百二十二話 燃ゆる熾火の熱を知る
書斎の窓から差し込む日差しが午後の深まりと共に少しずつ傾いていく。書類を処理する手は止めないまでも、オフィーリアはもう何度目かわからない溜め息を着いた。
何をしてもそわそわと落ち着かず、時折、胸が痛いほど脈打つ。先程から、どこか気が漫ろだった。
「——奥様、少し休憩なさってはいかがですか? お茶を淹れ直して参りますね」
控えていたベルナが書斎を出て行って初めて、オフィーリアはようやく、紅茶に手を付けてもいなかったことに気付いた。諦めたようにペンを手放し、そっと椅子の背に凭れる。
陽光を受けて揺れる金褐色の髪、涼しい顔で剣を捌く姿、容赦のない声。——それは何度も蘇ってきて、そのたびに頬を熱くさせる。
これまで感じたことのない反応を持て余しながら、オフィーリアは椅子から立ち上がり、窓へ足を向けた。
稽古はもう終わっただろうか。レオニーの稽古もあると聞いていたから、まだ続いているかもしれない。
ここからでは何も見えないとわかっているのに、どこか期待するようにその方角を見つめてしまうのは、我ながらどうかしていると思った。
窓を開けると、夏の名残を帯びた風が吹き込んできて頬を撫でた。つい先日までの熱を孕んだ空気とは違う、どこか涼やかさを含んだ風。その心地良さに思わず目を閉じた時、部屋の扉が叩かれた。
返事をするより先に扉が開き、姿を見せたのはテオバルトだった。そして、どこか焦ったように足早に近付いてくる。
「リア。体調が優れないと聞きましたが、本当ですか?」
眉根を寄せて真っ直ぐにこちらを見つめる表情には、隠しきれない心配の色があった。
オフィーリアは自然とテオバルトの顔を見つめていた。いつも綺麗に整えられている髪は湿っており、シャツの釦は二つも開いている。
「いえ、体調は悪くはないのですけど」
「顔が赤いようですが」
テオバルトの大きな手が伸びてきた。前髪を避けてぴたりと額に当てられ、それは何かを確かめるように頬へと滑る。
「熱がありますね」
「あの、それは」
「医師を呼びましょうか」
「ち、違います!」
しかしこのままでは本当に医師を呼ばれてしまう気がして、慌てて首を横に振るが、テオバルトの眼差しがあまりに真剣で——そんな表情も素敵だと、思ってしまう。
「顔があ、熱いのは、……病気などではないので、大丈夫です」
「では何故? クラウスも心配していましたよ」
家政の件で相談があり、確かにクラウスとは少し顔を合わせた。でもそれがどうして、体調が悪いという話になってしまったのかわからない。
再びテオバルトに会えたことで、オフィーリアはようやく、先程からの違和感の正体に思い至った。しかしそれを本人に打ち明けるのは、あまりにも恥ずかしい。
誤魔化せるものなら誤魔化したかったが、けれど、これほど真摯に心配してくれているひとに不誠実な態度はとりたくない。盗み見したという罪悪感も、今更ながらちくりと胸を刺す。
「実は、アイゼンベルク卿からお話を伺って、裏庭での稽古を見てしまいました。覗き見なんてはしたないとは思いましたけど、気になってしまって」
「……女性にわざわざお見せするようなものではありませんし、あなたをただ怖がらせるだけだと思いましたので、お伝えしませんでした」
テオバルトの眉間にますます皺が寄るのを見て、心が少し軽くなる。
稽古について何も言わなかったのは、やはりそうした理由があったのだ。
「怖くはありませんでした。見惚れて、いたと思います」
オフィーリアは自然と、自分の頬に添えられたままのテオバルトの手に自分の手を重ねた。こうして触れられるたびに、自分がどれほど大切にされているか伝わってくる。
「もちろん経歴は知っていましたが、実際に剣を振るうお姿を見たのは初めてでした。恐ろしいどころかとても凛々しくて——まるで物語の中の騎士様のようで」
