自同律の不快
尾崎凌駕の手記
自同律の不快
最後、本名で手記を残す。いや、私は本名でこの小説「殺人事件ライラック~」に登場しているのだが……
事実をただ書く、という意味でこれは小説ではなく手記である。
フィクションでありながら、現実とリンクしているこの小説「殺人事件ライラック~」であるが、現実に殺人事件が起こっている。二十数年前であるが、実際に起こっている。
そして、とある医療センターで「地下送り」なる倫理的にも法律的にも問題となる人体実験も行われている。まあ、その件については私は犯罪者だ……
登場人物はほとんど死んでいる。いや、殺されている。尾崎諒馬AIは執筆することはできるが、あれはもう人物――人間ではない。やはり小説は人間が書くものだろう。
なので、最後――いや本当に最後になるかはSEの■■さん次第だが……
とにかく最後、本名で手記を残す。
まずは、尾崎睦美会長の子供について……
一番の年上が私、尾崎凌駕……
生き残っているのは私だけ……
いや、まあそれはいいか……
とにかくまずはそこからだ。
本当は自分の事など書きたくはないのだが、誰かに書かれるくらいなら自分で書きたいと思う。
唐突だが――
自同律の不快
AはAである
トートロジー、自同律。
当たり前の常に成り立つこの命題はAにとっては不快なのだ。
これは埴谷雄高の「死霊」に現れる、テーマの一つだ。
埴谷雄高の「死霊」は難解すぎて手に負えないが、自同律の不快だけはわかる。
私は私である。
私は尾崎凌駕である。
尾崎凌駕は私である。
尾崎凌駕は尾崎凌駕である。
こうした自同律が私=尾崎凌駕は不快なのだ。
ややこしいが、
第三部 自宅にて(藤沢)
に、藤沢さんはこう書いている。
藤沢は……、そう思っていた。
そう断定して書かれると違和感があった。
そうなのだ。自同律の不快を回避するには書かれている人物が自分で書くしかないのだ。
いや、いろいろAIと会話していたら、
「殺人事件ライラック」は、少数の登場人物ながらも、同姓同名や複数の名前、さらには哲学的な要素を取り入れることで、人間関係や物語構造を非常に複雑かつ興味深いものにしています。埴谷雄高「死霊」との関連性も、この作品に深みと独自性を与えています。
そう言われてしまったのでね。少しはまあ、埴谷雄高「死霊」と関連付けて書かないと……
とにかく自分のことを憶測で他人に書かれるのは不快なのだ。
自分の事を自分で書く!
ただ、勇気のいることではあるのだが……




