灰色の残響 第2話
桟橋が消えた──その事実が、僕たち八人の胸に重くのしかかった。
食堂の空気は凍りつき、誰もが言葉を失っていた。
最初に口を開いたのは、派手な赤いジャケットを着た男だった。
名は 城戸亮介。自称・投資家。
だが、その落ち着きのなさは、どう見ても“金を扱う人間”のそれではない。
「ふざけんなよ……! 帰れねぇって、どういうことだよ! あの執事のジジイ、どこ行きやがった!」
城戸は椅子を蹴り飛ばし、食堂を飛び出した。
その背中を見送りながら、僕は胸の奥にざらついた違和感を覚えていた。
──この八人、全員が“普通じゃない”。
澪がそっと僕の袖を引いた。
「……外、見に行きませんか?」
「危険かもしれませんよ」
「それでも、確かめたいんです。この館が、どれほど“閉じられている”のか」
彼女の声は震えていたが、瞳は強かった。
僕は頷き、二人で玄関へ向かった。
扉を開けると、濃い霧が一気に流れ込んできた。
視界は数メートル先までしか見えない。
だが、足元の土は湿っており、つい先ほどまで雨が降っていたようだ。
「桟橋は……あっちのはずです」
澪が指さす方向へ歩く。
霧の中、湖の匂いが濃くなる。
やがて、地面が途切れた。
そこには、木片が散乱していた。
桟橋の残骸だ。
「……爆破、ですか?」
澪が呟く。
「いや、爆破ならもっと破片が飛び散るはずです。
これは……“引き剥がされた”ような跡だ」
僕は木片を拾い、断面を見た。
鋭利な刃物で切断されたように、滑らかだ。
「人の手、ですね」
澪が言う。
「ええ。しかも、かなり手際がいい」
つまり──僕たちが館に入った“直後”に、誰かが桟橋を切り落とした。
その“誰か”は、外にいるのか。
それとも──館の中に。
霧の向こうで、何かが動いた。
人影のような、獣のような、曖昧な黒い影。
「……見ました?」
澪が僕の腕を掴む。
「ええ。でも、はっきりとは」
影は霧に溶けるように消えた。
僕たちは急いで館へ戻った。
ホールに入ると、すでに数人が集まっていた。
三枝の姿もある。
彼は腕を組み、険しい表情で僕たちを見た。
「外を見に行っていたようだな。どうだった?」
「桟橋は切断されていました。人の手によるものです」
「……やはりな」
三枝はため息をついた。
「実は、さっきから館内の“鍵”がいくつか消えている。倉庫、地下室、そして……監視室の鍵だ」
「監視室?」
澪が聞き返す。
「この館には、館内を映す監視カメラがあるらしい。執事の老人が言っていた。だが、その部屋の鍵がなくなっている」
つまり──誰かが監視を避けようとしている。
そのとき、ホールの奥から悲鳴が上がった。
「きゃあああああっ!」
僕たちは一斉に駆け出した。
悲鳴の主は、白いブラウスの女性── 水沢玲奈。
彼女は壁際に倒れ込み、震えていた。
「な、何があったんです?」
僕が尋ねると、玲奈は指を震わせながら指さした。
「そ、そこ……誰かが……!」
指さす先には、古い肖像画が掛けられている。
だが──その絵の“目”が、赤く塗りつぶされていた。
まるで、血のように。
「いつの間に……?」
澪が息を呑む。
三枝が絵に近づき、指で赤い部分をなぞった。
「これは……絵の具だな。乾き具合からして、ついさっき塗られたものだ」
「誰がこんなことを?」
玲奈が震える声で言う。
僕は周囲を見回した。
廊下には足跡が続いている。
赤い絵の具が点々と落ちていた。
「この足跡……館の奥へ続いています」
「追うべきだな」
三枝が言う。
だが、澪が僕の袖を掴んだ。
「待ってください。この“赤”……ただの悪戯じゃない気がします」
「どういう意味です?」
澪は、絵の赤い目を見つめながら言った。
「まるで……“見ている者を消す”みたいじゃないですか。監視を嫌う誰かが、絵の“目”を潰した……そんな気がして」
その言葉に、僕の背筋が冷たくなった。
──監視室の鍵が消えた。
──絵の“目”が潰された。
これは偶然ではない。
この館のどこかに、“誰かの目”がある。
そして、その目を消そうとしている者がいる。
足跡は、館の奥──地下へ続く階段の前で途切れていた。
階段の先は、真っ暗だった。
その暗闇の底から、かすかな音が聞こえた。
