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街角ノクターン【拡張完全版・全28話】 五十五歳の父が、三十三年ぶりに鍵盤の前に座るまでの話  作者: かーすけ


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第五話 「火曜日と木曜日」

 気がついたら、習慣になっていた。

 習慣というのは、意識して始めるものではないのかもしれない。

 誠一がそう気づいたのは、木曜日の夜、駅ビルのコンコースに差しかかった時、自分の足が自然とピアノの方向に曲がっていたからだ。


 曲がってから気づいた。

 前の日の火曜日も、そうだった。

 その前の週の火曜日と木曜日も、そうだったかもしれない。

 いつからだったのか、正確には分からない。

 ただ、気がついたら、帰り道のコンコースがいつもの道になっていた。


 それを「習慣」と呼んでいいかどうかは迷う。

 習慣と言えるほど、大げさなことはしていない。

 ピアノの前を通り、誰かが弾いていれば少し離れた場所で聴く。

 空いていたら近づく。

 座る日もある。

 座らない日もある。

 弾く日もある。

 弾かない日もある。

 弾くといっても、まともな曲を弾いたことはまだない。

 それでも、通ることが、続いていた。


 その週の火曜日は、誠一が着いた時にピアノの前に人がいた。

 高校生くらいの女の子が、スマートフォンで楽譜を見ながら弾いていた。

 クラシックではなく、流行りのアニメか何かの曲らしかった。

 メロディーだけ、右手だけで弾いている。

 左手は膝の上に乗せたままだ。

 たどたどしいが、一音一音を丁寧に確認しながら弾いていた。

 音を間違えると、少し眉を寄せて、もう一度弾き直す。

 誠一はいつもの場所・・ピアノから三、四メートル離れた、邪魔にならない位置・・に立った。

 見ているわけではなく、聴いているわけでもなく、ただそこにいる、という立ち方だ。

 壁になる練習の、少し違うバリエーション。


 女の子は十分ほど弾いて、スマートフォンをしまって立ち上がった。

 誰かに見られていたことに気づかなかったのか、気づいて無視したのか、こちらを一度も見なかった。

 若さというのはそういうものかもしれない、と誠一は思った。

 自分の音楽に集中していて、それ以外のことが目に入らない。

 女の子がいなくなった後、ピアノの前が空いた。

 誠一は今日も近づいた。

 椅子に座った。

 高さを調整した。

 その動作だけ、もう迷わない。

 右手を鍵盤の上に置いた。

 今日は・・弾こうと思った。

 何かを、ではなく、何かを探すように。


 ドの音を、一つ鳴らした。

 コンコースに、ぽん、という音が広がった。

 思ったより大きかった。

 グランドピアノというのはそういうものだ、と誠一は分かっていたが、それでも少し驚いた。

 自分の鳴らした音に、驚く。

 三十三年分の沈黙があると、一音でも驚く。


 それから、音階を弾いた。

 ドレミファソラシド。

 右手だけで、ゆっくりと。

 上がって、下りてくる。

 またゆっくりと、上がって、下りてくる。

 音階だけ。

 曲ではない。

 メロディーでも、和声でもない。

 音の梯子を上り下りするだけ。

 それでも、鍵盤の感触が・・象牙の少し冷えた硬さと、しなやかな沈み込みが・・指の腹に戻ってきた。

 三十三年眠っていた感覚が、一段ずつ起きていくような気がした。


 五分ほど弾いて、誠一は椅子を立った。

 音階しか弾かなかった、という事実が、少しおかしかった。

 五十五歳の男が、コンビニの弁当を食べて、コピー機の紙詰まりを直して、帰り道に駅のグランドピアノでドレミを弾いて帰る。

 おかしい、というより、不思議だ、と思い直した。

 不思議で、悪くない。


 木曜日は少し違う夜だった。

 その日の会社は、午前から不機嫌な空気が流れていた。

 取引先のひとつから、昨年度の請求書に誤りがあったという連絡が来た。

 誤りを起こしたのは、もう異動した社員の仕事だったが、その後始末が誠一の仕事になった。

 なぜそうなるのか、という疑問は持たないようにしている。

「村上さんなら分かる」と「村上さんならやれる」と「村上さんしかいない」は、この二十七年で完全に同義語になっている。

 それが誠一の職場での立ち位置だ。


「村上さん、申し訳ないんだけど」という部長の声を今日は三回聞いた。

 三回目の時には「分かりました」と言いながら、誠一は同時に夜の予定を計算していた。

 今から取りかかれば、七時には片がつく。

 七時に出れば、八時前には家に着く。

 途中、コンコースで十分ほど寄り道できる。

 計算は出るが、残業代は申請しない。

 それが誠一のやり方だ。


 結局、退勤は七時半だった。

 三十分の誤差は、誠一の計算がよく出す数字だった。

 コンコースに着くと、ピアノの前に人がいた。

 中年の男性が、静かに弾いていた。

 誠一と同じくらいの年齢に見える。

 スーツ姿だった。

 弾いているのはクラシックで・・誠一は一音目で分かった。

 ショパンのノクターンだった。

 変ホ長調。

 作品九の二番。

 世界でもっとも有名なノクターンのひとつ。


 誠一は足を止めた。

 男性の演奏は、うまかった。

 プロではないが、長年弾いてきた人間の音がする。

 フレーズが自然に呼吸している。

 音の粒が揃っている。

 強弱の付け方が、感情に引きずられていない。


 誠一はいつもの場所に立って、最後まで聴いた。

