第四話 「コピー機の後継者」
田中との約束は、誠一が忘れた頃に田中の方から来た。
「村上さん、今日の昼、コピー機教えてもらえますか」
昼前、田中がデスクの端にそっと来て言った。
言い方が珍しく遠慮がちで、誠一は一瞬「なにを頼まれるのか」と身構えた。
コピー機の話だと分かって、少し拍子抜けした。
「ああ、そうだった。いいよ」
「ありがとうございます。お昼、奢ります」
「いや、そういうのはいい」
「じゃあ今日は田中特製の、という気持ちで」
「特製のコンビニ弁当か」
「そういうことです」と田中は笑った。
昼休み、誠一はコピー機の前に立った。
田中が横に並ぶ。
今日も第三課の共用コピー機は、機嫌が悪そうな顔をしていた。
機嫌が悪そう、というのは誠一の感覚で、実際には機械に感情はないが、月に一度必ず詰まるこの機械を相手にしていると、なんとなくそういう気がしてくる。
「まず、詰まった時はパネルの表示を見る。どのトレイで詰まってるかが分かる」
「ここですね」と田中がパネルを指した。
「そう。で、右の扉はここ・・」と誠一は側面の取っ手を示した。
「開ける時に力はいらない。引っ張るんじゃなく、持ち上げるように」
「あ、こう?」
「そう。詰まった紙を引き抜く前に、どこで折れてるかを確認する。無理に引くと破れて余計に詰まる」
「なるほど」
田中は器用だった。
一回見ると、次は自分でやってみた。
二回目は誠一が何も言わなくても、正しい手順で取っ手を開け、紙の状態を確認し、慎重に引き抜いた。
詰まり解消のランプが点灯した。
「できた」と田中が言った。
少し子どもっぽい喜び方だったが、誠一は悪い気がしなかった。
「センスあるよ。飲み込みが早い」
「村上さんに言われると嬉しいですね、なんか」
「コピー機の話だぞ」
「いやでも、こういうの、できる人とできない人ってあるじゃないですか」
それはそうだ、と誠一は思った。
田中はたしかに手が利く。
機械の仕組みを感覚で摑むのが速い。
若い頃の誠一と似ていた・・というと少し買いかぶりすぎかもしれないが、近いものはある。
「熱定着ユニットのあたりは触ると熱いから気をつけて。あとローラーに紙が巻きついてる時は・・」
「ゆっくり、手前に引く」
「正解」
「なんで分かるんですか?」
「慣れだよ」
「村上さんって、こういうことどれくらい直してるんですか」
「月に一回はある。二十七年だから・・」
「三百回以上?」
「計算してなかったけど、そうなるな」
田中は感心したような、遠い目をした。
感心しているのか、別のことを考えているのかは分からなかった。
三十秒ほどして、田中は言った。
「なんで村上さんってこういうことだけ上手いんですかね」
誠一は、一瞬、止まった。
なんで、こういうことだけ。
「コピー機の直し方だけ、ってこと?」
「あ・・いや、そういう意味じゃなくて」と田中は慌てた。
「細かいとこに気づくというか、こういう小さいことを、他の人がやらないのをやってくれるというか」
「つまりコピー機の直し方、ということだろう」
「いや・・すみません、変な言い方しました」
田中は申し訳なさそうにしていたが、誠一は笑って「気にしてない」と言った。
実際には少し気にしていた。
でも、気にしていることを気にしているという顔は、しなかった。
その技術は二十七年で十分磨かれている。
午後、誠一は自席でフォローアップの電話をかけながら、田中の言葉を時々思い出した。
なんで、こういうことだけ。
悪意はない。
田中に悪意がないことは、誠一には分かっている。
あれは無神経というより、無邪気な観察だ。
二十七年のサラリーマン経験から言えば、悪意のある言葉より、悪意のない観察の方がずっとよく刺さることがある。
なぜなら、悪意のある言葉は否定できるが、無邪気な観察は往々にして正しいからだ。
「なんでこういうことだけ上手いんですか」・・正しい。
誠一の職場における最大の輝きが、コピー機の紙詰まりだということ。
田中は気づかずに言っただけで、誠一は知っていて黙っていた。
その差は、傷の深さに出る。
退勤は七時を少し回った頃だった。
部長の「ありがとう村上さん、今日も助かった」という言葉を背中で受けて、誠一はエレベーターに乗った。
「助かった」の積み重なり方を誠一は知っている。
それが二十七年で棚卸しされると、肩書きは「次長」で、仕事は「コピー機」だ。
