電話が鳴る 第17話
透は、しばらく携帯を見つめていた。
着信表示は間違いなく──榊原透。
自分の名前だった。
「出ないで」
零が言った。
その声には、今までにない切迫感があった。
「出たら、どうなる?」
「去年と同じになる」
「去年と同じこと?」
零は答えなかった。
代わりに澪が言った。
「出てください」
透が振り向く。
「澪?」
「今度は、逃げないで。ちゃんと話をつけて」
その言葉に押されるように、透は通話ボタンを押した。
『もしもし』
自分の声だった。
だが、今の声より少し若い。
『透。聞こえてる?』
「ああ」
『よかった』
電話の向こうで、雨の音がしている。
『今から言うことを、絶対に信じないで』
「……何?」
『三枝も、澪も、零も』
一瞬、雑音が入った。
『全部、本物だ』
透は眉を寄せた。
『でも、全部が同時に存在しているわけじゃない』
「どういう意味だ?」
『十一月六日に起きたのは、殺人じゃない』
透は息を呑んだ。
『交換だ』
「交換?」
『一人の人間の記憶を、別の人間へ移した』
そこで電話が途切れた。それと同時に、駅の時計が十九時三十三分を示す。
零が小さく息を吐いた。
「間に合わなかった」
「何が?」
「去年は、ここでお兄ちゃんが電話を切った」
「じゃあ今回は?」
零は透を見た。
「まだ切ってない」
透は携帯を耳から離した。
通話は終わっている。
なのに、画面には通話時間が表示されたままだ。
00:09:00
ちょうど九分。
十九時二十三分から十九時三十二分まで。透はそこで、ようやく気づいた。今までずっと、九分間だけ何かがおかしかったのではない。
逆だった──九分間だけが、正常だったのだ。
「……三枝」
「はい」
「十九時二十三分に死んだっていうのは、嘘だったんだな」
三枝は答えない。
「澪が十九時三十二分に死んだというのも」
澪も答えなかった。
透は二人を見た。そして零を見る。
「お前たちは、死んだんじゃない」
三枝が静かに目を閉じた。
「そうです」
「記憶を渡した」
「はい」
「誰に?」
三枝が指を上げた。
その指先は、透を示していた。
「あなたに」
透の心臓が、大きな音を立てた。
だが零が首を振る。
「違うよ」
三枝が振り返る。
零は静かに言った。
「お兄ちゃんが受け取ったんじゃない」
そして透の胸を指差した。
「お兄ちゃんの中にいた人が、受け取ったの」
その瞬間。透の頭の中で、知らない記憶が開いた。
白い病室にあるベッド。そこで眠る自分。
そこにいる「透」は、ベッドに横たわっていた。目を開けたばかりの人間のように、何も分からない顔をしている。
その横で、澪が泣いていた。
「……透さん」
ベッドの上の男が、ゆっくり顔を向ける。
「俺は……誰?」
澪は答えられなかった。
代わりに、三枝が口を開いた。
「榊原透です」
「……そうか」
男は自分の手を見る。
そして、不思議そうに笑った。
「じゃあ、俺は生きてるんだな」
その言葉に、澪が泣き崩れた。
透はその光景を見ながら、ようやく理解した。
これは記憶だった。自分が忘れていた記憶。
そして同時に──自分が「生まれた」瞬間の記憶だった。
「でも……俺は、ここにいる」
現在の自分が呟く。
すると、病室の映像の中で三枝が首を振った。
「違います」
「何が?」
「そこにいるのは、あなたではありません」
「……じゃあ誰だ?」
三枝はベッドの男を見た。
「記憶です」
透は息を呑んだ。
「記憶?」
「榊原透という人間が持っていた記憶を、ひとつの人格として再構成したものです」
病室の男が立ち上がり、鏡の前に立つ。そこに映った顔は、透自身だった。
「人間じゃないのか?」
「人間です」
三枝は言った。
「ただし、あなたとは別の人間です」
その瞬間、記憶の中の「透」が振り返った。
まるで現在の透を見ているように。
『俺は、俺だ』
その声が響く。
『たとえ、誰かからもらった記憶でも』
透の胸が痛んだ。
そうだった。自分はずっと、「本物の榊原透」を探していた。
けれど、本物とは何なのだろう。記憶か、身体か、名前か。それとも、自分が自分だと思っていることか。
「……零」
透が少女を見る。
「お前は何を知ってる?」
零は少し迷ってから答えた。
「お兄ちゃんは、十一月六日に死んだ」
やはり、その言葉だった。
だが今度は続きがあった。
「でも、死んだのは身体じゃない」
「じゃあ何が?」
「お兄ちゃんが、『榊原透であること』をやめたの」
透は黙った。
「それで、お兄ちゃんは自分の記憶を三人に分けた」
零は指を一本ずつ立てる。
「三枝さんに、一部。澪お姉ちゃんに、一部。。そして、私に一部」
最後に、自分を指した。
「残った記憶を、ひとつの人間にした」
透の背筋に寒気が走る。
「それが……俺?」
「うん」
零は頷いた。
「だから、お兄ちゃんは死んだ」
「そして私は──」
零は少しだけ笑った。
「お兄ちゃんが生き続けるための、最後の記憶だった」
その瞬間、駅の放送が鳴った。
『記憶統合を開始します』
無機質な声。
『対象者──榊原透』
そして、最後に。
『不要となった記憶を、消去します』
透の目の前で、澪の姿が薄れ始めた。
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