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旭日に顔を上げよ  作者: 寿和丸
19章 世界大戦への道
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184話 ハーバート・フーバー

30年代から40年代にかけての世界情勢を冷静に分析していた人物がいる。第31代アメリカ大統領だったハーバート・フーバーで、彼の分析を説明する前に経歴を紹介する。

1874年彼はアイオワ州の寒村の部屋数が二つしかない貧しい家に生まれ、しかも6歳と9歳の時に、父と母を相次いで失くしている。彼はマイルズ叔父に引き取られた、叔父が厚生担当の政府職員だったこともあって、インディアン族の小学校に通った。後にも先にもインディアン族の子供と幼少期を過ごした経験を持つ大統領は彼一人だ。ここでインディアン族の子供と一緒に弓矢を作り、遊んでいたらしい。だが、もう一人のミンソーン叔父が息子を亡くし、11歳の時に彼は跡取りとして引き取られた。叔父の家は自然豊かなオレゴン州にあり、彼は文字通り野原を駆け巡り川で遊んだ。


やがて鉱山技師を目指すようになり、新設されたばかりのスタンフォード大学の鉱山学部に入学する。ここで十分な教育を受けて卒業するが、当時のアメリカは不況下でよい就職先がなく、鉱山労働者などを経験した後、鉱山エンジニアリング会社に何とか就職できた。この会社のオーナーに気に入られた彼は、オーストラリアの鉱山会社に斡旋された。当時のオーストラリアはゴールドラッシュで鉱山技師を破格の給料(現在価値1万8千ドル)で募集していた。ここでフーバーは良質の鉱脈を見つけ出し、会社に大きな利益をもたらした。会社は中国にも事業を展開していて、彼に中国行きを打診する。ここでも破格の給料(現在価値60万ドル)を提示され、承諾する。多額の給料を得ることになった彼は、大学の後輩だったルーと結婚した。


中国に行ったフーバーは清朝政府の役人と厄介な交渉に取り組むことになる。港湾施設の改善、鉄道の敷設などが必要なのだが、全ての交渉に賄賂を要求する清国の事情に手を焼いた。ここで清国役人との交渉にアドバイスをくれたのがドイツ人のデトリングで、彼は清国の首相李鴻章のアドバイザーだった。フーバーはデトリングを大変信頼し、家族同士の付き合いをし、仕事にも彼の意見を取り入れた。しかしデトリングは李鴻章に屈辱的な下関条約を飲ませた日本によい印象を持っておらず、この考えがフーバーにも感化したようだ。

1900年に起きた義和団事件にフーバー夫妻も巻き込まれ、北京の租界に取り残されてしまった。日本兵の活躍もあって北京城の一角が崩れ、租界が解放されるとフーバーはアメリカ海兵隊から道案内を要請された。「隣を進む兵士が銃弾に倒れると足が進み、一歩も前に進めなかった」と恐怖の大権を語っている。


清国の動乱を逃れたフーバー夫妻はロンドンに移り住む。ここでフーバーは経営陣に加わり世界各国の鉱山開発事業に取り組んだ。オーストラリアの鉱山では新しい精錬方法を編み出し、品質の悪い鉱石しか産出しない鉱山の価値を飛躍的に高めた。

この後、独立してビルマの鉱山に資産をつぎ込み開発をする。この鉱山は水処理の問題を抱え、不採算鉱山だった。フーバーは3キロに及ぶ水抜き用のトンネルを3年もかけて完成させ、良質な鉱山に変えた。これが莫大な富をフーバーにもたらした。


それからもフーバー一家はロンドンに居住していたが、14年に世界大戦が勃発して、ヨーロッパ各国にいたアメリカ人が12万人もイギリスに避難してきた。アメリカ行きの客船が運航停止となり、困窮した同胞をフーバー夫妻は手厚く支援した。このことはウイルソンアメリカ大統領にも伝わり感謝の親書が夫妻に届けられた。

