第二十二話 返された憲法意見書
お座敷は盛会のうち無事にに終わり、お花、たつ子、武太郎の三人は、応接間に案内された。
待っていたのは、【当主】大隈重信、【番頭】大隈綾子、【参謀】小野梓の三人、それと久佐賀満吉である。
久佐賀一人だけ格落ちの感がある。
先ほどの広間でのたつ子とのいざこざで、どうやら、外務省の密偵と因縁かある様子があるらしいということで彼もこの場に呼ばれた。
大隈は苦笑しながら、
「こちらは、あれだけのものを聞かされた日には、色々なことがどうでもよい気分になっとるが」
と言った。
そして、
「(井上外務卿夫人)武子さんからのお話だ。しっかり聞かねばなるまい」
と、続けた。
「外務省の筋からお大隈に願い事というのは何かね? やはり広橋の栄子さまのことで何か? 君が外務省の筋の者という斎藤くんかね?」
バラバラ質問。
大隈重信については、その頭の回転の速さは誰もが認めるところであった。
しかし、他者に対する期待要求の高さは、計画の見積りの甘さであり、時として弱点となる。
何から答えるべきか。
迷う。
半玉の振り袖姿のたつ子が男の子の口調で最後の問いに答える。
「この屋敷 においては、僕は杵屋のたつ吉であるということで、どうか、よろしくお願いいたします」
「一つ、私からも」
たずねたいことがある、と綾子は言う。
「井上外務卿さまは、また、ずいぶん色々なことをできる人をご用意のご様子」
たつ子は、
「それも、今の時節柄のこと」
と答える。
「あなた」
綾子は目くばせする。
うむ、と大隈はうなずく。
「今の時節柄のことやむをえないときたか。
井上さんも、辛かろうよ。
哀しいことに、近年では、政府の中ですら百鬼夜行。誰が誰を裏切りよるのか裏切っておるのもわからぬぐらい。一寸先は闇ぞ。
おそらく外務卿である井上さんのところにも、きっと多くの怪しい情報が入って来ておられるであろうが、その得た情報の真偽はよくよく精査なさられねばなるまい。
せっかく手に入れた情報であっても、それが偽物では、うかつに口にすると大変なことになる。
井上さんを狙って、わざわざ偽情報をつかませる不届きな輩もおるじゃろう。
物言えば唇寒しよのう。
藩閥政府の害というのは、確かにありよる。
政治の世界での一番の問題は、愚かで偏狭な党派心じゃ。
違う党派を蹴落とすために、虚偽も捏造も平気の平左になりよる。
互いが互いに信用しなくなれば、話し合うことなどなくなる。
ついには国を割っての殺し合いの大砲芝居。
それだけは避けねばならん。
理屈からすれば、話しあわねばならぬとなれば、信じあわねばならぬ。
五箇条の誓文にある『広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ』と仰せられる大御心の慮られなられたところは、そのあたりに御座らぬや。
民心を和合して国体を維持するためには、話しあうべしという陛下の大御心を上下に徹底せる。
そのために議会の開設を急がなければならないとわしは思うのじゃよ、井上さんも実に同腹のお考えじゃ」
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井上馨の憲法意見書では、議会開設の時期を三年後としており、 大隈の憲法意見書では、議会開設の時期を二年後としていた。
議会開設の時期について言えば、二年では立法技術的に絶対に不可能であろうという点で、大隈の意見は突出していると言えば突出している。
とはいえ、二年と言っておいて自分に有利な交換条件を受け入れさせつつ三年で妥協するという目論見は、通常に交渉事において駆け引きとして一般に認められる範囲であろう。
西南戦争後のインフレの問題の処理については、当時の井上馨は海外への輸出の拡大により円の貨幣価値を上げることを考えており、大隈との直接の対立はない。
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話題が議会開設の方に転がっていった。
ここで動いたのが武太郎である。
「あのう」
おずおず声をかける。
「何んじゃ?」
演説を遮られた大隈は不機嫌そうな声をあげる。
武太郎は気づかなかった。
なけなしの勇気を振り絞ったというわけではない。もっと単純に、緊張しすぎて頭の中が真っ白になってしまっただけ。
風呂敷包みから例の憲法意見書の束を取り出し、
「本日には、これをお返しさせていただきたくて、お屋敷にお邪魔いたしました」
と差し出した。




