灰色の残響 第13話
最深部から地上へ向かう階段は、思った以上に長かった。
崩れた儀式の間の粉塵がまだ肺に残っているようで、息を吸うたびに胸が痛む。
澪は僕の手を握ったまま、何度も後ろを振り返った。
「……本当に……終わったんだよね……?」
「終わったよ。赤い主はもういない」
そう言い切ったものの、胸の奥にはまだざらついた不安が残っていた。
“主”という存在が完全に消えたのか──それを確かめる術はない。
三枝が先頭でランプを掲げ、慎重に足元を照らしながら進んでいた。
「地上まであと少しだ。気を抜くな。館そのものが不安定になっている」
玲奈は壁に手をつきながら、ゆっくりと階段を上っていた。
彼女の顔色はまだ悪い。儀式の間での衝撃が残っているのだろう。
「……ごめんね……私がもっと早く……罪と向き合っていれば……こんなこと……」
「違うよ」
澪が玲奈の手を取った。
「あなたが罪を認めたから……儀式は崩れたんだよ。あなたがいなかったら……私、言えなかった」
玲奈は目を伏せ、かすかに微笑んだ。
「……ありがとう……」
階段を上り切ると、そこは見覚えのある廊下だった。
だが、壁のあちこちに亀裂が走り、床には細かな破片が散らばっている。
館全体が、まるで“主”の消滅とともに寿命を迎えたようだった。
「急ごう」
三枝が言った。
「このまま崩れる可能性がある」
僕たちは廊下を進み、ホールへ向かった。
途中、壁に貼られていたはずの写真はすべて剥がれ落ち、床に散乱していた。
澪が一枚を拾い上げる。
「……これ……私たちが監視部屋にいた時の……」
写真は色を失い、輪郭がぼやけていた。
まるで“主”の視線が消えたことで、写真そのものが意味を失ったようだった。
「もう……見られてないんだね……」
「そうだ」
僕は澪の肩に手を置いた。
「もう誰も、君を“罪の材料”として見ていない」
澪は小さく息を吐き、写真をそっと床に置いた。
ホールに着くと、そこは静まり返っていた。
あれほど不気味だった空間が、今はただの古い館の一部に見える。
だが──
「……誰かいる」
玲奈が小さく呟いた。
ホールの中央に、ひとりの人物が立っていた。
黒いローブをまとい、フードを深くかぶっている。
澪が息を呑む。
「……赤い主……?」
「違う」
三枝が低く言った。
「赤い主は消えた。あれは──影の主だ」
影の主は、ゆっくりとこちらへ歩み寄った。
儀式の間で倒れたはずなのに、傷ひとつないように見える。
だが、その足取りはどこか不安定で、影が揺れていた。
「……来たか……」
その声は、以前よりもずっと弱々しかった。
「あなた……生きて……?」
「生きてはいない」
影の主は静かに首を振った。
「私は……“主”の力が消えたことで……形を保てなくなっている。今の私は……ただの残響だ」
玲奈が震える声で言った。
「……あなたが……私たちを導いてくれたんだよね……?」
「そうだ」
影の主は僕たちを見渡した。
「お前たちが罪と向き合い……互いを救ったことで……“主”の力は消えた。それで……私は自由になった」
澪が一歩前に出た。
「……ありがとう……あなたがいなかったら……私たち……」
「礼は不要だ」
影の主はかすかに微笑んだように見えた。
「私は……“主”として生まれ……“主”として終わるはずだった。だが……お前たちが……私を“人”に戻してくれた」
その身体が、ふっと揺らいだ。
「……もう……時間がない……館が……私を留めておけない……」
「待って!」
澪が叫んだ。
「あなたは……どうなるの……?」
「消える」
影の主は静かに言った。
「だが……それでいい。罪を糧に生きる存在など……この世界に必要ない」
影の主は僕のほうを向いた。
「……彼女を……頼む……罪を抱えた者は……罪を抱えた者にしか……救えない……」
僕は頷いた。
「必ず守る。あなたが命を懸けて守った人たちを……今度は俺が守る」
影の主は満足そうに目を閉じた。
「……なら……安心だ……」
その身体が光の粒となり、静かに空気へ溶けていった。
澪が涙をこぼす。
「……さよなら……影の主さん……」
ホールには、ただ静寂だけが残った。
だが──その静寂の奥に、微かな“違和感”があった。
三枝が眉をひそめる。
「……おかしいな。館が……静かすぎる」
「静か……すぎる……?」
「“主”が消えたなら……館はもっと……崩れるはずだ。だが……この静けさは……」
そのとき、館の奥から──微かな足音が聞こえた。
僕たちは一斉に振り返った。
そこには、誰もいないはずの廊下が続いていた。
だが、確かに──“何か”が歩いている気配があった。
澪が震える声で言った。
「……まだ……終わってないの……?」
僕は息を呑んだ。
「分からない。だが──確かめる必要がある」
僕たちは再び歩き出した。
