第9章 ベルデフ兄弟 第二弾 父セルゲイの朝
私の名は、セルゲイ。
もう、若いとは言えない歳になった。
これまで、それなりに長く生きてきたし。
戦場にも出た。
若い頃には、いつ死んでもおかしくないような思いもした。
だから今こうして。
朝になれば服を整え。
馬車に乗り。
宮廷へ出て。
与えられた仕事をこなす。
そんな毎日を送っていることを。
平穏だと思うことがある。
* * *
ありがたいことに。
息子たちも。
もう、私の後ろをちょこちょこついて歩く子供ではない。
長男のドミトリー。
二十歳。
次男のアレクセイ。
十八歳。
二人とも、それぞれに役目を与えられ。
宮廷へ顔を出すことも増えた。
最近では。
こうして三人で同じ馬車に乗り。
同じ方向へ仕事に向かうことも。
珍しくなくなっている。
* * *
朝の馬車の中では。
別に。
大した話などしない。
セルゲイ「今日は長くなりそうだな」
私が言えば。
ドミトリーが肩をすくめる。
ドミトリー「昨日の続きをやるなら、そうでしょうね」
アレクセイ「俺は昼までには終わると思うけど」
セルゲイ「お前はそう言って、毎回何か頼まれて残るだろう」
アレクセイ「それは俺のせいじゃないですよ」
そんな。
どこにでもありそうな話だ。
仕事の話。
誰それがまた揉めているらしいという話。
今日は帰りが遅くなるかもしれないという話。
馬車の揺れに身を任せながら。
父と息子というより。
男三人で。
ただ普通に。
その日の予定を確認している。
* * *
こういう時間が。
私は、案外嫌いではなかった。
息子たちが小さかった頃には。
こんなふうに。
同じ場所へ働きに出る日が来るとは。
あまり想像していなかった。
もちろん。
まだまだ危なっかしいところもある。
ドミトリーは妙に意地を張るところがあるし。
アレクセイは軽口が多い。
だが。
二人とも。
もう立派な若い男だ。
それぞれに。
自分の立場というものを。
持ち始めている。
* * *
ただ。
最近。
宮廷では。
妙な噂が流れている。
いや。
噂というより。
すでに何度か実際に行われたらしい。
女帝陛下の。
少々変わった催しについてだ。
男が女の服を着る。
女が男の服を着る。
そんな話である。
* * *
もちろん。
私も耳にはしている。
息子たちも。
知っているだろう。
だが。
妙なことに。
この話題は。
男同士では。
あまり口にしない。
誰かが、
「例の催しだが」
と言い出せば。
それだけで。
少し空気が変わる。
誰も。
特別に怯えているわけではない。
誰も。
露骨に嫌がっているわけでもない。
ただ。
妙に。
話を広げたがらない。
* * *
考えてみれば。
当然なのかもしれない。
下手に話題にすれば。
「もし自分が呼ばれたらどうする」
という話になる。
もっと悪ければ。
「お前なら似合うんじゃないか」
などと。
誰かが余計なことを言い出す。
そうなると。
面倒だ。
だから。
皆。
何となく。
触れない。
それで済むなら。
それが一番いい。
* * *
私も。
そう思っていた。
わざわざ口にする必要はない。
少なくとも。
今日の私たちには。
関係のない話だ。
* * *
その時。
馬車の速度が。
ゆっくりと落ちた。
車輪の音が。
次第に小さくなる。
外から。
人の声が聞こえた。
どうやら。
着いたらしい。
* * *
セルゲイ「さて」
私は。
軽く膝に手を置き。
立ち上がる準備をした。
セルゲイ「今日も仕事だ」
ドミトリー「はい」
アレクセイ「面倒ですねえ」
セルゲイ「朝からそれを言うな」
息子たちが。
いつものように笑う。
三人とも。
いつもの男性服。
三人とも。
いつもの姿。
そして。
今日も。
いつもの一日が。
始まる。
――そのはずだった。
* * *
そして。
その日の朝である。
はっきり言って。
最悪だった。
* * *
前の晩から。
屋敷の中が。
何やら妙に騒がしいとは思っていた。
