隔壁の春
春が来た。
桜が咲いた。窓から見える公園の桜がピンクに染まっていた。
佳奈は窓辺に座って本を読んでいた。京子が買ってくれた小説。
京子は仕事部屋にいた。締切が明後日だった。でも焦っている様子はなかった。佳奈がいるから。
佳奈は本を置いてキッチンに立った。今日の夕飯はハンバーグにしようと思った。京子が好きなものを半年で色々と覚えた。
冷蔵庫を開けると卵が二つしかなかった。
「京子さん卵買ってきます」
「うん気をつけて」
スーパーまで歩いて五分。佳奈はコートを羽織って出かけた。
外の空気が冷たくて気持ちよかった。春の空気はどこか甘い。桜の匂いかもしれない。
スーパーで卵を買って帰り道を歩いているとすれ違う男性が佳奈を見た。今はその視線が苦じゃなかった。この体もこの髪もこの声も全部自分だと受け入れられたから。
マンションに戻ると京子が仕事部屋から出てきた。
「おかえり」
「ただいま」
「卵買ってくれた?」
「はい」
「ありがとう。あのね一枚描き上がったの」
京子は手に持っていた紙を佳奈に見せた。
そこには佳奈がいた。窓辺に座って本を読む佳奈。横顔。髪が耳にかかって光が当たっている。目は優しくて唇は少し笑っていた。
「——私ですか」
「うん。佳奈ちゃん」
「綺麗」
「でしょ?」
京子は得意げに笑った。子供みたいな笑い方だった。
「これ表紙にするの。次の画集」
「え」
「タイトルね『隔壁の春』って言うの」
「隔壁の春?」
「隣の部屋に春が来たって意味。私の隣に佳奈ちゃんが来たから」
佳奈は絵を見た。そして京子を見た。
「京子さん」
「何」
「大好きです」
「私も」
二人はキッチンで抱き合った。卵が入った袋がカウンターに当たって音を立てた。
窓の外では桜が散り始めていた。花びらが風に乗って舞っている。
2人の部屋に春が来ていた。




