128話 ナチスの躍進1
ドイツ軍がラインラントに進駐したのは、ヒットラーがイギリスやフランスなどの足元を見ての決断では決してなかった。
ヴェルサイユ条約の後に、締結されたロアルの条約によってもラインラントはドイツの主権が及ばない非武装地域とされていた。ここに進駐することは明らかな条約違反で、軍事的リスクは大きかった。ヒットラーもイギリスとフランスがどのような行動にでるのか自信が持てず、賭けとも言える行為である。両国の対応次第では撤兵も用意していた。
それが意外にも両国ともほとんど反応を示さなかった。ドイツ、そしてヒットラー外交の大勝利となった。ヒットラーは賭けに勝った。
敗戦により、ドイツ国民の希望は消え、国軍の士気も地に落ちていた。
ドイツ帝国が瓦解し、ワイマール共和国が誕生したが、多額の賠償金を各国から請求され、そのツケが国民にのしかかる。
ヴェルサイユ条約はドイツの抗弁を認めない強制講和だった。旧ドイツ帝国の国土の13%、人口700万を失い、植民地海外資産は没収された。西プロイセンはポーランドに与えられ、ザール地方は国際連盟の管理下になり、ラインラントは連合国の占領下となった。
兵力は陸軍が10万、海軍は1万5千に制限され、徴兵制は廃止させられた。
そして「戦争責任」により、1320億マルクの賠償金を負わされた。
ドイツ国民にとり、これは思わぬほどの金額で、その不満は条約を締結した共和国政府に向けられるようになる。
ヒットラーはこのようなドイツ国民のハケ口のない怒りが頂点に達しようとした時に登場した。
彼はオーストリアの平凡な地方官吏の子供として生まれ、平凡な子供として成長する。ヒットラーはハプスブルグ家の君臨していたオーストリアではドイツ人が優位であったが、ハンガリー人やスロバキア人が混在しこれを嫌ったこと、更には徴兵されそうになって、ドイツに逃れる。だが、ここでドイツは世界大戦を引き起こし、彼も戦線に立つ。と言っても下級兵卒で目覚ましい戦績はなく、敗戦を迎えた。
戦地からの帰還兵が多く復員を求めたのに対し、ヒットラーは軍務に残った。軍務を望んだのではなく、他に働き口がなかったからだ。そのままだったら、バイエルンのミュンヘンで普通の軍人として一生を終えたのかもしれない。しかし上司がヒットラーの弁論の才に気付き、宣伝・諜報官に登用する。ここで、国家の支柱としての軍隊の役割、啓もう活動の重要性、政治的役割などを教え込まれた。
そして、ヒットラーは政治集会に参加するのだが、ここで雄弁さを見せつけるのだ。
ヒットラーが入会した時、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei )は50人ほどの小さな団体に過ぎなかった。それが急成長した背景には国民の政治への怒りと、ヒットラーの類まれな弁舌によるものだった。
ナチ党は政治講演会を最大の宣伝手段とし、その花形がヒットラーだった。
ヒットラーは最初にドイツの悲惨な現実から語りだし、やがてその原因が何であったのか、どうすれば未来を取り戻せるのか、分かりやすく説明する。善と悪による世界観を分かりやすくそして熱く語った。
彼によれば、「ユダヤ人は常にどこかの国に寄生し、その内部から養分を吸い取って来た民族」となる。
「銀行や新聞メディアを支配し、金を巻き上げ、情報をコントロールしてきた。国民道徳を腐敗させ、マルコス主義をはびこらせ、民族の結束を阻んできた。ドイツ人はユダヤに革命をそそのかされて、敗北したのだ。その挙句、できたワイマール共和国はユダヤ人の楽園と化した。ヴェルサイユ条約もユダヤ人が背後で糸を引いて締結されたのだ」
このような論調で大衆に呼びかけた。
集会は時に、反対者が乱入して混乱を呼ぶがヒットラーはこれを望んだ。無事平穏な集会よりも、大衆は混乱の場を好むことを彼は知っていた。
「何にも起こらなければ誰だって講演会に来ようとはしないものさ。騒ぎが起こればそれを目当てで、人が来る。警察沙汰になれば世間の耳目は集まり、良い宣伝になる」そう言ってうそぶいた。
そして彼の周囲を突撃隊で固め、暴力沙汰を待ち望んだ。隊員にはおそろいの褐色のシャツを着させ、退役軍人の訓練を受けた屈強の若者がなった。
ヒットラーの巧みな弁舌と突撃隊の軍隊まがいの制服は、世間の注目を集め、ナチ党は躍進する。しかも政治講演会は有料としナチの収益源になったほか、パンフレットなども大いに利用して宣伝する。そしてヒットラーはナチ党の実権を握り、22年には33歳にして、「バイエルンの王」と呼ばれるようになった。
そもそもバイエルンと言う土地が、農民の占める割合が高く、カトリック信者が多い。保守的な考えを持つ者が多く、ワイマール政府に反対する者達がここに押し寄せるようになり、バイエルン州の首相カールは共和国政府と対決姿勢をとる。
このような土地柄だったために、ナチ党は自由に行動が出来た。
23年にフランスとベルギーがルール地方を占領する事態となった。ルール地方はドイツ随一の工業地帯だ。ドイツがいつまでも賠償金を払わないので、業を煮やした両国が現物取り立てに入ったのだ。
ワイマール政府は占領軍への全ての協力を拒否し「消極的な抵抗」を試みる。これによりドイツ経済は麻痺するのだが、これを紙幣の増刷で乗り切ろうとした。ところがこれが歴史上稀なハイパーインフレを招き、1ドルが4兆2千億マルクにまでなってしまった。
一方ドイツ国民は占領軍に怒りを向け、攻撃を仕掛ける行動にでる。ワイマール政府の意向に逆らう形でナチ党の若者が実力行使に出たのだが、逆に占領軍に捉えられてしまう。彼が裁判にかけられ、処刑されたことで、ドイツ国民は更に激高した。こうしてワイマール政府は国民の信用を無くしていく。
ここでバイエルン州の首相は共和国政府打倒に動こうとするが、軍の最高司令官が同意しない。やむなくカールはクーデターを諦めた。
ここでヒットラーはカールを巻き込もうとして、無理やりに武装蜂起を決行した。
カールがビアホールで3000人の聴衆の前で、演説をしていた時、ヒットラーが乗り込んできて、天井に発砲して「国民革命」を宣言する。
ここでカールもヒットラーに同調する動きに出るのだが、カールはヒットラーに軍の同調者が少ないのを見て、逆に鎮圧に乗り出していく。
ヒットラーは捕えられ、ナチ党はドイツ全土から活動を禁止された。
これが23年11月の「ミュンヘン一揆」と呼ばれるヒットラーの最初の挫折だった。




