第14章 ベルデフ兄弟 第三弾 父セルゲイもまた…
ベルデフ家――戻ってきた普通の朝
翌朝。
セルゲイは、食卓に着いた二人の息子を見て。
心の底から。
ほっとした。
ドミトリーは。
いつもの男物を着ている。
アレクセイも。
いつもの格好だ。
髪も普通。
顔にも何も塗っていない。
当たり前だ。
これが普通なのだ。
セルゲイは。
ひそかに。
深く息を吐いた。
セルゲイ「……うむ」
ドミトリー「何ですか、父上」
セルゲイ「いや。何でもない」
何でもない。
本当に。
何でもない朝だった。
だからこそ。
ありがたかった。
少し前まで。
目の前にいたのは。
どう見ても。
自分の息子たちではなかった。
いや。
もちろん。
息子たちだった。
それは分かっている。
だが。
ドミトリーは。
妙に妻に似た。
落ち着いた宮廷婦人のようになっていた。
アレクセイに至っては。
若い頃の妻を思い出させるような。
可愛らしい姿になっていた。
あんなものを。
何度も見せられては。
たまらない。
だが。
今日は違う。
男が二人。
普通に朝食を食べている。
これでいい。
これがいい。
セルゲイは。
そう思った。
幸い。
誰も。
この間の話をしなかった。
ドミトリーも。
アレクセイも。
何事もなかったように。
仕事の話をしている。
セルゲイも。
わざわざ触れなかった。
次の日も。
普通だった。
その次の日も。
普通だった。
セルゲイは。
だんだん。
安心してきた。
そうだ。
あれは。
たまたまだ。
宮廷の妙な催しに。
たまたま二人とも呼ばれた。
それだけだ。
終わったのだ。
そう思うことにした。
ところが。
数日後。
ふと。
気になった。
セルゲイは。
長くベルデフ家に仕えている使用人の一人を呼んだ。
セルゲイ「少し聞きたいことがある」
使用人「はい。大旦那様」
セルゲイ「……あいつらのことだ」
使用人「若旦那様方でございますか」
セルゲイ「そうだ」
セルゲイは。
一瞬。
どう聞けばいいのか迷った。
セルゲイ「その……この間のようなことだ」
使用人「はい」
セルゲイ「また、あるのか?」
使用人は。
少し考えるような顔をした。
だが。
すぐに。
ごく普通のことを答えるように言った。
使用人「今後もお声がかかる可能性は高いかと存じます」
セルゲイは。
黙った。
セルゲイ「……高い?」
使用人「はい」
セルゲイ「一度きりではないのか」
使用人「宮廷からは、再度お召しがあった場合に備えて、必要なものを整えておくようにとのことでございます」
セルゲイは。
嫌な予感がした。
セルゲイ「必要なもの、というのは」
使用人「衣装でございます」
セルゲイ「……衣装」
使用人「それから、身支度に必要な品々も」
セルゲイは。
少しだけ。
目を閉じた。
言いたいことは分かる。
分かりたくないが。
分かる。
セルゲイ「つまり」
使用人「はい」
セルゲイ「うちには、もうそういうものが揃っているのか」
使用人「ある程度は」
ある程度。
その言葉が。
妙に嫌だった。
セルゲイ「……見せてもらえるか」
使用人「もちろんでございます」
案内された先は。
別に。
秘密の部屋でも何でもなかった。
普通の衣装を保管する場所だった。
ただ。
そこに。
明らかに。
息子たちのためのものが。
揃っていた。
大きな衣装箱。
きれいに畳まれた布地。
女性用の衣装。
それも。
一着や二着ではない。
ドミトリー用。
アレクセイ用。
それぞれ。
身体に合わせて整えられたものがある。
下に着るものも。
大きなスカートを支えるためのものも。
小物も。
ある程度。
まとめられている。
セルゲイは。
しばらく。
何も言えなかった。
セルゲイ「……ずいぶん揃っているな」
使用人「急なお召しもございますので」
セルゲイ「急な」
使用人「はい」
セルゲイ「急に、息子を女の格好にしなければならんのか」
使用人「そのような場合もございます」
そのような場合。
まるで。
雨が降った場合。
馬車が必要な場合。
客人が増えた場合。
そんな話と同じように言う。
セルゲイは。
妙な気分になった。
