あの日、あの時、あの場所に
あの日、あの時、あの場所に
あの日、あの時、あの場所に私はいた。
長々と彼女との不倫の話を書いてきたが、読者も薄々気づいただろう。
佐藤良美――旧姓尾崎良美が殺害斬首された日のまさにその時、私――尾崎凌駕はそこにいたのだ。殺害現場の佐藤稔宅に私はいたのだ。
別荘の惨劇は二人のミステリー作家、尾崎諒馬と坂東善が現場にいて――嘘の記述も混ざっているが――このミステリーに詳しく記述されている。さらには隠しカメラもあって、その映像も文章化されている。
しかし、惨劇の発端となった佐藤稔宅での惨劇については――首猛夫が小説として想像で書いているのはあるが――誰も現場におらず、詳細が文章化されてはいない。
なので、ここで詳細を書こうと思うのだ。
そうなのだ。
あの日、あの時、あの場所に私はいたのだ。
その日も私は彼女の自宅に呼び出されていた。不倫関係はやめたいと常々思っていたが、別れ話をするために、毎回呼び出しに応じていた。
話し合いをするために彼女と会うのに、彼女の自宅を訪ねるのはどうかと思うが、彼女は毎回「自宅に来て」そう言って譲らなかった。
それと――
失顔症――相貌失認が故の不安……
最近はすっかりその障害にも慣れているが、当時は正直不安だった。彼女の自宅以外で彼女と会ったとして、本当にそれが彼女――佐藤良美、旧姓尾崎良美なのか? それが自分にわかるのかどうか……
特に二人の良美に同時に会った時、その二人を区別できなかった体験がその不安を増長させていた。
それで、私は呼び出しに応じるしかなかった。
当然、不倫関係を終わらせたい、と私は切り出し……
彼女は泣いてそれを拒む……
それで……
いや、詳しくは書かない。大体読者の想像の通りだ。なし崩し的にことが始まってしまう。
問題はその後だ。その日はその後が異なっていた。
そうしたことが行われて、半裸の時に訪問者が……
間抜けな間男となった私は半裸のままクローゼットに隠れる羽目になった。
彼女の夫と弟夫妻が訪ねてきたのだった。
真相(首猛夫による小説) 佐藤稔宅での斬首事件
は、首猛夫が想像で書いたものだが、確かに――
――二人は口論に……
いがみ合う二人が手に負えなくなり、尾崎夫妻は佐藤夫妻の自宅を早々に引き上げた――
そう書かれているような展開だったようだ。
クローゼットの中で息を殺している私にはハッキリとはわからないが、彼女とその夫らしい男――坂東善との激しい言い争いが聴こえ、それを何とか止めようとする尾崎夫妻らしき声が聴こえていたが、やがて彼女と坂東善だけの声になり……
* * *
私はそのままクローゼットの中で息を殺して二人の大喧嘩の音だけを聞いていた。
と、彼女の悲鳴と大きな音――階段から転げ落ちる音が響いてそのまま静かになった。
そのまま、じっと時が過ぎるのを待った。あれほど騒がしかったのにまったくの無音になってしまって、ただ自分の息遣いの音しかしない。
いつまでもクローゼットの中に隠れているわけにもいかず、意を決して外に出た。ズボンを履いて――
そして、階段の下に彼女が倒れているのに気付いた。
救急車を呼ぶべきだったが、自分のことをどう説明すればいいのか? わからなかった。それでそのままその場に立ち尽くしていた。
* * *
と、玄関の鍵が開く音がした。咄嗟に再びクローゼットに隠れる。
誰が入ってきたのか? それはわからない。いや、自分は顔がわからない。仮に入ってきた人物の顔を見たとしても誰だかわからないだろう。
クローゼットの中で観念していた。入ってきた人物は救急車を呼ぶだろう。ひょっとしたら警察を呼ぶかもしれない。それでクローゼットの中にいる私はどうなるのだろうか? 間抜けな間男であることを白状するしかないだろう。
その人物はクローゼットの近くまで来たようだった。音しか聞こえないが、ウロウロと歩き回っている。
「パパ、……助けて……」そう声がはっきり聴こえた。「勝男です。姉さんが……」
どうやら勝男が父親に電話しているらしかった。
「姉さんが死んでるかもしれない」勝男の声は狼狽していた。
「違う……。僕は殺してなんかいない……。僕じゃない……」
勝男はクローゼットの近くをウロウロしながら電話を続けていた。
「……助けて……。パパ、助けて……。違う。僕じゃない。僕は殺してはいない。僕じゃないって!」
そう声が聴こえたが、やがて静かになった。
どれだけ時間が経っただろうか? 私はクローゼットの中でただじっとしていた。そうするしか仕方がなかった。
しかし、いつまでも隠れているわけにもいかなかった。どうしようもないので、私は覚悟を決めてクローゼットの外に出た。
そして――
私が見たのは首のない彼女の死体だった……
その時、私に何ができたのだろう……
やるべきことは警察に電話することだったのだろうが……
私にはそれができなかった。状況を説明できるはずもなかった……
読者がどう思うか? それはわからないが、少なくともその時に私には警察に電話する選択肢はなかった。
呆然とその首無し死体を眺めていた。しばらく前は首があったその死体を眺めていた。
確実に思ったのは――
首を切断したのは勝男だ、ということだ。
――勝男にだけは近づくな――
母が最期に残したその言葉が頭の中で繰り返されていた。




