122話 世界戦略の見通し
この後、永田は真崎の更迭に走るのだが、余りに性急な動きだった。
無事に国民政府の勢力を華北から排除できたのなら、この成果を基に国内基盤を強めていけばよかったのだ。
既に、統制派は陸軍中央を抑え、皇軍派の幕僚は無力化し、真崎が一人で教育総監として頑張っている状況だった。
真崎は陸軍人事に少し口を挟めるだけで、実務は取り上げられていた。
真崎を放っておいても良かったのだ。
親友の岡安も「何故真崎の罷免をこんなにも急ぐのか」と疑問を出している。
これにも永田は別の視点を持っていた。
「ドイツの伸長は今後も続き、英仏と必ずぶつかり、いずれ次なる大戦(第二次世界大戦)が始まるだろう。
それに備えて日本は早く国家総力戦の準備をしておかなければならない。
それには軍内部で大きな発言力を持つ真崎が邪魔になる。
真崎のような、分からず屋がいつまでも陸軍で大きな顔をされるのは困る」
真崎の罷免は、次の大戦を考えての国内準備の一環だった。
だが、真崎を教育総監から罷免したことは、皇道派はもとよりそれに近い隊付き将校の怒りを買うことになる。
永田が隊付き将校の怒りどれだけ認識していたのか不明だ。
一方、正平は必ずしも第二次世界大戦を不可避とは見ていない。
「イギリス、フランス、そしてアメリカが強くけん制すれば、ナチスの膨張を思いとどまらせることができるはずだ。」
世界恐慌が始まり、イギリスもフランスも国内経済が不況に苦しんだが、ドイツに比べれば相対的楽だった。
ドイツは世界大戦で敗北したことで、高い賠償を払うことになり、海外の植民地ばかりか国境近くのドイツ領も手放していた。国内では賠償による負担で税収不足に陥り、それを貨幣の増刷で賄おうとしてことから、ハイパーインフレに陥っていた。そのドイツも敗戦から10年過ぎて、戦後の混乱を脱し、ナチスが権力を奪取したとはいえ、フランスやイギリスから見れば国力はまだ低く、軍事力も貧弱と言えた。
正平は「イギリスとフランスがこのままドイツの軍拡を認めるとは思えない。両国が強くけん制すれば、ドイツも軍事拡大路線を諦めるしかない」と考えていた。
「ドイツが軍事拡大路線を諦めれば、ヨーロッパでの戦争は遠のくだろう」
「そして、もし大戦になっても日本がどちらかの陣営に加わる必要はない。それどころか完全な中立を守れば、世界の交戦国から軍事物資の供給を求められ、国内景気は大いに潤うようになる。日本は絶対、世界大戦を始めるべきではない」そう考えていた。
ところがイギリスの外交政策は正平の考えと違っていた。イギリスはドイツへの強硬姿勢を崩さないフランスを持てあまし、ドイツのこれ以上の弱体化を防ぐことでヨーロッパの勢力均衡を考えていた。特に25年に締結されたロカルノ条約で西ヨーロッパの国境維持と相互不可侵が決まると、ヨーロッパには関心を寄せなくなっていた。
更に33年にドイツがヒットラー政権になると、反共主義を掲げるナチスにソ連共産主義の防波堤を期待するようになる。イギリスの首相ボールドウィンは「ドイツが東方に進出すれば、ナチスとポルシェビキ(が戦うのを期待する」とまで語っていた。
36年になってドイツが非武装地帯とされたラインランとに進出する事態になる。フランスが「「ヒトラーの野望を阻むには軍事力行使しかない」と主張したのに対し、「イギリスは戦争ができる状態にない」として断った。
この動きを見て正平もイギリスのドイツ宥和政策は変わらないとみるようになった。
「イギリスが宥和政策を続けていけば、ヒットラーは更に軍拡政策を続けるだろう。ヒットラーは対外強硬政策をすることで国内の人気を掴んでいる。イギリスが争わない姿勢を見せる限り、ドイツの軍拡路線は続き、やがて大戦を招くかもしれない」
36年7月になると、スペインで内戦が勃発する。ボールドウィンは「フランスが我らをソ連側に立って参戦させようとするかもしれないが、この企みに乗ってはならない」とここでも内戦に関与しなかった。共産主義とファシズムの戦争はスペインの中に押しとどめ、西ヨーロッパの火災にしないのがボールドウィンの考えであった。
この宥和政策は次のチェンバレン政権でも引き継がれ、ドイツの更なる軍拡路線を招き、新たな大戦を招くことになるのだが、その話は別にする。
ただ、正平は世界大戦が始まっても、日本が戦争に入る必要は考えてない。
「今の日本の国力はアメリカ、イギリス、フランス、イタリアの次ぐらいだろう。ことによるとソ連やドイツにも劣っているかもしれない。国力は軍事力に繋がる。それだけ日本の軍事力は弱い。日本はまだ世界の国と戦うだけの力を持ってない。
絶対に戦争は避けるべきだ」
正平と鉄山とも次の世界大戦は起こるかもしれないと考えるようになった。しかし、鉄山が戦争に日本は不可避と考えたのに対し、正平は避けられると考えた。
これが、正平は民間の力を伸ばす政策を考えたのに対し、「国家総動員」を主張した鉄山との違いになった。




