第五話 「火曜日と木曜日」
気がついたら、習慣になっていた。
習慣というのは、意識して始めるものではないのかもしれない。
誠一がそう気づいたのは、木曜日の夜、駅ビルのコンコースに差しかかった時、自分の足が自然とピアノの方向に曲がっていたからだ。
曲がってから気づいた。
前の日の火曜日も、そうだった。
その前の週の火曜日と木曜日も、そうだったかもしれない。
いつからだったのか、正確には分からない。
ただ、気がついたら、帰り道のコンコースがいつもの道になっていた。
それを「習慣」と呼んでいいかどうかは迷う。
習慣と言えるほど、大げさなことはしていない。
ピアノの前を通り、誰かが弾いていれば少し離れた場所で聴く。
空いていたら近づく。
座る日もある。
座らない日もある。
弾く日もある。
弾かない日もある。
弾くといっても、まともな曲を弾いたことはまだない。
それでも、通ることが、続いていた。
その週の火曜日は、誠一が着いた時にピアノの前に人がいた。
高校生くらいの女の子が、スマートフォンで楽譜を見ながら弾いていた。
クラシックではなく、流行りのアニメか何かの曲らしかった。
メロディーだけ、右手だけで弾いている。
左手は膝の上に乗せたままだ。
たどたどしいが、一音一音を丁寧に確認しながら弾いていた。
音を間違えると、少し眉を寄せて、もう一度弾き直す。
誠一はいつもの場所・・ピアノから三、四メートル離れた、邪魔にならない位置・・に立った。
見ているわけではなく、聴いているわけでもなく、ただそこにいる、という立ち方だ。
壁になる練習の、少し違うバリエーション。
女の子は十分ほど弾いて、スマートフォンをしまって立ち上がった。
誰かに見られていたことに気づかなかったのか、気づいて無視したのか、こちらを一度も見なかった。
若さというのはそういうものかもしれない、と誠一は思った。
自分の音楽に集中していて、それ以外のことが目に入らない。
女の子がいなくなった後、ピアノの前が空いた。
誠一は今日も近づいた。
椅子に座った。
高さを調整した。
その動作だけ、もう迷わない。
右手を鍵盤の上に置いた。
今日は・・弾こうと思った。
何かを、ではなく、何かを探すように。
ドの音を、一つ鳴らした。
コンコースに、ぽん、という音が広がった。
思ったより大きかった。
グランドピアノというのはそういうものだ、と誠一は分かっていたが、それでも少し驚いた。
自分の鳴らした音に、驚く。
三十三年分の沈黙があると、一音でも驚く。
それから、音階を弾いた。
ドレミファソラシド。
右手だけで、ゆっくりと。
上がって、下りてくる。
またゆっくりと、上がって、下りてくる。
音階だけ。
曲ではない。
メロディーでも、和声でもない。
音の梯子を上り下りするだけ。
それでも、鍵盤の感触が・・象牙の少し冷えた硬さと、しなやかな沈み込みが・・指の腹に戻ってきた。
三十三年眠っていた感覚が、一段ずつ起きていくような気がした。
五分ほど弾いて、誠一は椅子を立った。
音階しか弾かなかった、という事実が、少しおかしかった。
五十五歳の男が、コンビニの弁当を食べて、コピー機の紙詰まりを直して、帰り道に駅のグランドピアノでドレミを弾いて帰る。
おかしい、というより、不思議だ、と思い直した。
不思議で、悪くない。
木曜日は少し違う夜だった。
その日の会社は、午前から不機嫌な空気が流れていた。
取引先のひとつから、昨年度の請求書に誤りがあったという連絡が来た。
誤りを起こしたのは、もう異動した社員の仕事だったが、その後始末が誠一の仕事になった。
なぜそうなるのか、という疑問は持たないようにしている。
「村上さんなら分かる」と「村上さんならやれる」と「村上さんしかいない」は、この二十七年で完全に同義語になっている。
それが誠一の職場での立ち位置だ。
「村上さん、申し訳ないんだけど」という部長の声を今日は三回聞いた。
三回目の時には「分かりました」と言いながら、誠一は同時に夜の予定を計算していた。
今から取りかかれば、七時には片がつく。
七時に出れば、八時前には家に着く。
途中、コンコースで十分ほど寄り道できる。
計算は出るが、残業代は申請しない。
それが誠一のやり方だ。
結局、退勤は七時半だった。
三十分の誤差は、誠一の計算がよく出す数字だった。
コンコースに着くと、ピアノの前に人がいた。
中年の男性が、静かに弾いていた。
誠一と同じくらいの年齢に見える。
スーツ姿だった。
弾いているのはクラシックで・・誠一は一音目で分かった。
ショパンのノクターンだった。
変ホ長調。
作品九の二番。
世界でもっとも有名なノクターンのひとつ。
誠一は足を止めた。
男性の演奏は、うまかった。
プロではないが、長年弾いてきた人間の音がする。
フレーズが自然に呼吸している。
音の粒が揃っている。
強弱の付け方が、感情に引きずられていない。
誠一はいつもの場所に立って、最後まで聴いた。
男性は演奏を終えると、静かに椅子を立って、振り返ることなく歩き去った。
