次元E:その子は破滅のエンジンを愛していた。
木の葉のように小さな手が破滅の力を秘めた赤銅色の金属、《小走り破滅エンジン/Scuttling Doom Engine》を、てしてし、ててし、と軽く叩いて言った。
「コバちゃん、行って、行って」
鈴の音のように軽やかで、5月の風のように穏やかで、遠くから聞こえてくる祭の音のように楽しげな、少女の声が言う。
「ミ゙!」
すると、鉄線をこすり合わせるように耳障りで、とうてい生物とは思えない声が答え、音が響き――。
10トントラックほどもある巨体が、軽やかな小走りを始める。
巨体はさながら、悪夢の機械甲殻類。赤銅色の野太い金属線で編み上げられた体躯は、蟹と蜘蛛と屑鉄置場の合いの子といった風。10m近い菱形の胴体は左右から突き出た計6本の、5mほどの脚に支えられている。だがどれだけ脚がわしゃわしゃと蠢き、脚の先端の、毒々しいエメラルドグリーンに染まった巨大な一本爪をアスファルト、コンクリートに突き刺し、人から距離をとる猫のような小走りで走ったとしても、胴体は、ちっとも揺れなかった。
だから、ぎょろり、と突き出た蟹のような目玉の根元を握る少女はまるで、新幹線に乗っているように移り変わっていく周囲の風景を存分に楽しめたし、体中をさわさわとくすぐる、軽やかな風の感触に心から、ゴキゲンになれた。短めにくくった2つくくりの髪と、白いブラウスの紐リボンと一緒にぱたぱたはためき、赤いジャンパースカートの裾もふわふわ揺れる。
倒壊したビルを乗り越え、燃え朽ちた車を踏みつぶし、がしゃがしゃ、めきめき、ばきばきん、ぶるるんぶるるん、工事現場もかくやという騒々しい音をたてながら2人は――1人と1体は、進む。
「んー、コバちゃん、止まって、止まって」
てしてし、ててっし。
少女の手が《小走り破滅エンジン/Scuttling Doom Engine》を、優しく叩く。
「ミ゙ッ!」
略奪されきった自動販売機に爪先を突き刺し、破滅の力を秘めたエンジンは止まった。途端、それまでとは打って変わった静寂が辺りを包む。
かつて大戦争が吹き荒れた街に、もう、動く者はいない。
すぐ近くを走る鉄道の高架は上空から降ってきた巨岩に押し潰され、ひしゃげ落ち、十数台の車を巻き込みながら崩壊している。巨岩はよく見れば人の拳の形をしていた。さながら、怒れる巨人がかんしゃくの拳を落としたかのようだった。道路には乗り捨てられた車が目立ち、砕けたフロントガラスから降り注いだ雨を糧に、シートでそれなりの生態系が生まれていた。ステアリングから芽吹いた青白い草は乳白色の光を開きっぱなしのダッシュボードに投げかけ、シートに溜まった水の中を優雅なバタ足で泳ぐ手のひらサイズの魚人も照らす。
通りを歩く人間は誰もいない。
駅前らしい通りはかつて、それなりに栄えていたのだろうが、今はただ、剥き出しの傷口のように、こじ開けられたシャッターと踏みにじられた商品を晒している。だが、中に誰もいない、という点では建物の中も外もあまり変わらない。もっともあの大戦争から十数年の歳月は、あらゆる建造物に年月を降り積もらせ、その重みによって、建物の中と外、という概念自体を崩壊させていたが。
そんな景色を、少女はきらきらした目で見つめる。
廃虚の街は、不思議に満ちている。
こじ開けられたシャッターはよく見れば、こじ開けられたのではなかった。シャッターの一部がどうしてか、透明なプラスチックと混ざり合って、溶けてねじれていた。踏みにじられている商品も、イラストや宣伝文句が袋や箱から飛び出し、宙にはみ出て、風に吹かれて、ぴらぴら揺れている。「も」の文字が年月に絶えかねたのか、ぷちりとちぎれ、砕かれたアスファルトの上を転がっていく。
