133話 石原莞爾
226事件後、日本陸軍では皇軍派の首脳がクーデターを引き起こした若手将校達を煽ったとされ、責任とらされる形で予備役に回された。替わって、統制派の発言権が強くなったのだが、分けても石原莞爾が指導する立場になっていた。
石原は統制派に属していなかったが一夕会に加わっていた。特にクーデター直後に正平と共に鎮圧を主張し陸軍の混乱を抑えたことが評価された。また広田内閣の陸軍大臣は寺内寿一で軍政経験がなく、次官の梅津美次郎は実務型の官僚タイプで政治色が薄く石原の言動を容認していた。石原は参謀本部作戦課長の立場ながら、陸軍を主導する立場になっていたのだ。
石原は1989年山県に生まれ、子供のころから陸軍大将が夢であるほど、陸軍を志望していた。士官学校、陸軍大卒だが面白いエピソードが残っている。士官学校では成績は良かったが、教師に反抗的で素行が悪く、卒業時の成績は6番に落とされた。陸大にも行く気がなかったが、連隊長の命令で仕方なく受験したし、合格、卒業時の成績は次席だった。これも「あんな乱暴者を主席として陛下の前に出させるわけにはいかない」と首席になれなかった理由がまことしやかに言われている。
石原は中央本部に入る前は満州にいて、参謀次官として満州事変を起こしたのは前に話している。
その彼が中央本部に入り、ソ連の軍事情報を知り驚愕する。
彼は36年7月に「戦争準備計画方針」大綱を纏める。
5年後の対ソ戦を意識して、持久戦に備えているのが特徴的だ。
その第一は兵器の充実、特に飛行機に力を入れており、第二に、満州国の急速な開発を行い、軍事物資を大陸で供給体制を構築することだ。
彼は満州を兵器の供給基地にしてソ連の軍事力に対抗しようとしていた。
もともと石原はアメリカを最大の敵対国と想定して、これに備えるべきと主張していた。
満州事変を起したのも、満州を日本領地、属国化して資源を確保するのが目的だったが、いつも頭にはアメリカの存在があり、アメリカの脅威に備えるために日本を強大にしなくてはならず、そのために満州が必要だったのだ。
ところが彼が陸軍中央に入り、ソ連の新情報を入手できる地位になると、満州地域での日本軍の脆弱さを痛感する。
「初めて中央入りして驚いたのは、日本の兵力、特に在満兵力の不十分なことです。満州事変後2、3年にして驚くべき国防上の欠陥を作ってしまっていた」と述懐している。
35年当時のソ連極東兵力は14個師団、飛行機950機、戦車850両。それに対し、日本は満州に5個師団、飛行機220機、戦車150両展開していた。
石原は「開戦時に一撃を加える」だけの兵力、少なくともソ連の極東軍に対して、8割程度の兵力は必要と考えた。
そのためには航空兵力を充実させ、対ソ持久戦に備えようと考えた。
「まずソ連を屈服させることに傾注する。だが、持久戦において軍備不足の今の状況からして、英米とはなるべく親善な関係を持っておくべき」と考えるようになっていく。
「日本の兵力充実が完了すれば、ソ連の極東軍事拡大路線を断念させるべく、速やかに工作活動を行う。勿論戦争をさけることができれば最良である」とも語っている。
その上で、大綱では「ソ連の攻勢を断念させられれば、次にイギリスの東アジアにおける拠点を奪取し、その勢力を駆逐する。東南アジアの被圧迫民族を独立させ、ニューギニア、オーストラリア、ニュージーランドなどを日本領土とする。」
イギリスによる東南アジアの被圧迫民族とは中国やマレイシア、シンガポールの他にフランス領のベトナム、カンボジア、ラオス、オランダ領のインドネシアなども含まれていた。
「皇国の国策は、東アジアの保護指導者の地位確立することだ。このために東アジアに加える白人の圧迫を排除できる実力を持つ」と断言している。
東アジアの指導国とは実に気宇壮大な構想だった。
石原の構想の卓越していたことは計画経済にも言及していたことだった。単なる国防論だけに終わらない点だ。
満州を軍事生産拠点にするのは永田鉄山の構想とはまた異なっていた。
これを読んだ正平の感想は「アメリカとの関係改善を考えるのは賛成だが、ソ連を屈服させること自体困難ではないのか」であった。
「ソ連の軍事力を凌ぐことは今の日本の工業生産から見れば簡単ではないが、難しいことでもない。だが、一時的に優位になっても戦争、特に持久戦で勝利を得るのは難しい。
前の大戦でドイツは中期まで優位に戦争を進めて、ロシア方面では勝利していた。それが最終的に負けたのはイギリスとアメリカとの総合的な国力で劣っていたからだ。ドイツ国内では工業生産も食料生産も最終的に自給できなくなってしまっていた。それがドイツ国民の窮乏に繋がり、全国で厭戦ムードが広がった。
一時的な勝利に浮かれては持久戦を戦いぬくことはできない。
日本がソ連との持久戦に臨むとなれば、国内でソ連を圧倒できるほどの工業製品や食料品を供給が確保できなければならない。だが、狭い国土と少ない資源しかもたない日本でソ連を圧倒できるとは思えない。
石原は満州で工業生産を確保するつもりのようだが、それは絵に描いた餅だ。いかに満州で地下資源が多く発見され、人口の多くいたとしても工業発展はできない。
その地で工業を発展させるには優秀な技術者と勤勉な労働者、そしてその製品を購買できる民間需要が必要になる。
満州では技術者も労働者も、民需も絶対的に足りない。
技術者、労働者を育てるには教育が肝心だし、民需を拡大させるには経済を一から育てなければならない。
これから満州を一大工業生産地にさせるには20年、いや50年でも足りない。」
正平は民間の発意による経済活動を重視する立場であり、「どんなに良い計画でも、実行するのは民間だ。計画書だけで経済は動かないものだ」と考えている。
満州に進出するにしても民間の力をどのように引き出すのか具体的に触れてない石原の構想に疑問符を付けた。




