〈5、現在――清原さんとシャボン玉〉
目が覚めると朝だった。
俺の目の前では、テレビが朝のニュースを報道している。
しまった……テレビを見たまま眠ってしまったみたいだ。電気代ヤバいな……。
座ったまま固まっていたせいで痛む首を回しながら、とりあえずテレビを消し、その場を片付けた。
それから、寝室に入ると、兄さんは俺用になるはずだった布団にまで侵入して、二人分のスペースを使ってがあがあ寝ていた。
……このオヤジが。
「おいっ! 兄さん! 絢斗兄さん! 起きろ! 俺もう会社行かないとだから!」
ゆさゆさと兄さんの体を揺さぶる。
「うう……うるせぇなぁ……日曜くらい寝かせろよ真奈美……」
「今日は日曜じゃねーし俺は悠人だ! 誰だよ真奈美って! 彼女か!? 同棲でもしてんのか!? さっさと結婚しろ!」
その場のノリで、自分でも訳のわからないめちゃくちゃなことを叫んでいると、ようやく兄さんが目を覚ました。
「お……悠人。おはよう」
「おはようじゃねぇよ。ただの駄目なおっさんになってんじゃん、兄さん」
「お前……そんなこと言ってたら何かやらかしても弁護してやんねーぞ」
「いらないから。何もやらかさないから。ほら早くどけよ。布団片付けるから」
「へいへい。うっ、いてて……頭いてぇ」
「二日酔いだろ! 飲み過ぎなんだよ人ん家の酒を! 今日仕事ねぇんだろうな!」
兄さんを布団から追いやって、布団を適当に畳む。すると、兄さんがぼんやりした顔で俺を見て、
「そういえば、お前昨日の格好のままだな。寝てないのか?」
「ちゃんとはな。誰かさんのいびきがうるさくて寝られたもんじゃなかったから。そっちでテレビ見てて、気付いたらそのまま」
「何だよ、結局寝てんのかよ。オレのせいにするな」
何でそんな呆れたような目を向けてくるのか全然わかんないんだけど。
まぁそれはさておき、出勤まであまり時間もないし、軽くシャワーを浴びて着替えるとしよう。
「なぁ悠人。飯は?」
能天気に聞いてくる兄さんに、俺はちょっとイラッとした。
「ねぇよ! 俺も今起きたんだぞ! 食いたかったらどっか外行って食え!」
そう言い残して、俺は脱衣室の扉をぴしゃりと閉めた。
今日はいつもより出勤が遅かった。もう既に何人か出勤している。
清原課長は、特に気にした様子もなく、「おはよう」と挨拶したきり自分の仕事に専念している。いつも通り早く来たらしく、ホワイトボードもきれいにまとめられ、オフィスないも掃除されていた。観葉植物も元気そうだ。
それが当たり前なんだけど、それでも俺はなんとなく、少し寂しいような気がした。『おはよう』以外にも何かあっても良さそうなのになぁ……なんて、なくて当然だけど。
「よう、桂木。今日は珍しく遅かったな。寝坊か?」
「まぁそんなとこだ」
自分のデスクに着くなり佐々に話しかけられたが、遅れを取り戻さないといけない俺はあまり相手をしてもいられない。
すぐにパソコンを立ち上げ、仕事にとりかかる。
「お前も真面目だよな……だんだん課長に似てきたぞ」
呆れたような佐々の声は、聞えなかったふりをすることにした。
昼休み。
昼食を食べ終えてオフィスに戻ると、いつもこの時間には戻っているはずの清原さんがどこにもいなかった。他の人も、いつもと同じようにいなかったけど。
気にすることでもなかったけど、俺はなんとなく暇なので、捜しに行くことにした。
外にある階段を下りて階下に行こうとすると、視界の端で何かが動いた。
見ると、それはシャボン玉だった。
「…………?」
会社の中でそんな子供じみた物を目にするとは思っていなかった俺は、そっちに向かってみた。
シャボン玉の発生源は、すぐに見つけた。それは、階段に座って、シャボン玉遊びで一番よく使われる、あのストローみたいなものを吹いている清原さんだった。
「……清原さん?」
ちょっと驚いて声をかけると、清原さんがこっちを見て、悪戯っぽい無邪気な笑みを浮かべた。
「あ。見つかっちゃった」
その瞬間――俺はまるで全く違う場所にいるかのような錯覚に陥った。
これは……そう、兄さんの話のせいか、夢うつつに浮かんだ、昔の記憶そのまま。
俺は5歳で、周りは林で、目の前にはシャボン玉をつくる女の子……『くすのきはるか』さん。
「……あれ? どうしたの? 桂木君」
ハッと我に返る。清原さんが訝しげに俺を見ていた。
