よく寝れますねぇ
トントン。
紙の束を机に打ち付けるような音で、少年は眠りの底から引き上げられた。
「…ん?…んー」
ここは何でどこで自分はどんな状況だ?という疑問が、ん。の一言でまとめられていたが、二秒後には同じ一音でまあいっかとりあえずもっかい寝よ。の答えに変換された。
「起きたか」
ところがもぐり込んだ掛布をべろっとはがされて二度寝は邪魔される。
「んんー」
起きてませんの表示として少年は枕と敷布の間に頭をつっ込むが、あっさり枕は持ち上げられてまたしても二度寝は許されず。
「一度目を覚ましたなら起きろ。朝だ」
なんだこの目覚ましすごい低音。それからまだ起きてないってば、寝てる。の意思表示として、膝が額に近付くほど体を丸める。
首筋と背中にちょっと違和感を覚えたが、それよりも眠気が勝った。
「コタおはよっ…」
バタンとドアを押し開けて入ってきたのは兎。
斜め上に立った、左先だけちょこんと折れた耳。短毛種だが、耳に挟まれた頭部だけふっさりとした長毛である。全身アイボリーの中、そこだけ目立つ蛍光緑。大粒の木の実を思い出させる瞳が映したのは、狼に首根っこを掴まれてぶら下がっている少年。
足が地に着いていない。完全に宙に浮いている。というか狼の腰下あたりに力なく垂れている。ぷらーんと。
「……え?」
たっぷり十五秒程その状態を上から下へ、下から上へと確認してから兎は自分の上司へと目を向ける。
「どど、どうしちゃったんですかクロクシさん。なんでコタの首絞めちゃってるんですか」
「リクリよく見ろ、絞めちゃいない」
あわあわし出した見習いに見せるべく、クロクシは少年を掴んだ右手を軽く上げる。ぶらん、と少年の手足が揺れる。
「ああ、わわわ」
リクリが焦って駆け寄る。
「意識が、意識がないですよう」
下ろして、下ろしてくださいクロクシさぁんっ、と両手をパタパタ上下に振る。
一向に落ち着かない姿にふう、と小さく溜息を吐いたクロクシは再度ずずいと右手を前にやる。
「寝ているだけだ」
リクリの眼前に寄せられた少年に苦しげな様子は見あたらず、寝息と思われる空気音だけが部屋に静かに響く。
よくよく見てみればクロクシの力加減は絶妙で、少年の後ろ首を掴むと同時に服の背も掴みつつも首周りには余裕をもたせて喉元はちゃんと空いている。
「な、なあんだぁ。びっくりしましたよぅ」
上げ下げしていた両腕をようやく下ろし、同時に肩も頭も下を向いた。
「最初によく見ろと言っただろう」
「もし寝ているだけだったとしてもそんな乱暴な扱いされるとは思わないです」
「乱暴ではない。痛くも痒くもないぞ、これ」
「そりゃあ狼にとってはそうでしょうけれど。コタは人間なんですよう」
子狼が首根っこを掴まれて運ばれてるのを見るのはなんら珍しくもない。だが人間が同じ状態でぶら下がっているのはなかなか見られる光景ではない。
しかも掴んでいるのは狼の中でも体躯の良い男、クロクシなのだ。この狼、とても大きい。
黒と焦げ茶が混ざった毛色は一見ごわごわと硬そうに見え、触ると意外と少し柔らかい…か?と疑問を抱く程度にはやっぱり硬いが艶が良くて健康的、しっかりとしたバランスの良い筋肉がついているのがその毛の上からでも判る。ぴんと立つ美しい三角形の耳の先には少し長い毛が伸びていて、密毛に覆われた尾からは自信が見てとれた。
「大丈夫だろう、寝てるし」
ぐーすかぴーと起きる気配のない少年。
「よく寝れますねぇ」
こんな宙ぶらりんで、という言葉が言外に含まれている。
「さっき一度起きたんだがな。もう少ししたらまた起きるだろう、このまま食堂に連れてくぞ」
「あ、はい」
あれだけ慌てていた兎も、危険がないならいいや、とあっさり踵を返して歩き出した。




