生クリーム事件 第1話
放課後の校舎は、昼間よりも音がよく響く。
廊下の端で誰かが笑えば、その残響が窓ガラスに跳ね返る。運動部の掛け声は遠くからでも聞こえるし、吹奏楽部のチューニングはいつも少しだけ不安定だ。
その日も、特別なことは何もないはずだった。
十六時三十五分。
僕は靴箱の前で立ち止まり、乱れた上履きを揃えていた。右と左が逆になっているもの、かかとが潰れているもの、半分だけはみ出しているもの。気づいてしまうと直さずにはいられない。
学級委員だから、という理由にしているけれど、本当はただ落ち着かないだけだ。
そのとき、甲高い悲鳴が校舎の奥から跳ねてきた。
「なにこれ……っ!」
反射的に顔を上げる。声はすぐ近く、の靴箱のほうからだ。
数人の生徒がざわつきながら集まっていく。その輪の中心にいたのは、江川陽葵だった。
彼女は片手に運動靴を持ち、もう片方の手を空中で止めている。白いものが、べったりと靴の側面に付着していた。
粘り気のある、柔らかそうな塊。床にも少し落ちている。
「誰……?」
江川の声は震えていた。怒りよりも、困惑のほうが強い。
近くにいたのは三人。
一組の中村悠俉、鮎川拓也。そして二組の浜井竜臣。
僕は自然に輪の中へ入った。
「ちょっと見せて」
江川が差し出した靴を受け取る。触れないよう、慎重に底を持つ。白いものは、思ったより厚みがあった。指で押せば簡単に形が崩れそうだ。
「ひどくない? 今日履いて帰るつもりだったのに……」
江川が唇を噛む。
周囲の視線が三人に集まる。偶然とはいえ、その場にいたのは彼らだけだ。
「俺じゃないって」
鮎川が真っ先に口を開いた。面倒ごとが嫌いな顔をしている。
「僕も知らないよ」
中村は冷静に腕を組んでいる。
浜井はというと、なぜかやけに汗をかいていた。
「お、俺も違うって!」
声が裏返る。沈黙が落ちる。
このままでは、ただの言い合いになる。
僕は息を整えた。
「落ち着こう。たぶん、やった人はまだ近くにいる」
全員がこちらを見る。視線を集めるのは慣れている。学級委員という立場は、こういうとき便利だ。
「時間はいつから?」
江川が答える。
「四時間目の体育のときは何もなかった。さっき、帰ろうとして気づいたの」
ならば、犯行は五時間目か六時間目の間。
靴箱は基本的に人の出入りが多い。けれど、放課後直前は意外と死角ができる。
僕は床に落ちた白い塊を見下ろす。
甘い匂いがする気がした。いや、気のせいかもしれない。
「とりあえず、この三人に話を聞こう」
僕が言うと、鮎川が小さく舌打ちした。
「なんで俺たちなんだよ」
「ここにいたから」
単純な理由だ。でも十分だ。
中村はため息をついた。
「合理的ではあるね」
浜井は視線を泳がせている。
江川は靴を抱えたまま立ち尽くしていた。怒るでも泣くでもなく、ただ困っている。
それが妙に胸に刺さる。
「大丈夫。ちゃんと解決する」
思ったより強い声が出た。誰のための言葉か、自分でも分からない。
廊下の窓から西日が差し込み、白い塊がわずかに光った。
形は崩れていない。誰かが意図的に、丁寧に置いたようにも見える。偶然ではない。いたずらにしては、妙に狙いがはっきりしている。
僕は三人を見渡した。
「悪いけど、少しだけ時間をくれ」
逃がさない、という意味を込める。
放課後のざわめきが、遠くで続いている。けれどこの小さな空間だけが、切り取られたように静まり返っていた。
白い痕跡は、まだ乾いていない。それが、やけに生々しく見えた。
靴箱前の空気は、妙に重たかった。
遠くでボールの弾む音がする。階段を駆け下りる足音も聞こえる。けれど、この一角だけが薄い膜に覆われたみたいに、息苦しい。