影の主が光の粒となって消えたあと、ホールには深い静寂が落ちた。
まるで館そのものが息を潜めているような、重く、湿った沈黙だった。
澪は僕の腕に寄り添い、震える声で言った。
「……本当に……いなくなっちゃったんだね……」
「ああ。でも──」
言いかけたとき、三枝がホールの奥を鋭く見つめた。
「静かすぎる。“主”が消えたなら、館はもっと崩れるはずだ。だが……この静けさは不自然だ」
玲奈も不安そうに周囲を見渡す。
「……誰かが……いる気がする……さっきの足音……」
僕たちはホールの奥へ視線を向けた。
そこには、誰もいないはずの廊下が続いている。
だが──確かに“何か”が歩いている気配があった。
澪が小さく息を呑む。
「……赤い主……じゃないよね……?」
「違う」
三枝は首を振った。
「赤い主は完全に消滅した。残っているのは……別の何かだ」
その“何か”は、廊下の奥へと僕たちを誘うように、微かな音を立てて進んでいく。
僕は澪の手を握り、歩き出した。
「行こう。影の主が消えたあとに残った気配……確かめないといけない」
廊下を進むと、壁に貼られていたはずの写真が、すべて床に落ちていた。
その中の一枚が、僕の足元に引っかかった。
拾い上げると──そこには、僕たち四人が“今この瞬間”の姿で写っていた。
澪が青ざめる。
「……これ……今の私たち……?」
「誰が撮ったんだ……?」
玲奈が震える声で言う。
三枝が写真の裏を確認した。
「……何も書かれていない。だが、これは──“主”の視線ではない」
「じゃあ……誰の……?」
そのとき、廊下の奥で“カツン”と硬い音が響いた。
僕たちは一斉に振り返った。
薄暗い廊下の先に、ひとりの影が立っていた。
黒いローブでも、赤い光でもない。
ただ、静かにこちらを見つめる“人影”。
澪が震える声で言った。
「……誰……?」
影はゆっくりと歩み寄ってきた。
その足取りは迷いがなく、しかし敵意も感じられない。
やがて光の下に姿を現した。
玲奈が息を呑む。
「……あなた……まさか……」
そこに立っていたのは──佐伯悠斗だった。
澪が叫ぶ。
「佐伯さん!? だって……あなた……倒れて……!」
佐伯は静かに首を振った。
「……倒れていたのは事実だ。でも……死んではいない。“主”が……俺を利用していただけだ」
「利用……?」
佐伯はゆっくりと僕たちに近づき、床に落ちた写真を拾い上げた。
「この館は……“主”だけのものじゃない。もう一つの意志がある。それが……俺を動かしていた」
三枝が眉をひそめる。
「もう一つの意志……?」
「そうだ」
佐伯はホールの天井を見上げた。
その瞳は、どこか遠くを見ているようだった。
「“主”は罪を糧にしていた。だが、この館には……“罪を観察する者”がいたんだ」
澪が息を呑む。
「観察……?」
「そう。“主”が罪を集める前に、誰がどんな罪を抱えているか──それを見極める役目の者がいた」
僕は佐伯の目を見つめた。
「……まさか……その“観察者”が……」
佐伯は静かに頷いた。
「──俺だ」
ホールの空気が凍りついた。
玲奈が震える声で言う。
「じゃあ……監視部屋の写真……あれは……」
「俺が撮ったものもある。“主”に命じられてな」
澪が後ずさる。
「どうして……どうしてそんなこと……」
「俺は……“主”に選ばれたんだ。罪を見抜く目を持つ者として」
三枝が低く言った。
「だが……お前は儀式に反対していたはずだ。影の主の味方だったんじゃないのか」
「違う」
佐伯は首を振った。
「影の主は……俺を“止めようとした”。だが……俺は……“観察者”としての役目を捨てられなかった」
澪が震える声で言った。
「じゃあ……あなたは……敵なの……?」
佐伯は澪を見つめた。
その瞳には、深い後悔の色があった。
「……敵でも味方でもない。ただ──“真実を伝える者”だ」
「真実……?」
佐伯はゆっくりと口を開いた。
「“主”は消えた。だが──儀式はまだ終わっていない」
僕は息を呑んだ。
「どういうことだ……?」
「儀式には……“第四の段階”がある」
ホールの空気が一気に冷えた。
「第四の……段階……?」
佐伯は僕たちを見渡し、静かに言った。
「“主”が消えたあと──“観察者”が最後の罪を選ぶ」
澪が青ざめる。
「最後の……罪……?」
「そうだ」
佐伯は写真を握りしめた。
「そしてその罪は──“生き残った者の中にある”」
僕たちは息を呑んだ。
佐伯は静かに告げた。
「──最後の罪を持つ者を、俺はこれから選ぶ」
ホールの空気が凍りついた。
儀式は終わっていなかった。
“主”が消えたあとに残された、最後の選定が始まろうとしていた。
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