149話 昭和会
ラジオ放送での正平の声明は国民から多くの反響をよぶことになるが、政党にとっても無関心ではいられなかった。
ラジオを通して国民と直に会話するやり方は従来なかった。それだけに国民の正平への期待は大きく、人気はうなぎのぼりに高くなっている。巷のあちこちで正平のラジオ声明がもちきりになる。これは政党においても無関心なことではなく、首相とどう関係を持つかは党の浮沈に絡むことになる。
政党の勢力を見ると政友会は174、民政党が205、そして昭和会が20で3党はそれぞれ閣僚を送り、与党になっている。がそれぞれお家の事情が絡んでいた。
この頃の政党は軍部や官僚に政権を明け渡し、主導権を取れない状態だった。原敬、浜口雄幸、若槻礼次郎、犬養毅などと政党政治家が首相を務めたが、党利党略を繰り広げ、汚職が横行、相次ぐ失政に国民の政党への期待は裏切られた形であった。
政友会は前回の選挙で半数に議席を減らし、かつ党首の小川平吉も落選する体たらくで、かつて首相を輩出した面影は残ってない。それらの不満から昭和会のメンバーが造反し、除名措置をとらざるを得なかった。
一方の民政党も大幅に議席を伸ばしたが、過半数を握ることができず、政権を奪取する気概に欠けている。
このような情勢で、広田内閣は民政党と政友会から閣僚を受け入れ、呉越同舟ながら政権を維持していたのだ。正平の塚田内閣はそのまま引き継ぐ形で、政友会、民政党、昭和会の支持を取り付けての発足で、慎重にとりながらの国会運営を目指すつもりだった。
そんな正平を政友会、民政党はいかつい外見に関わらず、丁寧な話しぶりに共感を覚えながら、いつ軍人の本性をだしてくるのかという疑心暗鬼でみていたのだ。政党幹部は近くで交えながらも、内心は冷ややかな態度と言える。
だが、ここにきて思わない程の正平の人気ぶりに、あやかろう、すり寄ろうとする姿勢になっていく。
その中でも、昭和会はリーダーの床次が病死して関係で、求心力が失われており正平に近寄るのに懸命だった。
そして、正平には「政治を束ねるには手足となって、活動してくれる国会議員が必要」という思いをつよくもつようになっている。
「国民からの人気は大きな力になるが、いつ風向きが変わるか分からない。この人気を維持していくには、全国で私の政策を訴え、協力してくれる勢力が是非必要だ。それには、既成の2大政党を使うのが早道ではあるが、所帯が大きすぎて使いこなすのは難しい。そもそも彼らの中も内紛が絶えず、それを纏めるだけでも大変な思いをすることになる。もっと小さな政党を使う方が望ましい」
そこで目を付けたのが、昭和会だった。
正平と昭和会の思惑が一致し、両者は秘密裏に会合を持つことになった。
「私はいずれ軍人が政治を関わるのを止めて、政党に政治を任すべきと考えている。ただ、今の政党は党利党略に走り、国民からそっぽを向かれている。それでは、いますぐ政党に政権を譲ることはできない。皆さんは国益を真剣に考えてくれる政党だと思っている。今後も協力関係を深めていきたいと思う」正平は冒頭、このように挨拶した。
「我々も塚田首相の政治姿勢に感銘し、政策を強く支持していきます」昭和会の幹部の一人内田信也が答える。
そして両者は一致して、新しい政党を作ることを約束する。
「私は現役の軍人で政党に入党はできないが、私の替わりを務めてくれる者を紹介しよう」
そう言って、脇で控えていた安田留松を引き合わせる。
「安田留松です。首相には前々からお世話になっており、奥様の生徒の就職先の斡旋などをしてまいりました」
「こう見えてまだ若いが、留松は全国に女生徒の仕事先を見つけるために駆けずり回り、地方の有力者の知己を得ている。昭和会を全国的な組織づくりにはうってつけと言える」
こうして正平の強い後押しで、留松の昭和会の事務入りが決まった。
昭和会は小世帯ながら、選挙に強い個性派の政治家が多くいる。だが、全国的に浸透は出来ず、知名度も広まってない。
何よりも常駐の事務職を置いて居らす、各議員の連絡さえなかなか取り合えないのが実情だ。
まず、留松が政党事務を組織し、運営することになった。
正平は昭和会の議員を通じて、国民に政策を説明してもらえるし、昭和会の議員にとっても人気の高い正平と近いことは選挙で何よりもアピールすることになる。
「選挙はどのように考えておられるのですか?」議員にとって、選挙は最大の関心事だ。その情報を首相から直に聞けることは何よりなことだった。
「昨年の2月に選挙をしたばかりで、まだ一年半も経過してない。選挙する大義もない。
私の政策が浸透し、結果が出てから、国民の評価を受けるのがまっとうだと思っている。
その選挙のためにも、政党として全国的な組織を構築しなくてはならない。」
正平はアメリカでの経験から、民主主義による政治を見てきた。
「日本の政党も国会議員も、国家運営をどのようにしていくかという見地で考えてない。
国益がどのようにすれば向上するかよりも、自分の選挙区に鉄道を通すかに関心を払っている。統帥権を振りかざす者も、統帥権の主旨を碌に理解しないでいる。統帥権を使って、自分の主張を言いたいだけだ。政党が国民から見放されたのも無理ないことだ。
だが、政党による政治を確立しなくては、いつまでも軍人や官僚が政治に関わることになる。それではいつまでも民意による政治ができない。」
この頃の日本は政治家も政党も議会政治を守り、民主政治を目指そうとする考えが浸透してなかった。政党は国益を考えるより党利党略に走り、政治家も利権を求めた。要するに日本の政党は未熟だったのだ。その様子を国民は呆れた目で見るようになり、軍人や官僚が政治の主導権を持つようになっていたのだ。
そのような背景から軍部によって独裁しようとする考えが芽吹いたと言える。
「永田鉄山の考える『国家総動員体制』では、国が間違った方向に行ったら修正できなくなる。」
軍部には永田の構想を信望するものが多くいる。政党を敵視する軍人さえもいるのだ。
「軍人の政策を押し付けた結果が広田内閣の軍事費増強だった。それではいつまでも国民は豊かになれない」
「俺が首相になった以上、民主主義への道筋だけは作っておきたい」
それが、御前会議で天皇から同意を得、ラジオの声明で国民の人気を掴んだことによって、自信ができた。
首相になって3か月にしての決意だった。
実際には林銑十郎内閣は4月に国会を解散させ、総選挙を行っている。林内閣は閣僚に政友会や民政党から閣僚を取り入れず、両党から国会での質問攻勢に遇った。なんとか国会を乗り切った直後の解散であり、2大政党から『食い逃げ選挙』と非難を受けてしまった。結果も林内閣は国民から信任された評価に程遠く、内閣は倒れることになる。
替わって、西園寺は近衛文麿を首相に任命した。226事件、広田内閣倒壊の後では固辞した近衛も、この時は首相を引き受けている。