人が出入りする。
荷物が運ばれる。
女中たちが。
いつもとは違う方向へ。
何度も行ったり来たりしている。
まあ。
宮廷勤めをしていれば。
急な支度など。
珍しいことではない。
そう思って。
私は。
あまり気にしていなかった。
* * *
ところが。
朝になって。
馬車へ乗り込んだ私は。
そこで。
えらいものを目にすることになった。
* * *
向かい側に。
一人の。
たいそう立派な宮廷婦人が座っていた。
いや。
もちろん。
婦人ではない。
私の息子だ。
長男の。
ドミトリーだった。
* * *
どうして。
こうなった。
* * *
昨夜まで。
普通の若い男だったはずだ。
それが。
今。
どう見ても。
簡単に手に入るようなものではない。
立派なドレスに身を包み。
髪まで整えられ。
顔には化粧を施され。
すっかり。
宮廷婦人の姿になっている。
* * *
私は。
しばらく。
何も言えなかった。
弟のアレクセイも。
何も言わなかった。
いや。
あれは。
明らかに。
言わないようにしていた。
兄の方を。
極力。
見ない。
窓の外を見る。
床を見る。
とにかく。
見ない。
それが。
一番安全だと。
判断している顔だった。
* * *
そして。
当のドミトリーも。
気まずそうだった。
無理もない。
父親の目の前に。
これだけ見事な婦人姿で。
座っているのだから。
* * *
私は。
もう一度。
息子の顔を見た。
そして。
見なければよかったと思った。
* * *
綺麗なのである。
* * *
いや。
父親が。
自分の息子に向かって。
こんな感想を抱くのも。
どうかと思う。
だが。
事実なので。
仕方がない。
* * *
よく考えてみれば。
こいつは。
妻に似たのだ。
目元も。
輪郭も。
若い頃の妻に。
似ているところがある。
普段。
男物を着て。
男らしい髪形をして。
男として振る舞っている時には。
そんなことを。
いちいち考えもしなかった。
ところが。
こうして。
髪を女性風に整え。
化粧を施し。
婦人服を着せてみると。
いやでも分かる。
* * *
かなり。
綺麗だった。
* * *
だからといって。
それを本人に伝える気には。
まったくなれなかった。
* * *
何を言えばいいというのだ。
* * *
「似合っているな」
駄目だ。
* * *
「ずいぶん綺麗になったな」
もっと駄目だ。
* * *
「母さんに似ているな」
たぶん。
一番駄目だ。
* * *
かといって。
何事もなかったように。
ドミトリー「ところで父さん、この前の件ですが」
などと。
仕事の話を始められても。
それはそれで困る。
* * *
今。
その格好で。
普通に仕事の話をするのか。
* * *
では。
逆に。
ドミトリー「父さん。このドレス、いかがでしょう」
などと。
聞かれたらどうする。
* * *
そんなこと。
こいつが言うとは思えないが。
もし。
万が一。
言われたら。
私は。
どう答えればいい。
* * *
困った。
本当に。
困った。
* * *
馬車の中の空気が。
妙に重い。
だからといって。
「少し空気が悪いな」
などと言って。
窓を開けるわけにもいかない。
* * *
今。
窓を開けて。
外から。
誰かに見られたら。
それは。
それで。
まずいだろう。
* * *
結局。
我々三人は。
かなりの時間。
ほとんど。
一言も喋らなかった。
私も。
ドミトリーも。
アレクセイも。
ただ。
馬車の揺れに身を任せていた。
* * *
ほんの少し前まで。
この同じ馬車の中で。
仕事の話をし。
くだらない軽口を叩き。
今日も一日が始まる。
などと思っていたのに。
* * *
今は。
父親。
宮廷婦人姿の長男。
そして。
何も見なかったことにしている次男。
* * *
まったく。
ひどい時間だった。
* * *
そして。
その翌朝である。
もう。
何と言えばいいのか分からない。
昨日も最悪だった。