やがて「も」は隣のカフェのオープン席、パラソルの支柱に当たって止まり、ぱたん、と転げて動かなくなる。パラソルも不思議だった。赤と黒のシックな色合いだったのだろう傘の部分は、その赤と黒が数秒おきに入れ替わり、点滅している。点滅の速度は一定で、まるでパラソル自体が回転しているようにも見えるが、パラソルの縁から垂れている金色の房は微動だにしない。下のテーブルではチョコレートムースケーキがぴょんぴょんと跳ね回り、どこかからこぼれてたどり着いたらしき、棒の手足が生えたコーヒー豆を追い回していた。ケーキに追われ、コーヒー豆がテーブルから飛び降りる。椅子にスーパーヒーロー着地を決め、もし顔があったらニヤリと不敵に笑っていただろう態度で、テーブルのムースケーキを見上げる。だがその背後から、音もなく忍び寄った銀のスプーンが大口を開け、彼を(なんだか男性に見えた)一呑みにしてしまう。スプーンは銀色にきらきら光って空を飛び、チョコレートムースケーキの元へ飛んでいく。だが、魔法の絨毯のように体をくねらせ飛んできた旧千円札がスプーンをさらって、空に舞う。ほくそ笑む野口英世に抱かれたスプーンはしばらく、じたばたと身をくねらせていたけれど、やがて諦めて鳥の巣の中に入れられた。
そんな光景を太陽が照らしている。
緑色に揺らめくオーロラ越しに。
豪奢なレースカーテンのように空ではためいている緑のオーロラは、あの大戦争からずっと、朝も夜も空で揺らめき続けていて消える気配はない。それどころか徐々に、大きくなっている気もする。太陽の光にも、月の光にも、星の光にさえも、どこか神秘的で、淡い、薄緑色を忍ばせる。それに照らされた地球はおとぎ話に包まれているようで、どれだけ見ていても飽きないし、どれだけ見ていても新たな何かが見つかる。缶ジュースが群をなして道ばたに落ちているニット帽や片方だけの手袋をどこかへ運んでいるところとか、芋虫のようにくねって動くバッタが、話し好きのアリたちの井戸端会議に捕まって、少し辟易しているところとか。
旅を続けている少女だけれど、その足取りはのろのろと、進んでは立ち止まってを繰り返していた。不思議の数々は本当に不思議で、きれいで、面白くて、見惚れてしまう。まあ急ぐ旅ではないからいいのだけれど。
不思議な力が空から降ってきて、人から出てきて、つまんないアスファルトやつまんない建物やつまんない人を、不思議の王国の不思議の人たちに変えてしまった。
その景色はキレイだった。ステキだった。おかしかった。おもしろかった。いつまで見ていても飽きなかった。何より、綺麗な光景にどれだけ見惚れていても、だぁれも注意してこないし、ちょっと探せばお話できるキャンディやグミや、ケーキが、僕を食べて、食べて、と言ってくる。日曜朝のアニメだって、図書館の子どもコーナーの絵本だってこうはいかない。けど探せばきっと、ゾロリもおしり探偵もどこかにいるに違いない。イシシとノシシは臭そうだからあまり会いたくないけど、でも、こういう状況では頼りになるかも。
辺りの景色をしばらく眺め、満足げに、むふー、と鼻から息を漏らす少女。肩にかけた、小さな体に似合わない茶色い革の肩掛けバッグを下ろす。少女の上半身をすっぽり、半分は隠してしまうほどの大人用サイズの鞄は、小さな手では掴みきれなくて、ぽろり、胴体から地面に落ちていってしまい――
「ミ゙ミ゙ミ゙ッ!」
不吉な声と共に脚の1本がやすやす、それを受け止める。文字通り頭上の少女の元に、ゆっくりそれを差し出す。少女は驚いた顔から一転、喜色満面。
「いい子~~~! コバちゃんいい子ありがと~~~!」
ちゅ、ちゅっ、ちゅっ!