自分の知らないところで。
この屋敷には。
息子たちを宮廷婦人に仕上げるための体制が。
すっかり出来上がっていた。
セルゲイ「二人とも、しょっちゅう呼ばれるのか」
使用人「必ずお二人一緒というわけではございません」
セルゲイ「……何?」
使用人「ドミトリー様だけの時もございます」
セルゲイ「……」
使用人「アレクセイ様だけの時も」
セルゲイ「……そうか」
使用人「お二人ともお呼びになることもございます」
セルゲイは。
もう一度。
目の前の衣装を見た。
つまり。
この間だけではない。
兄だけ。
弟だけ。
あるいは。
二人とも。
そのたびに。
この家では。
誰かが衣装を出し。
誰かが支度をして。
誰かが髪を整え。
誰かが化粧をして。
息子を。
宮廷婦人の姿にして。
送り出す。
そういうことだ。
気に入らない。
セルゲイは。
心の中で。
はっきり思った。
ものすごく。
気に入らない。
だが。
これをやめろとも。
言えない。
使用人たちが。
勝手にやっているわけではない。
息子たちが。
遊び半分で始めたわけでもない。
宮廷から。
またいつ呼ばれても困らないように。
準備しておけ。
そういう話なのだ。
女帝陛下から。
声がかかった時。
セルゲイ「うちは準備しておりませんので、できません」
などと。
誰が言えるというのか。
セルゲイは。
長く息を吐いた。
セルゲイ「……分かった」
使用人「はい」
セルゲイ「必要なものなら、整えておけ」
自分で言ってから。
何だか。
ものすごく負けた気がした。
こうして。
ベルデフ家では。
父親本人が。
まったく納得していないまま。
二人の息子を。
いつでも宮廷婦人に仕上げられる体制だけが。
さらに整えられていった。
ベルデフ兄弟――たまには逆もいいだろ
マトヴェイとベルデフ兄弟は、昔から仲がよかった。
ドミトリーとアレクセイ。
そして、マトヴェイ。
子供の頃なら、三人で一緒に走り回っていたこともある。
だが。
大きくなるにつれて。
やはり、違いははっきりしてきた。
ドミトリーとアレクセイは貴族の息子だ。
マトヴェイは使用人だ。
昔なら名前を呼んで、そのまま言いたいことを言えた。
今では人前なら「若旦那様」と呼ぶことも増えた。
兄弟は宮廷へ出る。
舞踏会にも参加する。
立派な男物の正装に身を包んで、髪も整え、馬車に乗って出ていく。
そういう時。
マトヴェイは、やっぱり思う。
ああ。
こいつらは、自分とは違うところにいるんだな。
と。
それは別に。
今さら腹を立てるようなことでもなかった。
昔から分かっていたことだ。
ただ。
それでも時々。
妙に遠く感じることはあった。
ところが。
最近は。
その「遠い世界」の見え方が、少しおかしくなっていた。
ドミトリーが。
宮廷婦人の姿で出ていく。
アレクセイが。
大きなドレスを着て出ていく。
時には二人一緒だ。
最初に見た時は。
マトヴェイも、どう反応していいか分からなかった。
あまりにも。
いつもの二人と違ったからだ。
だが。
それも何度か繰り返されると。
不思議なもので。
少しずつ慣れてしまう。
兄弟の方も慣れてきた。
最初の頃なら。
ドレス姿を見られるだけで、ずいぶん気まずそうにしていたくせに。
最近では。
完全に開き直っている。
ある日。
淡い色のドレスを着たアレクセイが。
廊下でマトヴェイを見つけた。
そして。
わざわざスカートの裾を両手でつまみ。
くるりと回った。
アレクセイ「どう?」
マトヴェイ「何がですか」
アレクセイ「似合う?」
マトヴェイ「聞かないでください」
アレクセイ「ひどいなあ」
その横から。
ドミトリーまで。
妙に澄ました顔で近づいてきた。
ドミトリー「まあ、マトヴェイ。ご機嫌よう」
マトヴェイ「やめてくださいよ、その声」
ドミトリー「おほほ」
マトヴェイ「だからやめろって!」
思わず昔の口調に戻る。
二人は笑った。
まったく。
しょうがない奴らだ。
そんなことが。
いつの間にか。
珍しくなくなっていた。
そして。
ある日のことだった。
マトヴェイは、兄弟から呼ばれた。