・・いや、それは乱暴すぎる計算だ、とも思う。
でも今日はなぜか、その計算を打ち消す気力がなかった。
外に出ると、十月の夜風が冷たかった。
十月の夜風はいつも冷たい。
先週も同じことを思った。
でも今夜は、その冷たさがいつもより体の奥まで来る気がした。
誠一は駅へ向かった。
いつものように壁になる練習をしながら歩いた。
人の流れに逆らわない。
できるだけ目立たない。
歩きながら、足音を聞いた。
革靴の、単調なリズム。
コツコツコツコツ。
その足音の中に、田中の声が混じっていた。
・・なんでこういうことだけ。
コツ。
・・なんでこういうことだけ。
コツ。
誠一は少しだけ歩幅を変えた。
足音のリズムが変わった。
田中の声が変わらなかった。
駅ビルのコンコースに差しかかった。
今夜もピアノはある。
平日の夜、すでに人は少ない。
コンコースを流れる人波は、誠一と同じような男たちで埋まっている。
みな素通りしていく。
ピアノに目を向ける人は、今夜はほとんどいない。
誠一は足を止めた。
ピアノの前には誰もいない。
蓋は開いている。
鍵盤が、照明の下で白く光っている。
今夜は、椅子に座ろうと思っていた。
指を置こうと思っていた。
昨日の続きをやろうと思っていた。
でも今夜は、足が動かなかった。
なぜかは分からない。
田中の言葉のせいかもしれないし、そうでないかもしれない。
コピー機のことで頭が重いのかもしれない。
ただ、鍵盤を見ていると、今夜だけは「それを弾く自分」が、うまく想像できなかった。
コピー機の紙詰まりを直す手が、鍵盤の上に乗っていない。
手は同じ手なのに。
誠一はしばらく、三メートル離れた場所からピアノを見た。
鍵盤は白いままだった。
人が通りすぎる。
誰も足を止めない。
誰もピアノに触れない。
それでいい、とも思った。
それでいいわけがない、とも思った。
どちらが正しいか分からないまま、誠一は歩き始めた。
ピアノに背を向けて、階段を上り、電車に乗った。
つり革をつかむ。
窓に映った自分の顔と目が合う。
くたびれた顔だった。
今夜は「でも悪い顔じゃない」という気にはなれなかった。
なれなかった、ということを覚えておくことにした。
帰宅すると、台所の電気がついていた。
「ただいま」
返事はなかった。
今日もいつも通りだった。
誠一はネクタイを緩めながら台所へ向かった。
冷蔵庫を開けると、ラップのかかった皿が置いてあった。
肉じゃがだった。
電子レンジにかけながら、誠一は今日のことを考えた。
田中がコピー機を覚えた時の、あの子どもっぽい喜び方。
悪い気はしなかった。
本当に、悪い気はしなかった。
それは確かだ。
・・では、何が重かったのか。
分からなかった。
チンと鳴った。
誠一は皿を出して、ダイニングに座った。
肉じゃがは美味しかった。
久美子の料理は、いつも美味しい。
食べながら、誠一は右手を見た。
指を一本ずつ動かす。
人差し指、中指、薬指、小指。
コピー機の取っ手を引く指だ。
紙詰まりを解消する指だ。
二十七年間、それをやってきた指だ。
・・この手が、昔は別のことをしていた。
誠一は指を閉じた。
皿を洗い、電気を消し、風呂に入った。
湯船の中で、何も考えないようにした。
何も考えないようにすると、たいてい一番考えたくないことが浮かんでくる。
今夜は、ピアノの鍵盤の白さが浮かんだ。
触れなかった白さだ。
昨日は触れたのに、今日は触れなかった。
後退だ、と思った。
いや、これは後退ではなく、一時的な立ち止まりだ、とも思った。
どちらの解釈が正しいかは分からないが、誠一には、都合よく再定義するための技術がある。
今夜は、その技術を使う気になれなかった。
布団に入り、電気を消した。
暗闇の中で、田中の声がもう一度浮かんだ。
・・なんでこういうことだけ上手いんですかね。
なんで、だろう。
誠一は本当に分からなかった。
いや、分かっている気もした。
三十三年前、別のことが上手かった自分がいた。
その自分が、どこかの時点でいなくなって、コピー機の上手い自分が残った。
それだけの話だ。
いや、それだけの話ではない気もした。
・・明日、また前を通ろう。
答えを出す前に、誠一は目を閉じた。
眠れるかどうか分からなかったが、眠ろうとはした。
それが今夜、誠一にできる精一杯のことだった。