漫画のように突き出た、ぎょろりとした金属の目にキスの雨を降らせると、むずがゆいのか、破滅を秘めた金属の巨体はわずかに、ゆさり、胴を揺らす。
少女はしばらく、巨体の頭を撫でてやっていたが、やがてリュックから一冊のバインダーとスケッチブック、それから鉛筆を取り出した。
「ねえねえコバちゃん、お友達、ほしい?」
少女が問いかけるが、今度は答がなかった。だが気にした様子はなく、スケッチブックとバインダーを広げ巨体の背に置く。
「んふふ、お友達、欲しいよね~」
さら、さらら、さらさらさららら……
少女は無意味な言葉を歌うように連ねながら、踊るように、スケッチブックの上に鉛筆を滑らせていく。視線は、バインダーの方に向けながら。
バインダーの中も、周囲の光景に負けず劣らずだった。不思議の国だった。おとぎ話の夢の王国だった。きらきら輝くカードは見ているだけで胸がわくわくしたし、1枚1枚、お父さんとの大切な思い出が詰まっている。
家もちょきんってできそうな、大きなハサミ。
山より大きい兵隊さんの像。
鉄でできたドラゴンに、強そうないもむし。
そして1番好きなのは、コバちゃん!
『これは《小走り破滅エンジン/Scuttling Doom Engine》って言ってなあ、良いヤツなんだぜ』
頭の中でお父さんの声がして、自然と頬が緩んだ。
『こばしりって、なあに?』
『小走りは…………なんだろうな、ちょろ、っと走ること?』
『はめつ、は?』
『みんな終わりだぁ~~ってこと』
『えんじん?』
『おっきなものを動かす……道具?』
『ちょろっと走る、みんな終わりだぁ〜の、おっきなモノを動かす道具? お父さんそんなの好きなの?』
『そんなのとか言うなよ、お父さんはこいつにだいぶ助けられたんだ』
『うそぉ』
『ホントさ! あと一撃でも食らったら終わる、死んでしまう、でももう、使える手は何もない、そんな絶対絶命のピンチに』
『ぜったいぜつめいってなぁに?』
『……あー、やばいってこと? 節分の鬼が大勢来て、家の隅に、おいつめられちゃった時、みたいな?』
『ぶーーーー! ぶーーーーー!』
『そう、まさにそんな時! こいつが助けてくれるのさ!』
『そーなの?』
『そーさ、ロクロクのどっしりボディに、死亡時6点飛ばすというバカみたいな力! 見てごらんよ、結構愛嬌ある顔してるだろ』
『カニみたい! カニカニ!』
『何より名前がいいね、小走り破滅エンジン』
『こば、こばり、こばる……こば! コバちゃん!』
『あはは、小林かよ』
けど、そんなことを思い出しながら手を動かしてると、お父さんがもういない、と思い出す。すると、ぱたり、手が止まってしまう。
「ミ゙ッ!」
いつの間にかコバちゃんの脚が伸びて、爪の先端を少女の前に差し出していた。手が止まっていたことに気付いて、ぷるるる、と唇を鳴らす。
お父さんがいないのはさみしいけれど、コバちゃんがいる。お父さんが特別にくれた、マジックで、私が好きって言ったカードがたくさん入ってるバインダーもあるから、私は大丈夫。もうお姉さんだし。
「ん。描くね、お友達、んふふ、待っててね、コバちゃん、いい子、いい子」
爪先をつんつん、つついてやって、スケッチブックにまた戻る。小一時間もすると、A4サイズのスケッチブック一杯に、それができあがる。
「できた!」
少女が嬉しそうに叫ぶと、それが起こる。
少女の手によるものとは思えないほど精緻に描かれた絵が、徐々に、徐々に、紙から宙にしみ出していく。コーヒーにミルクを落としたように、鉛筆の線が大気に滲み出ていく。紙の上から大気の中へ逃れた線はぐるぐると渦巻き、回転を始め、その速度を速めていく。摩訶不思議なその光景を見上げ、少女は両手を組み、目を閉じる。
かみさま。私はいい子です。
お父さんの言いつけを、ちゃんと守ってます。
コバちゃんと一緒に、しっかり生きてます。
だから、コバちゃんにお友達を、作ってあげてください。
お願いします。