だが。
今日も。
別の意味で。
最悪だった。
* * *
私は。
昨日と同じように。
朝の支度を済ませ。
馬車へ乗り込んだ。
昨日。
あれだけ妙な目に遭ったのだから。
今日は。
さすがに。
普通だろう。
そう思っていた。
* * *
ところが。
馬車の中を見た瞬間。
私は。
黙った。
* * *
今度は。
アレクセイだった。
* * *
次男の。
アレクセイが。
宮廷婦人になっていた。
* * *
私は。
少しだけ。
昨日のことを思い出した。
そして。
思った。
* * *
……今度は。
こっちか。
* * *
昨日のドミトリーは。
まだ。
何というか。
整った美しさだった。
もともと。
少しきつめの顔立ちをしている。
だから。
女性風に髪を整え。
化粧を施し。
立派なドレスを着せると。
凛とした。
少し近寄りがたいような。
綺麗な宮廷婦人になった。
* * *
ところが。
アレクセイは。
違った。
* * *
かわいいのである。
* * *
私は。
自分でも。
何を考えているのかと思った。
だが。
他に。
言いようがない。
* * *
かわいい。
* * *
昨日。
ドミトリーを見て。
妻に似たのだなと思った。
どうやら。
アレクセイも。
同じだったらしい。
ただし。
似ているところが。
少し違う。
* * *
若い頃の妻の。
柔らかい目元。
少し丸みのある頬。
笑えば。
人懐こく見えるところ。
そういう部分を。
こいつは。
受け継いでいたらしい。
* * *
普段は。
そんなことを。
考えもしなかった。
男物を着て。
男の髪形をして。
軽口を叩いている。
いつものアレクセイなら。
ただの。
若い男だ。
* * *
ところが。
今は。
違う。
* * *
髪を整えられ。
顔には化粧を施され。
かわいらしい印象の。
華やかなドレスを着ている。
そして。
本人が。
恥ずかしいのか。
何も喋らない。
* * *
これが。
また。
よくない。
* * *
声を聞けば。
たぶん。
「ああ。
アレクセイだ」
と思える。
だが。
黙っている。
* * *
だから。
余計に。
分からなくなる。
* * *
目の前に座っているのは。
本当に。
うちの次男なのか。
* * *
どう見ても。
若い宮廷婦人にしか見えない。
* * *
いや。
分かっている。
アレクセイだ。
私の息子だ。
十八年間。
見てきた。
* * *
分かっている。
* * *
分かっているのだが。
* * *
かわいい。
* * *
困った。
* * *
私は。
隣に座るドミトリーを見た。
今日は。
普通の男性服だ。
* * *
目が合った。
* * *
ドミトリーも。
私を見た。
* * *
何も言わなかった。
* * *
だが。
何となく。
言いたいことは。
分かった。
* * *
私も。
何も言わなかった。
* * *
アレクセイも。
何も言わなかった。
* * *
結果。
今日も。
馬車の中は。
静かだった。
* * *
昨日とは。
少し違う。
昨日は。
宮廷婦人姿の長男。
今日は。
宮廷婦人姿の次男。
* * *
なぜ。
私は。
朝から。
日替わりで。
息子たちの。
こんな姿を。
見なければならないのだろう。
* * *
途中。
何度か。
アレクセイが。
何か言いたそうにした。
そのたび。
私は。
内心。
身構えた。
* * *
仕事の話でも。
困る。
服の話でも。
もっと困る。
* * *
結局。
アレクセイは。
何も言わなかった。
* * *
ありがたい。
* * *
馬車は。
そのまま。
宮殿へ向かった。
* * *
そして。
ようやく。
着いた。
* * *
私は。
心の底から。
ほっとした。
* * *
だが。
その直後。
私は。
気づいてしまった。
* * *
帰りがある。
* * *
そうだ。
当然である。
朝。
宮殿へ行ったのだから。
夕方なり夜なり。
また。
家へ帰らなければならない。
