幼い声に懇願された気がした。エドガーの胸が締め付けられるように痛みだす。青年の肩に乗った王子という肩書、そして竜の眷族と言う宿命の重さを考えただけでも、そのつらさは察するに余りあるのは分かる。だが。
「わたしに、何ができる?血に染まった汚いわたしの手で、きみに何を教えられるというんだ?」
問いかけられた言葉に弾けるように唇を解いたヒルメスと同時に背後の扉が開かれ。
「おや、バカ王子様。お目覚めですか?」
ご機嫌笑顔の執事服の男に射貫かれながらそう言われ、バカ王子が自分であることがわかったヒルメスが目を細めながら。
「きみがエドガーの執事か。噂には聞いて居るよ」
「わたしの噂、とは?眉目秀麗で優秀な執事がいるといった賛辞の類でしょうか」
「賢者たちの目すら掻い潜ってクレメンツ家内部を魔改造したり、エドガーが戻るまでの間、影のフィクサーとしてこの邸を牛耳る権力をもつ厚顔無恥な策士がいるって噂」
エドガーとヒルメスの横に携わった机の上でお茶の準備を始めながら、ヒルメスの警眼帯びた視線を注がれながらも、ポットに入ったお茶を丁寧にカップに注ぎ入れる。優雅な手つきで事を終えると、アルフレッドは対峙するようにヒルメスに顔を寄せた。
「影のフィクサーなんて恐れ多い。司令官、と呼んでいただきませんと」
「元軍師って噂も本当みたいだな。数十万の兵を指揮し、幾度の戦争を勝利に導いた伝説の軍師が忽然と姿を消したと聞いたことがある、名前は確か‥‥」
次の瞬間、口元に当てられた小刀にヒルメスが押し黙る。それ以上はやめろと暗に指示するエドガーの視線を一瞥しながら、首元へと刃を滑らせると、さらりと切り落とした。
「糸くずが出るなんて。この服も買い替え時ですね」
ヒルメスの首元の布から糸くずを引っ張り上げ手のひらで掬って見せた。満面の笑みで二人を見据えるアルフレッドは、大きく開け放たれた窓を閉めると。
「さぁ、パーティーのご準備を始めますよ」
弾けるように手を合わせると、執事服姿の男が大量の衣服をもって部屋に入ってくる。その量と数を眺めながら、エドガーが深いため息をついた。




