百二十四話 宵を待つ星屑
社交は春に始まり、秋に終わる。その最後を飾る大舞踏会は大公家の主催であり、国事にも等しい。テオバルトの婚約者として出席する以上、それ相応の準備が必要だった。
今日はその打ち合わせのため、オフィーリアは仕立て屋を訪れていた。流行の最先端でありながら格式と伝統を重んじるメゾン・ヴァイスリリー。完成間近だというドレスを見せてもらったが、想像以上の出来栄えだった。今日は最後の微調整を終えて、あとは仕上がりを待つばかり。
新しいドレスを仕立てるのは、いつでも心が弾む。しかしそれ以上にオフィーリアを浮き足立たせることがある。それこそ、大舞踏会でテオバルトと踊れることだった。
屋敷での練習には何度か付き合ってもらったが、正式な場で踊ったことはまだない。彼の手を取って、音楽に合わせて——想像するだけで、胸の高鳴りを抑えられない。
応接室を出ながら、オフィーリアはこっそりと溜め息を零した。こんなところで一人浮かれていても仕方がない。今日はまだ、大切な用事が残っている。
秋の日差しの中、次いで向かったのは宝飾店。大舞踏会に向けて、こちらも一揃え新調する予定だった。ドレス同様、意匠の最終確認をするのみだ。
話が一段落すると、店主が「よろしければ」と新しい入荷品を見せてくれた。商売上手なことだと思いながらも、並べられた品々はどれも美しく、つい目を奪われてしまう。
その中のひとつに、自然と目が留まった。夜の闇を切り取ったような、黒い宝石。
「こちらは先日エステリエから届いたばかりの石を使っております。この深い色合いで、ここまで大きいものはとても希少なんです」
店主は自慢げに言う。確かに美しい石だった。深い黒の中に、光を受けて銀色の星のような輝きが浮かび上がる。
あの国の、限られた地域でしか採掘されないものだ。特に質の良いものは王家に献上されることもある。——そこまで考えて、オフィーリアはその感情に蓋をした。
「とても素敵ですね。でも……私はもう少し明るい色が好きなんです」
歌姫と呼ばれていたあの頃も、人前に立つ時は美しく着飾っていた。ただそれは舞台衣装として用意されたものを身につけるだけで、自分で何かを選んだことはなかったような気がする。
しかし今は違う。左手の指輪を撫でると、石の冷たさとは裏腹に、温かなものが胸に広がった。
打ち合わせを終えて宝飾店を出ようとした時、ふとディルクの様子が気になってオフィーリアは足を止めた。いつになく彼がどこか落ち着きなく視線を巡らせていることには気付いていた。少し観察してみると、どうやら飾り棚に並べられた商品へ視線を向けている。
「ランフェルト卿。何か、気になるものでもありましたか?」
「……いえ、なんでもありません。仕事中に失礼いたしました」
オフィーリアの声掛けにディルクは瞠目し、生真面目そうな返事を寄越してくる。
しかし婚約したばかりの男性が女性用の宝飾品を見ているのであれば、その理由はひとつだろう。
「少しくらい見ても構いませんよ。レティシア様への贈り物ですか?」
ゔ、とディルクが言葉に詰まる。そんな反応をどこか可愛らしいとも思った。
慣れてきたら普通に話せるとレオニーが言っていた通り、彼は本当に人見知りと口下手の気があるらしい。顔を合わせるうち、少しずつではあるが会話が続くようになってきた。
自分のことこそあまり語らないものの、レティシアの話題になると、その生真面目そうな顔がわずかに緩む。
「……何か記念になるものがあればと、考えてはおりました」
「ご婚約されたばかりですものね」
「一人ではなかなか、こうした店には入りづらいもので、つい」
ディルクもレティシアと大舞踏会に出席する予定だと聞いている。今頃はレティシアも準備に忙しいことだろう。
「楽しみですね」と言えば、ディルクは無言で頷く。ただその耳先がほんのりと赤い。
無邪気でお喋りなレティシアと、寡黙で生真面目なディルク。そんな二人は意外と相性が良いのかもしれない。
◇
窓の向こうに広がる空は、あの宝石の奥に見た闇の色によく似ている。
エステリエ王家に代々伝わる黒髪にちなんで、王家への献上品に選ばれてきた石。
華やかな装いの中にひとつだけ落とされた深い黒は、いつも静かに輝いていた。
普段ならとうに休んでいる時刻だったが、今夜はまだ机に向かったままでいる。オフィーリアはペンを持ち直し、改めて手元の紙に目線を落とした。
テオバルトの言うように、確かなことはまだ何もわかっていない。
それでも自分の記憶が何かの手がかりになるかもしれない以上、いつ尋ねられてもすぐに答えられるようにと、少しずつ昔の記憶を整理している。
あの国で歌姫として出席した場は、宮廷行事や式典といった公式なものだけでもそれなりの数だ。非公式な集まりや会食まで含めれば、一通り書き出すだけでも時間がかかる。
宮廷行事であれば出席者は毎回おおよそ決まっており、名簿を辿れば済む。しかし私的な集まりへ急に呼ばれることも多く、誰が何の繋がりで招かれているかもわからないまま歌を求められることも多かった。
それでも顔や服装は覚えている。ただ、それを似顔絵で伝えられるわけでもなく、言葉で特徴を並べるしかないのがもどかしい。
性別、およその年代、髪や瞳の色、黒子や傷痕など特徴の有無——ひとつひとつ書き出していると、控えめな、しかし遠慮のない調子で扉が叩かれた。
「灯りがついていると思ったら……こんな時間まで何をなさっているんですか」
返事を待たず部屋に入ってきたベルナを前に、オフィーリアは紙を引き出しにしまう。そして鍵をかけた。
「少し書き物をしていたの」
「こんな時間にするものではありません」
「ごめんなさい、つい」
言いながら、オフィーリアはオルゴールの蓋を開けた。鍵を収める指先が、傍らに収まった金貨へほんの少し寄り道をする。十年の年月を経ても褪せない輝きに、ほんのわずか目を細める。
「奥様。聴くのは明日になさってください。今日はもうお休みにならないと」
「ベルナの言う通りね。本当に、もう寝るわ」
そんな小言もどこか心地良いのは、こうして自分を気にかけてくれる人がいる日々に慣れてきた証なのかもしれない。
寝台に潜り込むと、先延ばしにしていた眠気が一気に押し寄せてくる。オフィーリアはそっと意識を手放した。