仕事ではない。
何かを運べという話でもない。
ただ。
部屋へ来てくれ、と言われた。
こういう呼ばれ方をするのは。
少し久しぶりだった。
昔なら。
何の用もなく部屋へ行くことくらい普通だった。
だが。
大人になって。
立場がはっきりしてからは。
そういうことも減っていた。
マトヴェイが部屋へ入ると。
二人ともいた。
ドミトリーも。
アレクセイも。
今日は普通の男物を着ている。
それを見て。
なぜか少し安心した。
マトヴェイ「何でしょう」
アレクセイ「何でしょう、だって」
ドミトリー「堅いな」
マトヴェイ「仕事中ですから」
アレクセイは。
何か言いたそうに笑った。
アレクセイ「まあいいや。ちょっとこっち来て」
部屋の奥に。
衣装が置いてあった。
マトヴェイは。
一瞬。
何だろうと思った。
本番で使っているような。
豪華な宮廷婦人用のドレスではない。
もっと簡素だった。
装飾も少ない。
布地も比較的地味で。
形も分かりやすい。
どうやら。
練習の時に使っていたものらしい。
その横には。
簡単なスカートの形を作るものまで置いてある。
マトヴェイ「……これ、何ですか」
ドミトリー「前に使ってた練習着」
アレクセイ「もう使わないんだ」
マトヴェイ「そうですか」
それで。
なぜ自分を呼んだ。
嫌な予感がした。
アレクセイが。
その衣装を持ち上げた。
アレクセイ「お前さ」
マトヴェイ「はい」
アレクセイ「俺たちがこういうの着てるところばっかり見てるだろ」
マトヴェイ「……まあ」
ドミトリー「ずいぶん見たな」
マトヴェイ「見たくて見てるわけじゃありません」
アレクセイ「ひどいなあ」
また笑う。
そして。
アレクセイは。
持っていた衣装を。
マトヴェイの方へ少し差し出した。
アレクセイ「だからさ」
マトヴェイ「……何です」
アレクセイ「たまには逆もいいんじゃないかと思って」
マトヴェイは。
黙った。
マトヴェイ「逆?」
ドミトリー「お前も着てみたらどうだ」
やっぱり。
嫌な予感は当たった。
マトヴェイ「嫌ですよ」
アレクセイ「早いな!」
マトヴェイ「嫌に決まってるでしょう」
ドミトリー「別に宮廷へ出ろって言ってるわけじゃない」
アレクセイ「これ、もうお下がりだから」
マトヴェイ「お下がりって」
アレクセイ「お前が持って帰っても困るだろ?」
マトヴェイ「当たり前です」
アレクセイ「だからここで着るだけ」
マトヴェイ「もっと嫌ですよ」
兄弟は。
顔を見合わせた。
マトヴェイは。
少し困った。
冗談なのか。
本気なのか。
分からない。
昔なら。
もっと簡単だった。
馬鹿か。
着るわけないだろ。
そう言って終わりだった。
でも。
今は。
目の前にいるのは。
ベルデフ家の若旦那様二人だ。
もちろん。
二人が命令しているわけではない。
それくらいは分かる。
分かるけれど。
どうしても。
昔みたいに。
完全に同じ立場で話すわけにはいかない。
マトヴェイ「お気持ちはありがたいですけど、さすがにそれは……」
ドミトリーの顔から。
少しだけ笑いが消えた。
ドミトリー「マトヴェイ」
マトヴェイ「はい」
ドミトリー「何だ、その言い方」
マトヴェイ「え?」
アレクセイ「昔なら『馬鹿かお前ら』で終わってたじゃないか」
マトヴェイは。
言葉に詰まった。
ドミトリー「命令してるわけじゃないぞ」
アレクセイ「遊びだよ」
ドミトリー「昔みたいなものだ」
昔みたいなもの。
その言葉が。
少しだけ。
胸に引っかかった。
マトヴェイは。
改めて。
置かれている衣装を見た。
簡素なものだ。
二人が宮廷へ着ていく。
あの見事なドレスとは。
比べものにならない。
それでも。
女物には違いない。
これを。
自分が着る。
そんなこと。
今まで。
考えたこともなかった。
……いや。
本当に。
一度も。
考えたことがなかっただろうか。
目の前で。
何度も何度も。
昔から知っている二人が。
宮廷婦人みたいな姿へ変わっていくのを。
見てきた。
最初は。
ただ驚いた。
その次は。
笑った。
その次は。
もう慣れた。
でも。
時々。
思ったことはある。