その祈りは特に、どんな神にも届きはしなかった。けれど組み合わされた少女の小さな手から、妖精の粉じみた不思議な光が漏れ――やがて――
宙でとぐろを巻いていた線がその光に照らされると、不思議なことが起きた。絡みあっていた黒い線が、ぱぁん、と花火のような音を立て広がっていく。うねり、這い回り、枝分かれし、まるで妖精が空中に落書きでもしているかのような様を見せ――そして、形となった。
「ワ"ッ!」
古代の金属で神が編んだ鋼鉄の蚯蚓――とでも言うべき巨大な体躯を振るわせ、それが叫んだ。破滅のエンジンに負けず劣らずの、不吉な声だった。だが、少女はその声を聞いて、飛び上がって手を叩いて大喜びした。
ぴかぴかに光る長い体。
1枚1枚が金属でできた精緻な鱗の中から、白に近い緑の光が漏れていて、周囲に不可思議な光を投げかけている。その光は、口の中で光る目の色と同じ。口の中にあるものが本当に目なのかどうかはよくわからなかったけれど、少なくとも少女はそう思った。
巨大な体は一切の鈍重さを感じさせず、しゅるしゅる、スムーズに、紐をゆらゆらさせるみたいに自然に動く。廃虚のコンクリートを綿埃みたいに吹き飛ばして、自分の行きたい場所に、自分の行きたい時に行く。体全体が、そんな主張をしている。
20メートルに及ぶ長大な体躯で、あちこちの廃虚にとどめの一撃を加えながらとぐろを巻き、轟音を響かせ、ヘビのように渦となって、頭部を少女に合わせる。睡蓮の花のように重ね合う金属片が、がしゃり、がしゃり、と音を立てて開き、中で輝く緑色の光が少女を見つめ、自らの生誕を感謝するかのように、ぴこん、ぴこん、ぴこぴこん、数度、またたいた。それを見て少女はまた、喜びを爆発させる。
「やった! できた! できたよコバちゃん! 私の《ワームとぐろエンジン/Wurmcoil Engine》!」
「…………ミ゙ッ」
少女が叫ぶが、破滅のエンジンはどこか、不満げな声だった。
「…………嬉しくないの、コバちゃん?」
「……ミ゙ッ」
「なんでー?」
「ミ゙ッ!」
「お友達だよ、コバちゃん」
「ミ゙ミ゙ッ、ミ゙ッミ゙ッ」
破滅のエンジンがそうして不満そうにしていると、とぐろのエンジンも不満そうに声を漏らした。
「ワ"ッ!」
「ミ゙ミ゙ミ゙ミ゙ッミ゙ッ!」
「ワ"ワ"ッ! ワ"ッワ"ッ!」
「ミ゙ー! ミ゙ミ゙ーッ!」
2体の声が大きくなり始めたところで、少女の声が響く。
「こら! 仲良くしなさい!」
すると――2体ともはじかれたように、しゅん、と大人しくなり、ちらちら、気まずそうに互いを見つめた。とぐろのエンジンは内部から漏れる光の輝度を落とし、もたげた鎌首をしなだれさせ、破滅のエンジンはかちゃかちゃ、貧乏揺すりのように爪を鳴らす。だがやがて、互いに視線を絡ませあい――破滅のエンジンが持ち上げた1本の足先に、しゅるり、とぐろのエンジンが尻尾を触れさせた。
「よくできました! あなたはねー……えーと……トグちゃん!」
少女の名付けに満足したのか、それとも破滅のエンジンなどにかまっていられないと思ったのか、とぐろのエンジンはぶるるっ、と体を震わせ、尻尾の先を優しく、少女の前に突き出す。よくできました、という風にその尻尾を少女が撫でてやると、内部から漏れる緑の光が明滅した。
「よーし! じゃあ、みんなで出発ー! 目的はおじいちゃんち!」
「ワ"ッ!」
「ミ゙ッ!」
やがて少女は、再び歩み始める。
すべての人類に突如目覚めた異能によって崩壊した世界は、これから先しばらくはまだ、復興の兆しはないままだ。だが、少女が2体のエンジンに友達を作っていけばやがて、不思議ではない自然が芽吹くだろう。
バインダーの最後のページ、最後のポケットに入れられている《世界のるつぼ/Crucible of Worlds》を、少女がスケッチブックに記した時、世界に再び、灯がともる。
だがそれまでは、廃虚の街に、1人と2体の声が響くばかり。
「すすめすすめー!」
「ミ゙ーミ゙ッ!」
「ワ"ワ"ーッ!」
〈了〉