読めたか
「…あれ?」
マザアに近付くなと言ったその舌の根の乾かぬうちに該当場所に連れて来られるというのは、いったい。
「どういうこっちゃ」
ねぇ、どゆことです?と顔を上げるとでかでかい体躯。
「見たらしいな」
しかし目線の問いに返ってきたのは別の問いだった。
「えっと、何がでしょう」
「マザアの中だ。何かを見たらしいとリクリが教えに来たが」
くい、と首を傾げる狼。それは一般的に幼い子どもがやってかわいいものであり、がっしりした大人がやった場合はガンを飛ばしているようにしか見えない。そもそもこの狼、通常営業で顔が恐い。
「ここでも見えるか」
指差されたのは揺らめく水面。素直に視線をそらして覗きこんだ先にはゆらゆら包帯がまたあった。
ゴミなのか、透明度の高い湖に見えるがゴミが意外と多いのか。
「この、これ?」
水中に指を突っ込みかけて、リクリに怒られたことを思い出したコタは少し腕を引き戻す。
「それはな、ディタという。記憶のことだ。形の無い状態のものを記憶、形のある状態のものをディタと呼び分ける」
「なんでわざわざ言い分けるん」
つまりは形が違うが同じものなんだよね、と少年は疑問に思う。
「見えないからだよ。一般的にはディタは目に映らない」
大きな瞳を半分伏せてリクリが教えてやる。
記憶は目に見えなくて当たり前だ。それがマザアに落ちてくる過程で形を成す。
巻物のような書籍のような見た目のそれを読み分けて本来の持ち主に返す職業がある。ディタとなった落とし者の記憶をマザアの中から寄り分け、落とし主に返す分野でのプロフェッショナル。これがクロクシたち落プロの仕事。
ディタを見て読み取れることが最低必須条件の非一般的職業。
「僕にはただの水にしか見えない」
マザアに目を移したリクリの瞳には透明度の高い水が反射するだけで。文字が記された紙の様だというものはどこにも見つけられない。
「落プロさんにしか見えへんものが、なんでおれに見えるん」
どなた様かの大事な記憶をゴミだと一瞬でも思ったことを胸中で謝っておく。
「そういう特質を持ってるんだろう。そう滅多にいないが、見える奴は最初から見える。見えるからといって無条件で落プロになるわけではないがな」
お仕事って選ぶものやし、それはそうなんだろうと少年は安直に思う。
「これはどんな記憶か分かるか」
コタの隣にしゃがみこみ、一番近くにある包帯改めディタを指す。
まじまじ指された先にあるひらひらをよく見てみると、確かに何かが書いてあるが。
「読めへん…。ちょっと、顔入れてみてもいい?」
クロクシの顔を仰いでみると一拍考えた後、いいぞと返ってきた。
「ただし、顔だけだ」
服の背がぐわしと掴まれる。
ざぽん。両手を限界まで曲げ、胸をほとんど地面につけながら小さな頭が水に浸かる。
「お、わぁ…やっぱりきれいやなぁ」
水中はまるで街中だ。
それは花屋の店先だったり、丘の上だったり食卓だったりばらばらではあるけれど、人が行き交い営み確かに、生きている世界。
「これが、記憶、なんよな」
不思議な不思議な世界だ。
さて。クロクシの言っていた記憶はどれのことなのだろうか。岸の近くにあった記憶、いやディタなのだから、今見えている近くの景色のどれかなのだろう。
「よし」
ざぱん。両手を伸ばし、胸を地面から離して小さな頭が空に戻る。毛先から滴り落ちる雫に違和感を感じるほど、少年のどこにも濡れた様子はない。
「読めたか」
服から手を離しクロクシが問う。
「えっと、積み重なった本の雪崩に巻き込まれた記憶?」
「雪崩、か?」
「あ、違うんや。じゃあ、かくれんぼの最中に落とし穴にはまったやつ」
「落とし穴」
「これも違う、と。ほんならかけだしパン職人のかまどが焦げ付いた、でどうや!」
もはやクイズ解答者のノリである。
「それだ」
「やった当たりっ」
いえーい、と両手を上げて喜ぶ少年を見つめる狼と兎。
一つを聞いただけなのになぜ三つも答えが出てくる、とちらりマザアに視線を移した狼は数秒後合点のいった顔をしかけ、ちょっと待てよと思う。
一つ目と二つ目のディタは三つ目、つまり答えのディタ付近にあった。どのディタを指されたのか曖昧だったのかもしれない、これはいい。だが。
「なぜかけだしだと思った」
パン職人は確かにかまどを焦がしている。だがそれがかけだし職人だったことを示す文面はどこにもない。少なくとも、ここから読み取れる範囲の中には。
「お兄さん若かったし、制服?の白い服も新しそうやったし。周りに置いてある荷物も、なんか引っ越した後みたいな感じでごちゃついてたから」
コタはきょとんとクロクシを見上げる。
「あれ、もしかしてものすごい職人さんとか?若くても凄い人は凄いもんな。えっと、ごめんなさい」
後半は水面に向かっての謝罪。ぺこりと頭を下げる様は今のような状況でなければ微笑ましく映っただろう。
「どういうことだ」
多少の混乱が落プロを襲う。いや、多少などといえるかどうか。
「コタ、お前は読んだんじゃないのか」
「読む?」
「ディタに書いてある文面を、読んだのではないのか」
「ううん、おれ文字読めへんみたい。ただの記号にしか見えへん。それより水の中で直接景色見た方が早いやろ?」
こともなげに言ってのけた少年は知らなかった。
知らなかったがゆえに、大きい瞳をさらに大きくしてかぱーんと口を開ける兎と、マザアを指差しカキンと固まってしまった狼をただ不思議そうに見上げるのみ。いつ動き出すのかなぁと呑気に思いながら。