あれ。
いったい。
どんな感じなんだろう。
マトヴェイの目が。
一瞬だけ。
衣装へ向いた。
アレクセイ「今見た」
マトヴェイ「見てません」
アレクセイ「見たよな、兄さん」
ドミトリー「見たな」
マトヴェイ「見てないですって!」
兄弟が笑った。
マトヴェイは。
少しだけ。
顔が熱くなった。
まったく。
しょうがない奴らだ。
そう思った。
ただ。
さっきまでなら。
絶対に嫌だと。
即座に言えたはずなのに。
もう一度だけ。
その簡素なドレスを。
見てしまった。
ベルデフ家――今度は父の番
馬車の中は。
ものすごく。
気まずかった。
セルゲイは。
黙っていた。
ドミトリーも。
黙っていた。
アレクセイも。
黙っていた。
馬車だけが。
ごとごとと。
宮廷へ向かって進んでいる。
いつもなら。
別に。
こんな空気にはならない。
父と息子三人で。
同じ馬車に乗ることくらい。
珍しくもない。
だが。
今日は。
事情が違った。
ドミトリーは。
普通の男物を着ている。
アレクセイも。
普通の男物を着ている。
そして。
父親のセルゲイだけが。
大きく広がった。
淡い色のドレスを着ていた。
セルゲイは。
何度目か分からないため息をついた。
セルゲイ「……」
何なんだ。
これは。
本当に。
何なんだ。
少し前まで。
自分は。
息子二人が。
この格好をしていることに。
頭を抱えていたはずだった。
それが。
どうして。
今は。
息子二人が普通の男姿で。
自分だけが。
宮廷婦人になっている。
セルゲイは。
馬車の窓に映る自分を。
ちらりと見た。
見なければよかった。
髪は。
きれいに整えられている。
顔には。
白粉。
頬には紅。
年齢に合わせて。
派手になりすぎないよう。
それなりに上品に仕上げられている。
ドレスも。
きちんと身体に合っている。
急な招待だった。
当然。
セルゲイ専用の衣装など。
あるはずがない。
だが。
以前マルハ・ステパノヴナの手を経て。
宮廷側へ回された。
大柄な婦人用の衣装の中から。
体格の合いそうな一着が選ばれた。
そして。
仕立て直しに関しては。
あのリディア・アンドレーエヴナが。
急ぎで手を入れた。
肩。
胴。
袖。
腰。
あちこちを調整され。
気がつけば。
ちゃんと。
セルゲイが着られる一着になっていた。
さすがに。
仕事は見事だった。
見事だったが。
セルゲイとしては。
そんなところで。
職人の腕を実感したくなかった。
もう一度。
窓に映る自分を見る。
……。
まあ。
いる。
こういう婦人は。
宮廷へ行けば。
たぶん。
一人や二人くらい。
いるだろう。
少なくとも。
笑いものになるような仕上がりではない。
年齢相応の。
それなりに立派な。
上流婦人。
そう言われれば。
そう見えなくもない。
だが。
息子二人とは。
比べものにならなかった。
ドミトリーが仕上げられた時は。
あまりにも自然だった。
落ち着いた美しい婦人にしか見えなかった。
アレクセイに至っては。
若い頃の妻を思い出して。
セルゲイ自身が。
何とも言えない気分になったほどだ。
あの二人は。
ずるい。
元が若い。
顔も整っている。
細身だ。
何度も経験している。
慣れている。
それに比べて。
自分は。
普通の五十歳の男である。
どう頑張っても。
突然。
二十歳の美女にはならない。
当たり前だ。
そんなことは。
分かっている。
だが。
隣に。
その「超絶美人になった経験者」が。
二人とも普通の男姿で座っている。
これが。
何となく。
腹立たしかった。
セルゲイは。
前を向いた。
ドミトリーも。
前を向いていた。
アレクセイも。
前を向いていた。
誰も。
父親の方を見ない。
気を遣っているのだろう。
それが。
余計に。
気まずい。
セルゲイ「……何か言ったらどうだ」
ドミトリーが。
少しだけ。
父を見る。
ドミトリー「何をですか」
セルゲイ「何でもいい」
アレクセイ「……よく、お似合いです」
セルゲイ「黙れ」
アレクセイ「父上が言えって言ったんじゃないですか」
セルゲイ「そういうことを言えとは言っておらん」
