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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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雨の止まない部屋 最終話

 ノートを閉じてから、一年が経過した。


 あれ以来、“雨”の報告は一件もない。屋内で降る雨も、黒い染みも、記憶の共有もない。

 まるで、最初から存在しなかったみたいに、跡形もなく消えた。


 おかげで、僕は仕事を減らした。奇妙な事件を追うことも、記録を集めることもやめた。いや、なくなったのだ。

 以前のように、淡々と調査だけを請け負う、平穏な日々だった。少なくとも、表面上では。


 ただ、心の奥底では、あの一年がまだ沈殿していた。

 静けさが戻るほど、逆に“異物”のように浮かび上がる記憶。

 忘れたふりをしているだけで、実際には、僕はずっと耳を澄ませていた。


♢♢♢


 冬の終わり頃。

 乾いた空気が部屋の隅々にまで染みつき、窓際の光は弱々しく、季節の境目の匂いが漂っていた。


 部屋の掃除をしていると、棚の奥から箱が出てきた。


 黒い、鍵付きの箱。


 埃をかぶっているのに、黒だけは妙に深く、光を吸い込むように沈んでいる。

 触れると、ひやりと冷たかった。一年という時間が、箱の中だけ止まっていたように思えた。


 あのノートを入れたまま、一度も開けていない。

 僕はしばらく、それを見つめていた。


 開ける必要はない。そう思っていた。いや——今でも思っている。

 それでも、人間は“終わったこと”を確認したくなる。

 終わったと信じているほど、確かめずにはいられない。


 胸の奥で、何かがゆっくりと目を覚ますような感覚があった。

 期待とも不安ともつかない、形のないざわめき。

 “触れたら戻れない”と知っているのに、手は勝手に動いていた。


 結局、僕は鍵を回した。


 カチリ。


 その音が、やけに部屋に響いた。空気が一瞬だけ張りつめ、僕の呼吸が浅くなる。

 喉の奥が乾き、舌が上顎に張りつく。

 心臓が、ひとつ、余計に脈打った。


 箱の中には、ノートが一冊。変わらない黒い表紙。少しだけ湿ったような質感。

 指先に吸い付くような、あの嫌な感触。


 ゆっくりと開く。


 一ページ目。白紙。

 二ページ目。白紙。

 全部。何も書かれていない。


 分かっていたはずなのに、胸の奥がすっと冷えるような喪失感があった。

 何かが“消えた”というより、“最初からなかった”と突きつけられたような、そんな虚無感だった。


 ページをめくる指先が、わずかに震えていることに気づいた。

 寒さのせいではない。部屋は暖房で十分に暖かい。

 それでも、胸の奥に沈んでいた“あの一年”の重さが、ページをめくるたびにじわじわと浮かび上がってくる。


 あの雨が消えてからの一年は、静かすぎた。

 静けさは本来、安らぎをもたらすはずなのに、僕にとってはどこか“借り物”のように感じられた。

 音のない部屋。事件のない日々。誰の記憶にも触れない生活。


 平穏は確かに戻った。

 けれど、心のどこかで、僕はずっと耳を澄ませていた。

 あの雨音が、またどこかで始まるのではないかと。

 期待でも恐怖でもない、もっと曖昧な感情。“何かが終わったままでいいのか”という、自分でも説明できない焦燥のようなもの。


 だからこそ、白紙のノートを見た瞬間、胸の奥にぽっかりと穴が開いたような感覚がしたのだ。

 失ったのか、手放したのか。それすら判断できないまま、僕はただ、ページの白さに吸い込まれていた。


「……本当に、消えたんだな」


 声に出すと、余計に現実味が増した。

 言葉が空気に溶けていくのを、ただ見送るしかなかった。


 僕は椅子に腰掛けた。椅子の軋む音が、やけに大きい。

 窓の外では、午後の日差しが揺れている。光は暖かいのに、胸の内側はどこか空っぽだった。


 あの雨の音を思い出そうとしてみる。

 ぽつ。

 頭の中では再生できる。でも、もう“あの音”じゃない。

 湿度も温度も気配も抜け落ちた、乾いた記憶。

 あのときの“存在の気配”だけが、どうしても再現できなかった。


 ノートを閉じようとして——止まった。

 最後のページ。そこだけ、何か挟まっている。


「……?」


 紙だ。小さく折りたたまれた、一枚の紙片。

 そんなもの、入れた覚えはない。


 嫌な汗が背中を伝う。

 心臓がひとつ余計に脈打つ。

 指先が、わずかに冷たくなる。


 僕は慎重に紙を開いた。


 中には、一文だけ書かれていた。


 ありがとう


 短い文字。子どもみたいに不格好な筆跡。

 けれど——不思議と怖くはなかった。

 むしろ、胸の奥の空洞に、そっと布をかけられたような感覚があった。


 あれは結局、“呪い”じゃなかったのかもしれない。

 忘れ去られたものが、消える前に残したかった痕跡。

誰にも届かなかった声。ただ、それだけ。


 僕は紙を見つめたまま、小さく息を吐いた。


「律儀だな」


 思わず笑ってしまう。

 その笑いは、どこか自分でも驚くほど自然だった。


 その瞬間だった。


 ぽつ。


 音。反射的に天井を見上げる。乾いている。何もない。

 ……気のせいか。


 そう思ったとき、窓の外で雨が降り始めた。

 本物の雨。細く、静かな春の雨。


 胸の奥の緊張が、ゆっくりとほどけていく。

 “あれ”ではないと、身体が先に理解していく。


 僕は少し安心して、窓を開けた。

 湿った風が入ってくる。肌に触れる空気がやわらかい。

 普通の雨の匂いだった。


 もう、“あれ”じゃない。

 世界はちゃんと戻ったんだと、ようやく実感できた。


 机の上の白紙のノートを閉じる。

 鍵付きの箱には戻さなかった。

 代わりに、本棚の一番端へ置く。


 何も書かれていない、一冊のノート。

 たぶんこれからも、開くことはある。

 でも、もう何かが起きることはない。

 終わった話だからだ。


 ふと、窓から外を見る。

 窓の外では、雨が静かに降り続いていた。

 ただの、春の雨が。


 ぽつ。ぽつ。と、降っている。

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