1:焼ける腕⑴
邪悪なるもの荒地に住まう。
そは暗き満たす果ての国。
東の魔女、狡猾にして暴なり。諦める事を知らず。
北の魔女、肝悪狐の如く、嫉妬蛇の如し。
西の魔女、怠惰に眠る。目覚めは災いなり。
南の魔女、暗闇に蠢き、貪り食べる。
そは暗き満たす果ての国。
かの女ども、
暗きを統べ、
暗きを広げ、
暗きを抱く。
そは暗き満たす果ての国。
風は、 水の匂いを運んできた。
雲の切れ目に太陽が光っていたのも一時のことだった。
風がやってきた。どうどうと梢を鳴らす風は、追い立てられるように黒い雲を運んだ。
大粒の雨が地面を濡らす。
土がむき出しの道はぬかるみ、はねた飛沫が靴に汚れをつけるほど水を含んでいた。
捻れた木々の間には闇が根付き、鬱々とした灰色の衣を被せられたように全てが曇る。
雨が音を吸い込み、閉じ込めている。音は消え、墓場の如き静かさが提示されていた。
道は、遥か遠くまで続いていた。
よく使われる交易路は、踏み固められて平坦で多少は見通しが効いた。
外套を被った2つの影が並んで走っていた。
彼らは風に煽られ視界を雨に遮られているだろうに、その速度を緩めることはない。
ますます厳しくなる雨に紛れて、するする滑るようにかけていた。
黒い外套は風を孕んで不吉に蠢き、その上、動作には、物音の一つも携えず驚くべき速さで移動していた。
いや、それは外套でさえないのかもしれなかった。
光沢と鉤爪をかね備えた黒い皮膜、あるいは翼のようにも見えた。
さらに言えば「それら」の体表には水滴は付着しておらず、足運びは獣のそれに近い。
息遣いはフイゴのように荒々しい。
皮膜の奥には潤んだような目が見え隠れする。
のどの奥で化鳥じみた囀りを交わしている。
その響きは、耳に触る不快な甲高さだった。
陰々滅々とした闇の帳に毒の鮮やかさが加わったかのようであった。
果たして、それが尋常のものであるはずもない。ましてや、人であろうはずもなかった。
強風と豪雨を携え、腐った水の臭いを纏うそれ。
暗闇に住まうその異形は、エジュフ。
南の魔女、彼らが言うところの「暗のなかの暗のお方」の意を受ける忠実な僕である。
この異形どもは、今まさに、主人のために動いていた。
彼らの使命は殺しである。
迷いもなく揺らぎもなく、命じられた通りに殺すのである。
この異形はただかの女の命を果たす為に生まれ、その為に彼らの手足は動く。
疲れを知らない彼らは諦めるということも知らない。
命を果たせ、命を果たせ「暗のなかの暗のお方」の為に。
それだけが脳裏に刻み混まれた言葉だ。
故に、恐ろしい。
彼らの名を知らぬ者はこの国にはいなかった。
それこそ、耳の聞こえない者、生まれたばかりの赤子に至るまで。
それは渦より生まれた古き闇の欠片と、胎児の心臓、かの女自身の血から生み出され、夜を歩いた。
彼らの目には瞳孔もなく、真っ白い真珠のような眼球が張り出していた。
これこそ「エジュフ(虚なる目)」の由来である。
その目の底には確かな知性がある。それは盲目の忠誠心と凶暴な野生の間に育まれた単純なものであった。
だが暗の中の暗、もとい南の魔女が求めたのは単なる手足であり、彼女は創造物に愛着はない。
ただ道具の役割を与えられたエジュフは考えない。
彼らの主人が思考する。
今も、エジュフの思考に強固に撃ち込まれた畏怖の楔は、彼らを促している。
底なしの欲望は貪欲に血を求める。
さらに急がなければならない、と彼らは衝動に突き動かされて走る。
彼らは、獲物を追っている。
捕らえよ。その手足を引き裂き、心臓は食らえ。
死体を分割し、骨を砕け。
それでもって彼らの欠落は贖われる。
手強い獲物だ。慎重で臆病だ。
だからこそ、よりいっそう勝利の味わいも深くなろうというものだ。
戦う為に作られ、そのことに最大の喜びを覚えるように調整された彼らだ。
カチカチと牙と嘴を打ち鳴らし、血生臭い興奮が指先にいたるまで溢れかえっている。
逃げるのも良い。立ち向かうも良い。
打ち滅ぼしてやろう。
風より彼らの足は速い。
肉は彼らの息吹の前に腐食する。
獲物を追い詰めるための脚だ。
獲物を捉える為の爪だ。
その為だけに彼らは生きている。
一声鳴き交わすと、彼らは音もなく風と一体になっていた。
風が鋭さを増す。
荒々しい息遣いは薄闇を飛び交い、間もなく彼らは雨の中に消えた。
灰色の帳は長々と残され、毒気は渦巻き、沈黙を広げていった。
1:焼ける腕
二日後。2人の旅人がこの路を通りかかった。
駄獣に乗ったものと、手綱を引くものの2人であった。
手綱を引く方は背中を丸めて暑さに耐えているかのようだった。口元からため息が漏れる。