誰にも声をかけず、誰かに聴かれていたことも気にしなかった。
ただ弾いて、ただ帰った。
誠一は、その背中が見えなくなるまで見ていた。
それからゆっくりと、ピアノに近づいた。
椅子に座る。
高さを合わせる。
その動作は、もう体が覚えている。
コンコースに人はほとんどいない。
夜も遅い。
閉店近くの駅ビルの、蛍光灯の下に、グランドピアノが一台ある。
誠一はしばらく鍵盤を見た。
さっきの男性が弾いていた音が、まだコンコースのどこかに漂っているような気がした。
実際には漂っていない。
音は消える。
でも、誠一の耳の奥にはまだ残っていた。
右手を置いた。
今夜も、音階だけ弾いた。
ドレミファソラシド。
それから・・ほんの少しだけ、火曜日より指が動いた。
レミファ、ミファソ、ファソラ・・音階を途中から始めたり、途中で折り返したり。
曲にはならない。
でも指が、鍵盤の配置を少しずつ思い出しているような気がした。
三十三年間、どこかで待っていた記憶が、一つずつ出てくる。
急がなくていい、と誠一は思った。
急ぐ理由がないし、急げる状態でもない。
しばらく弾いていると、ふと気配を感じた。
振り返ると・・というより、視界の端に・・小学生くらいの男の子が立っていた。
ランドセルを背負っている。
学童か何かの帰りだろうか、遅い時間に一人でいる。
誠一と距離を置いた場所に、じっと立って、こちらを見ていた。
目が合った。
男の子は逃げなかった。
誠一も弾くのをやめなかった。
男の子はしばらくそのまま聴いていた。
音階なのか曲なのか分からないものを、でも真剣に聴いているように見えた。
誠一は少し意識した。
意識すると指がぎこちなくなった。
ぎこちないまま、それでも続けた。
どれくらい経ったか分からない。
誠一が一度手を止めた時、外から「○○くーん」と呼ぶ声がした。
母親らしき声だった。
男の子は「あ」と言って、振り返った。
ランドセルを揺らして、駅ビルの出口に向かって走り始めた。
その時、男の子が振り返った。
立ち止まって、誠一の方を見て、言った。
「もっと聴きたかった」
それだけ言って、走っていった。
誠一は、動けなかった。
何秒かは分からない。
男の子の姿が出口に消えるまで、誠一はピアノの前に座ったまま、動けなかった。
手が鍵盤の上にある。
でも音を出せなかった。
もっと聴きたかった。
その文字が、コンコースの静かな空気の中で、ゆっくりと広がった。
誠一は、自分が何かを弾いていたことに、改めて気づいた。
曲ではない。
音階だ。
でも、聴いていた人がいた。
もっと聴きたかった、と言った人がいた。
三十三年間、そういうことが一度もなかった。
いや、あったかもしれない。
ただ誠一は三十三年間、誰かに聴かせる場所にいなかった。
自分から、遠ざかっていた。
誠一はゆっくりと、鍵盤の上に右手を置き直した。
もう一度、音階を弾いた。
ドレミファソラシド。
ゆっくりと、上がって、下りてくる。
今度は、誰もいなかった。
男の子はもう外に出た。
コンコースに、誠一一人だった。
それでも弾いた。
誰もいないコンコースで、音階だけを、もう一度弾いた。
なぜ弾いたのかは分からない。
男の子のために弾いたわけでも、自分のために弾いたわけでも、たぶんなかった。
ただ、弾いた。
弾き終わって、椅子を立った。
鞄を持ち直した。
コンコースの蛍光灯が、いつもと同じ白い光を落としている。
グランドピアノは黒く、静かだった。
誠一は歩き始めた。
改札に向かって。
ホームに向かって。
電車に向かって。
歩きながら、「もっと聴きたかった」という声が、まだ耳の奥にあった。
小学生の、明るい声だった。
義理でも、礼儀でもなく、ただそう思ったから言った声だった。
電車に乗って、つり革をつかんだ。
窓に映った自分の顔と目が合った。
今夜の顔は、少しだけ違う気がした。
くたびれているのは同じだ。
でも・・何かが、少し違う。
自分でも、どこが違うのかは分からなかった。
帰宅して、「ただいま」と言った。
返事はなかった。
いつも通りだった。
夕飯を食べながら、誠一は今夜のことを考えた。
男の子の「もっと聴きたかった」。
何度か思い出した。
思い出すたびに、何か温かいものが胸の中を通った。
その感覚に名前をつける前に、いつも次のことを考えてしまった。
名前をつけるのが少し怖かったのかもしれない。
風呂に入り、布団に入り、電気を消した。
暗闇の中で、誠一は天井を見た。
今日一日、誰かに「村上誠一」という名前で呼ばれただろうか、と考えた。
部長に「村上さん」と呼ばれた。
取引先との電話でも「村上様」と呼ばれた。
男の子には・・呼ばれていない。
男の子は誠一の名前を知らない。
名前を知らない人間が、「もっと聴きたかった」と言った。
名前のいらない場所で、何かが起きているのかもしれない。
誠一は目を閉じた。
眠りに落ちる前の数秒、指の腹に鍵盤の冷たさが蘇った。
ドレミファソラシド。
ゆっくりと、上がって、下りてくる。
・・来週の火曜も、行こう。
答えではなく、ただそう思いながら、誠一は眠った。