一度口にしてしまうと、不思議と言葉が次々と溢れてきた。戸惑いが解けていく。胸の中に渦巻いていたものが形を持ち、溢れていく。まるで自分の気持ちが鮮やかに色を持つようだった。
それは、歌を紡ぐ時にもよく似ていて、その心地良さに身を委ねてしまったらもう止まれない。
「部屋に戻っても、ずっとあのお姿が瞼の裏から離れず、胸が高鳴って——何も手につきませんでした。胸が苦しいのに、辛いわけではなくて……ただ胸がいっぱいになるんです。
きっと私、また恋に落ちてしまったのだと思います。こんなに素敵な人が、こんなに近くにいるなんて、本当に、夢みたいです。それに——」
言葉を続けようとした時、頬に添えられていた指先が動いて、オフィーリアの唇にそっと触れた。
言葉が止まる。
見上げる視線の先で、テオバルトは眉尻を下げて、こちらを見つめていた。
「……私は、想いを言葉にするのが得意ではなくて。今、あなたに何を返せばいいのか、見当もつきません」
いつも政治の場では言葉を武器にするこの人が、今はなにを言えばいいか分からずにいる。
それを隠そうともしない姿がどこか可愛らしくて、オフィーリアは目を細めた。
「上手で、綺麗な言葉でなくてもいいんです。私はただテオバルト様が何を思っているかを知りたいです」
テオバルトが小さく息を吐いた。そのまま優しく引き寄せられる。広い胸に額を預ける形になって、硬い身体の奥から心臓の音が聞こえる。いつもより少しだけ速い。
「……怖がらせたのではなくて安心しました」
低い声が頭の上から降ってくる。その声がまた、あの稽古の時とはまるで違って穏やかで。腕に込められた力が何よりも気持ちを伝えてくれるようで。
言葉巧みに愛を囁くようなことはしない。でも、いつだって欲しい言葉をくれる。そばにいてくれる。心配のあまり、髪を乾かすより先に会いにきてくれる。だから、この人の隣は居心地が良いのかもしれない。
「月並みな言葉でしか言えませんが、愛しています。リア」
飾らない、真っ直ぐな愛の告白が嬉しくて、テオバルトの腕の中でオフィーリアは踵を浮かせた。二人の身長差がほんの少しだけ縮まる。
「本当ですか?」
「はい」
「だったら、いつもみたいにしてください。……駄目ですか?」
見送りや就寝前の挨拶をする時とはまた違うものが欲しくて、そう言ってみれば、テオバルトがわずかに体を固くした。
「……あなたは時々、そうやって私の理性を試そうとしますね。リア」
低い声は少し掠れていた。その意味を理解する前に頤を上げられ、唇を塞がれる。
いつも優しく触れてすぐ離れていくそれが、角度を変えながら何度も押し当てられ、やわやわと唇を喰んでいく。息が詰まりそうになって、オフィーリアは思わずテオバルトのシャツを掴んだ。
唇が離れたかと思えば、頬から顎の線へ、耳の下へと口付けが落ちた。首筋に触れた瞬間、まるで見えない火花が散ったように背筋が粟立った。
「っ、あ……」
オフィーリアの震える喉の奥から、自分でも聞いたことのないような声が漏れた。
首筋に触れていた唇が離れ、額がオフィーリアの肩口に押し当てられる。大きく、深く、息を吐く音が聞こえた。
「……すみません。こんなつもりでは、なかったのですが」
くぐもった声が肩口から響く。それから体が離れていく気配を感じて、オフィーリアは咄嗟にテオバルトの背中に腕を回した。
そして「驚いただけです」と、慌てて言い添える。どうしてそんなところに口付けるのかはわからなくても、それでも、嫌ではなかった。
テオバルトの腕がまた伸びてくる。先程より少し控えめな力加減で抱き寄せられると、忙しなく脈打っていた鼓動が落ち着きを取り戻していく。
「リア」と名を呼ばれ、オフィーリアは顔を上げた。こちらを見つめる琥珀の瞳はどこか甘く蕩けるようで、その視線を受け止めながら、自然と口元が綻んでいく。
このひとが好き。そう思わずにはいられなかった。