また。
沈黙した。
馬車が進む。
セルゲイは。
自分の巨大なスカートを見下ろした。
これだけでも。
十分に。
訳が分からない。
だが。
もっと嫌なことがある。
もうすぐ。
馬車を降りなければならない。
そして。
この格好で降りるには。
まず。
ドレスの裾を持たなければならない。
それから。
外にいるフットマンに。
手を取ってもらう。
そして。
宮廷婦人として。
慎重に。
馬車を降りる。
セルゲイは。
目を閉じた。
何だ。
それは。
自分は。
軍務にも就いた。
戦場にも出た。
馬から飛び降りたことだって。
数え切れないほどある。
それが。
今日は。
若いフットマンに。
手を取ってもらわなければ。
馬車から降りられない。
いや。
降りられないわけではない。
このドレスを着て。
転ばず。
裾を踏まず。
宮廷婦人らしく降りようとすれば。
そうするしかない。
セルゲイは。
また。
ため息をついた。
セルゲイ「……どうしてこうなった」
今度は。
息子二人とも。
何も答えなかった。
たぶん。
それが。
一番正しい返事だった。
ベルデフ家――三人分は入りません
一週間後。
ベルデフ家の馬車は。
限界を迎えていた。
セルゲイは。
そう思った。
先週。
この馬車には。
宮廷婦人姿の自分と。
普通の男物を着た息子二人が乗っていた。
あれでも。
十分に気まずかった。
ところが。
今日は。
事情が違う。
三人とも。
ドレスだった。
セルゲイ。
ドミトリー。
アレクセイ。
親子三人。
全員が。
大きく広がった宮廷婦人用のスカートを身につけている。
セルゲイは。
自分の膝のあたりを見た。
正確には。
膝など見えない。
ドレスしか見えない。
右から。
アレクセイのスカートが押し寄せている。
左から。
ドミトリーのスカートも押し寄せている。
そして。
自分のスカートも。
二人の方へ押し返している。
結果。
三人分の布地が。
誰のものなのか分からない状態で。
馬車の中いっぱいに重なっていた。
セルゲイ「……狭い」
ドミトリー「狭いですね」
アレクセイ「狭いです」
セルゲイ「分かっているなら何とかしろ」
ドミトリー「どうしろと」
もっともだった。
セルゲイは。
黙った。
馬車が。
少し大きく揺れた。
アレクセイ「うわ」
セルゲイ「おい!」
ドミトリー「踏んでる!」
アレクセイ「僕じゃない!」
セルゲイ「では誰だ!」
ドミトリー「父上です!」
セルゲイ「私か!?」
セルゲイが。
慌てて足を動かした。
すると今度は。
どこかの布を引っ張った。
アレクセイ「父上、それ僕のです!」
セルゲイ「知らん!」
アレクセイ「知らんじゃありませんよ!」
少し前までなら。
父親と息子二人が。
同じ馬車に乗るだけだった。
何の問題もない。
男三人。
多少窮屈でも。
普通に座ればいい。
しかし。
ドレスというものは。
人間一人分の場所だけを使ってくれない。
本人は一人なのに。
腰から下だけ。
急に二人分にも三人分にもなる。
それが。
三人いる。
セルゲイは。
目の前の光景を見た。
淡い青。
銀灰色。
深い緑。
三着のドレスが。
馬車の中で。
完全に混ざっている。
セルゲイ「……誰の裾がどれだ」
アレクセイ「僕にも分かりません」
ドミトリー「父上、その銀色は僕です」
セルゲイ「ではこれは」
アレクセイ「僕です」
セルゲイ「私のはどこだ」
少し間があった。
ドミトリー「……下では?」
セルゲイは。
自分の周囲を見回した。
本当に。
自分のドレスの大半が。
息子二人のスカートの下へ潜り込んでいる。
セルゲイ「何で私のだけ下敷きなんだ」
アレクセイ「後から乗ったからでは?」
セルゲイ「そういう問題なのか?」
また。
馬車が揺れた。
今度は。
三人とも同じ方向へ傾いた。
セルゲイ「おいおいおい!」
ドミトリー「父上、押さないでください!」
セルゲイ「押しておらん!」
アレクセイ「兄上、髪!」
ドミトリー「お前こそ袖を引っかけるな!」
ようやく。
全員が元の位置に戻る。
セルゲイは。
疲れた。
まだ。
宮殿にも着いていない。
