ガラスの亡霊 第6話
倉庫を出たあと、透はしばらく言葉を失っていた。
霧の冷たさが肌に残り、影が囁いた声が耳の奥で反響している。
――次は、お前だ。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返された。
朔也は透を古賀家の庭のベンチに座らせ、しばらく黙って様子を見ていた。
「……三崎さん」
透は顔を上げた。
朔也の表情は険しいが、どこか迷いがあった。
「さっきの影……あなたには、どう見えたんです」
透は喉が乾き、声が出なかった。だが、言わなければならないと思った。
「……俺の顔をしていた」
朔也は目を細めた。
「あなた自身の?」
「ええ。でも……目だけが真っ黒で……穴みたいに、何もなかった」
朔也はしばらく黙り、庭の霧を見つめた。
「……三崎さん。あなた、過去に何か……“抱えている”んじゃないですか」
透は息を呑んだ。
(……やっぱり、そこに触れるのか)
透は視線を落とした。
「……俺は、記者時代に……ひとりの人間を追い詰めたんです」
朔也は黙って聞いている。
透は続けた。
「ある事件の取材で、容疑者とされた男を執拗に追った。証拠は不十分だったのに……俺は“犯人だ”と決めつけて記事を書いた」
霧が風に揺れ、透の声がかすかに震えた。
「その男は……記事が出た翌日に自殺した」
朔也の表情がわずかに動いた。
「……それで、新聞社を辞めたんですか」
「はい。俺は……人を殺したようなものだ」
透は拳を握りしめた。
「だから……影が俺の顔をしていたのかもしれない」
朔也はしばらく黙り、透の横に腰を下ろした。
「三崎さん。亡霊の噂は、ただの迷信です。だが――」
朔也は低い声で続けた。
「この町では、罪を抱えた人間ほど“影”を見る」
透は顔を上げた。
「……どういう意味ですか」
「亡霊は、罪を映す鏡だと言われている。見えるのは、罪を抱えた者だけ。だから、影があなたの姿をしていたのかもしれない」
透は息を呑んだ。
(……罪を映す鏡)
影は、透の罪を知っている。
透の過去を覗き込んでいる。
そのとき――透のスマートフォンが震えた。
画面には、見覚えのない番号。
透は躊躇しながら通話ボタンを押した。
「……三崎です」
返ってきたのは、聞き覚えのある声だった。
『……どうして、あんな記事を書いたんですか』
透は凍りついた。
(……この声……)
それは――自殺した男の、妻の声だった。
『あなたが夫を殺したんですよ』
透の手が震えた。
「……どうして、今……」
『夫は、あなたに“見られて”いたと言っていました』
透は息を呑んだ。
(見られていた……?)
『あなたの影が、夫の後ろに立っていたって』
透は立ち上がった。
「やめてくれ……そんなはずは……」
『あなたの影は、まだそこにいるんでしょう?』
透は反射的に振り返った。
霧の奥――影が立っていた。
透は叫んだ。
「やめろ……!」
通話は切れた。
朔也が駆け寄る。
「三崎さん、どうした!」
透は震える声で言った。
「……影が……俺の罪を知っている……俺を……見ている……」
霧が揺れ、影がゆっくりと首を傾けた。
まるで、透の苦しみを楽しんでいるかのように。
透は悟った。
亡霊は、俺の罪を餌にしている。そして――俺を追っている。
影が消えたあとも、透の耳には、あの囁きが残っていた。
――次は、お前だ。
その言葉は、霧よりも冷たく、透の胸の奥に深く沈んでいく。
朔也は透の肩を掴み、強引に古賀家の庭から歩かせた。
「三崎さん、落ち着け。今は影のことを考えるな」
「……無理だ。あれは……俺の顔をしていたんだ」
「錯覚だ。霧の中で見た影が、そう見えただけだ」
透は首を振った。
「違う。あれは……俺の罪を知っていた。俺の声で囁いたんだ……」
朔也は言葉を失った。
だが、その沈黙が逆に透を追い詰める。
(……誰も信じてくれない)
影は確かに透の姿をしていた。
だが、それを証明するものは何もない。
霧の中で見たものは、いつだって“曖昧”だ。
だからこそ――逃げ場がない。
古賀家を出て通りに戻ると、町の人々が透を見ていた。
ただの好奇心ではない。
恐れと、疑いと、そして――“知っている”目。
(……なぜ、俺を見る)
透は歩くたびに視線を感じた。
まるで、町全体が透を監視しているようだ。
そのとき、古い商店の前に立つ老人が、透に声をかけた。
「……あんた、見たんだろう」
透は足を止めた。
「何を、ですか」
老人は霧の奥を指さした。
「“影”だよ。あれは、罪を持つ者の前にしか現れん」
透は息を呑んだ。
「……どうして、そんなことを」
老人はゆっくりと近づき、透の耳元で囁いた。
「この町はな……罪を抱えた者を、逃がさないんだよ」
透は背筋が凍った。
老人は続けた。
「影は、あんたの後ろに立ってる。ずっと前からな」
透は反射的に振り返った。
霧が揺れただけだった。
だが――その揺れ方が、まるで“誰かが身を引いた”ように見えた。
老人は言った。
「影は、あんたの罪を食う。食い終わるまで、離れん」
透は震える声で言った。
「……俺の罪を……?」
老人は頷いた。
「罪を抱えた者は、影に“見られる”。見られたら最後……次に死ぬのは、その者だ」
透は息を呑んだ。
(……俺が、次?)
老人は透の胸元を指さした。
「影は、あんたの形をしていたんだろう。それはな……“お前の番だ”という合図だ」
透は言葉を失った。
老人は霧の中へ消えながら言った。
「逃げられんぞ。この町は、罪を覚えている」
案内所に戻る途中、透はふと足を止めた。
(……俺は、本当にあの男を追い詰めただけだったのか?)
記憶が曖昧になる。
あの日、男の家を訪れたときのこと。
男は震えていた。
透の質問に答えられず、ただ怯えた目で透を見ていた。
――“見られている気がするんです”
男はそう言った。
透はその言葉を、ただの妄想だと思っていた。
だが今――透自身が同じ言葉を口にしている。
(……まさか)
透は立ち止まり、胸の奥に沈んだ記憶を探った。
男は最後にこう言った。
“あなたの影が、ずっと後ろに立っている”
透は息を呑んだ。
(……俺の影? あのときから……?)
霧が揺れた。
透は反射的に振り返った。
そこには――透と同じ背丈の影が立っていた。
透は叫んだ。
「やめろ……!」
影は動かない。
ただ、透の姿を模したまま、ゆっくりと首を傾けた。
まるで、“覚えているか?”と問いかけるように。
透は悟った。
影は、俺の罪の形だ。そして――俺を追っている。
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