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百二十五話 花衣の溶ける先

 レーヴェンハースト伯爵家の庭にも秋の兆しが見えている。夏の盛りには濃い緑に覆われていた木々が淡く色づきはじめ、吹き抜ける風もどこか涼やかだ。

 小径の先に佇む白亜のガゼボに目をやると、テオバルトとそこで過ごしたひとときがよみがえる。胸の奥が甘く疼いて、オフィーリアは熱くなった頬をそっと手のひらで覆った。これからテオバルトの実家へ行くのに、浮ついたままではいけない。

 

 屋敷に足を踏み入れると出迎えたのはジークベルトだった。オフィーリアは姿勢を正し、丁寧に礼をとった。


「ご無沙汰しております。わざわざお出迎えくださり、ありがとうございます」

「久しいな。父の招きに応じてくれたこと、感謝する」

「いいえ、私も楽しみにしておりました」


 先に立って歩くジークベルトの背中を追いながら、オフィーリアは何度か訪れたこの屋敷の廊下に目を向ける。

 壁にかけられた絵画は柔らかく褪色し、磨き込まれた調度品には深い艶が宿っている。積み重なった歳月の重みに触れるようで、自然と背筋が伸びた。

 やがて応接室の前に辿り着くと、ジークベルトは扉に手をかけたまま振り返った。


「最近、テオバルトの様子はどうだ」

「お忙しくされてはいますが、いつもと変わらずお元気です」

「そうか。それならいい」


 短いやりとりを終えると、ジークベルトは扉を開けてオフィーリアを中へ促し、そのまま立ち去っていった。

 次いで「よく来てくれたね」という穏やかな声に顔を向ければ、窓辺の椅子からヘルムートが立ち上がるところだった。


「閣下。本日はお招きいただきありがとうございます」

「堅苦しい挨拶はいらないよ。さあ、座りなさい」


 ヘルムートに促され、オフィーリアは向かい合う形で椅子に腰を下ろす。

 これまで顔を合わせる機会は何度もあったが、こうして特別な用もなく招かれるのは初めてのことだった。

 ほどなくして使用人が盆を運んでくる。紅茶と菓子、それから薄紅色の花弁が数枚、菓子の横に添えられていた。


「薔薇の砂糖漬けだよ。そのまま食べてもいいが、私はこうするのが好きでね」

 

 ヘルムートが花弁を紅茶に落とす。オフィーリアもそれに倣い、そっと一枚を取り上げた。紅茶に浮かべると花弁は静かに沈みながら、きらきらした砂糖の衣を解いていく。

 一口飲むと、紅茶の渋みと花の甘さが柔らかく混ざり合い、思わず顔が綻ぶ。


「とても美味しいです。薔薇に、こんなに素敵な楽しみ方があるのですね」

「気に入ってもらえたなら嬉しいよ」

「閣下は薔薇がお好きなのですよね。もう何年も前になりますが、その時にも閣下から同じお話を伺いました」


 あれは両国の貿易条約に関わる交渉のためだった。歓迎の席に呼ばれて歌を披露した時のことをよく覚えている。

 オフィーリアの言葉に、ヘルムートは少し考え込むように口を閉じた。


「……そうだったかな?」

「はい。中庭の薔薇が綺麗に咲いていることをお話ししたら、是非見て帰ろうと仰っていて」

「ああ——そんなこともあったかもしれない。よく覚えているね。確かに見に行ったよ。見事な薔薇だった」


 妻は薔薇が好きでね、とヘルムートは続けた。その視線が窓の向こうに向けられる。美しく整えられた庭はアレクシア夫人の好みが反映されているのだと、以前テオバルトが教えてくれた。

 オフィーリアは肖像画でしか知らない夫人の姿を思い浮かべた。テオバルトと同じ金褐色の髪に琥珀色の瞳をした、美しい人。身体が弱く、あまり領地から出ることがなかったと聞いている。 


「もうすぐ妻の命日でね。この時期になると、つい昔のことを思い出してしまうんだよ」


 ヘルムートが目を細める。瞳の色こそ違えど、大切な人を想うときに浮かぶあの穏やかな眼差しは、テオバルトのそれとあまりにもよく似ていた。

 同じ時間を重ねただけでは生まれない、言葉や仕草を真似て身につくものとも違う、もっと深い繋がり。自分には、知り得ないものだった。


「テオバルト様から、奥様のお話を伺ったことがあります」


 オフィーリアが静かにそう返すと、ヘルムートは意外そうに瞠目した。


「あの子が? どんなことを話していたか、聞いてもいいかい」

「天気の良い日は庭で物語を読み聞かせてもらったり、一番綺麗に咲いたお花を探したり……。盤遊びはなかなかお母様に勝てずに悔しい思いをしたと、楽しそうに話してくださいました」


 最近、テオバルトはよくそうした思い出話をしてくれる。それはまるで、彼の誠実で優しい性格が形作られた軌跡を辿るようで。大切な記憶に触れさせてもらえることがどうしようもなく嬉しい。

 その中でもオフィーリアの胸に残っているのは、幼い少年の健気さが覗くひとつの話だった。


「お母様が午睡されるときにオルゴールの螺子を巻くのが、幼い頃の日課だったと。テオバルト様は昔からお優しい方だったのですね」

「ああ、そのオルゴールは結婚前に私が妻に贈ったものだよ。棺に入れてしまったけどね」


 ヘルムートがどこか懐かしそうに目を細める。

 オフィーリアの脳裏に、テオバルトの言葉がよみがえる。実家にも同じ工房のオルゴールがあったが、今はもう手元にない——あれは、そういう意味だったのだ。

 

 




 この話を書くにあたって薔薇の砂糖漬けを作ってみましたが、私はそのまま食べるほうが好きでした!

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