「順番に聞くよ」
僕は三人を見た。
「まず中村。さっき何してた?」
中村悠俉は、腕に抱えていた紙束を軽く持ち上げた。
「ポスター剥がし。地学部の観測会、もう終わってるから。生徒会に頼まれてさ」
たしかに紙は丸められている。テープの跡も残っていた。
「五時間目と六時間目の間も?」
「教室にいたよ。鮎川も一緒」
視線が鮎川に向く。
「まあな。面談があってさ、終わってから戻ってた」
鮎川拓也はポケットに手を突っ込んだまま答える。投げやりだが、目は逸らしていない。
「浜井は?」
浜井竜臣がびくりと肩を揺らした。
「お、俺は……六時間目、体育だったから。少し早めに体育館行った」
「何時ごろ?」
「……十分前くらい?」
曖昧だ。
しかも、彼はやけに落ち着きがない。額の汗を何度も拭っている。
「なんでそんなに汗かいてる?」
「べ、別に!」
声がひっくり返る。
疑いの視線が自然と集まる。
江川が小さく言った。
「さっき、甘い匂いしなかった?」
全員が床を見る。白い塊はまだ形を保っている。
鮎川が眉をひそめた。
「……するか? 俺、わかんね」
「僕も特には」
中村は首を振る。
浜井は一瞬だけ、視線を逸らした。
「俺、さっきパン食ってたから……それかも」
空気が一瞬で固まる。
「パン?」
「クリームパン」
やっぱり、と誰かが小さく呟いた。
「だから違うって! 捨てるくらいなら自分で食べる!」
必死だ。だが、タイミングが悪すぎる。
僕はしゃがみ込み、床に落ちた小さな欠片を見つめた。
柔らかい。粘度がある。時間はそれほど経っていないはずだ。
「四時間目のときは何もなかったんだよね」
江川が頷く。
「うん。体育終わって、そのまま教室戻ったし」
ならば、犯行時間はかなり絞られる。
五時間目か、六時間目の間。
この三人のうち、少なくとも一人はその時間にここへ来ている。
もしくは——。
「監視カメラ、あったっけ」
鮎川が天井を見上げる。
ない。あるのは職員室前だけだ。
「……とにかく、整理しよう」
僕は立ち上がった。
「五時間目と六時間目の間、ここに来た人は?」
三人は顔を見合わせる。
「俺は来てない」
「僕も」
「俺もだって!」
全員否定。当然だ。
江川が俯く。
「なんで私だけ……」
その言葉が、思ったよりも刺さった。
狙われた。偶然ではない。白い塊は、ただ投げつけられた感じではなかった。丁寧に、置かれていた。
僕は無意識に、隣の靴を揃えていた。少しだけ前に出ていたつま先を、奥へ押し込む。
視界の端で、中村がそれに気づいた気がした。
「学級委員」
鮎川が言う。
「どうすんの?」
全員の視線が、また集まる。決めなければならない。
「今日は解散しない」
静かに言った。
「放課後、もう少しだけ話を聞く。時間は取らせない」
浜井が青ざめる。
「まだやるのかよ……」
「ちゃんと整理したいだけだ」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
西日がさらに傾く。影が長く伸びる。白い痕跡は、まだ消えていない。乾く前に、答えを出さなければならない。
「……わかった」
中村が頷いた。鮎川も肩をすくめる。浜井は渋々という顔だ。
江川が僕を見た。
「ありがとう」
その一言で、胸の奥がざわつく。
ありがとう、と言われる資格があるのか。そんな考えを振り払う。
「とりあえず靴は洗おう。水道、空いてるはず」
僕は靴を受け取り、歩き出した。
背後で、三人の足音が続く。放課後の光の中、白い塊は少しずつ形を崩し始めていた。
事件は、まだ始まったばかりだ。
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