199話 松岡外相
39年の春ごろからから佐藤外相が風邪をこじらせ肺炎となり、辞任の意向を伝えてきた。
佐藤外相は険悪になっていた蒋介石政権との友好関係の回復に努めてきて、これまでも蒋介石とは2度ほど会見し信頼を勝ち得ている。正平が北支から日本軍を撤退させたのもあったが、佐藤の手腕が日中関係回復に強く影響した。
正平としても佐藤の健康回復を願わずにはいられなかったが、本復の見込みがなく、後任を探すしかなかった。
そこに、浮かび上がったのが、松岡洋右だった。
松岡は山口県出身で、若くしてアメリカに留学して英語を身に着けた。帰国後は外交官となり、中華民国の上海を振り出しに満州領事館など、主に支那との関わりを多く持ち、「シベリア出兵」には後藤新平外相の下で懸案の処理を行った。この時からロシア、およびソ連とは深く関わるようになる。21年に退官し、満鉄の副総裁に迎えられ、30年には郷里の山口から衆議院選に出馬し、当選した。その後は政治家として活躍するが、31年に起きた柳条湖事件で満州事変が勃発し、「砲火を交えての外交はない。」と対中外交が破綻したことを嘆いた。
だが、実際に彼が活躍したのはその後の外交交渉の場だった。
満州事変の調査をしたリットン調査団の報告は「事変発生以前の原状復帰は現実にそぐわない」という認識を示し、「満州の自治と日本権益の有効性」を認めながらも「満州を国際管理下に置く事」を提案し、満州を満州国として認めない内容だった。日本国民としては、受けいれ難い内容だ。
国際連盟では日本を非難する声が大きく、松岡は全権大使として国際連盟の議場に立った。
その松岡の名前を有名にしたのが「十字架上の日本」という、国際連盟の場で発した言葉だった。6年前の満州事変で日本は世界各国から非難追及される状態となった。ここで代表として演説した松岡は得意の流ちょうな英語を駆使して、日本の立場を主張して、苦難な状況を「十字架上の日本」と表現したのだ。これにフランス代表が握手を求めてきたのを始めにして各国代表が続き、イギリス代表は賛辞の言葉を言った。これは日本の立場を理解したと言うよりも、松岡の流ちょうな英語の能力に驚き、「日本にはこれほどの外国語に堪能な人物がいたのか」と感心したと言われている。それほど、松岡の英語は達者だった。
もう一つ松岡の特徴は多弁ということだ。
側近の一人は松岡が朝から晩まで喋って、書類を松岡の机に持って行っても、出す暇もないほど喋り続けるので、仕方なく持ち帰ったと証言があるくらいだ。ドイツに行く時に、シベリア鉄道を使ったが、汽車の中で、朝起きる時から寝るまでずっと話し続けていたと言う。
これは誰に対しても同じで、満鉄総裁をしていた頃、関東軍幹部との面談でずっと松岡が話し続けるので、幹部はいつまでも要件が切り出せず困り果てたと言う逸話が残っている。松岡自身「僕は誰にも議論で負けたことがない。また誰の前でも気後れなどしたことがない」と語っており相当なおしゃべりだった。
その松岡は佐藤外相の指示でソ連との交渉役をしており、更に英語が堪能で悪化しているアメリカとの交渉も期待できた。
「イギリスのチェンバレン首相の声明により、ヨーロッパ情勢は一挙に緊迫をしてきており、いつまた世界大戦が起きてもおかしくない情勢だ。これが日本周辺、特に満州のソ連との国境付近の争いに波及するのは何としてでも避けたい。引き続き、ソ連との交渉をしてもらい、両国の良好な関係を築いてもらいたい。併せて、アメリカとの関係改善を行って欲しい。」
「分かました。首相はヨーロッパの情勢、特にドイツとイギリスの交渉をどのように予測されますか?」
「様々なことが考えられる。だが、日本は予断を以って対策をするよりも、結果を見てから対処したほうが良いと考えている」
「ほう、それはどういうことですか?」
「もし次の大戦が起こるとして、どの国が勝者になろうと日本とは直接利害を与えない。どの国とも同盟も組んでおらず、恩義も義理もどの国ともない。それなら戦争中の国とは関係を持たず、勝者が決まってから関係を持った方がよい」
「確かに、敗者に肩入れして日本も巻き添えになるのは面白くありません。ですが、それは蝙蝠外交と非難されるのではないですか?」
「それは寓話での話だ。一国の運命を左右する時に、蝙蝠外交であろうと、日和見であろうと状況が定まらない状態ではそのまま事態を見守る方が良い。日本に飛び火しないことだけに注意を払い、火が飛んでくれば早めに消火する。どんなことがあろうと、日本は参戦しない方針だ」
正平はヨーロッパのどの国とも交渉パイプを保持しておいて、どのような事態になっても日本はフーリーハンドでいたかった。(なまじ敗戦国側に立って、巻き込まれ戦争の責任を問われるくらいなら、どこの国にも良い顔をして八方美人になっていたほうが良い。負けた国の悲惨な状況は戦後のドイツを見れば十分だ。あんな目に日本国民を合わしては絶対にならない)その気持ちはヨーロッパの緊張が高まるにつれ強まっている。
「そうですか。分かりました」松岡の口調には、どこか納得しきったものが感じられなかった。
そこに一抹の不安はあったが、正平は松岡に外交を託すことにした。