* * *
つまり。
私は。
今日。
もう一度。
この。
可憐な宮廷婦人姿の息子と。
同じ馬車に乗らなければならない。
* * *
私は。
まだ。
一日の仕事を。
始めてもいない。
* * *
なのに。
もう。
帰りの馬車のことを。
考えてしまっていた。
* * *
まったく。
今日も。
最悪だった。
* * *
そして。
その次の朝。
私は。
もう。
何が行われているのか。
だんだん分からなくなっていた。
* * *
朝から。
息子たちの支度が。
妙に遅い。
その時点で。
嫌な予感はしていた。
* * *
そして。
玄関へ向かった私に。
若いフットマンが。
妙なことを言った。
フットマン「旦那様。今朝は、最後にお乗りいただけますか」
セルゲイ「……なぜだ」
フットマン「少々、その方が都合がよろしいので」
* * *
何の都合だ。
そう思いながら。
馬車の前まで行った。
* * *
そこで。
理由が分かった。
* * *
すでに。
中に。
二人いた。
* * *
ドレス姿の。
息子が。
二人。
* * *
私は。
しばらく。
馬車の入口に立ったまま。
中を見た。
* * *
……今日は。
二人ともか。
* * *
ドミトリー。
アレクセイ。
間違いなく。
私の息子たちである。
* * *
だが。
見た目だけなら。
どう見ても。
若い宮廷婦人が二人。
並んで座っている。
* * *
ドミトリーは。
相変わらず。
凛とした。
少し近寄りがたいほど。
整った美人に仕上がっている。
アレクセイは。
どういうわけか。
今日も。
妙にかわいらしい。
* * *
しかも。
それぞれ。
違う趣向のドレスを着ている。
髪も。
化粧も。
きちんと整っている。
* * *
そして。
馬車へ乗った瞬間。
ふわりと。
香りがした。
* * *
香水である。
* * *
いい匂いだった。
* * *
それがまた。
腹立たしい。
* * *
私は。
向かい側へ座った。
* * *
そして。
改めて。
二人を見た。
* * *
私は。
娘を二人。
育てた覚えはない。
* * *
だが。
どう見ても。
今。
目の前にいるのは。
どこかの家の。
若い姉妹のようにしか見えなかった。
* * *
その時。
アレクセイが。
口を開いた。
アレクセイ「兄さん。この間のあれだけど」
ドミトリー「ああ。あれか」
* * *
私は。
思わず。
二人を見た。
* * *
見た目は。
完全に。
若い婦人が二人。
* * *
そこから。
聞き慣れた。
息子たちの声がする。
* * *
アレクセイ「結局、あっちで処理することになったらしいよ」
ドミトリー「そうか。それなら早いな」
* * *
普通の。
仕事の話だった。
* * *
それが。
余計に。
おかしかった。
* * *
昨日までは。
二人とも。
あまりの気まずさに。
ほとんど口を開かなかった。
だが。
今日は。
二人とも同じだからなのか。
少しだけ。
慣れてきたらしい。
* * *
困る。
* * *
慣れないでくれ。
* * *
私は。
窓の外を見た。
* * *
外では。
いつもの街が流れている。
馬車も。
いつものように進んでいる。
今日も。
宮廷へ行って。
仕事をする。
* * *
何も。
おかしなことなど。
起きていない。
* * *
ただ。
向かい側に。
息子たちが。
揃って。
宮廷婦人の姿で座っているだけだ。
* * *
私は。
ふと思った。
* * *
もしかすると。
私は。
もう。
死んでいるのではないだろうか。
* * *
これは。
死後に。
何かの間違いで見せられている。
妙な光景なのではないか。
* * *
そう考えている間にも。
息子たちは。
普通に。
仕事の続きを話していた。
* * *
私は。
黙って。
それを聞いていた。
* * *
そして。
その朝。
自分が。
まだ生きているのかどうか。
少しだけ。
自信をなくした。




