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ミステリー短編集  作者: 倉木元貴


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生クリーム事件 第2話

 放課後の水道は、思ったよりも静かだった。

 蛇口をひねると、金属音がやけに大きく響く。

 僕は江川の靴を水にさらしながら、横目で三人を観察していた。

 白い塊は水に触れた瞬間、柔らかく崩れた。甘い匂いが、はっきりと立ちのぼる。


「やっぱり甘いよね」


 江川が小さく言う。鮎川が顔をしかめた。


「ほんとだ……」


 浜井が視線を落とす。


「だから、俺のパンの匂いだって」


 中村が淡々と口を開いた。


「でも浜井、パンは教室で食べてたよね?」


 空気が止まる。


「……は?」


「五時間目終わったあと、窓際で食べてたじゃないか。クリームパン」


 浜井の喉が、ごくりと鳴った。


「……覚えてない」


「僕は見たよ」


 中村の声は穏やかだが、逃げ道を塞ぐように正確だ。

 僕は蛇口を閉めた。


「浜井、袋は?」


「捨てた」


「どこに?」


「教室のゴミ箱」


 鮎川が即座に言う。


「さっきゴミ捨てたけど、そんなのなかったぞ」


 浜井の顔色が、さらに白くなる。


「……じゃあ誰かが捨てたんだろ」


 苦しい。

 だが、ここで決めつけるのは早い。


「五時間目と六時間目の間、誰かが靴箱に来てる」


 僕は言った。


「証言が揃いすぎてるのが逆に不自然だ」


 三人がこちらを見る。


「揃いすぎてる?」


「全員“来ていない”って即答した」


 普通なら少し考えるはずだ。記憶を探る時間がある。

 でも彼らは迷わなかった。用意された答えみたいに。


 水滴が、ぽたりと落ちる。

 江川が言う。


「もしかして、誰かがかばってるとか?」


 その一言で、空気が変わった。

 つまり、犯人は一人で、他の誰かが守っている可能性。

 鮎川が浜井を見た。


「お前、なんか隠してね?」


「してない!」


 即答。早すぎる。

 僕は靴をタオルで拭きながら、ふと違和感に気づいた。


 白い塊は、靴の“側面”に付いていた。もし投げたのなら、もっと散るはずだ。


 あれは——。


「置いたんだ」


 思わず呟く。


「え?」


 江川が振り向く。


「投げたんじゃない。わざわざ、横に塗るみたいに付けてる」


 丁寧に、狙いを定めて。

 浜井の肩がびくりと揺れた。


「……偶然かも」


「偶然であんな付け方はしない」


 中村が冷静に言う。

 鮎川が腕を組む。


「じゃあ、わざわざ触ったってことか」


 つまり、江川の靴に直接。

 ぞくりとする。

 これは単なる悪ふざけじゃない。個人的な感情がある。


 僕は三人を順番に見た。


 誰が、そんなことをする理由がある?

 そのとき、ふいに中村が僕を見た。


「学級委員。君は五時間目と六時間目の間、どこにいた?」


 心臓が、一瞬止まる。


「……教室」


「誰か見てた?」


 静かな追及。

 鮎川が顔を上げる。


「そういえば、お前、途中で出てなかったか?」


 空気が、反転する。

 疑いの矢印が、ゆっくりとこちらへ向く。

 僕は喉を鳴らした。


「トイレに行っただけだ」


「何分くらい?」


「……覚えてない」


 自分の声が、少し硬い。

 浜井が小さく呟いた。


「じゃあ、お前も来てないって言い切れないじゃん」


 視線が刺さる。

 僕は笑った。


「だから言ってるだろ。証言が揃いすぎてる」


 自分も、その中に含まれている。


 夕日がさらに赤くなる。事件は、単純ではない。むしろ、誰もが少しずつ怪しい。

 江川が不安そうに僕を見る。


 その視線が、胸の奥をかすめた。僕は視線を逸らす。


「……一度、場所を変えよう」


 靴を持ち、歩き出す。背後で四人の足音が重なる。疑いは、均等に広がり始めていた。場所を変えたのは、空き教室だった。カーテンが半分閉じられ、室内は薄暗い。机を円に並べる。まるで即席の裁判だ。


「整理しよう」


 僕は立ったまま言う。


「犯行は五時間目か六時間目の間」


「凶器はクリーム状の甘いもの」


「置かれた形跡がある」


 鮎川が言う。


「で、動機は?」


 それが一番難しい。


 江川は特別目立つタイプではない。敵を作る性格でもない。


 浜井が小声で言う。


「最近……ちょっと揉めてたけど」


 全員が彼を見る。


「誰と?」


「……中村」


 空気が凍る。


「なんの話?」


 中村の声は静かだが、温度が下がった。


「文化祭の実行委員の件。江川が推薦されたじゃん」


 ああ、と鮎川が頷く。


「中村も候補だったな」


 中村は淡々と答える。


「別に根に持ってないよ」


「でも悔しかったろ?」


 浜井が言う。


「推薦理由、“気配りができるから”って言われてたし」


 沈黙。


 中村の視線が、ゆっくりと江川へ向く。


「それは事実だよ」


 柔らかい声。だが、その奥に何かがある。

 僕は口を挟んだ。


「動機があっても、証拠がない」


 感情だけでは決められない。

 鮎川が言う。


「じゃあ物証だ。誰か、手、見せろ」


 一瞬、誰も動かない。


 だが結局、全員が手を差し出す。もちろん僕も。指先。爪の間。白いものはない。


 浜井が言う。


「ほら、ないじゃん」


 中村が淡々と返す。


「洗えば落ちる」


 その通りだ。

 完全な証拠にはならない。

 そのとき、江川がぽつりと言った。


「……私の靴、いつも揃えてくれてたよね」


 全員が彼女を見る。


「え?」


「靴箱。ぐちゃぐちゃのとき、誰かが揃えてくれてた」


 僕の心臓が強く鳴る。


「それ、学級委員じゃないの?」


 鮎川が言う。

 江川は首を振る。


「違う。委員になる前から」


 視線が、ゆっくりと巡る。揃える癖。気づいてしまう性格。僕は無意識に、机の端を整えていた。

 カタン、と小さな音がする。

 中村が、わずかに目を細めた。


「面白いね」


 ぽつりと呟く。


「誰が一番、靴に触れる機会があったか」


 空気が、ひやりと冷える。

 僕は笑った。


「推理ごっこはやめよう」


 声が少しだけ硬い。


「まだ何も決まってない」


 江川が不安そうに言う。


「もうやめない?」


 限界だった。疑いが循環しすぎている。

 僕は深く息を吸う。


「今日はここまでにしよう」


 全員が立ち上がる。椅子が床を擦る音が、やけに大きい。扉を開けると、廊下はすでに薄暗かった。影が長く伸びる。誰も何も言わないまま、解散した。最後に残ったのは、僕と江川だけ。


「ごめんね」


 彼女が言う。


「巻き込んじゃって」


「気にしなくていい」


 僕は笑う。本当に?


 胸の奥で、何かがざわつく。白い痕跡は消えた。けれど、疑いは消えていない。むしろ、形を変えて広がっている。


 そして僕は——


 ほんの少しだけ、ほっとしている自分に気づいた。


 まだ、誰も決定的ではない。まだ、僕は疑われきっていない。

 窓の外は、完全に夕闇に沈んでいた。

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