俺は、少し迷った後……。
「……シャボン玉を追っかけてたら……ここまで、来ちゃったよ」
なぜか、記憶が正しいのなら昔言ったのであろう言葉を口にしていた。
それに対して、清原さんは懐かしそうに微笑む……
「……う、うん? そうなんだ?」
なんてことはなく、普通に首を傾げた。
「すみません、何でもないです。――と、ところで、清原さんは何でシャボン玉なんて……?」
頬が熱くなるのを感じながら、俺は慌てて話題をそらす。
そりゃあ……いくら記憶と名前が一緒だからって、あの『はるかおねえさん』とこの『清原遥香さん』が同一人物な訳ないよな。そんなベタな物語的展開が現実世界にあってたまるか。そもそも名字が違うじゃないか。『はるか』なんてよくある名前だし。
そう考えて自分を落ち着けていると、清原さんが少し気まずげにシャボン玉液の容器の蓋を閉めた。
「う~ん……と、ね。私の家の近所に住んでる知り合いの男の子がいね。今6歳なんだけど、その子がこの間お祭りに行って、くじで当てたのがこのシャボン玉なの。でもその子、シャボン玉嫌いらしくて。捨てるのももったいないし、私は小さい頃好きだったから懐かしくて。仕事ばっかりだし独身なのに、ついもらっちゃった。でも暇じゃないからここで隠れてやってたんだけど……」
ティッシュでストローについた液を拭い、小さな袋に容器とストローと使ったティッシュを一緒にして入れてから鞄に仕舞う、という動作をしながら説明する清原さん。
……駄目だ。どうしても『はるかおねえさん』とイメージがダブってしまう。
清原さんが、ごまかすためなのか、本当に気になったのか、俺の方を見て、
「それより、さっきのセリフは何よ? 小説か何かにあったの?」
と言って吹き出した。
「ちょっ……な、何でもないですってば。忘れてくださいよ」
「あはは、わかったわかった。んじゃその代わり、桂木君もここで見たことは忘れてよね」
清原さんは笑いながら、そのまま階段を上って行ってしまった。
俺は……そこから動かなかった。動けなかった。
……本当、だろうか。
本当に、『清原遥香さん』=『はるかおねえさん』の方程式はあり得ないんだろうか。
俺はなんて馬鹿なことを、と思いながらも、改めて考え出してしまう。考えずにはいられない。
俺の夢うつつの記憶が正しいのなら、正しいのならだ。その大前提は忘れてはいけない。けど、それにしたって思いでの中のあの子と清原さんには共通点が多すぎる気がする。
まず、言うまでもないが、名前。名字が違う、とさっきは思ったが、今考えれば、あの子の話を『彼女の両親は離婚したのだ』と受け取れば、名字が変わっていることにも説明がつく。父方の『くすのき(漢字はわからない)』から、母方の『清原』の姓に変わったと考えるのだ。
それから、年齢。今俺は25歳で、清原さんは30歳。昔は、俺は5歳であの子が10歳……年齢差が同じ。
そして……あの子も清原さんも、シャボン玉が好きだった……。
俺が『はるかおねえさん』について知っているのはこれくらい。だから断言はできないけど……。
まさか……本当に、清原さんは……。
「……いや。そんな夢物語。あり得ない」
思わず口に出して呟く。
そう、そんなことはあり得ない。あり得る訳がないんだ。
第一、どうせ20年前の微かな記憶だ。色々間違っていて然るべきじゃないか。大前提がおかしいという可能性だってあるんだ。
そう、清原さんを……清原遥香さんを知っている今だから、きっと妄想と記憶がごっちゃになってるんだ。記憶の中であの子が話したことだって、話をもっともらしくするために付け足されたものなんだ。だって、おかしいじゃないか。20年前のことをそんなに鮮明に思い出せるなんて。
そうじゃない、そうじゃないと思いたい、なんて淡い期待を持ちたい俺も頭のどこかにはいたけれど、俺はやっぱり、そう結論づけることにした。
『清原遥香さん』≠『はるかおねえさん』である。
だからどうって訳でもない。たとえ俺の記憶が正しくても、清原さんがあの女の子だとしても、そんなこと向こうは覚えてないだろうし、気にもしないだろう。たかが2回会っただけの男の子だ。当たり前じゃないか。馬鹿なことを考えてる暇があったら、今清原さんに好意を持ってもらえるようにならないと。
昼休みもそろそろ終わる。
俺はオフィスに戻ることにした。