 男性は演奏を終えると、静かに椅子を立って、振り返ることなく歩き去った。

 誰にも声をかけず、誰かに聴かれていたことも気にしなかった。

 ただ弾いて、ただ帰った。

 誠一は、その背中が見えなくなるまで見ていた。

 それからゆっくりと、ピアノに近づいた。

 椅子に座る。

 高さを合わせる。

 その動作は、もう体が覚えている。

 コンコースに人はほとんどいない。

 夜も遅い。

 閉店近くの駅ビルの、蛍光灯の下に、グランドピアノが一台ある。


 誠一はしばらく鍵盤を見た。

 さっきの男性が弾いていた音が、まだコンコースのどこかに漂っているような気がした。

 実際には漂っていない。

 音は消える。

 でも、誠一の耳の奥にはまだ残っていた。


 右手を置いた。

 今夜も、音階だけ弾いた。

 ドレミファソラシド。

 それから・・ほんの少しだけ、火曜日より指が動いた。

 レミファ、ミファソ、ファソラ・・音階を途中から始めたり、途中で折り返したり。

 曲にはならない。

 でも指が、鍵盤の配置を少しずつ思い出しているような気がした。

 三十三年間、どこかで待っていた記憶が、一つずつ出てくる。

 急がなくていい、と誠一は思った。

 急ぐ理由がないし、急げる状態でもない。


 しばらく弾いていると、ふと気配を感じた。

 振り返ると・・というより、視界の端に・・小学生くらいの男の子が立っていた。

 ランドセルを背負っている。

 学童か何かの帰りだろうか、遅い時間に一人でいる。

 誠一と距離を置いた場所に、じっと立って、こちらを見ていた。

 目が合った。

 男の子は逃げなかった。

 誠一も弾くのをやめなかった。


 男の子はしばらくそのまま聴いていた。

 音階なのか曲なのか分からないものを、でも真剣に聴いているように見えた。

 誠一は少し意識した。

 意識すると指がぎこちなくなった。

 ぎこちないまま、それでも続けた。

 どれくらい経ったか分からない。

 誠一が一度手を止めた時、外から「○○くーん」と呼ぶ声がした。

 母親らしき声だった。

 男の子は「あ」と言って、振り返った。

 ランドセルを揺らして、駅ビルの出口に向かって走り始めた。


 その時、男の子が振り返った。

 立ち止まって、誠一の方を見て、言った。

「もっと聴きたかった」

 それだけ言って、走っていった。

 誠一は、動けなかった。

 何秒かは分からない。

 男の子の姿が出口に消えるまで、誠一はピアノの前に座ったまま、動けなかった。

 手が鍵盤の上にある。

 でも音を出せなかった。


 もっと聴きたかった。

 その文字が、コンコースの静かな空気の中で、ゆっくりと広がった。

 誠一は、自分が何かを弾いていたことに、改めて気づいた。

 曲ではない。

 音階だ。

 でも、聴いていた人がいた。

 もっと聴きたかった、と言った人がいた。

 三十三年間、そういうことが一度もなかった。

 いや、あったかもしれない。

 ただ誠一は三十三年間、誰かに聴かせる場所にいなかった。

 自分から、遠ざかっていた。


 誠一はゆっくりと、鍵盤の上に右手を置き直した。

 もう一度、音階を弾いた。

 ドレミファソラシド。

 ゆっくりと、上がって、下りてくる。

 今度は、誰もいなかった。

 男の子はもう外に出た。

 コンコースに、誠一一人だった。

 それでも弾いた。

 誰もいないコンコースで、音階だけを、もう一度弾いた。

 なぜ弾いたのかは分からない。

 男の子のために弾いたわけでも、自分のために弾いたわけでも、たぶんなかった。

 ただ、弾いた。


 弾き終わって、椅子を立った。

 鞄を持ち直した。

 コンコースの蛍光灯が、いつもと同じ白い光を落としている。

 グランドピアノは黒く、静かだった。

 誠一は歩き始めた。

 改札に向かって。

 ホームに向かって。

 電車に向かって。

 歩きながら、「もっと聴きたかった」という声が、まだ耳の奥にあった。

 小学生の、明るい声だった。

 義理でも、礼儀でもなく、ただそう思ったから言った声だった。


 電車に乗って、つり革をつかんだ。

 窓に映った自分の顔と目が合った。

 今夜の顔は、少しだけ違う気がした。

 くたびれているのは同じだ。

 でも・・何かが、少し違う。

 自分でも、どこが違うのかは分からなかった。


 帰宅して、「ただいま」と言った。

 返事はなかった。

 いつも通りだった。

 夕飯を食べながら、誠一は今夜のことを考えた。

 男の子の「もっと聴きたかった」。

 何度か思い出した。

 思い出すたびに、何か温かいものが胸の中を通った。

 その感覚に名前をつける前に、いつも次のことを考えてしまった。

 名前をつけるのが少し怖かったのかもしれない。


 風呂に入り、布団に入り、電気を消した。

 暗闇の中で、誠一は天井を見た。

 今日一日、誰かに「村上誠一」という名前で呼ばれただろうか、と考えた。

 部長に「村上さん」と呼ばれた。

 取引先との電話でも「村上様」と呼ばれた。

 男の子には・・呼ばれていない。

 男の子は誠一の名前を知らない。

 名前を知らない人間が、「もっと聴きたかった」と言った。

 名前のいらない場所で、何かが起きているのかもしれない。


 誠一は目を閉じた。

 眠りに落ちる前の数秒、指の腹に鍵盤の冷たさが蘇った。

 ドレミファソラシド。

 ゆっくりと、上がって、下りてくる。

 ・・来週の火曜も、行こう。

 答えではなく、ただそう思いながら、誠一は眠った。

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