嘘を正して真実を語ろう
嘘を正して真実を語ろう
少し前の章――
あの日、あの時、あの場所に
には嘘があるので、それを正して書き直す。最初から書き直すつもりで、嘘の部分は*三つで挟んで書いている。その少し前から書き直していく。
クローゼットの中で息を殺している私にはハッキリとはわからないが、彼女とその夫らしい男――坂東善との激しい言い争いが聴こえ、それを何とか止めようとする尾崎夫妻らしき声が聴こえていたが、やがて彼女と坂東善だけの声になり……
* * *
私はそのままクローゼットの中で息を殺して二人の大喧嘩の音だけを聞いていた。
しかし、やがてそのまま静かになった。
そのまま、じっと時が過ぎるのを待った。あれほど騒がしかったのにまったくの無音になってしまって、ただ自分の息遣いの音しかしない。
いつまでもクローゼットの中に隠れているわけにもいかず、意を決して外に出た。ズボンを履いて――
居間に彼女が突っ立っていた。私を見るなり抱き着いてくる。私は激しくそれを拒絶した。
彼女が激しく泣きじゃくり始めた。
「聴こえてたでしょ? もう、あんなやつとは別れるから」
「別れたところで君とは結婚はできない。僕らは――」
「そんなことはわかってる! だからあなたの子供が欲しいのよ。子供だけでいいから、お願い!」
結局は同じことの繰り返しだった。
いつもならそういう彼女を何とかして宥めるのだが、流石にその日は怒りが治まらなかった。ただ、醒めた目で彼女を眺めていた。
「もういいよ!」
彼女が足早にキッチンに行き、手に何かを持って戻ってきた。
――牛刀――肉切り包丁だった。
「死ぬから……、もう死んでやるから……」
震える両手で牛刀を自分の喉元へ突きつけた。
それでも私はずっと醒めた目で彼女を見ていた。
「止めないの? 本気だよ。私、自殺するよ!」
くだらない……
心底、くだらない
そう思った。
「ご自由に」そう言ったとき、
彼女が牛刀を喉元から離した。
「あなたと一緒に死ぬから。あなたを殺して私も死ぬから」
それでも私は妙に落ち着いていた。
彼女が震えながら、私に牛刀の切っ先を向けたとき、私は交差法的返し技を繰出していた。すべてがスローモーションのように思えた。少しだけ武術の嗜みがあった。
彼女の手からすんなりと牛刀を奪い……
――怒り、だった。
いや、少し違う……
違ってほしい……
確かに怒りはあった。だが、怒りに我を忘れて動物的に彼女を殺したはずはなかった。
正直に書けば……
心底嫌になったのだ……
彼女から牛刀を奪うのは簡単だった。
そうしたら、彼女は泣きだして、また「あーだ、こーだ」と自分を主張し始めるに違いなかった。
不倫関係の解消はもう何度も提案してきた。しかし、いつもなし崩し的に……
もう心底嫌になって……
牛刀を彼女の胸に突き刺した。
私は医者だ。胸骨を避け、第5と第6肋骨の隙間にすばやく、牛刀を差し込んだ。勿論、心臓を狙って……
自分勝手な話かもしれないが、私にはそうする権利があるような気がしていた。
彼女はその場に倒れ込んだ。
* * *
と、玄関の鍵が開く音がした。咄嗟に再びクローゼットに隠れる。
誰が入ってきたのか? それはわからない。いや、自分は顔がわからない。仮に入ってきた人物の顔を見たとしても誰だかわからないだろう。
クローゼットの中で観念していた。入ってきた人物は救急車を呼ぶだろう。ひょっとしたら警察を呼ぶかもしれない。それでクローゼットの中にいる私はどうなるのだろうか? 間抜けな間男であることを白状するしかないだろう。
その人物はクローゼットの近くまで来たようだった。音しか聞こえないが、ウロウロと歩き回っている。
「パパ、……助けて……」そう声がはっきり聴こえた。「勝男です。姉さんが……」
どうやら勝男が父親に電話しているらしかった。
「姉さんが死んでるかもしれない」勝男の声は狼狽していた。
これが真実……
牛刀は彼女の胸に突き刺さったままだった。身を隠す方が優先すべきことだった。
とにかく、嘘は正した……
できれば、嘘は嘘のままで通したかった……