──カン……カン……カン……
金属を叩くような、規則的な音。
澪が小さく震える。
「……誰か、いるんですね。この下に」
僕は階段を見つめた。
その暗闇は、まるで口を開けた獣のようだった。
そして、胸の奥で確信した。
ここから先が、“事件”の始まりだ。
執事の老人が倒れていた廊下は、まるで時間が止まったように静まり返っていた。
僕たちは老人を部屋の壁際に寄せ、呼吸を確かめた。
幸い、まだ生きている。
だが、意識は戻らない。
「……誰かが“主”を名乗っている、か」
三枝が紙片を見つめながら呟く。
「じゃあ、あの蓄音機の声は?」
澪が問う。
「録音か、あるいは……館のどこかに隠れている“偽の主”の声だろう」
三枝の声は低く、重い。
そのとき、城戸が苛立ったように叫んだ。
「ふざけんなよ! こんな茶番に付き合ってられるか! 誰が何を企んでるか知らねぇが、俺は帰らせてもらう!」
「帰る道はないと言ったはずだ」
三枝が冷たく返す。
「うるせぇ! だったら泳いででも──」
「無理です」
澪が静かに言った。
「湖の水温、今の時期は十度前後。霧で方向感覚も失われます。泳いだら……死にます」
城戸は言葉を失い、舌打ちした。
そのとき──廊下の奥から、かすかな物音がした。
カサ……カサ……
紙が擦れるような音。
「誰かいるのか?」
三枝が声を張る。
返事はない。
だが、確かに“何か”が動いている。
僕たちは慎重に廊下を進んだ。
曲がり角を曲がると、そこには──一枚の紙が床に落ちていた。
拾い上げると、そこには黒いインクで一言だけ。
『一人目』
澪が息を呑む。
「……これ、どういう意味ですか?」
「“これから死ぬ者の数”だろう」
三枝が低く言う。
「あるいは──もう“誰かが死んだ”という宣告か」
その言葉に、場の空気が凍りついた。
だが、まだ誰も死んでいないはずだ。
執事は意識を失っているが、生きている。
では、この紙は何を示している?
僕が考え込んでいると、澪が震える声で言った。
「……あれ、見てください」
廊下の突き当たり。
壁に掛けられた大きな鏡。
その鏡の表面に──赤い指で書かれた文字が浮かんでいた。
『見ている』
澪が僕の腕を掴む。
「……誰かが、私たちを監視してるんですね」
「監視室の鍵が消えたのも、そのためだろう」
三枝が鏡を睨む。
「“偽の主”は、館のどこかで僕たちを見ている。そして、動きを誘導している」
そのとき、鏡の裏側──壁の向こうから、微かな音がした。
コツ……コツ……
まるで、誰かが壁を叩いているような音。
「……この鏡の裏、何かあります」
僕は壁に耳を当てた。
確かに、空洞だ。
隠し部屋か、通路か。
「鏡を外せるか?」
三枝が言う。
僕と三枝で鏡の縁を掴み、慎重に持ち上げる。
重いが、外れないことはない。
ギィ……と音を立てて鏡が外れた。
その裏には──小さな覗き穴があった。
そして、その覗き穴の向こうから、冷たい風が吹きつけてきた。
「……通路だ」
三枝が言う。
「この館には、隠し通路がある。“偽の主”はここを使って移動している可能性が高い」
澪が震える声で言う。
「じゃあ……さっきの“見ている”って……」
「僕たちを監視しているという意味だろう」
三枝が覗き穴を覗く。
「だが、暗くて何も見えん」
その瞬間──覗き穴の向こうで、何かが動いた。
スッ……と影が横切る。
「……誰かいる!」
三枝が叫ぶ。
だが、次の瞬間、覗き穴の向こうから、鋭い金属音が響いた。
ガンッ!
まるで、何かが落ちたような音。
そして──通路の奥から、低い声が聞こえた。
「──一人目は、もう決まっている」
澪が青ざめる。
「……今の、誰の声ですか?」
「“偽の主”だろう」
三枝が歯を食いしばる。
「だが、声の方向が分からない。通路の奥か、別の部屋か……」
僕は胸の奥に冷たいものを感じていた。
“一人目”は誰なのか。
そして、その死は“いつ”訪れるのか。
その答えは、すぐに明らかになる。
なぜなら──この館のどこかで、すでに“死の準備”が始まっている気配がしたからだ。
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