124話 クーデター
岡田は前任の斎藤実にくらべ政治力は弱く、古巣の海軍内でも強硬派を押さえきれず、ロンドン・ワシントン両海軍軍縮条約離脱に追い込まれるほどだった。まして与党の立憲民政党の国会勢力は2番目で、万全の支えとはならなかった。ここを政友会、軍部や右翼は岡田政権の弱みに付け込み、何度も揺さぶりをかけ、苦境にたたされる。
それでもこの軍部の圧力を跳ねのけていたのは、一人高橋蔵相の力だった。
高橋は斎藤内閣から岡田内閣になった時、内閣を離れたが、その4か月後にはまた岡田に請われ復帰していた。実に蔵相になること6度目の就任だった。
前に陸軍大臣だった荒木に対して、一歩も退かず軍事予算増額要求を拒否し、これが荒木の退任に繋がったことは書いた。その後も軍部の無茶な要求を敢然と拒否していた。
当時80を超す蔵相に対し、軍部は軍事費の拡大を要求するのだったが、蔵相に納得得られる説明ができず撥ねつけられたのだった。
ある時、日本の車両メーカーが4輪駆動車の開発に成功して、正平はこれを軍用車に採用しようと働きかけた。
ところが、陸軍の中堅幕僚が4輪駆動車を軍用車に使うための予算を請求したが上手くいかなかった。
「どうして、開発したばかりの車を陸軍では使おうとするのか」蔵相が採用理由を尋ねると軍側では、蔵相を納得させるだけの者はいなかったのだ。そこでやむなく正平が説明に行くことになった。
「4輪駆動車はそれぞれのタイヤに力を与える構造です。一つのタイヤがスリップしても他のタイヤが地面を掴むので、スリップしやすい悪路でも運転ができます。更に坂道でも普通の車に比べて、登る力が強いです。同じことは石ころだらけの道でも言えます。
まだ道路状況の良くない日本ではうってつけの車です」
「だが、陸軍の要求は過大すぎる。開発したばかりの4輪駆動車は高価すぎるのではないのか」
「ええ、それは言えます。ですが、陸軍が大量に発注することで今後、自動車会社の生産力が向上します。大量生産できるようになれば、必ず安く作れるようになります。
私は特別な仕様は要求しない方針です。そうすれば一般車としても販売できますから、日本でも車の普及が進むでしょう」
そのように言った時、だるま顔の蔵相の目がきらりと光った。
「民間への普及を考えているのですね」
「道路づくりをしていきたいのはやまやまですが、膨大な費用が必要です。4輪駆動車ならそれほどの費用は掛かりません。当分は悪路に強い車を作っていくほかないと思います」
「そう言う考えなら予算は認めましょう」
高橋蔵相は合理的な考えが出来る人だった。それ以来、予算のことだけでなく蔵相とは対話することもあり、打ち解ける仲となった。
そんな内閣において、36年1月21日に、野党・政友会が内閣不信任案を提出され、これに対し岡田は解散総選挙を実施する。
2月20日に行われた第19回総選挙の結果、それまで第一勢力を誇っていた政友会が議席を減らし、与党の民政党が逆転して第一党となった。政友会は思わぬ大打撃を受け、党首鈴木喜三郎までが落選する。岡田内閣にとってはこれから政局の運営が上手くいくかに見えた矢先、その6日後、岡田内閣は二・二六事件で襲撃を受ける。
36年2月26日、皇道派の隊付き若手将校の村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、栗原安秀などに率いられた第一師団、近衛師団の約1500名が、蜂起して要人を襲撃した。斎藤実内大臣、高橋是清蔵相、渡辺錠太郎教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負った。
首相官邸にいた岡田啓介首相も襲われたが、人違いで義弟の松尾伝蔵が殺害される。また松野伸顕前内大臣も襲われるが警備の警官の機転で難を逃れている。他に霞が関の官庁街が占拠され、朝日新聞社の印刷工場も荒らされた。
二・二六事件初日、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。実行グループは岡田を殺害したと思っていたが、実際に殺害されたのは岡田の義弟で秘書官を務めていた松尾伝蔵であり、岡田は首相官邸の中で女中部屋にかくまわれていた。
岡田の生存を察知した秘書官の福田耕・迫水久常(岡田の女婿)は憲兵曹長の小坂慶助らと提携し、首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功する。
岡田と松尾の風貌は違い、写真をあらかじめ見て置けば、見間違えるはずはない。何度も言うが、クーデターや暗殺事件において、実行犯の計画の未熟さや事前調査がいつもなおざりだ。軍部となれば事前の準備を怠るのはもってのほかだ。それができてないことは計画が如何に杜撰であったか示すものだ。
この事件での対応を巡り、陸軍中央でクーデターに応じるか応じないかで混乱したのだが、プロローグで説明したように、正平や石原莞爾の主張が通り、クーデター部隊を鎮圧することが決定し、反乱は3日で収束をした。