セルゲイ「……馬車を大きくする必要があるな」
二人の息子が。
父を見た。
ドミトリー「本気ですか」
セルゲイ「このままでいいと思うのか」
アレクセイ「でも」
アレクセイは。
少し笑いをこらえるような顔をした。
セルゲイ「何だ」
アレクセイ「理由は何と説明するんです?」
セルゲイ「理由?」
アレクセイ「馬車を新調する理由です」
セルゲイは。
黙った。
確かに。
馬車職人に。
何と言えばいい。
息子二人と自分が。
同時に宮廷婦人の格好をすると。
三人分のスカートが入らないので。
もっと広い馬車を作ってくれ。
……。
言えるか。
セルゲイ「……普通に広い馬車が必要になったと言えばいい」
ドミトリー「何のために?」
セルゲイ「黙れ」
アレクセイが。
とうとう吹き出した。
セルゲイ「笑うな!」
アレクセイ「だって父上」
セルゲイ「何だ!」
アレクセイ「まさか僕も、父上と兄上と三人で、ドレスの幅を理由に馬車の買い替えを相談する日が来るとは思わなかったので」
それは。
セルゲイも。
同じだった。
息子が生まれた時。
こんな未来を。
誰が想像する。
立派に育て。
仕事を覚えさせ。
宮廷にも出られる男にする。
それくらいは。
考えた。
だが。
いつか父子三人で。
それぞれ宮廷婦人用のドレスを着て。
巨大なスカートを押しつけ合いながら。
馬車が狭いと文句を言う。
そんな未来は。
一度も。
想像したことがなかった。
セルゲイは。
深いため息をついた。
セルゲイ「……次から二台にするか」
ドミトリー「それが一番早いですね」
アレクセイ「じゃあ僕、兄上と乗ります」
セルゲイ「なぜ私だけ一人なんだ」
アレクセイ「広いですよ」
セルゲイ「そういう問題ではない!」
馬車は。
三人分の巨大なスカートを詰め込んだまま。
何事もなかったかのように。
宮殿へ向かって走り続けた。
ベルデフ兄弟――今度こそ、ちゃんとしたのを
その日の仕事が終わった頃。
マトヴェイは。
また。
ベルデフ兄弟の部屋へ呼ばれた。
少し前にも。
同じようなことがあった。
あの時は。
簡単な練習用の衣装を見せられて。
着てみないかと言われた。
もちろん。
断った。
断ったはずだった。
だから。
今度は何だ。
そう思いながら。
部屋へ入った。
そして。
すぐに。
足が止まった。
部屋の中央に。
ドレスがあった。
この間のものとは。
全然違う。
練習用の。
簡素な衣装ではない。
ちゃんとした。
宮廷へ出てもおかしくない。
豪華なドレスだった。
光沢のある布。
刺繍。
飾り。
大きく広がるスカート。
近くには。
その下に使うものまで。
きれいに揃えられている。
マトヴェイは。
しばらく。
それを見た。
マトヴェイ「……何ですか、これ」
アレクセイ「見れば分かるだろ」
マトヴェイ「ドレスなのは分かります」
ドミトリー「お前のだ」
マトヴェイは。
黙った。
もう一度。
ドレスを見た。
それから。
二人を見た。
マトヴェイ「……何で」
アレクセイ「この間さ」
マトヴェイ「はい」
アレクセイ「練習着、嫌だって言っただろ」
マトヴェイ「言いました」
ドミトリー「俺たち、考えたんだ」
マトヴェイ「嫌な予感しかしませんけど」
アレクセイ「お前、着たくないんじゃないんだろ」
マトヴェイ「着たくないですよ」
アレクセイ「違う」
マトヴェイ「何がです」
アレクセイ「どうせ着るなら、ちゃんとしたのを着たいんだろ」
マトヴェイは。
しばらく。
何も言えなかった。
マトヴェイ「……何をどう考えたら、そうなるんですか」
ドミトリー「安心しろ」
マトヴェイ「何も安心できません」
アレクセイ「ちゃんと用意したから」
マトヴェイ「だから、それが怖いんですよ!」
二人は。
楽しそうだった。
明らかに。
楽しんでいる。
マトヴェイ「お二人とも、絶対これ面白がってるでしょう」
アレクセイ「少し」
ドミトリー「かなり」
マトヴェイ「正直ですね!」
ドミトリーが。
ドレスの横へ立った。
ドミトリー「でも、本当にちゃんとやるぞ」
マトヴェイ「ちゃんと?」
ドミトリー「何回、俺たちが着付けられてると思ってる」