「どうなってんだ、ここは。土砂降りかと思えば、次の日にゃかんかん照りだ。聞いた話と同じところがひとつもない」手綱をもっている方の言葉通りに、雨と黒雲は拭いさられたように消えている。強烈な太陽の光は締まった地面に突き刺さり陽炎を揺らめかせていた。平坦な道は確かに歩きやすかったが、暑さと、眩しいばかりの日光にさらされて気分は沈み、前にははるか続く、日陰のない、平坦な道がある。地表に滞留する度し難い暑さの中を彼らははるばるやってきた。
「荒地に近いってのはあ、そういうこと。魔女の瘴気がいろんなもんを狂わせるんだよ」ともう1人が片手で、目の上に日差しを作って空を見上げた。そうせねば仰ぎ見ることはできないほど、空は青々とし、天頂に登った太陽は白々しくも光っているのだ。
「もう少し日が落ちてからでもよかった…」と手綱を引いている男は項垂れる。背筋を伸ばして歩くだけでもチリチリと徐々に焼かれているように感じるまでの気温になるとは、知りようもなかった。彼らは旅人であった。旅人の中でも、根無し草と呼ばれる輩である。追放され、あてどもなく彷徨うものたちは、決まってそう呼ばれる。だが、彼らは悲哀を纏ってはいなかった。
男の言葉が、まるで滑稽極まるもののであるといわんばかりに女は笑う。にやにやと口の端をつりあげる。駄獣の背に跨っている女は、「しょうがねぇじゃん、こん土地のもんでも四六時中天気のことばっかし思ってるわけじゃねえんだろよ。どうなるか何て知ったこっちゃねえさ」と薄情に聞こえる言葉を口にした。彼らは仲の良い友人で良い相棒だったので、これくらいの軽口はもののうちにも入らぬ。
「バクージ、呑気なこと言ってられる身分じゃねえよ、俺たち」と疲れ果てた様子で、手綱を引く方は隣の相棒にささやいた。彼は休みたくて仕方がなかったが、「今日中に次の街につきてえんだよ。もう野宿はいいわ」と、ここ数日の悲惨な食生活を思い返していた。
「なるようになるさ」とバクージと呼ばれた女は言う。
「いくら野宿しても減るもんはないぜ。金の節約で結構かっこう」緑色の瞳が細められる。笑うと、無害そうな雰囲気になる顔の若い女である。小柄だった。羽織ったマントはかなり余っていたし、くすんだ髪は短く、耳は尖っている。小人族にしては大きすぎ、人間にしては小さい。幾つかの種族の混血かもしれない。そして、何よりも目を引くのは、右頰の大きな傷跡だった。その傷で顔はひきつれ、両目の大きさが少し不釣り合いになっていた。
「でもよう」と背中を曲げている男は、異常に背が高かった。背をかがめた姿勢においても頭の位置が、駄獣に乗った方と同程度の高さにある。女の小柄さはまだ常識の範囲内にあるが、この男のが背筋を伸ばせば、大抵の人間の男の身長は彼の肩の高さに満たないにちがいない。
それもそのはず、この男の肌は鱗にくまなく覆われており、顔はトカゲそのものという形相であった。
肌、もとい鱗は灰色の一般的な鱗族。
「俺が暑さに弱えってことくらい知ってるよなあ、てめえ。気まぐれで行く方向はあれこれ変える。金使いは荒い。ろくでなしとやることが大して違わねえ」
喉から次から次にこぼれ出てくる恨み節は不思議な抑揚で、ちょうど鼻歌に似ている。鱗族は音楽的な一族で、息を吐き出す際に、湿気をもった空気は喉に発達させた発生器官を通り、まるで歌うように言葉を交わすのだが、抑揚に乏しい他言語で喋る時には自然と独特の口調になってしまうのが種族共通の悩みだ。「それに、お前は頭も弱えからしょっちゅう負けっぱなしなんじゃねえのか」
バクージは、口を尖らせて反論した。
「いいじゃないかよぉ。たまには勝つこともあるんだし。プラフラも賭けをやってみれば?楽しいよ」
プラフラ、それがこの鱗族の男の名前である。
もっとも、鱗族の名は親の一族の名前、祖先の名前、尊称、職業、愛称を音楽的な響きを持つように(あくまで、鱗族にとって)組み合わせたものなので、正しくはアアッカ・ペルテステルトスラ・プラフラ・ソネストオ…という具合になる。
長すぎて本人さえもプラフラで通している始末。
バクージも、あえて鱗族の本名を知ろうなどという七面倒臭いことはしない。
そんなことなどどうでも良いのだ。
流れもの同士で、わざわざ余計なことをひっくり返し合う必要はないというのが彼らの持論である。
気があうから一緒に旅をしているのだ。かれこれ、この数年は上手くやってこれた。ただ一点、賭け事に関することを除いては、だが。
「イカサマばれて袋叩きになったてめえが言うか。もうやらねえって言ったじゃねえか」と言えば、すかさず反論を押しかぶせるバクージ。
「イカサマのことだよ。賭けやめる何て考えられないね。プラフラもやろう。お前も手つきが器用なんだからさあ。二人で組めば無敵だ無敵」