イギリス政府はドイツを降伏させるために港湾封鎖を行って、75万人以上の餓死者が発生した。これはドイツ国内だけでなく、ベルギーやフランス人も苦しめることになり、フーバーはヨーロッパ各国の住民への食料支援の事業を立ち上げた。輸送手段の確保や関係各国との調整、資金作り今までの鉱山開発で培ったノウハウがあったから出来たことだ。

戦時中の4年間、500万トンの食糧を送り、更に停戦後の2年間にも1900万トンの支援を行った。このことによりフーバーは、ヨーロッパ政府首脳から信頼を得た。


大戦後アメリカに戻ると、鉱山・冶金エンジニアリング協会の会長になる。ここで彼は「我々はワシントン政府から施しを受けるつもりはない。我々の望むのは効率の良い政府である」と言っている。実に今までの経験が発する言葉ではないだろうか。その後共和党政府になって、商務長官に任命された。この時、彼は生産効率向上の政策を推し進め、工業製品の規格化にとりくんだ。

「政府が民間の邪魔をしてはならない、活性化の触媒になるべきだ」と言う持論は彼の経験に裏打ちされたものだ。


28年の大統領選に共和党候補となり、11月の選挙で大統領に選ばれた。これまで政治家の経験もなく、州知事や上院議員の経歴の無いままの異例の大統領だ。

彼の不幸だったのは就任してわずか7カ月で未曽有の世界恐慌が発生したことだ。この事態に彼はあまり有効な対策がとれなかった。と言うよりもこの歴史的な不況を前にして、執れる対策は少なかったはずだ。企業活動がすっかり委縮しており、政府が赤字覚悟で財政出動したところで効果が知れていた。

事実、フーバーが行った31年のダム建設はフーバーダムと言われるような大規模の公共事業だったが、経済効果は薄かった。大恐慌の前では、多少の公共事業をしたところで、民間企業を活発にすることはできず、彼の政策は失敗した。


32年の大統領選で、ルーズベルトはこのダム建設を格好の攻撃材料にして、「赤字財政を築きながら不況を克服できない無能大統領」と罵った。

フーバーは僅か一期で大統領職を奪われ、「フーバーの毛布」は家を失った浮浪者が、体に新聞紙を巻くことを意味し、「フーバー村」は浮浪者の掘っ立て小屋集落を指す言葉となった。

正直、フーバーをこれほど貶めるのは理屈に合わない。この時代、ドイツなどを除いて世界各国の殆どの国は様々な対策を執ったが不況から克服できなかった。フーバーの対策が悪かったと言うよりも大恐慌においては有効な手段などなかった。ドイツやソ連のように経済統制を敷き、国民の自由を縛り上げていたなら克服できたのかもしれないが、自由主義経済下では無理だった。と言って経済統制したからと言って、国民に幸福をもたらすことでもない。ソ連では大恐慌とは無縁であったが、重工業発展に注力した結果、飛行機や自動車の生産が飛躍的に増えた半面、軽工業は立ち遅れ日用品が品不足に陥り、農業分野の不振で餓死者が出るほど国民は増えている。不況下においてソ連経済は発展したことに間違いないが、国民の飢餓の上に立った発展であった。


フーバーの後、大統領になったルーズベルトは公約を取り消して大々的な公共事業を行って一時的にはアメリカ経済が上向きに転じた。だが、景気が良くなったと判断して、公共事業を止めると直ぐに不況に襲われたのだ。民間部門が活性化しないままでは公共投資が縮小すると経済がすぐに失速する。公共事業だけで民間需要を掘り起こすのは無理であり、アメリカ経済も大恐慌から立ち直れなかった。ルーズベルトは過大な財政出動をして「借金王」と呼ばれるほどの赤字財政を築くことになるのだが、自らの失敗の責任を巧みな宣伝で前任者に押し付けたように思える。


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