アレクセイ「ずっと見てたからな」
ドミトリー「最近は、どうやるのか結構分かるようになった」
マトヴェイは。
嫌な顔をした。
マトヴェイ「分かるようにならなくていいでしょう、そんなこと」
アレクセイ「いや。意外と覚えるんだよ」
ドミトリー「ステイズの締め方も聞いた」
アレクセイ「後ろは俺たちがやってやる」
ドミトリー「スカートも問題ない」
アレクセイ「髪も……まあ、何とかなるだろ」
ドミトリー「化粧だけは、そこまで保証できないが」
マトヴェイ「そこまでやる気なんですか!?」
アレクセイ「やるならちゃんとやらないと」
マトヴェイ「何でですか!」
アレクセイ「その方が面白いから」
マトヴェイ「やっぱり面白がってるじゃないですか!」
マトヴェイは。
頭を抱えたくなった。
だが。
もう一度。
ドレスを見てしまった。
この間の。
簡単な練習着とは。
まったく違う。
本当に。
きれいだった。
自分が。
こういうものを着たら。
どうなるんだろう。
そんな考えが。
一瞬だけ。
浮かんだ。
そして。
兄弟は。
それを。
見逃さなかった。
アレクセイ「ほら」
マトヴェイ「何です」
アレクセイ「また見た」
マトヴェイ「見てません」
ドミトリー「いや、見た」
マトヴェイ「目の前にあるんだから見るでしょう!」
アレクセイ「気になってるんだろ」
マトヴェイ「違います」
ドミトリー「俺たちには分かる」
マトヴェイ「何が分かるんです」
ドミトリー「俺たちばっかり、毎回こんな格好してるところを見てる」
アレクセイ「一回くらい、自分だったらどうなるか気になるだろ」
マトヴェイは。
すぐには。
答えなかった。
アレクセイ「しかもさ」
マトヴェイ「何です」
アレクセイ「どうせなら、変な格好じゃなくて、ちゃんとしたの着てみたいだろ」
マトヴェイ「……」
ドミトリー「違うか?」
違う。
と。
すぐ言えばいい。
それだけだ。
なのに。
なぜか。
言えなかった。
アレクセイが。
にやっと笑った。
アレクセイ「ほら」
マトヴェイ「うるさいですよ」
ドミトリー「別に外へ出すわけじゃない」
アレクセイ「ここだけ」
ドミトリー「俺たちしか見ない」
アレクセイ「だから一回くらい」
マトヴェイ「だから嫌ですって」
ドミトリー「じゃあ」
ドミトリーは。
少しだけ。
真面目な顔をした。
ドミトリー「命令にするか」
マトヴェイは。
顔を上げた。
マトヴェイ「……はい?」
ドミトリー「マトヴェイ」
少し。
わざとらしく。
主人らしい声を作る。
ドミトリー「これを着ろ」
マトヴェイは。
黙った。
アレクセイも。
笑いをこらえている。
もちろん。
本気の命令ではない。
三人とも。
分かっている。
断ろうと思えば。
断れる。
それでも。
ドミトリーは。
わざと命令という形にした。
マトヴェイが。
自分から。
着たいと言わなくても済むように。
そういうことなのだ。
マトヴェイは。
もう一度。
ドレスを見た。
近くで見ると。
本当に。
きれいだった。
マトヴェイ「……ずるいですよ」
アレクセイ「何が」
マトヴェイ「そういう言い方されたら」
ドミトリー「じゃあ嫌か?」
マトヴェイは。
少しだけ。
間を置いた。
そして。
ため息をついた。
マトヴェイ「……分かりましたよ」
アレクセイ「よし!」
マトヴェイ「一回だけですからね」
ドミトリー「もちろん」
マトヴェイ「外には出ませんよ」
アレクセイ「出さない出さない」
マトヴェイ「誰にも言わないでくださいよ」
ドミトリー「それは努力する」
マトヴェイ「そこは約束してください!」
三人とも。
笑った。
アレクセイが。
準備してあったものを。
手に取った。
ドミトリーは。
ステイズの紐を確認している。
マトヴェイは。
最後にもう一度。
逃げ道を探すように。
扉の方を見た。
逃げようと思えば。
まだ逃げられた。
でも。
逃げなかった。
マトヴェイ「……着ればいいんだろ」
アレクセイ「そういうこと」
その日。
ずっと。
二人を見送る側だったマトヴェイは。
初めて。
着る側へ回った。




