生クリーム事件 第3話
「今日はここまでにしよう」
そう言ったのは、ほんの数分前のことだった。
けれど誰も、すぐに動かなかった。
空き教室の窓から、橙色の光が差し込んでいる。日が沈みきるまで、あと三十分もないだろう。
中村がゆっくり言った。
「このまま帰るのは気持ちが悪い」
鮎川が椅子を引き戻す。
「だよな。モヤモヤしたままだ」
浜井は黙っているが、落ち着かない様子で爪をいじっている。
江川が不安そうにこちらを見る。
僕は息を吸った。
「……日が沈む前に終わらせよう」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
「終わらせる?」
「当日中に解決する。じゃないと、明日もっと変な噂になる」
全員が頷く。制限時間。
それだけで空気が引き締まった。
「じゃあ物理的に整理しよう」
僕は立ち上がる。
「まず、量」
白い塊は多かった。靴の側面を覆うほど。
「浜井のクリームパン説だと、半分以上使ってることになる」
「だから俺じゃないって!」
浜井が声を荒げる。
「それに、パンのクリームってもっと黄色っぽくない?」
江川が言う。
確かに、あれは真っ白だった。
中村が続ける。
「それと乾き具合。あれはまだ柔らかかった」
「つまり?」
鮎川が聞く。
「放課後直前に付けられた可能性が高い」
僕は頷く。
「四時間目の体育では無事。発見は放課後」
「五時間目か六時間目の終わり」
鮎川がまとめる。
浜井が言う。
「でもその時間、俺ら教室か体育館だろ」
「全員?」
僕は問い返す。
確実に“全員ずっと”同じ場所にいた証明はない。
「高さも重要だ」
僕は続ける。
「靴は胸の高さ。自然に手が届く位置」
中村がじっと僕を見る。
「つまり、特別な体格は関係ない」
「うん」
言葉を選びながら答える。
鮎川が腕を組む。
「結局、誰でもできるって話かよ」
「違う」
僕は即答した。
「“誰でもできる”なら、誰でもやらない」
視線が集まる。
「こんな面倒なこと、衝動じゃできない。準備がいる」
「準備?」
江川が首を傾げる。
「白いクリーム状のものを持ち込む準備」
その瞬間、浜井が言った。
「持ち込みって……学校に?」
そうだ。売店にそんなものはない。給食もない。わざわざ用意しなければならない。
中村が静かに言う。
「じゃあ犯人は、最初からやる気だった」
空気が重くなる。
偶発的ないたずらではない。意図的であり計画的でもある。
僕は机に手をついた。
「そして、置いた形跡」
投げたのではない。丁寧に塗られていた。それも江川の靴だけに。ピンポイントで。
「……ねえ」
江川が言う。
「なんで、私だったんだろ」
誰も答えられない。いや、答えはある。だが、それを口に出すと何かが壊れる。
窓の外で、日がさらに沈む。
残り時間は少ない。
「最後に確認する」
僕は言った。
「五時間目と六時間目の間、完全に一人になった時間は?」
全員、少しずつ目を伏せる。完璧なアリバイはない。だからこそ、その中に“わずかな差”があるはずだ。
僕は、ある一点に気づいていた。けれどまだ言わない。言えば終わる。そして、戻れない。
日が、沈みかけている。
沈黙を破ったのは、中村だった。
「学級委員」
穏やかな声。
「君は?」
心臓が強く打つ。
「五時間目と六時間目の間、トイレに行ったって言ってたよね」
「……うん」
「何分?」
「覚えてない」
同じやり取り。だが今は違う。時間が迫っている。
鮎川が言う。
「でもさ、あの量持ち込むなら、カバンとか必要じゃね?」
空気が動く。
そうだ。手ぶらでは無理だ。
「持ち物、見せ合うか?」
浜井が言う。
全員が一瞬ためらう。だが、拒否できない。鞄が机の上に並べられる。教科書、筆箱、飲みかけのペットボトル。異常はない。
僕も、同じように出す。視線が集中する。もちろん怪しい物は何もない。
中村が首をかしげる。
「容器がない」
「捨てた可能性は?」
鮎川。
「どこに?」
ゴミ箱はすでに回収済み。証拠は残っていない。
江川がぽつりと言う。
「でも、匂いは残るよね」
その言葉で、空気が止まった。
匂い。
甘い匂い。
僕は無意識に、指先をこすっていた。
中村の視線が落ちる。
「まだ匂う?」
聞かれる。全員が、自分の手を確認する。
浜井は首を横に振る。鮎川も。中村も。
──そして江川も。
そして僕も、手を嗅ぐ。何もない……はずだ。
──だが。
中村がゆっくり言う。
「不思議だね」
「何が」
「一番最初に“甘い匂いがする気がした”って言ったの、誰だったっけ」
空気が凍る。
記憶が巻き戻る。靴箱の前。
僕は言った。
『甘い匂いがする気がした』
誰よりも早く。まだ誰も近づいていない段階で。
心臓が、跳ねるように早く動く。
「偶然だよ」
声が少し掠れる。
震えていたのかもしれない。
「いや」
中村は首を振る。
「距離があった。触らなければ分からないはずだ」
誰も何も言わない空気が、まるで重たい荷物を背負わされているかののように重たく感じた。
鮎川がゆっくりこちらを見る。
「……マジ?」
江川の顔が青ざめる。
僕は笑おうとする。
「推測だ」
「それと」
中村は続ける。
「靴を最初に持ったのも君だ」
確かに。自然な流れで。触らないように、と言いながら。
「揃える癖がある」
江川の声が震える。
僕の視線が、靴箱へ向く。いつも整えていた。
気づかれないように。
「なんで……?」
江川が小さく言う。答えは、喉の奥に引っかかる。
夕日が沈みきってしまい、教室が薄暗くなる。
僕は深く息を吸った。
「……本当に、少しだけだった」
静かな声。誰も動かない。
「嫌がらせじゃない。ただ、触れたかった」
空気が凍る。
「意味わかんねえよ……」
鮎川が呟く。
僕は視線を落とす。
「毎日、揃えてた。誰にも気づかれないように」
整えることで、繋がっている気がした。
でも足りなかった。だから。
「白いクリームを持ってきた」
告白は、驚くほど静かだった。
「放課後、誰もいない隙に」
江川が一歩下がる。
その距離が、現実を突きつける。
「……気持ち悪い」
その言葉が、胸を刺す。
当然だ。自分でも分かっている。
僕は目を閉じる。
「ごめん」
謝罪は、あまりに軽い。
外は暗くなり、教室は、蛍光灯の光で照らされていた。
当日中に、終わった。白い痕跡は消えた。だが、残ったものは消えない。放課後は、静かに終わる。僕たちの関係も。
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