旅費をもう一人ぶん使い込んだ張本人は、愉快そうに言った。
「バッカみてえだあな。適当にほざいてんじゃあねえぞ、このチビっころ」とプラフラは鼻を鳴らした。「暇も長引けばろくなことしねえや。勝つんならそれもいいけどな。てめえのせいで何度しなくてもいい苦労をさせられたものか数えるだけで一苦労よ」
「チビっころ、チビっころ、うっせえんだよ。うすのろ。しゃあねんだ。指の数が足りねえんだからよ、ほれ」と指が3本の右手でプラフラの肩を叩いた。
全く、悪いとも考えてなどいないのだ。
プラフラが肩を竦めた。
バクージの手を振り払う。
「一回しか言ってねえぞ。そもそも賭け事してよ、楽しいのかよ。人の金使ってまでやるカード遊びは楽しいですかぁ」
「楽しい。楽しいに決まってんです。分かんねえのかよ、こうだな、ちょいといい宿に泊まったりさあ、贅沢できるくらいの金があるだろ」
はあ、とプラフラが気の抜けた相槌を打つ。
バクージが「それをごろっとかけるのが楽しいんだよ。むしろ、それ以上の楽しみなんか殆どねえだろ、実際」と、言ったところで、
横から「冗談じゃないね。金をドブに捨てるのはてめえで十分さね」とプラフラが鼻で笑うものだから、ますますムキになるバクージ。
プラフラは、顔色も変えず足を動かし続ける。
ものにも言いようがある。こんなやり方でたしなめられたならば、頭を冷やすどころかいよいよ意固地になりもする。当然、自身がすった金のことなど、とうに頭からすっぽ抜けていた。
どうせ明日にはけろりと忘れているのだとプラフラは半ば諦めている。
都合の悪いことなど覚える価値があるはずもない、と言い切り、その通り実行してしまう神経の太さは生来の性分か、環境によって育まれたものなのか。
バクージは、思いつきと感情で行動し、決断することは速い。
それが転じれば、たやすく短気さや粗暴となる。
その種の旅人らしさが顰蹙を買うことは、今に始まったことではない。
プラフラは、バクージの癇癪を受け流すのには慣れている。
不機嫌さも相まって不毛な言い争いを再開しようと「なあ、プラフラよお」とバクージが睨み、プラフラは、わざとらしく耳を塞ぐ。
そうすればバクージは、もうたまらない。
ぐっと眉を上げ緑の瞳に感情も露わに「てめえは…」
そのとき、バクージが突然言葉を切り、はるか遠くを見つめた。
不意に訪れた静寂の中に、耳をすますと、唸りのような低い声が聞こえてくる。
なだらかな丘の稜線の上に舞う黒い影。
それらが互いになきかわしつつ舞い降りていった。
「どうしたんだ。何が見える」
ぎょっとしてプラフラが足を止めると、手綱を取られている駄獣の歩も止まり、バクージは改めてそれをはっきりと認識した。
空を舞う、尾巻鳥の群れ。
尾巻鳥は、長く伸びた尾と冠のような飾り羽を持つ美しい鳥だが、一方で死骸あさりの習性を持つことで有名である。
彼らの嗄れた鳴き声は、仲間を呼び寄せ、食事の存在を知らせると言われている。
駄獣が怯えたように首をもたげた。プラフラは、彼の疑問に自分で答えた。
「ああ…死体だな。それも多いんだな」と、無感動に鳥達の昼食会を眺めやりつつ、彼は駄獣の鼻面を撫で、落ち着かせた。
「ああ、なんかあったんだな」と目を細めるとバクージは頬の傷をなぞり、しばし黙った。
死者を弔うためではない。悩んでいたのだ。
無関心というより葛藤の表情が、非対称の目の中で揺らいだ。
やがて、バクージはプラフラの方を向いた。「何か、金目のもんが取れるかもしんねえけど、こんだけたくさん死んでやがるとすると何があったかの方が気になるな。どうする?行ってみるかい」
俗に言えば死体から、金をかっぱらうということである。
ここでは死体あさりは、横行していると言っても構わないだろう。
どうせ旅人など身寄りも縁もない来訪者であるから、金目当てで襲われ殺されることもあった。
行倒れた旅人の死体はいつの間にか消えているということもままある。
誰も使わないものだ、それならば自分が使ってもかまうまい、と考えるものは何処にでもいる。
彼らの切り替えの速さも、旅人らしいとも言える。
こんな状況に慣れているとも言える。
「どうすっか、行ってみてから確かめようかね」
「そうしようぜ。どうせもらっといても構わんだろ」
プラフラは言って、駄獣の手綱を手荒に引っ張った。
「果たして、どうなるもんやらな。うまくいけば、いくらかの銭で俺らの懐が少しは暖かくなるかもしれない。だいたい、てめえが金を使い吸い過ぎたのが悪いんだ。金がまだ少しは余っていること、せいぜい期待しようや。あと、身元がわかりそうなもんは残しとけよ。売るときに揉めることもあるから」